π(パイ)

Pi 
1997年,アメリカ,85分
監督:ダーレン・アロノフスキー
脚本:ダーレン・アロノフスキー
撮影:マシュー・リバティーク
音楽:クリント・マンセル
出演:ショーン・ガレット、マーク・マーゴリス、ベン・シェンクマン、パメラ・ハート

 天才数学者のマックス(ショーン・ガレット)はすべての事象はパターンがあり、数式で予測できると考え、株式市場の法則を見つけようとしていた。その彼の頭脳を利用しようとする株屋やユダヤ神秘主義教団の思惑に翻弄される。
 これはまさしく「サイコ数学スリラー」。白黒の映像が斬新で、カメラ回しも秀逸。デジタルな音の使い方も非常に面白い。シナリオ自体はあまりこったものではないが、アイデアが独特のため、非常に面白くできている。
 また、数学という学問を通じて哲学的な内容にすることで、単なるカルト映画の域を越える映画となっている。
 ただ、頭痛持ちの人は見ないほうがいいかもしれません。

 216桁。 考えれば考えるほど難しい。すべての法則を支配する数字=神。数学=宗教?マックスの頭の傷はなんだったのか?アリは?
 そんな謎はおいておいて、この映画の素晴らしいところは「数学」というものでアドベンチャーの世界を作り出してしまっていること。マフィアの臭いが感じられる株屋とか過激なユダヤ教団とか、そんな現実的なアドベンチャーに結びつくものなしでも、十分にサスペンスとして成立したんじゃないかと思わせる。
 ソルが囲碁をしながら言った「考えるんじゃない。直感だ」という(ような)セリフが心に残る。少し哲学くさいことを言えば、考えつづけている限り、人間は「見る」ことはできない。「見る」ということはアルキメデスの妻のように直感的にわかることだ。アルキメデスに必要なのは考えつづけることではなく風呂に入ることだと感じることだ。しかし、人間は完全なる真実を感じ取るには脆すぎる。だから人間は考えるしかない。真実を感じ取ってしまったマックスは崩れてゆくしかないのだ。それは「神」の領域であって、人間の領域ではない。だから人間は考える、考える、考える、考えるしかない。
 この映画から感じ取れるのはそういうこと。言葉ではなく、映像や音や幻想やとなりの美女や白黒の世界からなにかを感じ取るしかない。そして考えるしかない。真実は我々の手の届かないところにある。

ジュマンジ

Jumanji 
1995年,アメリカ,104分
監督:ジョー・ジョンストン
原作:クリス・ヴァン・オールスバーグ
脚本:ジョナサン・ヘンズリー、グレッグ・テイラー、ロバート・W・コート
撮影:トーマス・アッカーマン
音楽:ジェームズ・ホナー
出演:ロビン・ウィリアムズ、ジョナサン・ハイド、キルステン・ダンスト、ブラッドリー・ピアーズ、ボニー・ハント

 大人の姿をした子供をやらせたら右に出るものがいないロビン・ウィリアムズ。彼は26年間ゲームの世界に閉じ込められていた中年男を演じる。事の起こりは、ボードに浮かんだことが実際に起きてしまうボードゲーム「ジュマンジ」。
 ボードゲームを手に入れた少年アランは友だちのサリーとゲームを始める。だが、ボードのメッセージ通りの事が起きた上、アランはどこかに消えてしまった。それから26年後、売りに出されていた屋敷に移り住んできた幼い姉弟ジョディとピーターは屋根裏部屋でそのゲーム“ジュマンジ”を発見。それをはじめると、ようやくアランは現実世界に戻ってくる。そして、ゲームを終わらせようと悪戦苦闘する。
 軽いタッチの笑いはロビンウィリアムスの味。この映画でも笑える場面がぽんぽんと飛び出す。売り物のCGが少し安っぽいのが残念。

ストレート・ストーリー

The Straigt Story 
1999年,アメリカ,111分
監督:デイヴィッド・リンチ
脚本:メアリー・スウィーニー
撮影:フレディ・フランシス
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:リチャード・ファーンズワース、シシー・スペイセク、ハリー・ディーン・スタントン

 74歳の老人アルヴィン・ストレートがトラクターに乗って400キロ離れた兄ライルの家へと旅するロードムーヴィー。1994年NYタイムズに載った実際にあった話をデビット・リンチの公私にわたるパートナーであるメアリー・スィーニーが脚本にし、デビット・リンチがそれに乗る形で映画化が実現した。
 デビット・リンチらしからぬストレートな映画だが、その映像や台詞には相変わらずリンチらしさが垣間見える。映像がとても美しく、散りばめられたエピソードも、どれをとっても素晴らしい。

