狐の呉れた赤ん坊

1945年,日本,85分
監督:丸根賛太郎
原作:谷口善太郎、丸根賛太郎
脚本:丸根賛太郎
撮影:石本秀雄
音楽:西梧郎
出演:阪東妻三郎、橘公子、羅門光三郎、寺島貢

 大井川で川越人足をする張子の寅こと寅八は今日も飲み屋で馬方人側の丑五郎と喧嘩を始める。そこに寅八の子分六助が青白い顔で入ってきた。何でも狐に化かされたらしい。それを聞いた寅八は狐を退治してやろうと六助の言った場所へと向かう。しかし、そこにいたのは赤ん坊。狐が化けているに違いないと待つ寅八たちだったが、赤ん坊はいつまでたっても狐にならない…
 阪妻の戦後初主演作は人情喜劇。阪妻はシリアスな立ち回りもかっこいいが、顔の動きがコミカルなので喜劇もいける。
 1971年には勝新主演、三隅研次監督でリメイクされている。

 いわゆるヒューマンコメディを時代劇で撮ったという感じ。
 戦後すぐということで、環境が恵まれたものではなかったろうと感じさせるのは舞台装置の少なさ、画面に登場する場所が非常に少ない。なので、話は小さくなりがちだが、渡しという設定は多くの旅人が登場しうるということを意味し、話にダイナミズムを与えることができる。このようなある種の制限をアイデアで乗り越えようという姿勢はとても好感が持てる。
 そしてもちろん、あらゆる制限を補って余りある阪妻の存在。武士もやれば、浪人もやれば、将軍もやれば、人足もやる。変幻自在が阪妻らしさか。この阪妻は『無法松の一生』の佇まいを髣髴とさせる。話もなんだか似たような感じではあるし。
 そんなこんなでさりげなく面白い映画になっている。このさりげなさというのはとてもすごいと思う。作られてから50年以上がたち、制作環境も恵まれず、にもかかわらず、今見てもさりげない映画に見えてしまう。50年後100年後に見てもすごい映画というのもすごいけれど、50年後100年後に見てもさりげなく面白い映画というのはもっとすごいんじゃないだろうか? すごさというのは語り継がれるけれど、さりげなさというのはなかなか語り継がれない。にもかかわらず、ふらりと見て、くすりと笑い、ほろりと感動して、「ああ面白かった」と映画館を出る。
 それにしても阪妻の顔のよく動くこと。眉をしかめ、目をむき、唇を突き出す。このような演技までして喜劇を演じられるのは、一度はスタートして君臨しながら零落し、再起を遂げた阪妻ならではなのか。阪妻が今でもすごい役者として語り継がれるのは、単なるスターにとどまらず、さまざまな表情を持っているからだと思いました。

まらそん侍

1956年,日本,90分
監督:森一生
原作:伊場春部
脚本:八木隆一郎
撮影:本多省三
音楽:鈴木静一
出演:勝新太郎、夏目俊二、大泉滉、嵯峨三智子、トニー谷

 安中藩はでは年に一度「遠足(とおあし)」という今で言うまらそん大会が開かれる。その大会の各部門で優勝したものには藩の宝である純金の煙管で煙草を賜ることができた。ある年の優勝者に名を連ねた和馬と一之輔は親友でライバル。藩校に入学した2人は、東京から帰ってきた筆頭家老の娘千鶴に恋をする。
 スター勝新太郎がまだ若いころ主演したコメディ映画。脇にはトニー谷らコメディアンが並び、わかりやすい娯楽作品にしている。

 なんですかねえ、勝新がこんな映画に出ているのはなかなか見れない。結局のところこれは時代劇でもなんでもなく、普通のコメディ映画にちょんまげをかぶせただけでしょう。トニー谷がそろばんはじいているのは愛嬌にしても、トニー谷も大泉滉も動きが面白い。特にマラソンシーンの大泉滉のふざけ方はどうなんだろう? あんなへろへろ走って一位になれるはずがない。とは思いますが、その辺の厳密さをまったく求めていないところがまたいいとところ。かなりいい加減な映画です。いい加減なところを上げていくと本当にキリがなくなるのでやめますが、たとえば五貫目(約20キロ)あるキセルをひょいと持ち上げるお嬢さんなんかいやしない。
 まあまあ、コメディとしては面白いです。トニー谷と盗賊の姉御が掛け合いで唄を歌うところなんかは当時のコメディならではの味がある笑いだと思います。今では絶対に作れない。謡曲風で今見ると違和感はありますが、それはそれで結構面白いもの。トニー谷というひとはかなり芸達者だったのだと思ったりもします。
 コメディというのはやはり昔から軽く見られていたのでしょう。たくさん作られていたはずなのに、今見られるものは非常に少ない。フィルムは結構残っていますが、ビデオなんかになって簡単に借りられるものはあまりないと思います。そんな中この作品は勝新が主演だというせいではありますが、ちゃんとビデオになっている希少な作品です。
 昭和30年代の日本映画黄金時代を見るならば、見ておいて損はない作品かと思います。これだけ低予算な映画というのもなかなか見られません。それは勝新がまだ若かったころだから。立ち回りもなんだか勢いがなく、肝心の純金の煙管も白黒で見ても明らかにしょぼい。こう安いと衣装なんかも他の映画の使いまわしなんじゃないかと考えてしまいます。まあ、それはそれでいいのです。

