晩菊

1954年,日本,102分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:田中澄江、井手敏郎
撮影:玉井正夫
音楽:斎藤一郎
出演:杉村春子、沢村貞子、細川ちか子、望月優子、上原謙

 広い屋敷に聾唖のお手伝いと二人暮しのきんは不動産を売買したりしながら小金を貯めこんでいる。昔の芸者時代の友達にも金を貸し、足しげく取り立てに向かう。そんなきんときんから金を借りている3人のむかしの仲間。40を過ぎ、華々しい生活とは離れてしまった彼女たちの日常を淡々と描く。
 「めし」と同様、成瀬巳喜男が林芙美子の原作を映画化。味のある女優たちを使って渋くて味のあるドラマを作ったという感じ。

 この作品はすごく面白い。それはここに登場する主に4人の女の人たちが非常に魅力的だからだ。主人公の“きん”を演じる杉村春子はもちろんだが、他の沢村貞子、細川ちか子、望月優子も本当に素晴らしい。なかでも、いちばんよかったのは望月優子演じる“とみ”である。
 他の3人がかなり名前がある女優であるのに対し、この望月優子だけはかなり地味である。しかし彼女は劇団のたたき上げであるだけに確かな演技力を持ち、脇役としてはかなり活躍していたし、1953年の木下恵介監督の『日本の悲劇』では見事に主役を演じ、毎日映画コンクールの女優賞も受賞している。ちなみにだが、71年には社会党から参議院選に出馬し当選、女性層の支持が強かった。
 その望月優子がこの作品で見せる演技は本当に素晴らしい。彼女はどっかの寮で掃除婦をしていて、細川ちか子演じる“たまえ”とひとつ家に同居している。最初に登場するのはそのたまえへの借金の催促に行こうとするおきんがたまえがいるかどうかをとみに確かめに来るのだ。とみはおきんからは借金していないが、寮の若い男から借金しているらしく、催促されるのだが、それを色目だかなんだかわからない表情をして「もうちょっと待ってよー」と甘ったるい声でいう。この独特の雰囲気でもうかなり面白い。
 さらにはギャンブル好きの酒好きという設定で、映画の終盤で細川ちか子とふたりで酔っ払うシーンがまた面白い。文字で書いてもちっとも面白くないと思うので、詳しく書く事はやめるが、中年女性さもありなんという感じのふたりの酔っ払い具合と関係がほほえましくも面白い。
 この望月優子と細川ちか子はもう大きい子供がいて、夫はいないという点で共通点があり、ひとつのわかりやすいキャラクターとして成立している。望月優子がもと芸者であったのに対して、細川ちか子のほうはそうではなく、仲居だったようなことを言っていた気がするが、今では別な形ではあるがふたりとも掃除をして生活している。
 この夫なし、子供ありの水商売の女性というのは成瀬映画にたびたび登場してきたキャラクターである。小さな子供を抱えながら生活して行くためにバーで働かなければならない女性、その女性のなれの果てというか、十数年後がこのふたりということになるのだろう。その点でもこのふたりのキャラクターは面白い。子供がいれば幸せだという母性の肯定も実は成瀬が女性を描くときの特徴のひとつだったのだとこの作品を観ながら思う。
 成瀬映画といえば自立しようとする女性が主人公で男や家族がその足かせになる。というものが多く、普通に考えたら子供も足かせになりそうなものだが、成瀬の考え方はそうではない。子供は女性の自立のうちに入っており、子供を抱えながらも独立独歩頑張って行くという女性を成瀬は応援するのだ。

