友だちのうちはどこ?

Khane Doust Kodjast
1987年,イラン,85分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ファラド・サバ
音楽:アミン・アラ・ハッサン
出演:ババク・アハマッド・プール、アハマッド・アハマッド・プール、ゴダバクシュ・デファイエ

 主人公の少年アフマドが学校から帰り、カバンを開けるとノードがふたつ。その日も遅刻して宿題を忘れ、先生に叱られたばかりの隣の子のノートを間違えて持ってきてしまったのだ。やさしい少年アフマドは彼を探して遠くの村まで走ってゆく。無事にノートは帰すことができるのか?
 少年を描かせたら世界一のキアロスタミ監督作品の中でも最も少年が輝いてる作品。素朴にして重厚、キアロスタミ映画のひとつの到達点であるこの作品は映画史に残る名作。

 すでに古典という感じすらするイラン映画の名作だが、新鮮さを失うことはない。この作品以後についても作品が作られ、三部作のようになっているが、何度もアフマドが駆け上がり駆け下りるジグザグ道から名づけられた「ジグザグ三部作」と呼ばれる。
 このジグザグ道の反復がこの映画の最大のミソで、同じ道を上り下りしているだけなのに、徐々に心細くなってゆく少年の心理が手にとるようにわかって心揺さぶられる。この反復という要素はキアロスタミの映画ではよく用いられる要素で、反復の中に生じる微細な変化がその反復をする人の心理を言葉以上に如実に表現する。この映画でいえば、アフマドの足取りが重かったり軽かったり、うつむいていたり正面をじっとみつめていたり、その変化がとても面白い。

かさぶた

Le Gale
1987年,イラン,86分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:アタオラフ・ハヤティ
出演:メヒディ・アサディ、アスガル・ゴルモハマッディ、ホセイン・マルミ

 新聞配達の少年ハメッドは反政府的なチラシを所持していたとして裁判を待つ間少年院に送られる。そこには室長と呼ばれる威張りくさった少年をはじめ、いろいろな少年が収監されていた。
 少年院という閉じられた空間、虐げられた状況の中での少年たちの関係を描いた作品。物語というほどの物語はなく、映画は淡々と進んでいくが、映像は最初のシーンから素晴らしい。

 物語としては、奥歯に物の挟まったような感じ。それは監督の意図なのか、それとも規制の中での苦心の末なのかはわからないが、核心に行こうとすると話がそれていってしまう気がする。だからどうしても展開が単調になるし、先の展開を求めることで映画に入り込んでいくということも出来にくくなる。
 なので、この映画を見るなら映像に注目しよう。何せ、最初の街(テヘランかな?)のうえからの画。画面の上下にまっすぐ道が走っていて、その周囲はごちゃごちゃと建物が立てこんでいる。その画がそもそも美しいうえ、その画面のちょうど真中に妙に浮いた感じで高速道路らしきものが映っている。そして次のカットは橋らしきものを下から見た画面。そしてその橋からビラのようなものがどさっと降ってくる。これだけでかなりいい。
 その後も映像は面白く、ヨーロッパやアメリカの映画とは明らかに違う映像でしかも美しかったりする。一列に座った少年たちが必死に頭をかきむしるのを左から右にずーーーっとパンして映してみたり。
 あとは、この映画は非常に反復が多い。シャベルで土をすくうところとか、プールに飛び込むところとか、それはそれで映像としてなかなか面白くていいのだが、一番気になるのは少年たちの嬌声。最初は少年たちがまだ子どもであるということを意識させてくれていいかなとも思ったが、本当に繰り返し繰り返しでてくると、だんだん耳についてくる。このあたりは狙いなのかどうなのか。狙いだとしたらそれは苛立ちの表現なのか。苛立ちならば、それは映画に対する規制の中で思うように表現出来ないことに対する苛立ちなのか。等々等々などと勝手な推理が進んでいきます。

静かな生活

Still Life
1975年,イラン,89分
監督:ソフラブ・シャヒド=サレス
脚本:ソフラブ・シャヒド=サレス
撮影:フシャング・バハルル
出演:サーラ・ヤズダニ、ハビブ・サファリアン

