365日のシンプルライフ

この映画の見どころは一番最初にある。そして、おそらく撮りたかった映像というのも最初にあるのだろう。それは裸の男。この映画の監督・脚本・主演を務めるペトリの裸がこの映画のクライマックスなのだ。

映画の内容は、一人の男がすべての持ち物を貸し倉庫に預け、1日に1つずつそこからモノを取り出すというチャレンジを1年間やる姿を追ったもの。家具や生活用品だけでなく、服も何もすべて預けるので、最初に登場するペトリは全裸で裸足。そのまま雪のちらつく道に出て、新聞紙で股間を覆って貸し倉庫まで走っていく。では、最初に彼が取り出すものは何か…

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カラマリ・ユニオン

Calamari Union
1985年,フィンランド,80分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:カサブランカ・フォックスとあれやこれや
出演:マッティ・ペロンパー、プンティ・ヴァルトネン、サッケ・ヤルヴァンパー、マルック・トイッカ

 なぞの会合を繰り広げる男たち。男たちは「カラマリ・ユニオン」と名乗り、自分たちの窮状から逃れるべく、街の反対側にあるという「エイラ」を目指そうと話し合う。そしてその「エイラ」へのたびは困難を極めるという。男たちの名はみな「フランク」。彼らは地下鉄に乗り、街の中心へ向かう。
 アキ・カウリスマキが『罪と罰』についで撮った2作目の長編作品。とにかくわけがわからない設定とわけがわからない展開。カウリスマキ・ワールドここに極まれり。

 ちょっとわけがわからなすぎるかもしれません。わけのわかるところがひとつもない。それでも、みんな名前が「フランク」というのはかなり面白い。最初の会合の場面で、「じゃあ、フランクよろしく」「ああ、フランク」と受け答えるあたりでは何のことかわからないが、だんだんみんなフランクなのだとわかってくると、なんだかほほに笑みが浮かんでしまう。これはコメディなのか。『レニングランド・カウボーイズ』で名の売れた監督だけに、シュールな感じのコメディは得意分野なのだろうけれど、この作品はあまりにシュールすぎる。海辺(湖辺?)のホームレスに「泊めてやってくれ」と頼んだり(自分たちは車があるのに)、突然店を経営していたり、首をひねりながら笑うしかない場面の目白押し。
 このわからなさは、つまりありえなさ、そして作り物じみさ(そんな日本語はない)だろう。作り物じみさというのは逆にわかりやすさの賜物でもある。ホテルの名前が「ホテル・ヘルシンキ」だとか、イタリアにいて考えるときに「イタリア」というネオンサインのカットが挿入されたり、このあまりにわかりやすさがうそっぽく、作り物じみた感じを与える。作り物じみた感じは現実的でなく、リアルでないから、そこに何かあるのだろうと考えてしまうけれど、その何かが何なのか一向にわからない。そこに立ち現れるわからなさ。
 でも、途中からなんとなく予想がつくようになってくる。「車のドアに、コートのはじをはさむんだろうなぁ」とか「ああ、しんじゃうんだろうなぁ」とかそういう予想ですが。それが予想できるから何なのかといわれるとそれもまたわからない。
 あまりにわけがわからず、もう一回見てやろうと思ってしまった。それもカウリスマキの作戦か?

愛しのタチアナ

Pida Huivista Kiinni, Tatjana
1994年,フィンランド,62分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:サッケ・ジャルヴァンバ、アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:ヴェイッコ・トゥオミ
出演:カティ・オウティネン、マティ・ペロンパー、マト・ヴァルトネン、キルシ・テュッキュライネン

 ヴァルトは母親のところでミシンを踏んでいるが、コーヒーが切れたといって家を出る。その足で車を修理に出していたレイノの所に向かう。車の修理は終わっていて、2人で試運転に出かけるが、その途中でよったバーでバスが故障して立ち往生していた二人の女性を港まで乗せていくことになった。
 カウリスマキはいつでもカウリスマキだ。本当に不思議な空間を彼は作る。フィンランドがそうなのか、それともカウリスマキが変なのか…