 それに対して、沢村貞子が演じるのぶは成瀬が描く女性の典型から外れている。なんと言っても夫婦仲がよい。夫(沢村宗之助)は情けない男の類型に入りそうだが以外にしっかりしていて、妻の尻にしかれているような体裁をとりながら妻との関係をうまく保っているようだ。つまりふたりは幸せなのだ。沢村貞子があまり登場しないのは、幸せな人を描いてもあまり面白くないからだろう。
 そして、杉村春子である。杉村春子は成瀬が描く重要なモチーフである女と金を集約したようなキャラクターである。しかも最終的に金に頼ることを選択した女、成瀬は女は男に(その男は必ず情けない男なのに)頼ってしまうという女の生き方を書き続けてきたが、ここで男に頼らない女、お金に頼ることで一人で生きて行く女を描いた。それは、彼女が散々男に苦労してきたからであるが、やはりじつは、男に頼りたいというかやっぱり男が好きで、上原謙演じる田部がやってくるのをうきうきと待ったりする。
 そのうきうきとした姿を金を勘定している彼女の姿と対比してみると、杉村春子という女優がいかにすごいかがよくわかる。そのどちらが本当の彼女の幸せか、あるいはどちらも幸せではないのか、どちらも幸せなのか、そのあたりの微妙な心理を見事に演じきっている。そしてその彼女の心理の機微や心境を見事に演出する成瀬も非常にうまい。私は、映画の最後の最後、杉村春子が駅の改札を抜けようとするときに、切符をなくしてあっちこっちを探すシーンがとても好きだ。

<前のレビュー>

 本当にただ元芸者の4人の女たちの日常を描いただけの物語。何か事件が起こりそうな雰囲気はあるのだけれど、結局何も起こらず、淡々と終わる。それでも、あるいはむしろそのことで、4人の女たちのそれぞれの人間性のようなものが見えてくる。しかも、それは単純にキャラクタライズされた紋切り型の人間性ではなく、どこか多面性を持っているもの。もちろん人間誰しも多面的で、一つのキャラクターに押し込むことはできないけれど、映画という限られた時間の空間の中で、その多面性を描くのは難しいと思う。しかも、何かの事件があって、そこから明らかになっていくのではなく、シンプルなまったく日常的な交わりの中でそれを描いていくということの難しさ。そして、その難しさを感じさせないほどさらりと描ききってしまう「いき」さ。そこにやはり成瀬のすごさを感じてしまう。
 しかし、そうはいってもこの映画はあまりに渋い。その渋さを破るのは、きんの家の昼の場面でかならずなっている何かをリズミカルに叩く音(何の音だろう?)と物語の終盤で突然入る杉村春子のモノローグ。このふたつの変化球は映画全体を純文学的にしてしまうことを防いでいる。言葉にならない感情の機微を観客に読み取らせようとするような難解な映画にはせず、渋いけれども肩を張らずに見れる映画にしていると思う。特にあの音は、お手伝いさんが聾唖であることもあって無音になりがちな家の場面にさりげなく音を加える。単純なリズムであることで、音楽のように余分な意味がこめられることもない。あの場面が無音だったら、と仮定してみると、きんはもっと思いつめた、何か心ぐらいことか差し迫った理由があってお金儲けをしているように見えてしまったかもしれない。そう考えると、あの単純なリズムによって主人公のキャラクターが軽くなり、映画も軽くなったということができるような気がする。
 そういうさりげなさが成瀬巳喜男の「いき」さの素なのだと思います。なるほど、もともと女性を描くのがうまい成瀬がお気に入りの女流作家林芙美子の作品を映画化すれば、こうなるよね。という作品。

夜と霧

Nuit et Brouillard
1955年,フランス,32分
監督:アラン・レネ
原作:ジャン・ケイヨール
脚本:ジャン・ケイヨール
撮影:ギスラン・クロケ、サッシャ・ヴィエルニ
音楽:ハンス・アイスラー
出演:ミシェル・ブーケ(ナレーション)

