危険!グロさ満点のスプラッターアクション、井口昇のワンステップ。

The Machine Girl
2007年,アメリカ=日本,96分
監督:井口昇
脚本:井口昇
撮影:長野泰隆
音楽:中川孝
出演:八代みなせ、亜紗美、島津健太郎、穂花、西原信裕、川村亮介

 弟をいじめの末殺された女子高生のアミはいじめグループのリーダーであるやくざの息子木村翔に復讐を果たすため、失った左腕にマシンガンを装着し、立ちはだかる敵を殺し続ける…
『恋する幼虫』の井口昇がアメリカで日本の映画作品の輸入を手がけてきた“メディアブラスターズ”の出資によって撮り上げたバイオレンス・アクション。残虐シーンが盛りだくさん。

 井口昇はスカトロもののAV出身で、AVも撮り続けつつ『恋する幼虫』なんて一般映画も撮ってきた。スカトロ出身なだけに人間の肉体に対する執着は凄まじく、人間の体のかたちが何らかの形で変貌を遂げるという現象を執拗に映像にしてきた。これまでもやたらと舌が長かったり、目ん玉を出し入れしてみたり、いろんなことをしてきた。

 今回はそれが女子高生の腕がマシンガンになるというかたちをとり、さらにさまざまな暴力と特殊効果によって腕や首や胴がもげたり、穴があいたり、真っ二つになったり、焼け爛れたりする。これらの残虐シーンははっきり言って気持ち悪い。スプラッター映画に目を向けられないという人は吐き気を催すであろうほどのひどさだ。

 しかし、それは逆にそのスプラッターを演出する特殊効果のリアルさを裏打ちするものでもあるし、洗練されたアクションシーンがその印象をさらに強める。こういう過剰にリアルな残虐なアクションというものにはカルト的な需要が常にある。それはカルト≒異形という構図の範疇に収まるもので、それが暴力/アクションとつながることでそのマーケットは広がる。そのジャンルではかなり完成度の高い作品ということができるだろう。

 暴力的なカルト映画というとどうもいい印象をもたれないが、たとえばクローネンバーグやジョン・カーペンターなんてのも、もともとはそんなマーケットから現れたということも出来るだろう。

 残虐性というのは肉体の欠落と常に表裏一体であり、肉体の欠落とは異形とつながる。そして異形は畏敬につながる。“健康な”社会は異形を社会の前面から排除し、見えないものにしてしまうが、それは私たち自身と表裏一体のものとして存在しつづける。異形を描くカルト映画というのは私たちが抱え続ける“闇”の部分をそのように描くからこそ魅力を持っているのだ。

 だからカルト映画の中には私たちが日常の中で忘れがちな“闇”の中の事実を突きつける名作が時々表れる。たとえばクローネンバーグの『スキャナーズ』なんかがそれだし、日本ではこの井口昇監督の『恋する幼虫』なんかがまさにそうだ。

 というわけでこの作品にも期待していたわけだが、このような過剰な暴力との結びつきは私にとっては残念な方向性に進んだといわざるを得ない。彼の異形に対するまなざしは以前の作品ではもっと優しく、誇張しながらもわれわれに何かを投げかけていた。しかしこの作品は異形を圧倒的な暴力と結びつけることで単なる肉体の崩壊に堕してしまっている。異形と暴力を結び付けるにしても、その異形に対するまなざしにもっと深みを持たせて欲しかった。

 悪役が徹底的に悪役なのはいい。しかし肉親が殺された憎しみによって人々が残虐性を容易に獲得してしまうというプロットは絶望的過ぎはしないだろうか? 肉の塊となってしまった肉親を見て人々が感じるのは漏れなく憎しみなのだろうか? その単純化がこの作品に決定的な欠点となっている。

 カルト映画がカルト映画として一般映画ファンにも受け容れられるためにはそれが一般映画にはない複雑さをもっているときだけなのではないか。表面的には単純な暴力を描いていても、その裏には哲学的あるいは冷笑的な意図が潜んでいる。そんな意図がこの作品には欠如していると思う。

 もちろんこれは井口監督のアメリカ進出の第一歩であり、本格的に“暴力”に取り組んだ最初の作品でもある。いつの日か“暴力”を彼なりに消化して本当に世界に通用する傑作を撮ってくれるだろうと私は期待している。

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