あなたと私の合言葉 さよなら、今日は

1959年,日本,87分
監督:市川崑
原作:九里子亭
脚本:九里子亭、舟橋和郎
撮影:小林節雄
音楽:塚原哲夫
出演:若尾文子、佐分利信、野添ひとみ、京マチ子、川口浩、船越英二、菅原謙二

 自動車会社の技術部に勤めるやり手のビジネスガール和子は大阪に住む大学時代の先輩梅子と結婚なんかしないと決めていた。その梅子が東京にやってきた折、急に和子が相談があると言い出した…
 市川崑が若尾文子や川口浩といった大映のスター達を豪華に使って作り出した群像劇。テンポの速い展開と独特な演出術が見どころです。

 無表情に棒読みという独特な演出が目に付き、こまごまにきられたカットもかなり頻繁に現れる。特に会話の場面での切り返しが異常に速かったりする。そのあたりの効果のほどは計りかねるものの、全体的にはその妙なテンポが面白い。計算はされているけれど、あえてそれをはずしてゆくという感じ。
 役者さんが共通していて、同時期で、同じカメラマンとなるとどうしても増村と比較してしまうけれど、そもそも増村は市川作品の助監督なんかもやっていたので、かなり共通点はあるはず。しかし、増村ファンとしてはこの作品の物語の淡白さがなんとも物足りなく、若尾文子に魅力が足りなく感じてしまう。映像的にはかなり似通っていて、これはやはりカメラマンによるところが多いのでしょう。小林節雄はデビュー作が市川崑監督の名作「穴」というかなりすごいカメラマン。やはりフレーミングというのはある程度カメラマンのセンスによるのだということが小林節雄撮影の作品を見ていると分かります。この人の作品は画面の一部分を殺してしまうことが多い。壁やふすまや扉で画面の半分くらいを使えない空間にしていしまう構図ですね。増村作品に特に目立ちますが、この映画でも2回くらい使われていたはず。
 などなど、たまにはカメラマンに注目して作品を見てみたいものですが、これはなかなか難しい。相当の数の映画を見ていかないと、カメラマンが出す特徴というのは見えてこないような気がします。うーん、なかなか難しい。

くちづけ

1957年,日本,74分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:舟橋和郎
撮影:小原譲治
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、三益愛子、若松健

 拘置所に父親の面会にやってきた欽一は選挙違反で拘留されている父親に「早く出してくれ」と囁かれ、10万円の保釈金を作らなければならなくなった。そんな時、拘置所で同じく父親が拘留されている章子に出会った…
 溝口健二や市川昆の助監督を勤めていた増村保造がはじめて監督をした作品。ヌーベルヴァーグを思わせるスタイルは当時では新鮮だったと思わせる、簡潔な青春ドラマ。

 いま増村的と考えるものとは少し違う。ロングショットが多用されていたりするし、直線的なパースペクティブが重要な場面で利用されていたりする。しかし、これは以後の映画でも所々に見られる手法で、増村の一つの「道具」ではあると思う。この映画では逆にそのような手法が前面に押し出され、「増村的」なものは小道具として利用される。一つの理由はこの映画がスタンダードで撮られていて画面の偏りを利用する構図が利用出来ないことだろう。
 それにしても、ドラマとしてはすごく分かりやすく爽やかな感じ。初期増村の映画はどれもさっぱりとしていて、テンポが速くて、爽快な作品が多いけれど、これもそんな作品でした。スピード感としては「青空娘」や「最高殊勲夫人」には劣るという気がしますが、それはおそらくストーリーがわかりやすいせいでしょう。74分という短さでこれだけのストーリーを展開させてしまうのはやはりかなりのスピード。

 さて、余談ですが、原作者の川口松太郎は川口浩の父親だそうな。共演の野添ひとみは後の川口浩の奥さん。母親役の三益愛子は本当に川口浩のお母さん(要するに松太郎さんの奥さん)というなんだかファミリーな映画なのでした。

美貌に罪あり

1959年,日本,87分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:田中澄江
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:杉村春子、山本富士子、若尾文子、川口浩、野添ひとみ、川崎敬三、勝新太郎