 「ガス室」によって知られるようになったユダヤ人強制収容所の町アウシュビッツ。今は平穏な町となっているその町で戦争中行われていた暴虐の数々。ナチスによって残されたスチル写真と、現在の強制収容所後の姿を重ね合わせながら、その実態を明らかにしていく。
 さまざまなメディアによって取り上げられ語られてきたホロコーストとアウシュビッツだが、1955年の時点でこれだけのことを語り、これだけの恐怖を体験させる映画世界はものすごいとしか言いようがない。

 最初、のどかの田園風景のはじにちらちらと映る鉄条網と監視所。この時点ですでに鋭いものを感じるけれど、このカラーの跡地となった強制収容所の映像が、過去の白黒の映像にはさまれることで変化していくそのさまがすごい。跡地のがらんどうのベットの列、ただの穴でしかないトイレの列。これらのただのがらんどうである空間を見ることで体の中に沸いてくる恐怖感は、過去の映像だけでは実感できないもの。そこにひしめき合っていた人々がリアルに感じられるのはなぜだろう? 腹の底から沸き上がってくるような恐怖感を生み出すものは何なのだろう?
 それは「視線」だろう。記録としてとられた収容所の映像の視点はあくまで傍観者のものでしかない。しかし、レネは跡地を訪れ、それを傍観しているのではなく、強制収容所の生活というものを再体験しようと欲し、映画を見る人にもそれを再体験してもらおうと思っている。そこから生まれる、視線の置き方がすばらしいのだと思う。
 もちろん悲惨な映像もあり、それはそれで衝撃的なのだけれど、ただ悲惨なだけで恐怖感が沸くわけではない。それは一種の見せ方の問題だ。たとえば、髪の毛の山。一枚のスチル写真であるこの髪の毛の山を、普通は静止した一枚の写真として見せるだろう。しかし、この映画ではまずその静止画の下のほうを映し、そこからカメラを上にずらしていく。つまり、実際の山を下から上へと映していく効果を一枚の写真で生み出している。これはカメラによるひとつのドラマ化であるといえる。われわれが理解するのは強制収容所と虐殺という事実であるが、本当に恐怖するのは、われわれが虐待され虐殺されるというドラマなのだ。だから、人に何らかの感情を呼び起こそうとするならば、それがたとえドキュメンタリーであってもドラマ化が必要となるのだ。そういう意味でこの映画は純粋に優れた映画であり、ドキュメンタリーという枠で捉らえたとしても優れたドキュメンタリーであるといえるだろう。
 この映画を見て、あなたは何度身をすくめただろうか?

雨月物語

1953年,日本,97分
監督:溝口健二
原作:上田秋成
脚本:川口松太郎、依田義賢
撮影:宮川一夫
音楽:早坂文雄
出演:京マチ子、水戸光子、田中絹代、森雅之、小沢栄太郎

 戦国時代、近江の国の農村で焼き物を作っていた源十郎は戦に乗じて町で焼き物を売り小金を手にする。女房の喜ぶ顔を見て調子に乗った源十郎は侍になるための金がほしい弟籐兵衛とともに大量の焼き物を作り始めた。そしてついに釜に入れたとき、村に柴田の軍勢が来たため、やむなく山に逃げることになってしまったが…
 『雨月物語』を川口松太郎らが大胆に脚色し、溝口が監督をし、宮川一夫がカメラを持って、日本映画史上に残る名作に仕上げた。外国での評価も高く、ヴェネチア映画祭で銀獅子賞を得た。

