お熱いのがお好き

Some Like it Hot
1959年,アメリカ,121分
監督:ビリー・ワイルダー
脚本:ビリー・ワイルダー、I・A・L・ダイアモンド
撮影:チャールズ・ラング・Jr
音楽:アドルフ・ドイッチ
出演:ジャック・レモン、トニー・カーチス、マリリン・モンロー、ジョージ・ラフト

 禁酒法時代のシカゴ。ギャング同士の抗争は虐殺ともいえる大きな事件になってしまう。それを目撃してしまった二人のバンドマン、ジョーとジェリーはギャングに追われることになり、二人は女だけの楽団にもぐりこむことを思いつく。
 ワイルダー、ジャック・レモン、モンローの豪華な顔ぶれで映画史に名を残すコメディの名作。30年代のフィルム・ノワールをパロディ化し、ワイルダーお得意の展開に持っていった。

 ビリー・ワイルダーの作品ははずれはないけど、傑作!というものも見当たらないという気がする。この作品はワイルダーの作品の中では有名でもあり、面白くもあり、代表作のひとつではあるのだけれど、やはり傑作といえるほどすごい出来ではない。別に傑作を生み出す監督ばかりが名監督ではなく、ワイルダーのように質のよい作品を並べる監督の方が本当の名監督と言えるのかもしれないけれど、名監督といわれるとどんな傑作があるのかと思ってしまうこともまた事実。
 だから、ワイルダーの代表作といわれる作品にも過度の期待をしてしまいがちで、それが逆にいまひとつワイルダーを認めることができないなってしまっているのかもしれない。と自己分析してみました。
 いま見てみると、ネタの大半は予想が尽くというのがコメディ映画としてはどうしても気になってしまう。もちろんマリリン・モンローはものすごい魅力を振り撒いているし、登場するキャラクター達はみんないいキャラ出してるし、細かいネタも面白い。だから、ある意味でコメディ映画の原風景であり、それなりに見る価値もあるとは思いますが、ワイルダーの師匠ルビッチと比べると、やはりルビッチの方が何倍もすごかったのではないかと思ってしまったりもします。ワイルダーの方がすぐれていると思うのは、ルビッチよりもふざけ方が精密なところ。たとえば、フロリダに向かう列車の車輪を繰り返し映しますが、たまにその回転が異常に速かったりする。その辺りのふざけ方は面白いと思いましたが。
 なんだか、誉めてるんだかけなしているんだか分かりませんが、可もなく不可もなく、それがワイルダーに対する私の評価なのです。

貸間あり

1959年,日本,112分
監督:川島雄三
原作:井伏鱒二
脚本:川島雄三、藤本義一
撮影:岡崎宏三
音楽:真鍋理一郎
出演:フランキー堺、淡島千景、乙羽信子、桂小金治、浪花千栄子、小沢昭一

 大阪の高台の上にあるアパート屋敷。蜂を飼う男やエロ写真を売る男など個性的な人たちが住む。そこに住む与田五郎はよろず引き受け屋。そこに陶芸家のユミ子、浪人生のミノルがやってくる。ともにアパート屋敷の空家に住まおうとするが、結局ユミ子が住むことになった。住人が増えても、アパート屋敷は相変わらずドタバタの毎日。
 混沌と軽妙。捉えどころのない川島雄三の作品群の中で、特徴といっていいこれらの要素がストレートに盛り込まれた作品。川島作品の典型、というよりは平均といっていい作品かもしれない。

