ギャベ

Gabbeh 
1996年,イラン,73分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:アームード・カラリ
音楽:ホセイン・アリサデ
出演:ジャガイエグ・ジョタト、アッバス・サヤヒ、ホセイン・モハラミ、ロギエ・モハラミ

 大きな絨毯(ギャベ)を洗う老夫婦の前に一人の美しい娘が現れる。娘の名前はギャベ。しかし、彼女が現実の存在なのかはわからない。幻想か現実か、ともかく、娘は自分の身の上を話し始める。映画は、老夫婦と娘の語る物語を行ったり来たりするが、娘の物語は老夫婦の回想なのか?それとも…
 鮮烈な色彩溢れる映像でファンタジックな世界を描く。実際に1000キロもの道のりをロケして歩いたというマフバルバフの野心作。色鮮やかなギャベをモチーフにした色彩の映画。

 「人生は色彩だ!」と叫ぶ伯父さんの言葉がこの映画の核心を伝える。この叔父さんが唐突に先生として登場するシーンで、花や空を手で捕まえるそのシーンは「色」というものがこの映画の確信であることを十分に伝える。しかし十分過ぎるかもしれない。我々は老婆とギャベなる娘のその鮮やかな青い衣装の一致と、ギェベ(絨毯)の鮮やかな色彩に魅せられ、この映画が色彩の映画であることを即座に了解しているのだから、何の脈略もなくさらりと叫ばれる「人生は色彩だ!」というその叫びだけですべてを了解するのだ。ひたすら白い雪の風景を見て、その色彩の不在に心を打たれるのだ。だから、余計な、子供を諭すような、そして過度に前衛的なそのシーンはなくてもよかった。この映画の色彩はそれだけ鮮烈で、人生が色彩であり、映画が色彩であることはまったく何の説明も不要なくらい明らかなのだ。だから、私は監督のそのサービス過剰に敢えて苦言を呈したい。
 衣装と毛布と自然の色合いだけで、十分物語が成立するのだと言うことを私は学んだ。茶色い山にぽつんと残る色鮮やかな妹の衣装はさまざまなことを語ってくれる、そのことが一度も語られなくとも、白い山にポツリと立つくろい馬の影と、雪の上の残されたスカーフは愛を語る。
 「色」は心を浮き立たせる。土の上に並べられた色とりどりの毛糸玉を見て、川辺に並べられた無数のギャベを見て、私はこの映画を見てよかったと思った。

サイクリスト

The Cyclist 
1989年,イラン,83分
監督:モフセン・マフマルバフ
原作:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:アリレザ・ザリンダスト
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:モハラム・ゼイナルザデ、エスマイル・ソルタニアン、マフシード・マフシャールザデ、サミラ・マフマルバフ、フィルズ・キャニ

 妻が重い病気にかかり、高額の入院費を工面しなくてはならなくなったナシムは、元アフガンの元自転車チャンピオンで、イランにやってきたばかりで仕事もない。何とか見つけた井戸掘りの仕事も入院費の足しにはならない。そんな時、友人が世話になっている興行師から、1週間自転車に乗りつづけるという賭けの対象にならないかと持ちかけられる。愛する妻のためひたすら狭い広場を自転車でくるくる回るナシム。果たして彼は自転車に乗りつづけることができるのか?
 イランでは全国民が見たと言われる、モフセン・マフバルバフ監督の幻の名作。ファンタジックともシュールとも言える独特の味わいがほかのイラン映画とは一線を画する。広角レンズを多用した映像もアバンギャルドで、まったく古さは感じさせない。
 「りんご」を監督した娘のサミラも子役で出演。

 「果たしてこの映画は面白かったのか?」という疑問。「でも、もう1回見たい」くらいの感動。いや、感動といってもそれはいわゆる感動ではなく、こんな映画が存在していたのかという感動。あるいはこんな映画が存在していいのかという感動。
 なにが幻想でなにが現実なのか?と言ってしまうと非常に陳腐になってしまうが、ひたすら自転車に乗るというちょっと考えるとおかしいはずの行為がいつしか英雄的な行為へとすりかわって行く過程、周囲の人々は彼の行為になぜか心を動かされ、彼の姿に感動するのだけれど、自転車に乗っているナシム自身はまったく別の衝動に動かされているかのように自転車をこぎつづける。
 1回ずるをしたからってそれがどうした。妨害する人々と応援する人々がいて、そこに多額のお金が動いているからって、それがどうした。そんなこととはまったく無関係にナシムはこぎつづけるんだ。もう、息子も妻さえも、どうでも良くなっているかもしれない。
 もしかしたら、ここでこぐのを止めてしまったら世界そのものが崩壊してしまうのではないかというような恐怖感にさいなまれながら彼は自転車をこいでいるのかもしれない。
 しかし、しかし、映画自体は彼のそんな心を映し出すわけではない。映画は彼の周囲を執拗に映しつづける。興行師やジプシーの女や、なんか、領事や大使やいろいろな大変な人が出てきて、ドタバタと繰り広げる。
 しかし、しかし、しかし、私が心打たれたのは、ナシムと息子がいっしょに自転車に乗っている場面。自転車側に固定されたカメラは二人の顔をアップで捉え、周りを取り囲んでいるはずの観衆は抽象的な色の集合でしかなくなってしまう。ただ左から右へと移動する抽象的なピントの合っていない図形。その場面は感動的だ。
 でも、いったい何に感動したんだろう? 何が面白かったんだろう? 本当に不思議な映画だ。エンドロール(ペルシャ語だからまったく文様にしか見えない)の背景になったナシム(と自転車)をローアングルから撮ったスチルもなんとなく心に残った。