 原作が「雨月物語」だけあって、かなりドラマが太い。技術や演出がどうこう言う前に登場人物たちのドラマに引き込まれる。宮木を除く3人の行く末は大体予想がつく。しかし、それでもその悲惨さというか、やるせなさに心打たれる。そしてダネーも言っている宮木の死。(フランスの批評家セルジュ・ダネーが著書「不屈の精神」の中で、この宮木の死について触れ、これを「死んでも死ななくてもいいような死」というような感じで述べていた)
 ダネーとは異なる観点から見ても、この死は非常に重要である。この宮木の死によってドラマはすっかり変わってしまう。この死によってこのドラマは決定的にハッピーエンドの可能性を奪われる。この死以降はどこを切っても不幸しかでてこない。たとえ籐兵衛が出世したとしても、その結末に訪れるであろう絶望を見てしまっているわれわれはそこに希望を見出すことはできない。
 そんな映画上の重要な転換点であるひとつの死をさらりと、ほとんどセリフもない、物語の本筋とは関係なさそうな文脈で語ってしまうところはなるほどすごいと思う。一種のアンチクライマックス。
 そして、もちろん映像もすばらしい。言わずと知れた宮川一夫。一番ぐっと来たのは、籐十郎が初めて若狭の屋敷に行ったとき。日が暮れて、屋敷のそこここに、灯りがともされ、そこを若狭が歩いてくる。カメラはそれを屋敷の上からゆっくりとパンしながら撮り、ゆっくりと視点をおろしてゆき、籐十郎がいる部屋の正面でぴたりととまる。そのとき、フレームの右側からフレームインしてきた松がすっと前景に入るその美しさ。人物は小さく、松は大きい。その画面のバランスがたまらなくいい。

めし

1951年,日本,100分
監督:成瀬巳喜男
原作:林芙美子
脚本:井出俊郎、田中澄江
撮影:玉井正夫
音楽:早坂文雄
出演:上原謙、原節子、島崎雪子、杉村春子、杉葉子、風見章子、大泉滉

 結婚して5年、東京から大阪に越して3年、子供もなく平凡な毎日を繰り返す三千代は日々の単調さに息が詰まっていた。そんなとき東京から夫の姪の里子が家出をしたといって転がり込んできた。そんな居候の存在も今の三千代には夫との関係をさらに寒々とさせるものでしかなかった…
 林芙美子の原作を成瀬が淡々としたタッチで映像化。端々まで注意の行き届いたつくりで倦怠期の夫婦の心理をうまく描いた傑作。川端康成が監修という形でクレジットされているのも注目に値する。

 こういうのが本当にしゃれた映画というのだろう。静かに淡々と夫婦の間の心理の行き来を描くその描き方は芸術的ともいえる。登場する誰もが多くを語らない。言葉少なに、しかし的確に言葉を発する。しかしストレートな物言いではなく、婉曲に言葉を使い、しかしそれがいやらしくない。こういう台詞まわしの機微が味わえるのは古い日本映画ならではという感じがする。それはもちろん古きよき時代への郷愁であり(生きてないけど)、それによって現代の映画のせりふの使い方を貶めるものではないけれど、こういう空間をたまには味わいたいと思う。
 そしてその細かい気遣いはせりふ使いにとどまらない。小さなしぐさの一つ一つが納得させられる感じ。ひとつ非常に印象に残っているのは、終盤で三千代と初之輔が食堂に入り、話をする。話をしていると、画面の後ろで誰かが店に入ってくる。二人はそちらをふっと見遣る。そしてすぐに向き直る。その人はまったく物語とは関係ない人だから、別に振り返らなくてもいいし、そもそも入ってこなくてもいい。しかし、そこで人が入ってきて、そこに目をやる。この映画全体とは本当にまったく関係ないひとつの仕草はとても自然で、彼らの存在にぐっと現実感を与える気がする。
 本筋は語りすぎず、しかし気の利いた遊びも忘れない。こういうのが本当にしゃれたというか粋な映画なんだと思いました。こういう日本映画のよさというものを忘れていはいけないなと思いましたね。ふとセルジュ・ダネー(フランスの人ね)が溝口の『雨月物語』のワンシーンについて書いていたことを思い出しました。それは、「溝口は、その死が起こっても起こらなくてもよいことがわかるような、漠然とした運命として宮木の死をフィルムに収めたからである。」というものでした。ダネーの論点とはちょっとずれている気はしますが、そこに漠然としたひとつのイメージがわいてきます。日本流の「粋」のこころがなんとなくそこにある気がしました。

