黒猫・白猫

Crna macka, beli macor
1998年,フランス=ドイツ=ユーゴスラヴィア,130分
監督:エミール・クストリッツァ
脚本:ゴルダン・ミヒッチ
撮影:ティエリー・アルボガスト
音楽:スヴェトリク・ミカザイッチ
出演:バライム・セヴェルジャン、スルジャン・トドロヴィッチ、ブランカ・カティチ、フロリアン・アイディーニ

 ユーゴスラビアの川沿いのぼろ屋に父と住む若者ザーレと近くの喫茶店(?)で働くイダのラブストーリーと、ザーレの父親や祖父とマフィアとの人情と友情の物語が絡み合う、不思議な雰囲気のコメディ映画。
 クストリッツァならではのごちゃごちゃとした映像から滲み出す「味」がたまらない。すべての登場人物が独特の「味」を持っていてすばらしい。
 エミール・クストリッツァの映画を見たことがない方!これは想像もつかない世界観です。どんなにプレビューを書いても、知らない人にこの世界を伝えることは不可能。ぜひご覧あれ。 

 クストリッツァというと、「アリゾナ・ドリーム」とか「アンダーグラウンド」とかなんとも不思議な映像美、というか、決して美ではないけれど、それを美しく見せてしまう力わざと言うか、そんな不思議な映像にいつもひきつけられてしまう。めまぐるしいカメラの動きと見たこともない風景。それがなぜか心にすとんと入ってくるのが不思議。
 ゴット・ファーザーのじいさんが乗ってる車(?)とか、やせデブの兄弟とか、車を食べる豚とか、映画の隅々、画面の隅々まで行き届いている視覚的な工夫が、クストリッツァの最大の魅力なのではないでしょうか?
 アンダーグラウンドは、政治的な側面ばかりが強調されてしまったけれど、本当にクストリッツァが描きたかったのは、こっちの「黒猫 白猫」のような煩雑とした映像の中から滲み出す、ユーゴスラヴィアのあるいはヨーロッパとアジアの境のイメージ、漠然とした表象なのではないだろうか、コメディを見ながらも真面目なことを考えさせられてしまう映画でした。
 あるいは、コメディというべきではないのか…、イや、クストリッツァはこれをコメディといいたいと私は思います。 

ジプシーのとき

Dom za vesanje 
1989年,ユーゴスラヴィア,126分
監督:エミール・クストリッツァ
脚本:エミール・クストリッツァ、ゴルダン・ミヒッチ
撮影:ヴィルコ・フィラチ
音楽:ゴラン・ブレイゴヴィク
出演:タボール・ドゥイモビッチ、ボラ・トドロビッチ、ルビカ・アゾビッチ、シノリッカ・トルポコヴァ

 本物のロマ(ジプシー)の生活を彼らの言葉であるロマーニ語で描いた傑作。祖母と放蕩ものの叔父と足の悪い妹との4人で暮らす少年パルハンの成長物語。美しい娘アズラとの恋、妹の病気、ヤクザものアメードなどさまざまな人事が絡み合い、パルハンを悩ませる。
 どのカットどのフレームを切り取っても美しい(というのは必ずしも正確ではない。むしろ、魅惑的とでも言うべきだろうか)映像が目を見張る。エミール・クストリッツァの詩的世界を心ゆくまで堪能できる。

 この映画の最大の魅力はその映像にある。すべてのカットすべてのフレームに詩情があふれ、絶妙の色使いが心に焼きつく。さりげない地面の緑や、建物の赤や黄色、人を映すときのフレームの切り方など、枚挙に暇がない。
 たとえば、冒頭の精神病らしい男、上は頭の上ぎりぎりで、下は腿の辺りで切ってあるが、このバランスがなんとも素晴らしい。男は風景の中に溶け込みながら大きな存在感を持つ。それから、最後のほうで、パルハン(主人公のほう)がタバコを吸う横顔のアップがあったが、これも、そのアップを画面の中央に置くのではなく、左端に配し、顔の4分の1ほどが切れるように映してある。残りの画面には白っぽい後ろの景色が少しピントをぼかして映っている。このバランスが素晴らしい。
 しかし、こんなことをくどくど説明したって、その素晴らしさの百分の一も伝わらないんだろうな。