 東京近郊で花の栽培をしている吉野家に東京で踊りをやっている長女菊枝が踊りの師匠を連れてたずねてくるところから映画は始まる。物語は次女敬子、使用人の忠夫と周作、忠夫の妹かおる、などなど山ほどの登場人物が出きて、さまざまな恋愛模様を展開する。
 増村には珍しい群像劇でヒューマンドラマ。あまり増村的ではなく、大映的でもないように見えるのは杉村春子の存在感か。しかし、増村をはじめてみるという人には気軽に見れる一作かもしれない。

 いまから見ると本当に「増村らしからぬ」と見えてしまう。お涙頂戴のヒューマンドラマ、誰が主人公ともわからない群像劇、ゆったりとしたテンポの物語、そしてハッピーエンド。
 しかし、面白くないかといえばそんなことはない。これだけいい役者がそろって、とてもいい話。映像も自然で映画の世界にすっと入り込める。
 しかししかし、増村を見に行った私には物足りない。もっとすごいもの、もっとすさまじいものを期待して来ているのだから。だからあえて言えば、これは増村にとって初期から中期への過渡期の作品なのだと。初期の「超ハイテンポ日常活劇」から、中期の「男を狂わす女の映画」への。そう思わせるところはいくつかある。
 ひとつはこの映画の主人公ともいえる3人の女性のキャラクター、山本富士子・若尾文子・野添ひとみ、だれもが自分の信念は曲げない強さを持ち、最後には男を自分のものにする女性。しかし、男に頼らずに入られない弱さも併せ持つ女性。それは中期の「男を狂わす女たち」へつながら女性像。
 もうひとつは、フレーミング。川口浩と若尾文子が盆踊りを見ているシーン、川口浩がほぼ真中にいて、画面の右端に若尾文子、川口浩は後ろ向きで立ち、若尾文子はこっち向きでしゃがんでいる。そして主にしゃべっているのは若尾文子このしゃべり手が画面の端にいるというフレーミングはこの頃から以後の増村保造に特徴的なフレーミングである。
 そんなこんなで、(大映時代の)初期から中期への過渡期の作品と勝手に位置付けてみました。

闇を横切れ

1959年,日本,103分
監督:増村保造
脚本:菊島隆三、増村保造
撮影:村井博
出演:川口浩、山村聡、叶順子、高松英郎

 市長選挙に打って出た革新党の候補者落合がストリッパーの死体とともに発見された。西部新聞の記者石塚は現場に居合わせた巡査片山が現場から立ち去った怪しい男のことを警察の生田課長に告げる場に居合わせた。しかしその男のことは闇に葬られ落合が犯人と断定された。石塚は不信に思い取材をはじめるのだが…
 増村初の社会派サスペンスドラマ。しかしアップテンポなところは恋愛映画と変わらず、すごいスピードで事件が二転三転していくのが見所。ある意味ではヒーロー映画なので、川口浩ファン(いまどきいないか)は必見です。

 100分を越える作品なので、増村としては長いほう。そしてさらに話の展開が異常に早くて、人はバタバタ死に、敵味方がころころ変わり、話はどんどん進んでいく。のに、よく考えてみると1週間に満たない出来事を栄がいた映画。恐ろしい… フツーの人間はあんなに生き急がないぞ。
 しかし、その辺が増村的なところで、非現実的なほどのスピード感がなんといっても初期の増村の魅力。そして速さのせいか必然的にドライな感じになるけれど、この映画はかなりロマンティックなヒーロー映画。川口浩は正義の味方って感じで、編集局長とともになぜだか新聞に命を懸ける。後々振り返ってみると腑に落ちないことがたくさんあるのですが、見ているときには圧倒されてまったく気づかない。ということはこの映画は成功ね。2時間見ている人をだませれば映画としては素晴らしい。「世の中所詮偶然に支配されているのよ」とでも思って納得しましょう。

暖流

1957年,日本,94分
監督:増村保造
原作:岸田国士
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:根上淳、左幸子、野添ひとみ、船越英二、丸山明弘

 志摩病院の屋上で一人の看護婦が自殺した。その同じ日、志摩病院の院長の娘啓子が怪我の治療で病院を訪れていた。その志摩病院は財政難で、癌で余命わずかの院長は亡き親友の息子日疋を病院の主事に迎え、病院の立て直しを図ることにした。そんな日疋は彼に思いを寄せる看護婦石渡に病院内をスパイさせる。
 たくさんの人が出てきて、いろいろな話が盛り込まれていて、しかし90分で終わるという初期の増村らしい一作。恋愛映画であり、サスペンス映画であり、笑いもあり、ミュージカル映画でもあるかもしれない… 3本目の監督作品。

