アルジェの戦い

La Bataille d’Alger
1966年,イタリア=アルジェリア,122分
監督:ジッロ・ポンテコルヴォ
脚本:フランコ・ソリナス
撮影:マルチェロ・ガッティ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:ブラヒム・ハギアグ、ジャン・マルタン、ヤセフ・サーディ

 少年の頃から犯罪を繰り返してきたアリは街角でもぐりの賭博をして、またつかまった。しかし彼は刑務所でひとりの囚人が処刑されるのを眼にする。釈放後独立運動に加わった彼はその無謀とも言える勇敢さでリーダーとなっていく。
 1950年代後半から1960年代にかけてアルジェリアでは独立運動が展開され、独立戦争と言える規模に発展した。その初期に解放戦線のリーダーのひとりであったアリ・ラ・ポワンテを中心に解放戦線の活動を描いた作品。

 これはもちろん一つの革命映画である。しかし、ある程度完了した革命を記憶するためものとして作られている。プロパガンダとしてではなく、記録として。この映画がそういったものとして評価されるときにおかれる力点は「客観性」ということだろうと思う。解放戦線の側に肩入れしていることは確かだが、必ずしも解放戦線を無条件に賛美しているわけではない。無差別テロの場面を描けば、一般のフランス人を殺す彼らに反感を覚えもする。
 しかし、この映画の革新的なところはアルジェリア人の側(被植民者の側)にその視点を持ってきたということである。それまでは確実に「西洋」のものでありつづけた映画を自分たちのものにしたこと(それがイタリア人の監督の手を借りたものであれ)には大いに意味があるだろう。
 ただ、今見るとその「客観性」がまどろっこしい。アルジェリア人の視点に立つならばアリを徹底的にヒーローとして描くほうが分かりやすかっただろうに。なぜか…、と考えると、観衆としての西洋の人たちが浮かんでくる。この映画はイタリア映画で観衆の中心はヨーロッパの人たちだろう。その人たちに映画を受け入れさせる(ひいては映画の背景にある革命の精神を受け入れさせる)ためには、フランス人を完全な「悪」の側にまわすわけには行かないというところだろうか。視点をはじめからアルジェリア人の側に固定するのではなく、視点のゆらぎを利用しながら徐々にアルジェリア側への同一化作用を狙う。それがこの映画の戦略なのではないかと思う。

ライフ・イズ・ビューティフル

La Vita e Bella 
1998年,イタリア,117分
監督:ロベルト・ベニーニ
脚本:ヴィンセンツォ・セラミ、ロベルト・ベニーニ
撮影:トニーノ・デリ・コリ
音楽:ニコラ・ピオヴァーニ
出演:ロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、ジョルジオ・カンタリーニ、ジョスティーノ・デュラーノ、セルジオ・ブストリック

 お調子者のグイド(ロベルト・ベニーニ)は、ローマへと向かう途中、車が故障して止まった町で美人のお嬢様ドーラに出逢う。そして、ローマで再会、しかし彼女には婚約者がいて…
 と、前半は1930年代のハリウッド映画のようなラブ・コメディが展開されるが、後半は一転、戦争が彼らの上に大きくのしかかってくる。カンヌ・グランプリ、アカデミー・外国語映画賞を受賞した良質のヒューマンドラマ。
 映画としての新しさは特にないが、巨匠トニーノ・デリ・コリの映像はいつまで見ていても飽きない透明感を持っている。子役のジョルジオ・カンタリーニも愛らしい。 

 ロベルト・ベニーニが、塀の中、なんだか見たことがあると思ったら、「ダウン・バイ・ロー」ですね。うーん、しかし比べるのは無理があるかな。
 さて、この映画はなかなか評価が難しいでしょう。前半部分は非常にいい。なんだか昔懐かしい感じで。しかし、あれで一本撮るには弱いでしょう。しかも、映画の眼目は後半にあるわけです。で、後半ですが、ドラマとして取ると、脚本の細部が弱い。収容所の監視があんなにずさんでいいのかとか、疑問が湧いてきます。コメディとしてとるなら、問題はありませんが、そうすると説教臭さが鼻につく。個人的にはそういう評価です。
 とにかく、全体をまとめている澄んだ映像がこの映画を救っています。決して目立つ効果は何もないのだけれど、それはつまり自然だということ。そして終盤はジョルジオ・カンタリーニの笑顔に救われています。
 私はアカデミー賞の審査員とは意見が合わないようです。