 イランの片田舎の踏み切り。踏み切りの上げ下げをする一人の老人。老人は家で絨毯を織る妻と二人、ひっそりと暮らしていた。しかし、ある日3人の男が現れ、老人に年と勤続年数を聞いて帰っていった。そして、そのしばらく後、老人のところに退職勧告の手紙が舞い込む。
 モフセン・マフマルバフが「ワンス・アポン・ア・タイム・シネマ」(日本未公開)の中でこの映画のシーンを引用しオマージュをささげた、イラン映画史上に残る名作。本当に静かな老人たちの生活を淡々と描くが、しかし非常に味わい深い。

 列車、踏み切り、家、食事。毎日のすべての出来事が同じことの繰り返しである日常。パンを運んでくる列車。見ていると、老人の一日の生活パターンがあっという間にわかる。タバコの吸い方、紅茶の飲み方、ランプを持っていく時間… まず、それを説明せずにわからせてしまうところがすごい。一切説明はなく、セリフも必要最小限。しかし、見ている側は、老人が踏み切りの開け閉めをして、その合間に小屋で居眠りし、夕方にはパンを受け取って、それを家に戻って入れ物に入れ、紅茶を飲み、紙巻タバコをパイプで吸い、ランプに火をつけ、それをもってまた踏み切りのところに行き、帰って夕飯を食べる。そんな生活をまるまるわかってしまう。
 しかも、この監督がすごいと思うのは、このまったく同じことの繰り返しをまったく同じには撮らず、少しずつ違う形で撮っていく。踏み切りの開け閉めをしているところでも、微妙にカメラの位置が違っていて、老人の大きさや通り過ぎる列車の見え方が違う。パンを受け取るところでも、最初は老人が列車に隠れる形で撮って、受け取る瞬間は写さないが、次の時には逆からとってそのものを映してみたりする。そうやっていろいろな角度から同じ行動を見ていると、それがちょっと変わったときに思わず気づいてしまう。わかりやすいのは、退職通知を受け取って老人が家に戻ったとき、パンを持ったまま椅子に座る。見ている人は「いつもはあそこに…」とつい思ってしまう。
 それが本当にゆっくりとしたテンポで展開され、あまりに心地よく、ついつい寝入ってしまいそうな、「あー、でもここで眠ったらもったいないよ、こんないい映画なのにー」という葛藤がこの映画の質を表しているのではないでしょうか。
 最近思うのは、寝られる映画ってすごいということ。それだけ見ている側を心地よくさせるということですから。これもそんな映画です。しかし、寝てしまって見逃すのはもったいない。あーーーー

私が女になった日

Roozi Khe Zan Shodam
2000年,イラン,78分
監督:マルジエ・メシキニ
脚本:モフセン・マフマルバフ、マルジエ・メシキニ
撮影:モハマド・アフマディ、エブラヒム・ガフォリ
音楽:アフマド・レザ・ダルヴィシ
出演:ファテメフ・チェラグ・アフール、シャブナム・トロウイ、アジゼ・セディギ

 9歳の誕生日を迎えた少女ハブア。彼女は友達のハッサンと遊びたいが、9歳になったらもう男の子とは遊べない。彼女はおばあちゃんに頼んで、生まれた時間の正午までハッサンと遊ぶことを許してもらう。
 このハブアの物語に加え、自転車レースに参加する人妻アフー、ひたすら買い物をする老女フーアを主人公にした3本のオムニバス。これまで描かれることの少なかったイランの女性を描いたメシキニの監督デビュー作。
 マルジエ・メシキニはモフセン・マフマルバフの二人目の妻で、死別した一人目の妻の妹。したがって、サミラの叔母にあたる。モフセンが娘のために作った施設の映画学校でサミラとともに映画作りを学んだマルジエにとって一種の卒業制作的作品。ベネチア映画祭に出品され高い評価をえた。