女ともだち

Ie Amiche
1956年,イタリア,104分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、アルバ・デ・セスペデス
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ
出演:エレオノラ・ロッシ=ドラゴ、イヴォンヌ・フルノー、ヴァレンティナ・コルテーゼ

 1952年、ローマからブティックの支店開設のため生まれ故郷のトリノへとやってきたクレリアはホテルの隣室の客ロゼッタの自殺未遂に出くわす。そこから仲良くなったロゼッタのともだちモミナらと仲良くなった。またクレリアは店の設計技師の助手カルロに心魅かれもしていた。
 複雑な人間関係が交錯するアントニオーニには珍しい通俗劇。監督としては3作目の長編となる。ストレートなドラマとしてみることができるが、その中にアントニオーニらしさも垣間見れる作品。

 一見ほれたはれたの通俗劇で、イタリア版「ビバヒル」みたいな感じだけれど、そこはアントニオーニで、決してハッピーな展開にはならず、痛切な出来事ばかりが起こる。結局のところ人と人との心はつながらないというか、理解しあえることなどはないんだとでも言いたげで、ちょっと気が滅入ったりもしました。 なんといってもロレンツォっていうのが、ひどい男ですね。映画を見ながら、「卑劣極まりないね」などとつぶやいてしまいました。
 でも、まあ話としてはわかりやすく、まとまりもついているし、アントニオーニにしては見やすいといえるかもしれません。それでも物語に含まれるそれぞれの話は徐々に散逸していき、決してひとつにまとまることはないということはあります。それがアントニオーニ。ひとつの物語へと集中する観客の視線を拒否することによって成り立っている映画という気がします。その物語から視線をそらされたところで、気を引かれたひとつの要素は音楽。この間の「欲望」のハービー・ハンコックの音楽もよかったですが、この映画にさりげなく含まれる音楽もかなりいい。それを一番思ったのはモミナのアパートに女たちが集まったときにBGMとしてかかっている曲。さりげなくセンスのいい曲が流れ、しかしそれも頻繁ではないという控えめな感じ。いいですね。
 ジョヴァンニ・フスコはアントニオーニ作品の多くを手がけているので、ほかの映画を見ても音楽のセンスのよさを感じられていいですね。

さすらい

Il Grido
1957年,イタリア,102分
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、エリオ・バルトリーニ、エンニオ・デ・コンチーニ
撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツィオ
音楽:ジョヴァンニ・フスコ
出演:スティーヴ・コクラン、アリダ・ヴァリ、ドリアン・グレイ

 イタリアで暮らすイルマのもとに夫が死んだという知らせが届く。イルマはアルドとアルドとの間の娘ロジナと3人で暮らしていた。夫の死を機にアルドは結婚しようというが、イルマは別の男性に心惹かれており、アルドに別れを告げ、家を出てしまう…
 イタリアの巨匠アントニオーニの初期の名作のひとつ。淡々と進む物語と鋭く洗練された映像はまさにアントニオーニらしい。

 アントニオーニの物語は決してまとまらない。この映画もぶつりと切れて終わる断片が時間軸にそって並んでいるだけで、それが一つの物語として完結しはしない。そしてそれぞれの断片も何かが解決するわけではない。その独特のリズムには、ある種の不安感/いらだちを覚えるものの、同時にある種の心地よさも覚える。この物語に反抗するかのような姿勢が1950年代(つまりヌーヴェルヴァーグ以前)に顕れていたというのは、映画史的にいえばイタリアのネオリアリスモがヌーヴェルヴァーグと並んで重要であるということの証明なのだろうけれど、純粋に映画を見るならばそんな名称などはどうでもよく、ここにもいわゆる現在の映画の起源があったことを喜びとともに発見するのみだ。アントニオーニはやっぱりすごいな。
 さて、この映画でもうひとつ気になったのは「水辺」ということ。アルドが出かける土地はどこも水辺の土地で、必ず水辺の風景が登場する。これが物語に関係したりはもちろんしないのだけれど、それだけ反復されるとそこになんらかの「意味」を読み取ろうとしてしまう。本来はアルドがあてもなくさすらってたどり着いたという共通点しかないはずの土地土地が「水辺」という全く別の要素で結びついていることの意味。それはやはりアルドの心理的な何かと結びついているのだろうか? 分かれる直前にイルマがじっとみつめていた水面に映っていた何かを求めて水辺にたどり着いてしまうのだろうか? 映画はそんな疑問も解決することなくぶつりと終わる。それはまるでその「意味」を語ることを拒否しているように見える。
 反「物語」そして反「意味」。すべてに反抗することこそがアントニオーニの映画だということなのだろうか?

