静かなる決闘

1949年,日本,95分
監督:黒澤明
原作:菊田一夫
脚本:黒澤明、谷口千吉
撮影:相坂操一
音楽:伊福部昭
出演:三船敏郎、志村喬、三條美紀、千石規子、植村謙二郎、中北千枝子

 第二次大戦に軍医として従軍した医師の藤崎は手術中にメスで手を切ってしまうが、そのまま手術を続ける。そして後日、その患者が梅毒であったことを知り、検査をしてみると自分も梅毒に感染していることが判明した。復員した藤崎はそのことをともに病院でも働く父にも隠し、婚約者である美紗緒にも隠し、美紗緒を遠ざけようと死ながら、こっそりと治療薬であるサルバルサンの注射を打ち続けていた…
 当時東宝では労働争議がおき、撮影ができなくなっていたため、黒澤は大映で初めて作品を撮った。しかし起用した役者は東宝時代と変わらず、黒澤ワールドは健在。

 映画はいきなり豪雨で始まり、大映配給ではあっても「俺は黒澤だ」と主張しているかのようだ。黒澤が豪雨を多用するのは「よっぽどたくさん降らせないと雨が映らないから」だそうだが、黒澤の豪雨の力にはどうも圧倒される。私は昔から豪雨のシーンというのはなんだか圧迫されるような感じがしていやで、それは黒澤映画でも変わらず、豪雨のシーンが出てくると何だがイヤーな気分になる。この映画の場合はその嫌な気分というのは映画の狙いとマッチしているようでいいけれど、皆が感動する『七人の侍』の豪雨の中の合戦のシーンもなんだか嫌な気分になってしまい、なかなか「すごい」とは思えなかった。『羅生門』になると、門の下の人たちの閉じ込められたような気持ちを共有できていい。
 黒澤も別に豪雨が好きというわけではなく、本当は嫌だからこそ映画に多用したのだという気がする。豪雨で始まる映画などは基本的に鬱屈とした気分を表していることが多いし、『七人の侍』などは映画の勢い(あるいは撮影現場の勢い)が豪雨への嫌悪を打ち払ってしまったのだろうという気がする。
 この映画の場合、豪雨(2度出てくる)は鬱屈した気持ちの表れで、基本的に暗く静かな映画にさらに暗さを加える効果をあげている。映画全体のプロットの面白さを支える要因ともなっている。

 この映画のプロットの面白さというのはその複雑さにある。一つ一つはよくある話のようでありながら、それが組み合わさり、一人の人物に修練していくことでひとつの優れた物語が織りあがる。
 梅毒をうつされた男とうつした男。戦争で離れ離れになった恋人。自殺未遂をするところまで絶望した若い女。父と子。
 この映画では志村喬と三船敏郎の親子よりむしろ三船敏郎と千石規子が師弟の関係にある。この作品の前作は『酔いどれ天使』、次作は『野良犬』で、そこで志村喬と三船敏郎の師弟関係を描いているから、ここでは少し違う形の師弟関係を描こうと考えたのかもしれない。私はこの千石規子は非常にいいと思う。このキャラクターがいないと、ただの戦後の暗い物語になってしまうところを、ひとつの希望ある物語にする。千石規子はそのキャラクターにぴたりとはまる。実質的に黒澤明に見出されたといえる千石規子は『酔いどれ天使』でもなかなかいい味を出していた。黒澤映画にはこんな名脇役(準主役)がたくさんいる。

続姿三四郎

1945年,日本,83分
監督:黒澤明
原作:富田常雄
脚本:黒澤明
撮影:伊藤武夫
音楽:鈴木静一
出演:藤田進、月形龍之介、轟夕起子、大河内伝次郎、宮口精二

 前作『姿三四郎』で檜垣源之助を倒し、旅に出た三四郎が2年後に帰ってくる。その途中横浜で、アメリカ兵に殴られている人力車夫を助けてアメリカ兵を海に投げ飛ばし、招かれた大使館でスパーラー(ボクサー)と戦う柔術家に出会うが、三四郎は見るに見かねてその大使館をあとにしてしまう…
 続編を作ることを嫌う黒澤が、会社の要求でしぶしぶ作った『姿三四郎』の続編。何かの都合でカットされたのか、フィルムが損傷してしまったのかわからないが、黒澤らしからぬ不自然なつなぎの部分もあり、現存するプリントでは前作にはとても及ばない出来。