真田風雲録

1963年,日本,90分
監督:加藤泰
原作:福田善之
脚本:福田善之、小野竜之助、神波史男
撮影:古谷伸
音楽:林光
出演:中村錦之助、渡辺美佐子、ジェリー藤尾、ミッキー・カーチス

 関が原の戦いのとき、みなし子たちの一団が死んだ侍の持ち物を盗んで歩く。そこで出会った一人の若いお侍、そして忍術を使う謎の少年佐助。そして10数年後、そのみなし子たちと佐助は再会し世に名高い真田十勇士となるのだった。
 時代劇とやくざもので名高い加藤泰監督のかなり強烈な作品。物語の設定もかなり独特ならば、映画の作りも相当独特。かなり笑えます。

 何がすごいといって、このでたらめさ加減がものすごい。映画というのは現実に似せることによって進歩してきた。というまことしやかに聞こえる誤謬を思い切り暴き、映画とは決して現実に近づきはしないということを朗々と謳い上げる。といってしまっては仰々しすぎるけれど、この映画のでたらめさはまさにそういうこと。 一番すきなのは、大阪城で兵たちがドンちゃん騒ぎするシーンでのスポットライト。確かに時代劇でもスポットライトは使われているし、現代的な照明が焚かれているのだけれど、フレームにうつるのはたいまつや焚き火だけ。しかし、この映画はしっかりとスポットライトそのものがうつり、それはしっかりとスポットライトとしての役割を果たす。
 映画の誤謬を暴くといっても難しいことではなく、そんなでたらめなことであるということ。しかし、決してすべてがでたらめというわけではないのが加藤泰。画面の構成の仕方などをみていると、そこはしっかりと考えて作りこんでいる。ひとつ気になったのは真田のところにはじめて集まった場面で、佐助が画面の手前に横たわり、奥に他の仲間がいるというシーンがあったが、このシーンはかなりローアングルというか、異常にローアングルで、視点は地中にあるとしか思えない。
 ほかにも、無数にすごいところがあります。それはもうあげきれない。しかし最後に1つ。誰もが気になる字幕について。主要人物が出てくると下に名前が表示されるというのは「シベ超」でもやっていた手ですが、なんか日曜洋画劇場のようで気に入らない。しかし、それは別にすればこの映画の字幕は本当に面白い。セリフで言えばいいところをわざわざ字幕にしたりする。この感性は何なのだろう?

丹下左膳余話 百万両の壺

小さな笑いが重なって大きな幸せを生む、幸福な伝説の名作。

1935年,日本,91分
監督:山中貞雄
原作:林不忘
脚本:三村伸太郎
撮影:安本淳
音楽:西梧郎
出演:大河内伝次郎、喜代三、沢村国太郎

 柳生藩の殿様は、自分の家の壺に百万両のありかが塗りこめられていること知る。しかし、見た目二束三文のその壺は弟が江戸へ婿養子に行くときにくれてやってしまっていた。藩主は使いをやってその壺を取り戻そうとするが、そうそううまくはいかない。
 時代劇でありながら、コメディ映画。しかもハリウッドのスラップスティックコメディを思わせるような軽快なテンポに驚かされる。

 70年近く前の映画なのにこれだけ笑えるというのはすごい。原作は丹下左膳なわけだけれど、どこか落語的な味わいを感じさせるシナリオでもある。そしてまた、コメディとして完成されているというのがこの映画のすごいところだ。しっかりとした構図、画面の内外で動き回る役者の動き、それは本当にうまい。