 この主演の左幸子という女優さん、増村作品ではあまり馴染みがないですが、「女経 第一話 耳を噛みたがる女」「曽根崎心中」にも出演しているらしいです。当時は撮影所の時代で、役者さんもみな映画会社の社員だったので、大映の監督である増村の作品には基本的に大映の役者さん出演するもので、野添ひとみも若尾文子も船越英二も川口浩も大映の役者さんなのです。しかし、この左幸子は当時日活の役者さんだったようで、この作品には客員で出演しているのです。この何年かあとに大映に移籍したようです。だからあまり増村作品には出てこないということです。
 それにしても、この映画みんなやたらと歌を歌い、音楽もかなり多用されている。音楽は火曜サスペンスのようだけれど、全体としてどうもオペレッタ風なのか?と思ってしまう不思議なつくり。その不思議さは全体を通じていえることで、音楽に限らず、船越英二のキャラクターも不思議だし、時折不思議な撮り方をしている。
 面白いと思った撮り方は、最初の啓子が病院から帰るシーンで、階段を下りて出口のところでとどまるときに、妙に上のほうから撮っていて、不思議な映像。もうひとつは、どの場面かは忘れましたが、野添ひとみが部屋で上を見上げると、そこからカメラが撮っていて、かなりアップ、画面の中心、左右のスペースに船越英二とママがいるその大きさの対比がなんだか妙で面白い。そんなところでしょうか。
 増村映画としては並みの作品かな。

東京物語

1953年,日本,136分
監督:小津安二郎
脚本:野田高梧、小津安二郎
撮影:厚田雄春
音楽:斎藤高順
出演:笠置衆、東山千栄子、原節子、杉村春子、香川京子

 尾道、老境に差し掛かった夫婦が旅支度をしている。彼らは息子たちが住む東京へ旅行に出発し、一人家に残る末娘の京子がそれを見送った。果たして東京に到着した老夫婦はまず長男の家に厄介になり、続いて長女の家に厄介になりながら東京で過ごす。
 東京の子供たちを訪ねる旅を通して、親子の関係をじっくりと描いた歴史的名作。今見てもすごく感動的で、時代や地域を越えてたくさんのファンを持つ映画であることもまったくうなずける本当の名作。見てない人はいますぐビデオ屋へ。いや、ビデオじゃもったいないかも…

 最初、尾道の場面、笠智衆の一本調子の台詞回しと、すさまじいほどの切り返しで映される顔のアップに戸惑い、違和感を感じる。それは東京に行っても続き、出てくる人々はみなが無表情で一本調子、そして会話はほとんどを顔のアップの切り返しで捉える。
  しかし、それも見ているうち徐々に徐々に気づかぬうちに、その違和感は薄れ、その無表情な表情のわずかな変化の奥に隠れた感情を読み取れるようになっていく。それはもう本当に映画の中へ入り込んでいくような感覚。あるいは気づくと映画世界につかりきっている自分に気づく感覚。
  もちろん、笠智衆と東山千栄子と原節子の3人の関係を描くところで特にそれが顕著になるのだけれど、それ以外の部分もすべてが間然に計算され尽くしていたんだなぁ… と自分の心にも余韻が残るような素晴らしさ。

 物語は、小津の定番である父娘というよりは、大きな家族関係の物語になっている。「核家族をはじめて描いた映画」といわれることもあるように、東京に住む人たちの間で家族関係や近所との関係が薄れていく様子が見事に描かれている。近所との関係といえば、尾道での冒頭のシーンで、隣のおばさんと思われる人が軒先から顔を出して、世間話をする場面がある。そして、このおばさんは葬式のシーンにも登場し、最後にも映画を締めくくるように登場する。これは単純に尾道の社会というかご近所さんの関係の緊密さを表しているだけなのだが、この関係性こそが物語を牽引していくエッセンスであるのだ。
  と言うのも、このような尾道の人間関係に対して、長男の幸一と長女の志げの近所の人とのつながりは非常に希薄である。交流があるにはあるのだが、その関係は医者や理容師という職業によるものでしかない。社会の観察者としての鋭い視点を持ち続ける小津は、そのような人間関係の変化を敏感に感じ取り映画に刻み付けた。家族の核家族化とともに、近所のつながりも希薄化し、その多くは商売を通すものになってしまった。
  これとは少し違う形で描かれているのが紀子の住むアパートである。このアパートでは近所との関係が濃い。このアパートは同潤会・平沼町アパートに設定されているらしい。つまり、紀子と近所の関係の濃さはこの同潤会アパートの特色によっているということであり、これもまた時代性を感じさせる味であるといえるのかもしれない。