満員電車

1957年,日本,99分
監督:市川崑
脚本:和田夏十、市川崑
撮影:村井博
音楽:宅孝二
出演:川口浩、笠智衆、杉村春子、船越英二、川崎敬三、小野道子

 一流大学の平和大学を卒業し、駱駝ビールに就職が決まった茂呂井は東京でのガールフレンドたちに別れを告げ、新人研修に向かう。そこで十人のうち8人までが縁故採用だと知ったが、あくまで現実的な茂呂井はそれにもめげず赴任先の尼崎で退屈な仕事をしっかりこなす。しかしそんな彼のところにははが発狂したという便りが届いた。
 川口浩主演によるコメディ。前半はあたたかい雰囲気だが後半は一転ドライでシニカルな笑いに包まれる。

 今ならばテレビドラマという感じの軽めのコメディですが、そうは言っても市川崑しっかりと画面を構成しています。特に多いのは画面の真中で正面を向いた顔。単純なアップだけでなく、後景で何かが起こっているときに、画面の前面に顔があるというようなことが多いです。その正面を向いた人々(主に川口浩)の目はうつろ。空っぽの目をしています。
 前半は決してそんなことはなく、朗らかで明るい眼をしているのですが、後半になるとうつろで空っぽの目になってしまう。それはやはりサラリーマン生活は明るさを殺していくというメッセージなのでしょう。それ自体は特段変わったことでもないけれど、それでも着実なサラリーマン生活にこだわる川口浩の姿に皮肉を感じます。
 しかし、最後まであくまでコメディで暗い気分にはさせない。その時代のことがわからない今見てどうなのかというと、どうなんだろう。「今でも共通する部分はあるよ」という安っぽい言葉は吐きたくないので、別の言葉でいいますが、結局のところ、ずっとこういう「生きにくさ」を描いた映画はあったということでしょう。自分の居場所がない感じ。居場所を見つけたと思ったら他の人にすでにとられていたり、居ついてみたら追い出されたりする感じ。そんな感じがふわっと漂ってきます。
 一見すると、世間をシニカルに見ているような感じがしますが、そういう誰もが感じる居場所のなさを描くということは、実はむしろ世の中を正面から見ているかもしれない。川口浩がまっすぐみつめる先にいる我々というのが世間であるのかもしれない。最初明るい目でみつめ、次にはうつろな目でみつめ、最後サラリーマンをあきらめた彼が再びエネルギッシュな目でみつめる正面にある世間とはつまりわれわれのことなのかもしれません。そしてわれわれもこの映画の中にある世間をまっすぐみつめることになる。
 そういうこと。かな?