 この作品はこれまでのリンチ作品とは異なるといわれる。しかしそうだろうか?確かに、実際にあった話を脚色するという手法はこれまでとられたことがなかったし、純粋な人間ドラマというものも描いたことはなかった。しかし、リンチが最もリンチらしいところの映像やせりふといったものにはリンチらしさがにじみ出ている。急坂でファンベルトが切れてあせるアルヴィンのアップへと移るカメラの寄せ方、妊娠した家出少女とアルヴィンとの会話、ロングショットになると声もまた遠くなるとり方、その一つ一つを見てみれば、これは紛れもなくデビット・リンチ。
 ただひとついえるのは、それまでのリンチ作品のような緻密で複雑に絡み合った平行する物語がより単純化されたということ。それでも、単純にひとつの物語というのではなく、家出少女の物語や娘ローズの物語が、アルヴィンの一人称の物語という縦糸を斜めに横切っていく。
 この作品を撮るに際してデビット・リンチはアルヴィンと同じ道のりを(トラクターでではないけれど)たどってみたらしい。その辺りもデビット・リンチらしい緻密さである。リンチ作品を見ていつも思うことだけれど、「これは本当はもっともっと長い物語で、本当は4時間くらいで撮りたかったんじゃないかな」と思わずにいられなかった。やはり、デビット・リンチはデビット・リンチだったということか。 

2001年9月7日

 今回見て印象に残ったのは鹿。この鹿のシーンもまたリンチらしいシュールなユーモアを感じさせる部分。しかも、全く何も解決しないまま進んでしまうのがらしいところ。この映画に出てくるエピソードのほとんどはその後が語られない。そこに味があるのだと思いました。

波止場

On the Waterfront 
1954年,アメリカ,107分
監督:エリア・カザン
脚本:バッド・シュルバーグ
撮影:ボリス・カウフマン
音楽:レナード・バーンスタイン
出演:マーロン・ブランド、エヴァ・マリー・セイント、リー・J・コッブ、ロッド・スタイガー

 ある波止場の沖仲仕の組合を牛耳る「やくざ」の親分ジョニーの指示で友達が殺されるのを目撃したボクサーくずれのテリーは、その妹イディが悲しむ姿に心動かされる。物語はテリーとジョニー(とその手下であるテリーの兄のチャーリー)との関係と、テリーとイディーの関係をめぐって展開される。
 徐々にイディーを愛し、ジョニーと対決してやろうと考えるようになっていくテリーを演じるマーロン・ブランドがとにかくかっこいい。白黒映画だが、その映像は素晴らしく、映像以外の効果も目を見張るものがある。

 エリア・カザンという先入観(*)から、どうしてもコミュニズムとの関係性をかぎだそうとしてしまう。組合という主題を扱い、組合員という大衆が私服を肥やす親分をやっつけるというストーリーは非常にマルクス主義的だ。あるいは、反ファシズム・反暴力(平和主義)的というべきかもしれない。それを象徴しているのは、親分にはむかったがために殺されてしまうテリーの鳩であり、無言でテリーの後押しをする沖仲士たちである。これは、密告してしまった仲間に対する罪滅ぼしなのだろうか?
 しかし、この映画の素晴らしさはその思想性にあるのではないだろう。マーロン・ブランドのかっこよさ。深みのある映像。さまざまな効果。たとえばたびたび登場し強い印象を残すスチールの階段。テリーとイディーの会話が汽笛にかき消される場面。そのように純粋な映画(映像芸術)としてのすばらしさがこの映画に時代性を乗り越えさせているものなのだと思う。
 * エリア・カザンは1950年代のマッカーシー旋風(赤狩り)に屈し、1952年に共産党と関係のあった演劇関係者の名を明かしたことから、「裏切り者」とされてきた。1998年にカザンにアカデミー名誉賞が送られたときにも、論議を呼んだ。

手錠のまゝの脱獄

The Defiant Ones 
1958年,アメリカ,97分
監督:スタンリー・クレイマー
脚本:ネイザン・E・ダグラス、ハロルド・ジェーコブ・スミス
撮影:サム・リーヴィット
音楽:アーネスト・ゴールド
出演:トニー・カーチス、シドニー・ポワチエ、カーラ・ウィリアムズ、セオドア・バイケル、チャールズ・マックグロー