 そしてさらにすごいと思ったのは映画全体の躍動感、一つ一つのネタにはそれほど意外性があるわけではない。しかしそれを映画という手段によって笑いにもっていく。具体的にいえば、オチの前倒しというか、ネタを転がす部分を省くところ。一例をあげると、安坊が竹馬を欲しい欲しいと言って駄々をこねる場面で、女将さんは「駄目」といっているのに、カットが変わっていきなり安坊が竹馬に乗っている。言葉で説明すればただそれだけのことなのだけれど、このようにして観る者を「えっ」と一瞬驚かせるそんな瞬間が輝いているのだ。

 だから、ずーっとこの作品を見ているとどんどん楽しい気分になってくる。笑える作品を見たというよりは幸せになれる作品を見た、そんな感想がピタリと来る。やはり名作は名作といわれるだけのことはあるのだと改めて実感させられた。

 この作品が作られた1935年というと、チャップリンが『モダン・タイムス』を発表する前年、アメリカではマルクス兄弟やアステア&ロジャースが活躍していた。日本では戦争の匂いが漂い決して世の中は明るくなかった。この作品はそんな世の中を少しは元気付けたのかもしれない。

 そんな人々を明るくする作品を作り上げた山中貞雄は小津をも凌ぐ天才と言われながらわずかな作品を残して(完全な形で残っているのはわずか3本)戦争の犠牲となってしまった。この不朽の名作を見れば映画のすばらしさを感じることができるが、同時に戦争の悲しさ、虚しさをも感じてしまう。

 映画というのはただ見て楽しむことができればそれでいいのだが、私にとって山中貞雄の作品だけはどうしてもそうは行かない映画だ。面白ければ面白いほど哀しみが付きまとう、そんな作品なのだ。

好色一代男

1961年,日本,92分
監督:増村保造
原作:井原西鶴
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒、船越英二、水谷良重

 京都の豪商のボンボン世之助は女が何よりも好き。女を喜ばせるためなら財産も命も捨てるそんな男だった。そんな男だからもちろん倹約、倹約で財産を築いてきた父親とはそりが合わなかった…
 市川雷蔵が念願だった世之助の役をやるために当時まだ若手だった増村保造と白坂依志夫のコンビに依頼、増村としては初の時代劇、初の京都撮影所作品となった。時代劇でも変わらぬスピード感が増村らしい快作。

 この作品はかなり速い。時代劇でしかも人情劇なんだから、もっとゆっくりとやってもよさそうなものだが、増村は情緒の部分をばっさりと切り捨ててひたすらスピード感にあふれる時代劇を撮って見せた。
 そのスピード感はストーリー展開にあるのだが、なんといっても一人の女性にかける時間がとにかく短い。それでいて主人公の冷淡さを感じさせることもない。そんな主人公に否応なく惹かれてしまうのは、世之助が自分をストレートに表現するいかにも増村的な人物だからだろう。日本の社会の封建的な部分が強調される江戸という時代にこれだけ自分の感情を直接的に表す人物を描くことはすごく異様なことであるはずだ。そのように理性では考えるのだけれど、そこからは推し量れない人間的な魅力というものをさらっと描き出してしまう増村はやはりすごい。
 そして、この映画のもう一つすごいところは中村玉緒演じるお町が棺桶の中でにやりと笑うシーンに集約されている。そしてそれがすらりと過ぎ去ってしまうところに端的に現れる。このシーンが何を意味するのかを考える時間は観客には与えられない。そんなことはなかったかのように次のシーンへと飛んでいく(なんと、地図をはさんだ次のシーンは新潟から熊本までと距離的にも離れている)ので、われわれはすっかりそのことを忘れてしまう。しかし、見終わってふと考えると、「あれはいったいなんだったんだ?」と思う。いろいろと答えらしきものは思いつくけれど、それが何であるかが重要なのではなくて、見終わった後までも楽しみを継続させてくれるところがにくい。
 あるいは、世之助に心底入り込んでしまった我々は若尾文子演じる夕霧の美しさに息を呑む。心のそこから彼女を喜ばせたいと思う。その若尾文子の出番は本当に短く、ほんの一瞬にすら感じられるのだけれど、その余韻はいつまでも続く。
 こんなに終わって欲しくないと思った映画は久しぶりに見た。面白い映画というのは結構あるけれど、それは見終わって「ああ、面白かった」と満足して思う。しかしこの映画は面白くて、見ている間も「終わるな、終わるな」と心で叫び、終わった後は「終わっちゃった」と残念な気持ちを残す。「この映画が永遠に続いてくれたら幸せなのに」と。