甘い生活

La Dolce Vita
1959年,イタリア=フランス,185分
監督:フェデリコ・フェリーニ
脚本:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、トゥリオ・ピネッリ、ブルネッロ・ロンディ
撮影:オテッロ・マルテッリ
音楽:ニーノ・ロータ
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、アニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、バーバラ・スティール、ナディア・グレイ

 雑誌記者マルチェロの見たイタリアの社交界、芸能界のエピソードをモザイク的に描いた3時間の大作。そのプロットはマルチェロと様々な女性との関係によって展開してゆくが、陰の主役とも言えるのはローマの街であり、ローマの姿を描くための作品であるといってもいいかもしれない。
 喧騒と頽廃の街ローマ、その街に田舎からやってきたマルチェロ。ローマ人然として振舞うマルチェロは年の頽廃の香りと田舎の純粋さとを併せ持った人間であり、その間で揺らぐ存在である。その揺らぎを象徴的に示す女性たちの中から彼は誰を選び、誰を捨て、誰に捨てられるのか? 

 マルチェロが主に関わる女性は、婚約者のエンマ、富豪の娘マッダレーナ、ハリウッド女優シルビア、それに加えてレストランの少女である。それぞれが象徴しているものを単純に示すことはできないが、空間的に解けば、エンマ=街、マッダレーナ=社交界、シルビア=芸能界、少女=田舎、あるいは時間的に解けば、エンマ=現状、マッダレーナまたはシルビア=別世界、少女=過去。
 つまり、これらの女性が示しているマルチェロの揺らぎというのは、現状のローマの街人としての生活から抜け出し、社交界あるいは芸能界に入り込見たいという気持ち、しかし現状あるいは過去の純粋さというものを捨てきれないという点にある。しかし、シルビアとマッダレーナには結果的に拒否され、社交界あるいは芸能界に入り込むことは成功しない。それでも、社交界の端っこに何とかとどまったマルチェロが、ローマの浜に打ち上げられた奇妙な魚を見、少女の呼ぶ声を振り切って去ってゆくラストシーンは何を象徴しているのか?

 あるいは、マルチェロの視点にとらわれず、観衆としてこの作品を見るならば、長々としたエピソードで語られるシルビアとのデート?や城でのパーティは貴族的な頽廃と非生産性を象徴しているに過ぎない。意味のない退屈な遊びを繰り返す人々の冗長な生活は魅力的であるよりむしろ不毛な朽ちつつあるもののように映った。そう考えるならば、ラストシーンの奇妙な魚(多分エイダと思う)こそがその社交界というものの暗喩として登場しているのであり、それは奇妙な魅力を放ちはするけれど、(エイだとすれば食べられないのだから)現実的な有用性にはかけ、かつ朽ちつつある滅び行くものであるという意味がこめられているのかもしれない。 

暗殺の森

Il Conformista
1970年,イタリア=フランス=西ドイツ,107分
監督:ベルナルド・ベルトリッチ
原作:アルベルト・モラヴィア
脚本:ベルナルド・ベルトリッチ
撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
音楽:ジョルジュ・ドルリュー
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、ドミニク・サンダ、ステファニア・サンドレッリ、ピエール・クレマンティ

 時はムッソリーニ時代、イタリアの若い哲学教師マルチェロ(ジャン=ルイ・トランティニャン)は自身の心の傷からファシズムに走り、秘密工作員となることを志願する。そして、パリ亡命中の恩師である教授を密偵するためにパリへ向かうことになるのだが……
 政治と愛とが交錯し、官能的に当時の社会の矛盾を抉り出した作品。
 前半部分は時間が交錯し、現在の時間と、回想とが絡み合って進む。「体制順応主義者(原題)」であるマルチェロの心の歪みが美しい映像によって浮き彫りにされてゆくさまが素晴らしい。