 とにもかくにも、そのように家族や近所との関係が希薄化していく時代にあって、小津は家族を描くことで何を語ろうとしたのか。小津はその変化をどう思っていたのか。
  それが鋭く現れるのは、映画も終盤になり、原節子がいよいよ東京に帰ろうというときに香川京子にはくセリフである。香川京子演じる次女の京子は、とっとと東京に帰ってしまった兄たちに不満を言い、「親子ってそんなものじゃない」と言う。これにたいして原節子は「年をとるにつれて自分の生活ってものが大事になるのよ」と言う。そして続けて「そうはなりたくないけど、きっと私だってそうなるのよ」と言うのだ。これは、家族を中心とした関係性の希薄化に対する諦念なのではないだろうか。核家族化し、家族の生活が分離していけば、それぞれはそれぞれの生活が大事になり、お互いの関係は薄くなってしまう。それは仕方のないことだと考えているのではないか。
  笠智衆に「東京は人が多すぎる」とも言わせているし、小津にしてみれば拡大していく東京が人間関係を希薄化させるものであることは憂うべき事実であったのだろう。小津は下町生まれの江戸っ子だから、古きよき東京の温かみを知っていたはずで、それが東京からは失われ、田舎に求めるしかないことを寂しがっていたのではないだろうか。
  物語からはそのような社会の観察者としての小津の一面が見えてくる。一貫して「家族」をひとつのテーマとしてきた小津としては、まったく正直でストレートな主題であると思う。

 そのように物語を分析してみるのも面白いが、この映画の面白みは、物語だけにあるのではなく、むしろ細部にこそ本当の味わいがある。それを最初に感じたのは杉村春子演じる志げが夫の中村伸郎に対して「やだよ、豆ばっかり食べて」というセリフである。このセリフは物語とはまったく関係がないが、その場にすごくぴたりと来るし、志げの性格を見事に示す一言になっているのだ。しかもなんだか面白い。このセリフに限らず、志げはたびたび面白いことを言う。キャラクターとしてはあまりいい人の役ではなく、少し強欲ババアという感じもするが、完全な悪役では決してなく、この生きるのもつらいような時代を生き抜いた人には当たり前の生活態度だったのではないかとも思わせる。戦争が終わって10年足らず、その段階ですでに使用人を使って理髪店を経営しているということは、戦争の傷跡が残る中、懸命に働いてきたのではないかと推測される。何もない焼け跡にバラックを建て、細々と再開した理髪店を懸命に大きくして、いっちょまえの店にした。そんな苦労がしのばれるのだ。しかし、その苦労が彼女を変えてしまった。
  両親が映画の後半で「あの子も昔はもう少しやさしかったのに」と言うその言葉からは彼女のそんな10年間が見て取れる。そしてそれは彼女が本来的に強欲ババアのようであったのではなく、時代がそうさせてしまったということを示しているのである。
  そのような志げの性格を小津は映画の序盤のたった一言のセリフで表現してしまう。そのような鋭く暖かい視線がこの映画の細部にはあふれているのだ。