 すべてが混沌としている。アパートそのもの、アパートの住人達の関係、物語。ただその中で構図だけがしっかりとしている。軽い語り口と混沌の作り出すわけのわからなさが映画を圧倒してしまうけれど、ひとつひとつの画面を切り取っていくと、それは周到に計算された(あるいは天才的な)構図が存在し、それがこの混沌をなんとなくまとまらせている。とくに、アパートの食堂というか、皆が食事をする場所での構図は、人がたくさんいることもあってか気を使っているのが分かる。
 しかし、結局のところ「軽さ」こそが映画の命。プロットのすべての要素は物語を軽く軽くする方向に進んでいく。深刻そうな出来事にもすべて落ちがあり、「げてもの」であることに悩んでいても、果たしてそれが治ったのか、そんなことは問題にしない。「さよならだけが人生だ」といいながら、軽々と世の中を乗り切っていくそんな人たちだけがいる映画。川島雄三自身もそんな軽がるとして人生を送ったのかもしれない。放蕩三昧を尽くし若死にした彼が自己を投影したように見えるこの作品は果たして本当の彼の姿なのか、それとも人に見せようとする自分の姿なのか。それがどちらであるにしろ、敗戦後の混乱から立ち直りつつありながらもいまだ物事を深刻に考えてしまう日本の中にあって、「軽さ」を主張する稀有な存在であったことは確かだろう。この軽妙さがもたらしたのは日本の「モダニズム」であり、新たな日本映画であったのだろう。
 ここには日本映画に稀有なキャラクター川島雄三の「らしさ」があるのです。多分ね。

親不孝通り

1958年,日本,80分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:須崎勝弥
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:川口浩、野添ひとみ、桂木洋子、船越英二、小林勝彦

 飲み屋のおやじがアメリカ人の乗っている車とぶつかったところに行き会った勝也はその外人とボーリングの勝負をしようといい、車でボーリング場に行ってしまう。勝也は就職難に悩む学生だが、親不孝通りと呼ばれる横丁で毎夜遊び、賭けボーリングをしては資金をひねり出していた。
 ドロドロとしたドラマはお手の物。基本的には勝也とその姉のあき江を中心とした愛憎劇だが、なんとなくユーモラスなところもある。

 初期の増村の作品はやはり、こういった愛憎劇よりもアップテンポな喜劇のほうが面白い。増村自身が成熟してゆくに連れ、こうした太いドラマでも増村らしさを十全に発揮することができているのだけれど、この頃の作品はまだ増村らしさは埋没している。撮影所システムの中で一人の職人監督として与えられた脚本に真摯に取り込んでいるという印象がある。だからドラマとしては面白いけれど、増村映画としてはどうかなということになる。それは「不敵な男」でも同じことだが、こちらの方がドラマが軽妙な分、増村らしさは発揮されているような気がする。しかし、総合的に見ると、新藤兼人の秀逸な脚本がある分「不敵な男」の方が上かなという感じ。
 このドラマでひとつ気にかかったのはあまりに偶然に支配されているというところ。怒りを覚えた川口浩が姉を捨てた男の後をつけ、妹を突き止めたまではよかったけれど、そこからの展開がかなり偶然に支配されている。むしろ独力で妹に近寄っていった方がドロドロさが増して行き、ドラマが太くなっていったような気もする。
 そういえば、山小屋に車で向かうシーンがあるんですが、その車には9人もの人が乗っている。しかし、みんなの顔がちゃんと映る。あの狭いスペースに全員の顔が見えるように配置するのはきっと相当大変なはず。そんな何気ない部分の技量の方にちょっと目が行ったりもしました。

不敵な男

1958年,日本,85分
監督:増村保造
脚本:新藤兼人
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、永井智雄、岸田今日子、船越英二

 チンピラの立野三郎は仲間と主に、一人の男を事故に見せかけて殺す。その仕事はうまく行き、親分に褒美をもらった立野だったが、田舎から出てきた秀子を騙して部屋に連れ込み強姦したところを刑事井川に見つかってしまった。
 川口浩と野添ひとみという増村初期のゴールデンコンビで作ったフィルムノワール。新藤兼人の骨太のシナリオの中にありながら、初期増村らしいユーモアが際立つ隠れた名作。