 ペルシャ湾に浮かぶキシュ島は、一種の自由市で、イランの各地から観光客がおとずれる。そのキシュ等の美しい自然を背景に、素直に映画を作ったという感じ。サミラと比べると、やはり静かな大人の映画を撮るという印象だ。そして、女性というものに対する洞察が深い。
 この映画は要するに、女性の一生を描いたもの。3つの世代を描くことで、女性たちがたどってきた歴史を表現したもの。それはすっかり映画が語っています。少女の時点で社会による束縛を味わい、成長し自立したと思ったら家族という束縛に縛られ、ようやく自由になった老年にはその自由の使い道がない。要約してしまえばそういうこと。
 こう簡単に要約出来てしまうところがこの映画の欠点といえば欠点でしょうか。しかし、メッセージをストレートに伝えるということも時には重要なことですから、必ずしも欠点とはいえないでしょう。
 この映画、かなり構図と色合いにこっているようですが、なんとなくまとまりがない。それぞれの映像はすごく美しいのだけれど、なんとなくそれぞれの映像が思いつき、というか、その場の美しさにとらわれているというか、あくまでなんとなく何ですが、全体としての「映像」像見たいな物が見えてこない。これもまた欠点といえば欠点ですが、その場の最良の瞬間を切り取るというのも映画にとっては重要なことなので、必ずしも欠点とはいえないのです。
 なんだかわからなくなってきましたが、まとめると、ここの瞬間は美しさにあふれ、メッセージもよく伝わるが、完成度にやや難アリというところですかね。

ブラックボード~背負う人

Takhte siah
2000年,イラン,84分
監督:サミラ・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ、サミラ・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ
音楽:モハマド・レザ・ダルヴィシ
出演:バフマン・ゴバディ、サイード・モハマディ、ベフナズ・ジャファリ

 黒板を背負って山道を歩く歩く男たちの一団。彼らは、学校がなくなって職を失った教師らしい。時はイラン・イラク戦争の真っ最中、彼らは食べるため、各地の村々を回って子供たちに読み書きや算数を教えて歩いていた。その一団の中の二人の教師サイードとレブアル、それぞれ生徒をさがし、サイードはイラクとの国境に向かう老人の一団を見つけ、レブアルは大きな荷物を運ぶ子供たちの一団を見つけた。
 『りんご』で世界の中目を集めた若干20歳のサミラ・マフマルバフの監督第2作は『りんご』と同じように、ある種ルポ的な色彩を取り入れつつも映像にこだわって映画らしい映画に仕上げた。

 とりあえず、黒板を背負って歩くという発想が面白い。監督いわく、もともとのアイデアは父親のモフセンの発想から得たらしいが、それをうまい具合に映画世界にはめ込んだところがうまい。
 この映画はやはりかなり社会的なメッセージ性の強い映画で、最近の出来事であるイラン・イラク戦争をいまだに問題として残っているクルド人難民の問題と関わらせつつ描き、かつ戦争に対する人々の姿勢を生々しく描こうという野心が感じられる。しかも、子供、老人という二つの世代を対象とし、そこにストーリーテラーとしてのいわゆる大人が入っている構造から行って、全体像を描こうという構想なのだろう。
 したがって、物語そのものは収斂するのではなくむしろ散逸してゆく方向ですすみ、結末もはっきりとしたメッセージを打ち出すわけではない。漠然とした反戦のメッセージ。あるいは「生きる」ということに対する漠とした渇望。
 全体には非常に出来のよい映画ですが、ちょっと手持ちカメラの多用が気になりましたかね。主観ショットのときに手持ちを使うのはとても効果的でいいのですが、主観ではないと思われるところでも手持ちのぶれた画像が使われていたので、その効果が薄れてしまった感じがするし、あまりに手持ちの映像が多い映画は酔うのでちょっと厳しいです。山道の移動撮影で、ぶれない画像を撮るのも難しかろうとは思いますが、それを感じさせないように作るのが映画。映画の世界の外の状況を考えさせてしまってはだめなのです。そこらあたりが減点。