 コーヒーとウォッカはほとんどしゃべらず始終ブスリとしているけれど、2人の間には何か通じるものがあるらしい。それにしてもあまりにしゃべらない。この映画はおそらく台詞の量では世界で指折りの少なさを誇る映画だろう。ひとつの台詞から次の台詞までの間は果てしなく長い。その間に文脈というものはなくなる。ただひとつ文脈のある台詞はロシア人の女の「あなたたちって本当に話好きね」という台詞だけだ。
 この台詞と台詞の長い間は物語の断絶も意味する。ロシア人の女が宿屋の女主人に「イヤリングありがとう」というけれど、そのイヤリングは映画には登場しない。そのように物語りはばっさりと断たれ、夜から昼、昼から夜と時間ばかりが流れていく。その時間の流れの中で台詞を使わずに、登場人物たちの心理を着実に描いていくのがカウリスマキの真骨頂。この映画でもそれは健在。
 カウリスマキ映画のもうひとつの特徴(?)といえば、主人公たちがさえないこと。それは冒頭2つ目のカットでバイクに乗る4人を見た時点で明らかになる。このカット、物語と何の関係があるのか最初はよくわかりませんが全部見終わって振り返ると、なるほどね、というカットです。

!!ここからややネタばれ目!!

 この2番目のカットに現れた4人は誰だったろうか? どうにも思い出せないが、旅に出た4人と同じだった気がする。それならば、すべての謎は明らかに。みながらずっと思っていたのは「お母さんは!?」という疑問。こんな何日も閉じ込めて置いたら死んじまうよ。このまま旅を続けて帰ってみたらお母さん餓死っていうオチだったらそれはそれですごい映画だと思いながら見ていましたが、こういうオチなら、それはそれでなるほどねという感じ。「夢」のこういう使い方もあるというか、こういう使い方が本当はいいんだと思います。
 『シックス・センス』以来、何本も同じような映画が作られている中、『ビューティフル・マインド』なんて映画も現れましたが、そんな映画作る前にこの映画を見ろ!! といいたい。人間すべてがアメリカ人みたいに単純だと思ったら大間違いだぞ!! といいたい。この映画のラストシーンの淡白さをロン・ハワードに見習ってもらいたいですね。

罪と罰

Rikos Ja Rangaistus
1983年,フィンランド,93分
監督:アキ・カウリスマキ
原作:ドストエフスキー
脚本:アキ・カウリスマキ、パウリ・ペンティ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:ペドロ・ヒエタネン
出演:マルック・トイッカ、アイノ・セッポ、エスコ・ニッカリ、マッティ・ペロンパー

 生肉工場で働くラヒカイネンは一人の男のあとをつけ、家まで行く。電報と偽ってドアを開けさせ、家の中に入り込む。ラヒカイネンは「お前を殺す」と言って、ピストルを突きつけ、その男を撃ち殺してしまう。そこに買い物袋を提げた若い女が入ってくる。彼女はその家で当夜開かれる予定だったパーティのために呼ばれたケータリング店の店員だった。
 フィンランドを代表する映画監督アキ・カウリスマキの処女長編。処女作にしてこれだけの作品を作ってしまうのはさすがとしか言いようがない。

 映画監督同士の類似や影響をあげつらって作品を論評するのはあまり好きではないですが、それがともに好きな監督である場合にはどうしてもいいたくなってしまう。この映画をみて思うのはやはりヴェンダース。映画のリズムなどはぜんぜん違いますが、映像がとてもヴェンダース。ヴェンダースというよりはロビー・ミューラーと言ったほうが正しいのかもしれません。ヴェンダースとミューラー、そしてカウリスマキとティモ・サルミネン。このコンビが作り出す映像が似ているということだと思います。それはなんとなくざらざらした映像に盛り込まれた暗いトーンの色のアンザンブル。全体に暗いトーンなのだけれど、そこには多彩な色が盛り込まれている。そのイメージがとても好きです。
 ドストエフスキーの『罪と罰』は私が最も好きな小説のひとつ。これまで何度となく読んできた小説です。その面白さは、どのようにでも解釈できるところ。ラスコーリニコフの殺人の動機というか意味というか、そのようなものは明らかにならないまま終わり、その解釈を読むたびに考えることができること。この映画はその『罪と罰』のあいまいさをそのまま映画に閉じ込めているところがすばらしい。大体好きな小説が映画化されるとがっかりすることが多いですが、これはかなりしっくり来ました。舞台も登場人物も設定もすべて変えていながら、物語にとって重要な抽象的なプロットは忠実になぞる。その描き方が絶妙です。
 ということなので、そもそも好きな要素が好きなように盛り込まれているので、気に入らないわけがない。そしてこの映画は面白い。カウリスマキと言うと、『レニングラード・カウボーイズ』の楽しさと『ラヴィ・ド・ボエーム』のような作品の淡々として雰囲気の両極端という感じですが、この作品は基本的には淡々としたものながら、サスペンス色が強いということや、音楽の使い方なので全体的な雰囲気はドラマチックなものになっている。そのあたりが処女作ということなのだろうか? しかし、この作品の完成度はかなり高く、逆にそれ以降の作品がこの作品に追いつけてないのかもしれないと思うくらいである。この処女作が到達した高みに再び上り、それを超えるために試行錯誤を繰り返しているという見方すらしてしまう。