 ドラマ自体はいかにも新藤兼人という骨太なドラマで、しっかりと組み立てられていて隙がない。それはそれで素晴らしいのだけれど、それはある意味では増村の自由さを殺してしまいかねない。それはまだ新人に毛の生えた程度の監督とすでに重鎮となっている脚本家の関係性からは仕方のないことだ。つまり、この映画は作られた時点ではあくまでも売れっ子脚本家とすでにスターとなっていた川口浩と野添ひとみの映画。それを増村保造という監督が撮ったというだけのものだっただろう。しかしいま、増村保造という監督を意識してみるわれわれは、そこに垣間見える「増村らしさ」を探してしまう。川口浩と野添ひとみがななめの関係になる構図、刑務所の場面のスピード感とユーモア、などなど。
 素直に映画を見ると、おそらくそんな細部よりも、ドラマトゥルギーに心奪われ、野添ひとみの不均衡な魅力に魅了されるのだろうけれど、作家主義という一面的な映画の見方に毒されてしまうと、そこがなかなか見えてこない。しかし、作家主義は素直な子供のような見方を隠蔽する一方で、映画を分析的に見ることができるという利点もある。わたしがいつも思うのは、そういったさまざまな見方が同時にできれば一番いいとことである。しかし、それはなかなか難しい。この映画を見ながら野添ひとみのクロースアップに魅了された私は、果たしてその場面の構図がどうなっていたのかなんて覚えていない。他に何がうつっていたのかもわからない。そういったものの配置にも気をつけて、監督の特性をとらえるのが作家主義なのだとしたら、わたしは作家主義的見方でこの映画を捉えるということには失敗していることになる。しかし、子供のように無心に映画を見ていたわけでもない。
 なぜ、こんなことを長々と書くかといえば、この映画を見ながら最も強く感じたことが「もう一回見たらずいぶん違う映画に見えるんだろうな」ということであったからだ。増村の映画は大概そうだが、この映画は特にそう思った。それはおそらく増村保造の存在が多少隠されたものとして存在するからだろう。もう一回見ることで、無心に見ることのできる場面、分析的に見ることのできる場面が変わってくるだろう。
 つまり、わたしは今1回見た時点でこの映画を見たと言い切ることはできない。だからないように関して責任あるレビューを書くことはできない。だから内容とは直接的には関係ないことを長々と書く。本当はどの映画のときもそうで、自分を騙し騙し書いているのだけれど、切実にそういうことを意識させられると、なかなか筆が(キーが?)進まないもので、こういうことになりました。

氾濫

1959年,日本,97分
監督:増村保造
原作:伊東整
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:佐分利信、沢村貞子、若尾文子、川崎敬三、叶順子、左幸子

 画期的な発明をして化学会社の重役になった真田佐平だったが、貧乏の頃から一転、仲間や昔の知り合いから遠まわしに金を無心されることが多くなり、会社の対応も決して親切と言えるものではなかった。そんな生活に徐々に嫌気がさしている佐平だったが、妻や娘はその贅沢な生活を満喫していた。
 当時年間4本ペースで映画を撮りつづけていた増村保造初期の作品の一つ。軽快なコメディ路線とは別のどろどろとした人間ドラマ路線の作品。

 増村作品としてはそれほど卓抜した作品ではありませんが、どろどろとした感情のもつれを描くのが得意な増村らしい作品。特にこの作品はその感情を整理せずにそのままの状態で提示し、一つの方向性に持っていこうとしないという点で非常に面白い。いい/悪いというような二分法を働かせることは全くせずに、ただただ感情の奔流をそれこそ「氾濫」させるのに任せるような描き方。それは本がどうこうとか、プロットがどうこうということよりも、「どこまで見せるのか」という監督の意図がストレートに反映される部分のような気がする。そのような意味でこの感情の表現のコントロールは増村保造自身の得意分野なのであると改めて確認をしたわけです。
 そのようなドラマの部分を抵抗なく描ききるためほとんど全編にわたっていわゆる普通の映像で構成されている。よく言えば自然、悪くいえば平板な映像によってドラマを際立たせようとする意図が感じられます。しかし、その感情たちがいっせいに「氾濫」する最後の5分か10分くらいはラストシーンをはじめとして、はっとさせるシーンにあふれている。それが始まるきっかけは左幸子を前景の真ん中に配し、右に部屋、左に階段を移すシーン。この突然の構図の変化は一気に感情をスクリーンの外へ流しだす。そしてそれから連なるシーンではそれぞれの登場人物の感情が濁流のように流れ出す。そしてその感情の本流の中で登場人物それぞれの人間性を判断しようとしてしまうのだけれど、果たしてその判断がつくことはなく、このレビューもこのまま流れていきます…