 今回見てみると、いろいろと味わい深い部分があります。メッセージ性などは置いておいて、映っている人々の生き生きとした感じというか、非常に厳しく、本当に生きていくのがやっとという生活(といえるかどうかも怪しい移動の日々)のなかでもいくばくかの喜びがある。あるいはただ苦しみが和らぐだけであってもそれを喜びと感じる。それがこの映画の非常によい味わいであると思います。故郷へと向う一団の中で「黒板さん」と結婚することになる女性。彼女は精神的に参ってしまっているのだけれど、周囲はそれをどうとも思わない。それは一つの不幸ではあるけれど、皆が抱えている不幸と質的に差があるわけではない。そしてその父親は膀胱炎でおしっこが出ない。しかし出さなければならない。おしっこが出た瞬間、彼が感じた幸せはどれほどのものだったか。ズボンへと伝う暖かいおしっこの感触が幸せであるというちょっと笑ってしまうようなこと。それが幸せであるということ。少年レブアルが自分の名前を黒板に書くことができたとき、彼の表情は真剣でありながら喜びに溢れていた。その文字はたどたどしいものであっても彼にとっては無上の喜びを与えてくれるものだった。それを書き上げた瞬間に待ち受ける運命がどのようなものであっても。
 そのような生きる喜び。クルド人の一団が「黒板さん」に導かれてついに故郷にたどり着いたことをしる歌が鳴り響いたとき、彼らの喜びはいかほどのものだっただろうか。故郷に帰っても彼らの運命は悲惨で未来など霞のようなものだということは見ているわれわれにも、旅する彼ら自身にもわかってはいるに違いないのだが、故郷に着いたということの喜びは他には変えがたいほどのものなのだ。そのような悲惨な中にある喜びを無常のものとして描きあげたこの映画はどこを切っても味わい深い。

桜桃の味

Ta’m e Guliass
1997年,イラン,98分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ホマユン・パイヴァール
出演:ホマユン・エルシャディ、アブドル・ホセイン・バゲリ、アフシン・バクタリ

 荒涼としたイランの大地を走る車。運転している中年男は道行く人に声をかけ、仕事をしないかと誘いをかける。果たして男の言う仕事とは何なのか? イランの荒涼とした土地を車で走る男のまなざしが印象的。
 「ジグザグ三部作」で一躍世界的な監督の仲間入りをしたイランの巨匠キアロスタミがそれらに続いて撮った長編作品。少年を主人公としてきたこれまでの作品とは一転、重厚な大人のドラマに仕上げている。

 キアロスタミの作品は数あれど、どうしても3部作の印象がぬぐいきれないのですが、この作品はそういう意味では半ば観衆を裏切る作品ではある。少年を主人公としたどこかほほえましい作品を取ってきたキアロスタミが「死」をテーマとしたということ。「死」ということ自体はこれまでの作品にも見え隠れしてきてはいたが、それを正面きってテーマとしたところがキアロスタミの挑戦なのだろうか。男の真摯なまなざしとはぐらかすような話し方が神経を逆撫で、たびたび出てくる砂利工場の音がそれに拍車をかける。
 男が死に場所に選んだ一本の木、そして穴。
 相変わらず同じことが反復されているに過ぎないようなストーリー。彼は結局死ぬことは出来ないのだろう。それは明らかだ。最後の最後、長時間完全に黒い画面がスクリーンに映っている間、いろいろなことを考える。考えさせる。でもきっと彼は死なない。自分に土をかけてくれる人を探すという過程の中で彼の中にどんな変化がおきたのか? それを知る由はないけれど、きっと彼は死なない。

サイレンス

Le Silence
1998年,イラン=フランス=タジキスタン,76分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
音楽:マジッド・エンテザミ
出演:タハミネー・ノルマトワ、ナデレー・アブデラーイェワ、ゴルビビ・ジアドラーイェワ

 ノックの音、スカーフ、3つ編みの後姿、目を閉じた少年の横顔、この最初のイメージだけで、完全に引き込まれてしまう映像マジック。
 目の見えない少年コルシッドは興味を引く音が聞こえるとついついそっちについていってしまう癖があった。そのため、楽器の調律の仕事にもいつも遅刻して ばかり。果たして少年はどうなるのか…
 ストーリーはそれほど重要ではなくて、氾濫するイメージと不思議な世界観が この映画の中心。「目が見えない」ということがテーマのようで、それほど重きを置かれていないような気もする、まったく不思議な映画。