野火

1959年,日本,105分
監督:市川崑
原作:大岡昇平
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
出演:船越英二、ミッキー・カーチス、滝沢修、稲葉義男

 第二次大戦中のレイテ島。壊滅状態の日本軍の中で、肺病にかかった田村は口減らしのため、病院に入院するように命令される。しかし、立ち上がれないような傷病者であふれかえる病院でも受け入れてもらえない田村は、同じような境遇にある数人の兵士と病院の隣の林で過ごしていた。しかし、そこにもついに、アメリカ軍の攻撃の手が及んだ。
 攻撃と飢餓という要素から極限状態に置かれた兵隊たちの心理を描いた作品。この映画のためにかなりの減量をしたという船越英二の演技が素晴らしい。

 確かにすさまじい映画で、戦争の経験がわりと身近なものではある時代にしか作れなかったものであるような気がする。映画にたずさわる誰もが戦争を経験し、それを表現したい欲望に駆られている。そんな雰囲気が伝わってくるような作品である。
 しかし、今見れば手放しで賞賛できるような内容ではないことも事実。どこまでが事実でどこまでがフィクションなのかという問題ではなく、ひとつの戦争をこのように描くことによって伝わってしまうものは何なのかという問題。この映画は「人食い」というショッキングな題材を扱っているわけだが、その描き方が何となく薄い気がする。人を「人食い」に駆り立てるもの、「人食い」によって人はどう変わってしまうのか、そのあたりがあまり見えてこない。そこが見えてこないとこの映画の主旨も見えてこない。そんな気がしてしまう。途中でひとりの気が狂った将校が登場する。その存在は「人を食う=狂う」という単純な因果関係を想定してはいないだろうか。私が問題にしたいのは「人を食うことでなぜ人間は狂うのか」という部分である。それはあくまで私の興味ではあるが、ただ「人を食う=狂う」という等式を提示するだけでは説得力がないし、インパクト以外の何かを与えることはできないと思う。この映画からたち現れてくるのは結局のところ「人は食うな」というメッセージであり、そんなことは分かっているといいたくなる。私にとって問題は「なぜ人を食ってはいけないのか」ということであり、それを分かりきったこととして片付けてしまうのは納得がいかない。もちろんこの映画は極限状態にある人々を描くことで、「人を食うこと」に対する葛藤を描き、「なぜ」を考える材料にはなる。しかし、その「なぜ」の答えへと至る路のすべてが見ている側に任されていて、この映画自体はその「なぜ」の答えを出そうとしていない。その答えを提示する必要はもちろんないけれど、その「なぜ」を問題化するぐらいはしてもよかったと思う。
 なんだか難しい話になってしまいましたが、こういうとことんシリアスな映画をみる場合には仕方のないこと。船越英二もいつもの女ったらし役とはまったく違う役を、素晴らしく演じている。やっぱりこの人はすごい役者だったのね。セリフは棒読みだけど、そういう味なんだと思う。

麦秋

1951年,日本,124分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:伊藤宣二
出演:原節子、笠智衆、淡島千景、三宅邦子、菅井一郎、東山千栄子

 紀子は両親と兄夫婦とその2人の息子と仲睦まじく暮らし、東京で重役秘書の仕事もしていた。しかしもう28歳、まわりは早く結婚をと考える。学生時代からの親友で同じく未婚のアヤと嫁に行った友達をいじめたりもしているが、本心はどうだかわからない。
 小津らしく家族を中心に、日常生活の1ページを静かに切り取った作品。晩年というほどではないが、かなり後期の作品なので、スタイルも固まり、いわゆる小津らしい作品となっている。