白い花びら

Juha
1998年,フィンランド,78分
監督:アキ・カウリスマキ
原作:ユハニ・アホ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン
音楽:アンシ・ティカンマキ
出演:サカリ・クオスマネン、カティ・オウティネン、アンドレ・ウィルム

 フィンランドの片田舎。ユハとマルヤの夫婦はサイドカーつきのオートバイで走り、自分達で作ったキャベツを町の市場で売る。仲睦まじく暮らす二人だったが、ある日ユハが車が故障して立ち往生していた男シュメイッカを家に連れてきたことで二人の関係が変化し始める。
 淡々としたスタイルを貫くカウリスマキ監督がサイレント風に描いた異色作。役者もおなじみのカティ・オウティネン。

 サイレント映画というよりはセリフのない映画。多彩な音楽に加え、効果音も入っているので、決してサイレント映画ではない。しかし、映画の作り方はサイレント映画の方法を踏襲し(少々誇張して)描いている。身振りだとか表情だとか、そういったものがセリフの変わりに様々なことを語るように描く。しかし、その大げささがいまひとつ。パロディにしているとは思えないけれど、ちょっと質の悪いサイレント映画風になってしまっている。
 それに対して、ものの描き方はうまいと思います。シュメイッカの車の名前というかエンブレムを映すことが効果的だったり、キャベツが夫婦の姿を端的に映していたりその辺りは面白かったですが、やはり全体として能弁すぎるというか、サイレント映画であるがために逆に説明しすぎたという気がしてしまいます。サイレント映画にはサイレント映画としてのもっと洗練されたスタイルがあったはずだとサイレント映画好き(初心者)の私としては思ってしまいます。
 カウリスマキのスタイルが進化していく一つの実験であるとして納得はしました。この映画を糧にもっととんでもないものを作ってくれるのではないかと期待したりします。(サイレントのミュージカルとかね)

浮き雲

Kauas Pilvet Karkaavat 
1996年,フィンランド,96分
監督:アキ・カウリスマキ
脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン、エリヤ・ダンメリ
音楽:シェリー・フィッシャー
出演:カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン、エリナ・サロ

 レストランで給仕長を務めるイロナと市電の運転手をするラウリの夫婦、新しいテレビも買い幸せに暮らしていたが、市電の赤字による人員削減でラウリが解雇されてしまう。仕事をいくら探しても見つからないまましばらくたったころ、イロナのレストランも大手のチェーン店に買収され、イロナも失職してしまう。仕事も見つからず、二人は途方にくれる…
 アキ・カウリスマキ得意の重い空気。フィンランドの重く垂れこめた空と、それとは対照的に鮮やかな色彩にはカウリスマキ監督の繊細な映画的感性が感じられる。

 これは非常にカウリスマキらしい映画であるにもかかわらず、当たり前の映画であるようにも映るという不思議な映画。カウリスマキはかなり変わった映画を80年代から90年代前半にかけて撮り、“カルト”という印象を観客に植え付けた。そのカウリスマキらしさとは徹底的に削られたセリフ、無表情な登場人物たち、常に暗さを伴う風景、印象的な音楽、などなどというもの。この映画にもそれらの要素はことごとくあり、まさにカウリスマキ的世界がそこにはある。
 しかし他方で、カウリスマキは変わりつつあったのかもしれない。常にシニカルであったカウリスマキの映画に何か本当に明るいものが見えて来ているような、(カルトではないという意味で)当たり前の映画に近づきつつあるような、そんな印象がこの映画にはあった。この映画を最初に見た時点ではそれは何かカウリスマキの魅力が薄められているようで、面白みが削がれているようにも感じられたけれど、いま改めてみると、それはカウリスマキの新たな次元というか、カルトから本当の実力派へと脱皮する段階であるのかもしれないと思える。
 映画を、そして物語を無理にひねろうとせず、観客の不意を付いて驚かせようとせず、ストレートに物語を進めながら、しかしその世界は明らかにカウリスマキという、そんな映画がこの映画では目指されているように思える。しかし、カルトな観客も裏切らず、さまざまな仕掛けも隠されている。 