グレンとグレンダ

Glen or Glenda
1953年,アメリカ,67分
監督:エドワード・D・ウッド・Jr
脚本:エドワード・D・ウッド・Jr
撮影:ウィリアム・C・トンプソン
音楽:サンドフォード・ディキンソン
出演:ダニエル・デイヴィス(エド・ウッド)、ドロレス・フラー、ライル・タルボット、ベラ・ルゴシ

 意味不明な実験シーンから始まるこの映画の中心となるのはグレンという服装倒錯者の話。女装趣味なだけでちゃんとした婚約者もいるグレンが悩む姿を描いている。
 しかしそこは「史上最低の映画監督」と呼ばれるエド・ウッド。物語の筋と何の関係があるのかわからないベラ・ルゴシをストーリー・テラーに使い、さらに医者に物語を話させるという不可解な3重構造をとる。このわけのわからなさは面白いが、見るに耐えないという人の方が多いと思う。

 さすがにこれはひどい。まず本題に入るまでに15分くらいかかるというのがすごい。それまではほぼ不必要といっていい導入部がだらだらと続く。そして途中にいったい物語にどんな関係があるのかというようなお色気シーンがたっぷり5分ほども挿入される。
 そういうプロットのまどろっこしさがねければ、相当に面白いB級映画になるのだけれど、それにすらなれないところがやはり「史上最低」なのだろうか。
 エド・ウッドといえば安っぽい作りで有名だが、この映画もその例に漏れず、全くお金がかかっていない。刑事と医者が話す場面はみえみえのセットで、2つの角度からしか撮影できないらしい。ベラ・ルゴシがいる部屋の後ろにあるおどろおどろしさを出そうとしているぬいぐるみも変。そして戦争シーンは明らかにどこかの記録フィルムの流用。全く同じシーンを繰り返し使う。そして役者が下手。などなど恐ろしいほどの安っぽさ。
 この安っぽさ自体は好きですけどね。安っぽさを前面に押し出して勢いで乗り切ってくれれば面白いのにね。
 そしてジェンダー的にも、「昔はこうだったのね」と思う意外、とくに考察に値するほどのものもありません。
 そこまで言いながらも、一度見てみる価値はある。と思う…

幕末太陽傳

1957年,日本,110分
監督:川島雄三
脚本:田中啓一、川島雄三、今村昌平
撮影:高村倉太郎
音楽:黛敏郎
出演:フランキー堺、左幸子、南田洋子、石原裕次郎、芦川いづみ

 幕末の品川、南の遊郭街として知られた品川の一軒の女郎屋相模屋に居座る高杉晋作。そこに、どこの馬の骨とも知れない佐平次なる男がやってきて派手に飲み食いし、滞在していた。高杉は仲間の侍とともに異人館の焼き討ちを計画、しかし女郎屋への借金はかさむ一方…
 侍とおかしな町人と女郎達が繰り広げる群像劇。フランキー堺のキャラクターがなんといっても面白い。出演人も後にスターとなる人たちが多数出演の豪華版。川島雄三の代表作の一つ。

 軽妙な川島映画の典型のような時代劇。松竹時代から川島映画に多数出演してきたフランキー堺はここでも抜群のキャラクターを発揮している。全体としてすごく軽い感じで、時代劇らしさも昔の映画という感じも一切ない。
 川島雄三というのは不思議な監督で、映画を見るたびに全く違う感じがして、何が川島雄三らしさなのかということは一向に見えてこない。この映画から感じるのは、何気なくリズムよく進んでいくこの映画にあふれる映像センスというか、計算し尽くされた映像というよりは作るほうもテンポよくセンスで作ってしまったように感じられる映像のすごさ。とおりを横切りながら伸びをする犬とか、飛び込む前はものすごく勢いよく流れていたのに、飛び込んだとたんに凪いでしまう海とかそんな細かい部分の何気ない配慮。小難しく構図がどうとか繋ぎがどうとか言うことを意識させないあたりがやはり監督のセンスなのかと感じさせる。
 ところで、川島雄三といえば有名な遊び人だったということなので、こんな女郎屋ものはお手のものというところでしょう。もしかしたら、実際に通ってた遊郭にヒントになるような人がいたんじゃないかと邪推してしまう。