 そのセリフにとどまらず、杉村春子の役柄には様々な含みと面白みがこめられていて、私はこの映画で一番味のあるのは杉村春子なのではないかと思った。笠智衆、東山千栄子、原節子の3人がもちろん物語の主役であり、この映画のエッセンスを伝える人たちであり、映画の中心であるわけだが、彼らを活かすのは杉村春子のキャラクターであり、見ていて面白いのも杉村春子と中村伸郎の夫婦である。主役の3人はいうなれば前時代に生きている。原節子は現代的でもあるのだが、過去に引きずられていることもまた確かだ。しかし、杉村春子夫婦はすごくモダンだ。スピードからして3人とは違い、60年代のモダニズムで描かれるような都市的な人々の先駆けであるように映る。しかし、彼女には温かみもある。最初の話に戻るが、香川京子が東京に帰る原節子に対して「親子ってそんなもんじゃない」というシーンで、彼女は死んですぐ形見分けを求める杉村春子を槍玉に挙げるが、原節子はそれを「悪気があって言った訳じゃない」と言う。それはまさにそうで、杉村春子の生活に流れる時間と、香川京子の生活に流れる時間が違うことで、そのような誤解というか、行き違いが生まれるのだ。杉村春子も彼女なりに母親痛いする愛情を示したはずで、行き違いがその捉え方の部分にあったというだけの話であるはずだ。原節子はその二つの時間の両方を理解していて、二人の行き違いに気づいている。
  このシーンは、尾道に暮らす3人の代表としての香川京子と、大都市に暮らす3人の代表としての杉村春子の衝突/齟齬を原節子がうまくとりなしているシーンなのである。それは田舎と都会という2つの社会の対比であり、なくなり行く社会とこれからやってくる社会との対比である。
  そして、都会/未来の象徴である杉村春子を面白いと感じるのは、彼女がそのように都市的で現代的であるからなのではないだろうか。つまり彼女は現代から見て一番理解しやすい存在であるということだ。映画としては原節子が全体の関係性の中心に来るように設定されているのだが、現代から見るならば杉村春子を中心とすると見やすいのかもしれないし、自然とそのように視点が行く。
  小津が未来を見通してそんな作り方をしたとは思わないが、社会の変化をあるスパンで捉え、それを親-子関係や、都市-地方関係といった様々な形に置き換えて表現したこの映画は、変化してしまった先にある社会から眺めると、また違う相貌を呈し、違った形で面白いものとして見えてくるのだと思う。
  だからこそ、作られて50年がたった今でもわくわくするくらいに面白く、何度見ても涙なしに見終えることができない。名作とは、繰り返し見ることで、それを見る自分の立ち居地の違いを感じ取ることができ、それによって新たな発見をすることができるものなのだという感慨を新たにした。それは映画でも小説でも変わらない「名作」なるものの真実なのではないかと思う。

最高殊勲夫人

1959年,日本,95分
監督:増村保造
原作:源氏鶏太
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:若尾文子、川口浩、船越英二、丹阿弥谷津子、宮口清二

 結婚式の披露宴、新郎新婦は三原家の次男二郎と野々宮家の次女梨子。兄一郎と姉桃子も結婚しているため、みなは三男三郎と三女杏子も予想していた。そしてその通り事を運ぼうとたくらむ長女の桃子。桃子は三原商事社長の一郎をすっかり押さえ込み、自分の思うように事を運んでいた。
 増村らしいハイテンポの恋愛ドラマ。比較的初期(8作目)の作品だけあって、後期のどろどろとした感じよりも、爽やかなコメディタッチの作品に仕上がっている。

 若尾文子主演はこれが二作目で前作は「青空娘」。実はこの「最高主君夫人」と「青空娘」は原作者も同じ源氏鶏太ということで、かなり似た感じの作品になっている。しかし、この作品は川口浩、船越英二といった増村作品おなじみの顔ぶれがずらりと顔を並べ、増村的世界がより完成されている。しかし、ハイテンポは相変わらずで、セリフも早いし、セリフの継ぎ目はないし、プロポーズしてから結果を告げるまでもあっという間だし、振られてあきらめるのも早いというわけ。とにかく展開の早さにはついていくのが大変。一番おかしかったのは、杏子に野内がプロポーズしたと知って、桃子が「転勤させてしまいなさいよ」というところ。そりゃねーよ、いくらなんでも、話が手っ取り早すぎりゃぁ、と口調も江戸っ子になっちまうくらい。
 そんな感じですので、こちらも展開を早く。とにかく気になったことをずらずら羅列。
 杏子と三郎の二人が映っているシーンの構図が素敵。二度目に二人でバーで会った場面、三郎の背中・杏子の横顔・バーテンの立ち姿が微妙な配置で美しい。ロカビリーのところ、少しはなれてカウンターに座っている二人の位置取りが美しい。一郎の家で、一郎と桃子をはさんで、画面の両端に三郎と杏子がいるシーン、むしろ端にいる二人が中心なんじゃないかと思わせる素晴らしさ。
 なんといっても面白いのはわけのわからぬうちに進んでしまう展開だけれど、たとえば、杏子が岩崎と宇野をくっつけてしまうところなんかは、なんのこっちゃといううちに、すっかり話がまとまってビール6本飲まされて、結婚がまとまって、みんなめでたそうな顔をしている。いいのかそんなテキトーで?と思うけれど、そのテキトーさがむしろ正しくて、自然なものなのかもしれないと思えてくる。内面の葛藤がー、とか、三角関係のギクシャクとか、そんなことは笑い飛ばせよ、そんなことしてる暇はねーよといわれている気がして、なんとなくスカッとしました。別に内面の葛藤があるわけではないですけどね。