 マフマルバフの映画はどれも不思議だが、この映画の不思議さはかなりすごい。難解というのではないんだけれど、なんだかよくわからない。コルシッドが「目が見えない」ことはすごく重要なんだけど、映画の中で格別問題にされるわけではない。周りの人も「目が見えない」ということを普通に受け入れ、しかしそれは障害者を大事にとか、そういった視点ではなくて、「彼は目が見えないんだって」「へー、そう」みたいな感じで捉えている。
 とにかく言葉にするのは難しい。マフマルバフの映画を見ていつも思うのは、「言葉に出来ないことを映像にする」という映像の本質を常に実現しているということ。だから、言葉にするのは難しい。表現しようとすると、断片的なことか、抽象的なことしかいえなくなってしまう。
 断片的にいえば、この映画にあるのはある種の反復「運命」がきっかけとなる反復の構造。マフマルバフはこの反復あるいは円還の構造をよく使う。音で言えば、はちの羽音、水の音、耳をふさぐと水の音、そして「雨みたいな音を出す楽士」をコルシッドは探す。クローズアップのときに背景が完全にぼやけているというのも、マフマルバフがよく使う手法。この映画では、市場のシーンで、目をつぶったコルシッドと、親方のところ女の子が歩くシーンで使われていたのが印象的、ここでは、画面の半分がアップの顔、進行方向に半分が空白で、ぼやけた背景の色合いだけが見える。
 抽象的にいえば、この映画の本質は「迷う」こと。しかも、目的があってそれを見失ったというよりはむしろ、目的がない、方向がない迷い方。自分がどこにいてどこに行くのか、それがまったくわからない迷い方。「それが人生」とはいわないけれど、迷ってばかりだ。

少年と兵士

The Child and The Soldier
2000年,イラン,90分
監督:セイエッド・レザ・ミル=キャミリ
脚本:モハマド・レザイ=ラド
撮影:ハミド・コゾーイ
出演:メヘディ・ロテフィ、メヘラン・ラジャビ、ルーホリラ・ホセティ、ビザン・ソルタニ

 ある基地の大晦日、若い兵士が軍曹に正月休暇を早めてくれと頼みに行くが、もちろん聞き入れられない。そんな時、盗みでつかまった少年をテヘランの少年院へ連れてゆくという任務がしょうじた。軍曹は少年を送り届けることを条件に、休暇を早めることを認めるのだが、そこは大晦日、テヘランへの交通手段はやすやすとは見つからず、二人はヒッチハイクをすることに。
 非常にオーソドックスで良質のイラン映画。少年が出てきて、教訓めいたお話で、ちょっと感動的で、風景が美しくて、そんないい映画です。

 イラン映画といえば少年。この映画もやはり少年。しかし、今度の少年は盗みをした少年。と、いうことは教訓じみた話になるはず。と、思ったらやはりそう。少年は最後「二度としないよ!」と怒ったように言い放つのでした。
 しかし、この映画のいいところは、一方的にそういう教訓話にしてしまわないところ。軍隊の融通の利かなさや、おとなの身勝手さもしっかり欠いているところ。なんだか久しぶりにいい話を見たわ。という感じです。
 ところで、この映画で一番好きなキャラクターは運転手のおじさん。レスリングをやっていたというデブのおじさん。そのおじさんが一年歳後の夕暮れに、トラックの上でお茶を飲んでいるシーンは最高です。いいぞおじさん。
 さらにところで、この映画で、主人公が家族と新年を迎える場面が昼間なんですが、イランでは日付は昼間に変わるんですかね? そうなんでしょうねおそらく。これはイスラムの暦の問題なんでしょうか? どなたか知っていたら教えてください。やはり我々(私だけ?)はイランとかイスラムについてあまり知らないんですね。イラン映画を見るたびにそう思います。今日は本気でペルシャ語を習おうかと思いました。
 ほのぼのといい映画でした。

Kelid
1987年,イラン,76分
監督:エブヒム・フルゼシュ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:モハマド・アラドポシュ
出演:マハナズ・アンサリアン、ファテメ・アサール、アミール・モハマッド・プールハッサン

 ある朝、お母さんはまだ小さいアミール・モハメドと赤ん坊を置いて買い物へ。アミール・モハメドは鳥に水をあげようとするが、水道の栓が固くてひねれない。どうしていいかわからないアミール・モハメドに次々と難題がのしかかる。いったいお母さんはいつになったら帰ってくるの!?
 キアロスタミが脚本した作品らしく、素朴な少年の姿をひたすらとらえる。アミール・モハメドのひたむきな姿は見ていて楽しいが、さすがに物語が単調すぎたか。イラン映画らしいイラン映画であることは確か。
 イラン版「ロッタちゃん」というところ?