 何とはなしに見ていたら、1970年の作品というので驚いた。映像が美しく、フレームの切り方も洗練されている。
 この映画はマルチェロの内的独白だが、実際に、彼の言葉によって説明されることは何もない。ただ彼の行動と、彼の回想とをモンタージュすることによって、彼の心理を観衆に解釈させる。したがって、この映画のすべてのシーンは彼の目を通して見られたものであるべきだし、実際にそうであったと思う。特に、印象的だったのは、暗殺のシーンでのアンナの唸りとも悲鳴ともつかない叫び。マルチェロの座る車の窓をたたきながら、言葉にならない叫びをあげつづける。それは、あのような極限状態の人間は実際には(普通の映画のように)助けを求める言葉を投げかけたりはせず、無意味な叫び声をあげるのだという端的な事実を主張している面もあるかもしれない。しかし他方で、その声は彼女の助けに耳を貸すわけにはいかないマルチェロの精神が彼女の言葉を聞くまいとして作り出した捻じ曲げられた叫びであるかもしれないのだ。彼の歪んだ心から見た世界というものを歪んだままで提示する方法。小説である原作を映像化する際に、そのような手法を選択することに決めたベルトリッチの発想力は素晴らしい。 

父/パードレ・パドローネ

Padre Padrone 
1977年,イタリア,113分
監督:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ
原作:カヴィノ・レッダ
脚本:パオロ・タヴィアーニ、ヴィットリオ・タヴィアーニ
撮影:マリオ・マシーニ
音楽:エジスト・マッキ
出演:オメロ・アントヌッティ、サヴェリオ・マルコーネ、ナンニ・モレッティ

 イタリア南部の島サルディニア、授業中突然父に教室から連れ出された少年カビーノは人里はなれた山小屋にこもって羊解になる修行をさせられる。人との接触もなく育った彼がいかに社会とそして父と関わっていくのか?
 グッドモーニング・バビロンと並んでタヴィアーニ兄弟の代表作とされる作品。サルディニアの荒涼とした風景のえもいわれぬ美しさと父と子という普遍的なテーマを描ききった物語が心を打つ。 

 この物語の最大の主題はもちろん父と息子の関係だけれど、この映画でもうひとつ重要な要素となっているのは「音」だろう。カビーノは音に対する感覚が鋭い。軍楽隊のアコーディオンに魅せられて以来音楽に対して執着をみせているし、映画の中でたびたび背景音として入り込んで来るざわめきはカビーノの捉えた世界の音であるのだろう。厳しい冬の終わりを告げる鳥の声、そして方言と言語学、ひたすら音にこだわってゆく主人公は何から逃れようとしていたのか?単純に父からだろうか?
 物語はそれほど単純ではなく、彼の島から逃げ出したいという気持ちは必ずしも父から逃げだしたいという気持ちとはイコールではなかったような気がする。荒涼な風景の中にも豊かな音の世界があり、厳しく権威的な父の中にもやさしい心がある。最後にカビートの頭をなでようとして止めた父の手に、この物語は収斂されていくのだろう。 
 そのように考えると、父親役のオメロ・アントヌッティの魅力があってはじめて成り立ちえた映画なのかもしれない。

Barに灯りがともる頃

Che ora e 
1989年,イタリア,93分
監督:エットーレ・スコラ
脚本:ビアトリス・ラヴァリオリ、エットーレ・スコラ、シルヴィア・スコラ
撮影:ルチアーノ・トヴォリ
音楽:アルマンド・トロヴァヨーリ
出演:マルチェロ・マストロヤンニ、マッシモ・トロイージ、アンヌ・パリロー

 名優、マルチェロ・マストロヤンニとマッシモ・トロイージの競演。60代の父と30代の息子という微妙な関係を描いた佳作。
 物語は、弁護士の父(マストロヤンニ)が兵役についている息子(トロイージ)のところを尋ねた一日を描く。とにかく、このふたりの名優の演技は素晴らしい。マッシモ・トロイージの鼻、マストロヤンニの目。ありふれた一日があり、二人の男がいる。それ以上は何もなく、物語らしい物語もないが、しかしなんとなくハラハラさせられ、最後にはしみじみとしてしまう。
 とにかく、ふたりが会話しているだけで、映画が成り立ってしまうのもすごいと思わせる映画。