裸女と拳銃

1957年,日本,88分
監督:鈴木清太郎
原作:鷲尾三郎
脚本:田辺朝巳
撮影:松橋梅夫
音楽:原六朗
出演:水島道太郎、白木マリ、南寿美子、二谷英明、芦田伸介、宍戸錠

 繁華街のキャバレーで、雲隠れした麻薬密売組織のボスらしき人物を見かけた新聞記者とカメラマンの健作。その男は見失ってしまうが、その夜健作はそのキャバレーの踊り子を助け、その踊り子の家にいくことになった。しかし、そこで想像もしていなかった事件がおきる…
 まだ若かりし清順が撮ったサスペンス。ハリウッドのフィルム・ノワールのような雰囲気で展開力のあるドラマという感じ。

 清順にしては素直な映画といっていいのか、主にプロットのほうに趣向が凝らされていて、衝撃的な映像とか、シーンとかがあまりない。しかし、50年代の話としてはかなり現代的な感じがする。
 なんとなく007を連想してしまった理由はよくわからないけれど、なぜか清順の映画の主人公はみなもてる。この映画のさえない顔した水島道太郎でさえもてる。それから小道具がさえてる。この映画はカメラマンということで、いろんなカメラを使ってみる。しかし、あの拳銃型のようなカメラはどうかと。あんなもんつかったら普通は殺されるがな。
 という映画ですが、やはりちょっと映像にこだわってみると、この映画でのポイントはアングルかな。ボーっと見てると、なんとなく過ぎていく映像ですが、なんとなく全体にいいアングルだったという印象がある。清順はクレーンとかをよく使うし、この映画でもクレーンの場面があったっと思いますが、なかったかな… まあ、いいです。 それよりも、この映画のポイントはローアングル。ローアングルといえば、小津安二郎と加藤泰の専売特許のように言われますが、清順のローアングルもなかなかのもの。ローアングルというよりは、至近距離で人を下から撮るという感じ。たとえば座っている人の視線で立っている人を撮るとか、そういうことです。
 そういうアングルで映された人の表情が非常に印象的だったので、こんなことを書いてみましたが、まったくまとまる様子もなく、今日はこのままふらふらと終わります。

グラマ島の誘惑

1959年,日本,106分
監督:川島雄三
原作:飯島匡
脚本:川島雄三
撮影:岡崎宏三
音楽:黛敏郎
出演:森繁久彌、フランキー堺、三橋達也、桂小金治、岸田今日子

 対戦中、グラマ島という無人島に船が着いた。船は2人の宮様を含む3人の軍人を残して沈んでしまった。そしてその島に残ったのはその3人の軍人と報道部隊の2人の女性隊員、5人の慰安婦、1人の戦争未亡人、そして1人の原住民だけとなった。
 日活を離れた川島雄三の後期のコメディ。かなり破天荒な映画の作りで、いい仕上がりのB級映画という趣き。

 破天荒というか突拍子もないというか、プロットとしてもかなりめちゃくちゃな感じで、それぞれのキャラクターが異常に極端なところが可笑しい。映画の作りもかなりめちゃくちゃで、セットさ加減が見え見えだとか、原住民役がどう見ても日本人(というよりどう見ても三橋達也)だとか、そういうことをおいておいても、ちょっと不思議なカットがあって、このあと何か起きるのかな?と思わせておいて何も起こらないなんてことがあったりする。一番端的なのは、額もあごも切れた超々アップの連続で、話し合いが行われるところなんか。
 そういうめちゃくちゃなところが飛び飛びで出てきて笑いを誘い、しかしまとまりはなく、それをすごいと言うかそれともわけがわからないと言うかはわかれるところ。「おっすごい!」と思わせるポイントはいくつかあったものの、全体としては抜けきれなかったかな。という気はします。