 なにかこう、どこかで展開があるのかと思いきや、結局最後まで、淡々と、単調に、ただひたすらアミールの姿を追いつづける。そこには省略もなく、本当に時間の流れどおりに忠実に追いつづける。近所のおばさんや、おばあさんが出てきて、その時には、アミールから視線が離れるのだけれど、結局また戻ってきて、ひたすらアミールの視線。
 なんだかこう、途中まではいいのだけれど、ここまでひたむきにやられてしまうと、すさんだ心の大人にはついて行けない、温かく見守ってもいられない、そんな気がしてきてしまう。もうちょっと展開があってもよかったかな、と思ってしまう。ちょっと、すっきりしない感じです。

行商人

Peddler
1987年,イラン,95分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:ホマユン・バイヴァール、メヘルダッド・ファミヒ、アリレザ・ザリンダスト
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:ゾーレ・スルマディ、エスマイル・ソルタニアン、モルテザ・ザラビ、マハムード・バシリ、ベヘザード・ベヘザードブール

 マフマルバフが強烈な映像で貧困層の人々を描いた3話オムニバス。
 第1話は「幸せな子供」。4人の障害児を抱え、スラム街の廃バスで暮らす貧乏な夫婦が、今度生まれる子供は幸せにしようと、子供を自分たちでは育てずに、誰かに育ててもらおうと奮闘する物語。
 第2話は「老婆の誕生」。年老いた車椅子生活の母と暮らす一人の青年。少し頭の弱い彼は日々懸命に母親の世話を焼いていたが…
 第3話は「行商人」。市場で服を売っていた行商人が突然ギャングに連れて行かれる。それは顔見知りのギャングで、彼にはなにか後ろめたいことがあるらしい。彼はギャングに連れていかれる途中、逃げる方法を考えるが…
 いきなり、氷付けになっているような赤ん坊の映像ではじまるショッキングな作品は、貧困と恐怖で織り上げられた絶妙のオムニバス。果たして万人に受けるのかどうかは別にして、一見の価値はある快作(怪作)。

 とりあえず、各作品の印象に残ったところを羅列しましょう。
第1話:社会批判ともとれるテーマ。父親の鼻にかかった「ハーニエ」。
第2話:主人公が揺り椅子に寝ているショットから部屋をぐるりと回ると朝になっ  ているシーン。割れたガラスをくっつけた鏡。さまざまな映像的工夫。
第3話:羊をさばくシーンは圧巻。3本の中ではいちばん明快。
 と、いうことですが、とにかく、この映画は恐怖と狂気を縦糸と横糸にして織り込んだ織物(ギャベ)のような映画。何だかわからないけど、心臓の鼓動が早まり、ドキドキしてしまう。恐怖映画ではないんだけれど、じわじわと恐怖が内部から涌き出てくるような感覚。
 マフマルバフはイランの中ではかなり社会派の監督として位置付けられ、この映画も、貧困層を扱っているということで社会批判的なメッセージを込めたものとして受け取られるだろう。もちろんそのようなメッセージも込められているのだろうけれど、とにかく映画として素晴らしい。
 とにかくさまざまなアイデアが素晴らしい。アイデアでいえば特に2話目。まず、様々なものを操るひも。死んだように見える母親(時折口をもごもごと動かすことでかろうじて生きているのが確認できる、そのかろうじさが素晴らしい)。割れた鏡をジグソーパズルのようにはめて行くところ、そしてその鏡で見る顔。部屋にかけられた絵(あの絵はかなりいいと思うんだけど、いったい誰が書いたんだろう?)。
 あまり無条件に誉めすぎなので、少々難をいえば、3話目がちょっと弱かった。話としても普通だし、想像を映像化して、どれが現実なのかわからなくするという発想も決して独特とはいえない。3話目でよかったのは、阿片窟のような地下のギャングのたまり場。あんな雰囲気で全編が統一されていれば、かなり不思議でいいものになったかもしれない。しかし、羊をさばくところは本当にすごかった。あれは絶対に本物。喉から空気が漏れる音までがリアル。あー、こわ。