 事故を起こした囚人護送車からふたりの囚人が脱走する。ひとりは白人のジャクソン、ひとりは黒人のカレン。ふたりは手首と手首を手錠でつながれていたため、仕方なくふたりでの脱走を試みるが……。
 当時のアメリカの人種的偏見を問題化し、サスペンスとして描いた作品。純粋な古典的サスペンスとしても楽しめるし、当時のアメリカの時代性を象徴するものとしても興味深く見ることができる作品である。1958年のアカデミーオリジナル脚本賞・撮影賞を獲得している。

 当時としては時代を象徴する画期的なシナリオだったのかもしれないが、今見ると少しありふれたものになってしまった観がある。同じ脱獄ものの古典には、たとえばジャック・べっける監督の「穴」のような名作が数多くあり、それと肩を並べるのは難しいだろう。
 ただ、ひとついえるのは、この「手錠のままの脱獄」という邦題にも少し問題があるように思うということだ。「脱獄」というと、どうしてもその脱獄のプロセスというものに期待を抱いてしまうが、この作品には正確には「脱獄」の物語ではないからだ。この映画は脱獄というよりは「脱走」に焦点が置かれているのだから、それにふさわしい邦題がつけられていれば、肩透かしという感じはしなくなるだろう。
 ちなみに、原題の”The defiant ones”というのは「反抗的なやつら」というような意味。

インサイダー

The Insider 
1999年,アメリカ,158分
監督:マイケル・マン
脚本:マイケル・マン、エリック・ロス
撮影:ダンテ・スピノッティ
音楽:ピーター・バーク、リサ・ジェラード
出演:アル・パチーノ、ラッセル・クロウ、クリストファー・プラマー、ダイアン・ヴェノーラ、フィリップ・ベイカー・ホール

 巨大タバコ産業の誤謬を暴こうとするテレビマンのバーグマン(アル・パチーノ)とその内部告発者として白羽の矢を立てられたワイガンド(ラッセル・クロウ)の苦悩を描いた物語。実際にあった事件を映画化し、すべての人物が実名で描かれている。
 派手にストーリーが転がっていくわけでも、銃撃戦やカーチェイスがあるわけでもないけれど、引き込まれる物語。重たく、説得力のある展開。そのような展開のなか、視覚と聴覚を目いっぱい揺さぶってくる。カメラワークはもちろんのこと、音楽だけにとどまらないさまざまな「音」が映画の臨場感を高め、観客の精神を緊張させ、物語へと引き込んでいく。
 そして、クローズアップで映し出されたラッセル・クロウの、アル・パチーノの、クリストファー・プラマーの、「顔」が、その表情が、言葉以上の言葉を語っている。アカデミー賞は取れなかったものの、20キロ以上も太り、髪を薄くし、白髪に染めたラッセル・クロウの演技は鬼気迫る迫力があり、まさに「アカデミー級」の演技。

 ラッセル・クロウの縁起の見事さに尽きるこの映画だが、なかでも、妻子も家を出て、バーグマンにも裏切られたと考えてこもっていたホテルの一室で、ホテルの壁に幻燈のように歪んだ風景が浮かびつづける場面での、超アップでの縁起は絶品だった。大きなスクリーンいっぱいに、額から口までがいっぱいに映り、顔の筋肉がヒクヒクと動く姿が見える。目も血走り(どうやってやるのだろう?)、唇は乾き、見ている側にまで緊張感がうつってしまうような演技。まさに絶品。
 他にこの映画で特筆すべきなのは、音の使い方だろう。たくさんのパトカーに護衛されて裁判所に向かうワイガンドが車に乗ってから、次の丘の上にその一行が見えてくるシーンまでの間の一瞬の無音の時間。そのシーンをはじめ、観客の緊張感を高めるような音の演出が随所に見られて、映画としての完成度を高めていたように思う。
 これは余談だが、この映画では誰一人タバコを吸う人が出てこなかった。当然といえば当然かもしれないが、なかなか凝ったことをするという感じ。ちなみに、ラストシーンで、アル・パチーノがドアを出て、コートの襟を立て、おもむろにタバコ(できればクール)を取り出して、ぱっと火をつけるところ(のアップ)で映画が終わったら面白いかもしれないと、勝手に思ったりしました。