運動靴と赤い金魚

Bacheha-ye Aseman 
1997年,イラン,88分
監督:マジッド・マジディ
脚本:マジッド・マジディ
撮影:バービズ・マレクザデー
出演:ミル=ファロク・ハシェミアン、バハレ・セッデキ、アミル・ナージ

 アリは両親の手伝いもし、学校でも優秀な9歳の少年。しかしある日、買い物の途中で直してもらったばかりの妹の靴をなくしてしまった。貧しいアリの家では新しい靴を買ってもらうこともできるはずがなく、アリは妹と自分の靴を二人で交代で使って学校に行くことにするが…
 イランの新鋭監督マジッド・マジディが描いたみずみずしいイランの少年の生活。少年が走る場面がたびたび出てくるので、キアロスタミの「ともだちのうちはどこ?」を思い出してしまう。ちょっとそのあたり新しさにかけたかもしれないが、イラン映画らしい心温まる作品に仕上がっている。

 すべてがすごくオーソドックスに撮られ、物語も一定のペースで進んで行く。簡単に言ってしまえば、よいこの少年が一生懸命がんばるという話。しかし、そこには貧富の差があり、思うようには行かない。けれど、強く生きて、がんばれば何とかなるよ、という少々説教くさい話。映画としてはなんとなく子供向けなのかな、という気もしました。
 イラン映画といえば、アッバス・キアロスタミ、そして少年ものという呪縛からやはり逃れられないのだろうか?
 イラン映画に少年ものが多い理由は、映画に対する制限の問題であるらしい。簡単に言えば検閲。政治に対して批判的な映画などは検閲ではねられてしまうというし相当性が存在している。しかし、その制限の中でも、イラン人がめれば「ははん」とほくそえんでしまうような風刺がこめられていることも多いらしい。その辺りは日本人の我々には感じることができないことなのだけれど、「制限」というのは映画にとっては必ずしもマイナスばかりではなく、プラスの面も持っているのだということを実感した。映画というものには常に制限が付きまとうもので、技術的な限界や予算という問題はどこで映画を撮っても避けられない問題なのだ。その「制限」の中でとることが映画をとる楽しみだという監督もいた。

りんご

The Apple
1998年,イラン=フランス=オランダ,86分
監督:サミラ・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ、サミラ・マフマルバフ
撮影:エブライム・ガフォリ、モハマド・アーマディ
出演:マスメ・ナデリー、ザーラ・ナデリー、ゴルバナリ・ナデリー、ソグラ・ベロジ、アジジェ・モハマディ

 イラン映画の巨匠モフセン・マフマルバフの娘サミラ・マフマルバフの初監督作品。父モフセンも脚本で参加している。
 父親が娘を家に11年間閉じ込めて外に出さなかったという実際の事件を元に、本人たちの出演で、その子達がはじめて外に出たときの様子を映画化。世間というものをまったく知らない少女たちの目から見た世界の不思議さを描いた。
 監督はこの事件を社会的な問題として描くのではなく、外の世界をはじめてみた少女たちを中心に描いた。彼女たちから見た世界がいかに驚きにあふれ素晴らしいものであるのか。
 傍若無人な彼女たちの行動がとてもほほえましく、爽やかな気分で見ることができる。 

 この映画は、サミラが父が撮影のためにとってあった機材をかりて、ほとんど準備もせず撮影に入った。ぶっつけ本番、1日撮影しては次の日のプロットを考えてゆくという方法でとられたらしい。しかも、父モフセンは撮影には立ちあわず、サミラが持ち帰った膨大なフィルムを一緒に編集したということらしい。
 この映画にはなかなか楽しい場面がたくさんあるが、ひとつ気に入っているのは、マスメとザーラが一人の少女と友だちになって、その子をたたいてしまうが、りんごを渡して許してもらおうとする場面。りんごは彼女たちにとって宝物のようなものだから、彼女たちにとってはすごく意味のあることなんだろうけど、普通に考えると、理不尽なこと。しかしその辺りがかわいいのではある。
 この作品はカンヌ映画祭の<ある視点>部門に正式出品され、カンヌ映画祭史上最年少監督(18歳)として話題になった。