巨人と玩具

1958年,日本,96分
監督:増村保造
原作:開高健
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、高松英郎、小野道子、伊藤雄之助

 ワールド・キャラメルの宣伝部に勤める新入社員の西は課長の合田に誘われて会社の喫茶室でお茶を飲んでいた。そこで見かけた娘に合田課長は目をつけ、会社のマスコットキャラクターにしようと考えた。そのためにその娘・京子の住所を聞き出し、西をその世話役につけた。
 スターダムにのし上がるどこにでもいる少女、企業の非人間的な活動、などなどあまりにたくさんの要素が盛り込まれ、それがものすごいスピードで展開されてゆく。モダニスト増村の真骨頂といわれるこの作品は気持ち悪くなるほど、盛りだくさんでめまぐるしい。

 すさまじいスピード。阿部和重はこの映画を「日本映画史上最速の映画」と呼んだ。最速かどうかはわからないが、とにかく速い。何が速いって、セリフも速いが、セリフに間がない。動きも速いがシーンからシーンへの展開の飛び方が速い。あれよあれよと言う間に京子はスターになってしまい、あれよあれよと言う間に西はアポロの女と付き合ってしまい、あれよあれよと言う間にみんながみんな人間が変わってしまう。これが本当のジェットコースタームービー。わたしは、なんだか乗り物酔いのように気持ち悪くなってしまいました。うーん、おなかいっ ぱい。  
  この間3本見たときにはしつこいほど感じられた「狂気」と言うものはそれほど感じられなかったし、「女に振り回される男」という感じもなかった。「狂気」と言うと、誰かがと言うよりは社会全体が「狂気」に陥っていると主張しているようにも思える。最初、カメラのほうに向かってくる人の波で始まり、さいご、カメラから去っていく人の波で終わるということが、後ろを振り返ることのない社会の歪みを象徴しているのかもしれない。主人公の西はその歪みを認識していて、それを拒否しようとするのだけれど、彼がそれを拒否し切れなかったのはかなり意味深い。血を吐きながらも働こうとする合田に代わって夜中に宇宙服を着て町を歩く西は何を拒否し何を受け入れたのか? どうして彼は笑うことができたのか?  
  この映画は初期の作品なので、増村らしいとされる「なまめかしさ」はない。それは『青空娘』にも共通している特徴だ。そして映画がまじめだ。別に後期(というか中期)の作品が不真面目だというわけではないが、初期の作品はメッセージがストレートだ。この作品は特にそう。社会に対する増村の目というものがかなりしっかりとあらわれていて興味深かった。  これは野添ひとみと若尾文子の差でもあるのかもしれない。初期増村は野添ひとみを好んで使い、特に川口浩との共演が多かった。しかし『最高殊勲夫人』以降は若尾文子を好んで使った。野添ひとみは自由奔放で楽しいイメージ、若尾文子はなまめかしく男を狂わせるイメージだ。個人的には若尾文子のほうが好きですけどね。
 なんとも取り留めなくなってしまいましたが、初期の増村映画について少し考えてみました。

蝿男の恐怖

The Fly
1958年,アメリカ,94分
監督:カート・ニューマン
原作:ジョルジュ・ランジュラン
脚本:ジェーズム・クラヴェル
撮影:カート・ストラス
音楽:ポール・ソーテル
出演:アル・ヘディソン、パトリシア・オーウェンズ、ヴィンセント・プライス、ハーバート・マーシャル