 小津映画の特徴といわれるものがもらさず見られる。ローアングル、固定カメラ、表情を正面から捉えての切り返し、などなど。もちろん映画からこれらの特徴が分析されたのだから、そのような特徴が見られるのは当然なのだが、分析の結果を知って映画を見るわれわれはそのことに目をやってしまいがちだ。
 しかし、そんな分析的な目で映画を見てしまうとつまらない。特に小津の映画は分析的な目で見ると、どれも代わりばえがせず、型にはまっていて退屈なものとなりかねない。しかし、小津が偉大なのはそのようなスタイルを作り出したことであり、そのスタイルは驚嘆に値するものだ。小津のスタイルとはあくまでも、よりよい描写のために作り上げられてきたものであり、まずスタイルありきではない。笠智衆の寂しさを捉えるのに、右斜め後ろからローアングルで撮るのが一番いいと思うからこそローアングルで撮るのであって、ローアングルがまずあるわけではない。
 だから、なるべく分析的な視点から逃れて映画を見る。するとこの映画は他の小津の映画と同じく不自然だ。カメラをまっすぐみつめて、棒読みでポツリとセリフをはく笠智衆はやっぱり不自然だ。ついついにやりとしてしまうような不自然さがあちらこちらにある。その不自然さはしかし空間をギクシャクさせるような不自然さではなくて、逆にほんわかとあたたかくさせる不自然さであると思う。それは映画全体の雰囲気とも関係があるのだが、その不自然な振る舞いや映像によって逆に人間くささのようなものが生まれる気もする。
 この不自然さという部分だけを取って何かを言うことは意味がないのかもしれないけれど、この映画で引っかかったのはその部分でした。もうひとつ「間」の問題も頭をかすめましたが、この小津的な「間」というのはもう少し考えてから書くことにします。
 で、この作品に限って言うと、特徴的なのは「戦争」の影。この作品が作られたのは昭和26年だから、戦争が終わってそれほど経っていない。映画の中でも言われているように、不意に戦争で行方不明になった家族が帰ってきたりもする頃、その戦争の影というものが映画全体に漂っているような気がします。特に、両親の表情にある曇りはその戦争が落としていったひとつの影であるような気がします。リアルタイムでこの映画を見た人たちにもまた、戦争の影というものが落ちていたのだろうとも思いました。

氷壁

1959年,日本,97分
監督:増村保造
原作:井上靖
脚本:新藤兼人
撮影:村井博
音楽:伊福部昭
出演:菅原謙二、山本富士子、野添ひとみ、川崎敬三、山茶花究

 サラリーマンの魚津は休暇といえば山に登る。今度の休みも山に登り、帰りに立ち寄った行きつけの料理屋で登山仲間の小坂が来たと聞き、小坂を追って喫茶店に行く。そこで魚津は小坂と小坂が思いを寄せる八代夫人との関係に巻き込まれた。魚津は小坂に夫人をあきらめさせ、思いを吹っ切るため冬の穂高へ向かった。
 井上靖原作、新藤兼人脚本というかなり骨太のドラマ。初期の増村のシリアスな作品は脚本に恵まれていると思う。

 やはり増村といえども脚本がよくなければどうにもならないのかもしれない。そんなことを思います。新藤兼人が脚本した増村の作品はこの他に「不敵な男」「」「卍」「清作の妻」「刺青」「妻二人」「華岡青洲の妻」「千羽鶴」とあります。こう見るとどれも非常に見応えのあるドラマです。
 この映画でいうと、基本的に山本富士子演じる八代夫人のなんともいえない煮え切らなさが物語の核となるわけですが、ここまで徹底的に煮え切らないというかわがままというか、そういう人を描いてしまうところがすごい。要するにみんなに好かれたいけれど体面も保ちたいという徹底的なわがままなわけで、そんな身勝手なという気がしてしまいますが、そんな人に振り回される人を描くことでドラマは深まってゆくのだからわからないもの。やはり現代とは違う感覚がそこにあるのかもしれません。それとも、むかつく女だと思ってしまうのは私だけ?
 人をいらだたせたり、怒らせたりすることができるのも映画に(あるいは脚本に)力があるということなので、やはりこの作品には力があるのでしょう。うーん、しかし山本富士子は… 俺だったら1も2もなく野添ひとみを選ぶけどな… 今回はトピックがこまごまになっていますが、もう一つ。山茶花究がいい。昨日の「恋にいのちを」でもかなりよかったけれど、今回はさらにいい。増村作品にはよく出てきますが、この作品はかなり主役級で使われています。そして物語の一つの鍵にもなっている。まさに味のある脇役。川島雄三作品にもかなり出ています。