 そして、カウリスマキらしいといえば、この映画で印象的なのはタバコ、とにかくカウリスマキの映画といえばタバコ、これは欠かせない要素である。このタバコとそしてもうひとつ欠かせない犬が非常にカウリスマキ的であり、映画的である。映画とはただそこにあるものではなく、画面から匂いたつものであるはずだ。この映画のタバコや犬からは「映画」がたまらなく匂ってくる。
 普通の「話」では無視されがちな些細な細部がたまらない魅力を放つのが「映画」的。これだけ、タバコと言う小道具を魅力的に使った映画を最近は見ない。昔はどこでもタバコは小道具の王様だったのに。そして犬。ただの犬。いつも尻尾を振っている犬。しかしこの犬がなんとなくこの映画にけじめをつけている。それぞれのシーンにそっと登場し、さりげなく存在感をアピールし、当たり前であることをそっと告げて去って行く。
 この犬に限らず、カウリスマキの映画には物語にはまったく必要のないものが登場し、それによって非常に魅力的になってしまうということがある。ただ二人が立っているのではなく、何かが通り過ぎたり、何かの音がしたり、ただそれだけでそのシーンが名シーンであるように思えてしまう。そんな魔法のような効果がカウリスマキの映画にはある。
 一見当たり前のようにも見える映画の中に、映画的魅力をふんだんに盛り込む、そんな魔術師のようなカウリスマキの魅力はカルトであることから離れていっても、増して行くばかりなのだ。彼は今本当に偉大な監督になろうとしているのかもしれないとこの映画を見て思った。

GO! GO! L.A.

L.A. Without a Map
1998年,イギリス=フランス=フィンランド,107分
監督:ミカ・カウリスマキ
原作:リチャード・レイナー
脚本:ミカ・カウリスマキ、リチャード・レイナー
撮影:ミシェル・アマテュー
音楽:セバスチャン・コルテーリャ
出演:デヴィッド・テナント、ヴァネッサ・ショウ、ヴィンセント・ギャロ、ジュリー・デルピー、ジョニー・デップ

 スコットランドの田舎町で葬儀屋に勤めるリチャードは、アメリカから来た女優の卵バーバラに一目ぼれ、一日きりのデートが忘れられず、すべてを捨ててロサンゼルスへやってきた。しかし、そこはハリウッド、リチャードのような田舎ものの居場所はなかった。スラム街に家を借り、唯一できた友人のモスと彼女を手に入れようと画策するのだが…
 弟のアキ・カウリスマキと比べるといまいち知名度の低いミカ・カウリスマキ監督が撮った意外とまともな恋愛映画。ばらばらなキャストが面白い。特にヴィンセント・ギャロがとてもいい。

 壊そうとして壊しきれなかったまともな恋愛映画。いかんせん主人公の二人がまとも過ぎた。ヴィンセント・ギャロとジュリー・デルピーはとてもいいし、ジョニー・デップも効いているが、物語の芯が何だかぽあんとしてしまってしまりがない映画になってしまったのかもしれない。でも、ヴィネッサ・ショウはかわいい。
 それでも、レニングラード・カウボーイズ(弟ミカの映画でおなじみ)が出て来たり、言葉(訛りや言いまわし)にかなりの工夫が凝らされていたりと楽しめることはたしか。ヴィンセント・ギャロのしゃべり方なんかはかなり癖があっていいが、その辺りは我々日本人には少々伝わりにくいのかもしれない。
 姿勢としては、ハリウッドをおちょくるヨーロッパ連合軍。ハリウッドを舞台にしたハリウッド映画とはちょっと違った映画にしあがっている。特にパターソンのおもしろくなさはかなり面白い。それをみんなが「LA的」と称するあたり、ミカ・カウリスマキのシニカルな見方が感じられる。