 ある夜、フランシスのもとに弟アンドレの妻エレーヌから「アンドレを殺した」という電話がかかってくる。その直後、工場の夜警からも「プレス機のところで人が死んでいる」という電話が。警察とともに駆けつけてみると、それは紛れもなく弟の死体だった。エレーヌは「アンドレを殺した」というばかりで動機を話そうとしない。その裏にはアンドレの行っていた実験の秘密が隠されていた…
 ジョルジュ・ランジュランの原作を映画化したSFホラーの古典的名作。このあと続編が2本作られたほか、クローネンバーグによって「ザ・フライ」としてリメイクもされた作品。

 とりあえず、発想が素晴らしい。それは原作のおかげであり、だからこそリメイクまでされたのだろうけれど、なんと言っても、事件の顛末をまず先に語ってしまうという私が勝手に「コロンボスタイル」と呼んでいるやり方がホラー映画らしくなくていい。ホラー映画というのは普通、恐怖のもとがなんだかわからず、「なんだ?なんだ?」っていうので怖さをあおるものなのに、この映画はまったく違う。そしていわゆるホラー映画的な怖さはない。むしろ一つ一つの謎が解かれていくというミステリーのような感覚がある。
 ハエ男のメイクとか、機械装置なんかはもちろん今見ればお粗末な代物だけれど、こういったSF映画というのはその当時の最先端を用いたもの(多分)であるので、その時代の発想を知ることができて面白い。この時代のSFを見ていつも思うのは、前にも書いたかもしれないけれど、「デジタル」という発想の欠如。タイマーなんかも全部アナログで時計の針みたいのをジジジとまわしてセットする。これを私は勝手に「サンダーバード時代のSF」と呼んでいるのだけれど、意外と面白いSF作品が多いのです。
 あとは、アンドレの家にかかっていたモジリアーニの絵がなんとなく印象的でした。

死刑台のエレベーター

Ascenseur puur l’Echaaud
1957年,フランス,92分
監督:ルイ・マル
原作:ノエル・カレフ
脚本:ロジェ・ニミエ、ルイ・マル
撮影:アンリ・ドカエ
音楽:マイルス・デイヴィス
出演:モーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー、ジョルジュ・ブージュリー、リノ・ヴァンチュラ、ジャン=クロード・ブリアリ、シャルル・デネ

 石油会社に勤める元将校のジュリアンは会社の社長を自殺に見せかけて殺し、女と逃げる計画を立てていた。無事殺しは成功し、会社を出たが、殺人に使ったロープを忘れてきたことに気づき会社に戻る。しかし、エレベーターに乗ったとたん守衛がビルの電源を落とし、ジュリアンはエレベータの中に閉じ込められてしまった。
 ヌーヴェル・ヴァーグの担い手の一人ルイ・マルの実質的な監督デビュー作。おかしなところも多いが、映画的魅力にあふれたサスペンス映画になっている。

 細かいところを言っていけば本当におかしなところが多い。夜中町を歩いてずぶ濡れになったはずのフロランスが次のシーンでバーに入るとすっかり乾いて、髪の毛もセットしなおされているとか、なぜみんながみんなキーを着けたまま車を置きっぱなしにするのかとか。
 それはさておいて、映画としてはかなりいい。特にすきなのは、フロランスが途方にくれて町を歩くシーン、最初真横からフロランスを捉えて、後ろに映る街の人がなぜかみんなフロランスのほうをじっと見る、その後、正面から捕らえて、道路を渡るフロランスの前後を車がきれいに通過していく。非現実的なのだけれど、非常に美しくて魅力的なシーンだ。もうひとつは取調室のシーン。妙に暗くて、ジュリアンの周りだけが白く浮き上がっているその空間の感じが非常にいい。部屋の壁とか、扉とか天井とかそんなものは一切映っていない、舞台上のセットのような空間がたまらなく美しい。
 あとはやはりマイルス・デイヴィスの音楽。フロランスが町を歩くシーンではマイルスのトランペットが鳴り響くが、それはまさに今でいえばミュージック・ビデオのような詩的映像になっている。
 プロットのオーソッドックスさや、細部の稚拙さを差し引いても映画として十分に魅力的な映画。あるひ突然もう一度見てみたくなる作品。