浅草キッドの 浅草キッド

2002年,日本,111分
監督:篠崎誠
原作:ビートたけし
脚本:ダンカン
撮影:武内克己
音楽:奥田民生
出演:水道橋博士、玉袋筋太郎、石倉三郎、深浦加奈子、井上晴美、内海桂子、寺島進

 芸人を志して浅草にやってきたタケシ。しかし、何をすればいいかもわからず、ふと見かけたフランス座の「コント」というのに興味を引かれる。そして受付のおばさんに進められるままにエレベーターボーイをすることにするが、ほうきとちりとりを渡されて怒って帰ってしまう。しかし、その夜、居候している友人が音楽の夢を捨ててサラリーマンになるということを聞いてそこを飛び出し、フランス座で働くことにした。
 ビートたけしが浅草時代について書いた自伝小説をダンカンが脚色し、篠崎誠が監督したスカイパーフェクトTV用オリジナルドラマ。今や大監督となった北野武の芸人としての原点を映画にするという面白さがそこにはある。芸人が数多く出演していることで、即興的な面白さも加味され、かなり楽しめる作品になっている。

 まだ生きている人の伝記を映画化するというのはそもそも難しい。しかも、その相手がいまや映画監督となっているとなるとなおさらだ。しかし、この映画はその原作に忠実であるよりはドラマとしての面白さを追求することで、その第一の難関を見事に越えた。おそらく脚本の段階で相当に原作が崩されていると思うが、時代設定などを厳密にして、伝記とするのではなく、「ビートたけし」という名を借りながら、ある程度の普遍性を持つキャラクターを再創造しているところがポイントになる。
 この映画に時代設定はなく、物語を考えると70年代くらい、小道具や風景などは現代、フランス座は十数年前まであったから、そのあたりでも問題はない。そもそも主演の浅草キッドも十数年前にフランス座で修行をしていたから、彼らにとっても自分の伝記を演じているような感じもあっただろう。そのように時代をあいまいにすることは、近過去を描く作品が流れがちなノスタルジーという罠から逃れる方法としても成功している(昔ながらの店先を短いカットでつないだシーンはちょっとノスタルジーのにおいがしたが)。
 ノスタルジーから逃れることが重要なのは、そのことによって映画が現代性を獲得できるからだ。ノスタルジーにはまってしまった映画はそのノスタルジーを共有できる人にとっては甘美なものだが、それを共有できない人も多い。それでいいというのならいいのだが、より一般的な価値というか面白さを志向する場合、ノスタルジーはその障害になってしまう。だからこの映画がノスタルジーから逃れようとしたのは正しいし、およそ成功していると思う。

 さて、原作や時代とのかかわりはそんな感じですが、映画として私が気に入ったのはひとつはコメディとしての面白さ。映画全体としてのコメディとしての面白さというよりは局面局面のネタの面白さ。「ちゃんとやってるんだー」ということがわかったつぶやきシローの転んだり、頭をぶつけたりという細かいネタ。石倉三郎と水道橋博士のやり取り、そのあたりが面白い。
 もうひとつはラストちょっと前あたりのすうシーン、タケシと井上の二人が居酒屋で話し始めるとき、最初いっぱいいっぱいの2ショットだったのが、井上の表情にひきつけられるようにズームアップしていくカット、ここもなかなか。一番いいのは、それにつながる、タケシが薄暗がりの浅草を仲見世まで歩いていくシーン。この2カットでできたシーンは表情がほとんど見えない薄暗いところから微妙に光の下限が変わりながら、3分くらい歩くシーンが続き、最後にぱっと仲見世の明かりが見える。このバックにはこの映画で唯一といっていいくらいのBGMが流れる。限られた場所で効果的にBGMを使うのは篠崎誠の特徴のひとつであるけれど、この映画でもここのBGMが非常に効果的。
 このシーンの余韻はその後の数カット続き、まったくせりふがないままドラマだけが進み、何も語らず、何も書き残さず井上は去っていくわけだが、その長い無言の後に吐かれる「出て行きたいやつは出て行けばいい」というセリフ、ここから次のカットへのつながりまでが本当にすばらしい。この10分から15分くらいの4シーン10カット程度のシークエンスを見るだけでもこの映画を見る価値はあると思う。

モンパルナスの灯

Montparnasse 19
1958年,フランス,108分
監督:ジャック・ベッケル
原作:ミシェル・ジョルジュ・ミシェル
脚本:ジャック・ベッケル
撮影:クリスチャン・マトラ
音楽:ポール・ミスラキ
出演:ジェラール・フィリップ、リノ・ヴァンチュラ、アヌーク・エーメ、レア・パドヴァニ

 1917年、パリ、画家のモジリアニはまったく絵が売れず、酒びたりの日々を送る。そんな彼を支えるのは女たちと隣人のズボロフスキーだけ。そんな彼がある日が学生のジャンヌとである。二人は恋に落ち、結婚を約束するが荷物を取りに家に帰ったジャンヌを待っていたのは…
 モジリアニの伝記をジャック・ベッケルが映画化。アヌーク・エーメの美しさ、ジェラール・フィリップのはかなさ。リノ・ヴェンチュラの不敵さ。伝記映画の傑作のひとつ。

 いかにもアル中というていの(悪く言えば型どおりすぎる演技の)ジェラール・フィリップをカメラがすっと捉えると、こちらもすっと映画に入ってしまうのは何故か? ジェラール・フィリップはあまりにはかなく、不運の画家を演じるのにうってつけすぎる。水のように赤ワインを飲み干すその大げさにゆがめた口元の演技の過剰さがむしろ自然に見えるのは何故か。物語はつらつらと進み、われわれはモジリアニを観察する。映像もそのあたりでは遠目のショットで捕らえることが多い。しかし、ジャンヌとで会ったあたりから、カメラは劇的に登場人物たちに近づき、われわれを彼らの視点に引き寄せる。
 そこから、ジャック・ベッケルの演出力とクリスチャン・マトラのカメラは見ている側の観客への感情移入を促すことに専念する。ただひたすら悲惨な境遇のふたり。どうしようもなかった男が愛に誠実に生きるようになる過程。そしてそれを納得させるアヌーク・エーメの美しさ。このメロドラマは周到に結末に向かってわれわれを物語の中に引き込んでいく。そこで登場する不敵な悪役。悪役のわかりやすすぎるキャラクターもすでにメロドラマに引き込まれているわれわれには違和感を与えない。かくして舞台はそろい、役者もそろい、ハッピーエンドに終わってくれという期待を高めながらわれわれはひたすらメロドラマに巻き込まれる。
 ジャック・ベッケルはこのように観客を映画に巻き込んでいく技術に長けている。それはあるときはメロドラマであり、あるときはサスペンスであるけれど、観客をひとつの視点・ひとつの立場に引き込み、結末に向かって突き進ませる力。それがジャック・ベッケルの映画にはある。この映画はそのジャック・ベッケルの演出力がうまく伝記という難しい題材を救った。
 私は伝記映画というのをあまり信用していないのですが、この映画はかなりのモノ。それにしてもこの話がどれくらい実話なのかというのは気になりますね。これがすべて事実だとしたら、モジリアニの人生(の最期)はあまりに劇的で、あまりにメロドラマ過ぎる。しかし、それでも本当だったのだろうと信じさせるものがこの映画にはあります。