 さまざまな不満がありますが、それはもしかしたらプリントが悪いせいかもしれない。三四郎と檜垣鉄心の決闘の場面などは何をやっているのかよくわからない暗い画面が暗く、そのほかのシーンでもノイズが走っていたり、おそらく数コマ飛んでいるだろうと思わざるを得ないようなつながりになっていたりする。
 ということもあってなかなか評価するのは難しいのですが、これだけの映画だとすると他の作品より格段下がってしまうことは確かでしょう。最初のスパーラー(っていったのねボクサーのことを)の試合でダウンしたスパーラーと観客と三四郎をモンタージュで見せるところなどはなかなか緊迫感があって、そのあたりの映像の作り方などはさすがと思わせるところもあり、座禅を組んでいたら和尚が寝てしまったなんていうユーモラスな場面もある種の黒澤らしさではあると思う。
 それから、戦争直後(なんと1945年製作!)の日本国民のアメリカに対する心情を代弁しているともいえ、またアメリカなんていうのは日本の武士道精神からは外れた鬼畜なんだということを暗に言おうとしているということもわかる。そんなメッセージが読み取れるせいか、全体的になんだかエイゼンシュタインの映画に似ているような印象も受ける。
 そして、GHQの検閲でカットされたのかなどという邪推をしながら見たのですが、ざっと調べたところそのような情報はありません。

 しかし、本当はもっと長いんだと思ってみていたので、かってに物語を足してみたりしていました。具体的には、途中で出てきた左文字なんたらというのが、姿三四郎の弟子のようになって、そこで新たな「師匠-弟子」の関係が成立し、それによって三四郎が覚醒していくというようなことがあるのかな、と思ってみていたら、左文字はあっさりプロットからフェードアウト。
 小夜さんが今度はもっと絡んでくるのかと思ったら、突然最後の別れの場面に言ってしまい、その場面もなんだか切れ切れ。
 ということで、文句はたくさんありますが、それでも決してつまらなくならないところが黒澤のすごいところなのか。という気もしました。

姿三四郎

1943年,日本,97分
監督:黒澤明
原作:富田常雄
脚本:黒澤明
撮影:三村明
音楽:鈴木静一
出演:藤田進、大河内伝次郎、月形龍之介、志村喬、轟夕起子

 柔術を志していた三四郎は入門に行った師匠の闇討ちについていく。そこで何人もの達人をばったばったと投げる矢野正五郎にほれ込み、柔道の道に進むことにした。厳しい修行でみるみる強くなった三四郎は警視庁主催の他流試合に出場することになるが…
 脚本家としていくつかの作品の脚本を書いていた黒澤の監督デビュー作。戦時中に作られた作品だが、当時の少年たちは姿三四郎の姿に熱狂し、空前のヒットとなったらしい。
しかし公開翌年の再上映に際して、検閲によって15分ほどカットされ、戦争後もカットされた部分のフィルムは発見できず、現存するのは15分短いバージョンに解説をつけたものだけとなっている。

 若き黒澤監督は力強い作品を作った。しかし当時の日本を覆っていた雰囲気には逆らわなかったのか、はなから逆らう気がなかったのか、この映画からは日本のすばらしさとか強さというものが伝わってくる。徒手空拳でも外国に負けはしないというようなメッセージがこめられていると見ることもできる。もちろんこれはまったく批判ということではなく、時代性ということの感慨というだけです。
 さて、映画全体しては非常にわかりやすく、単純明快という感じですが、この映画から黒澤作品全体を通してテーマとなっていると考えられるのは、師匠と弟子の関係。それは必ずしも師匠と弟子でなくてもいいけれど、先輩と後輩とか、父親と息子とか、そういう形で繰り返し黒澤作品に登場するテーマである。それがこの作品の正五郎と三四郎の間にも見られる。素質はあるが精神的なものが足りない弟子を師匠がうまくコントロールして成長させるという物語。ほとんど同じといえるのは『赤ひげ』で、あとは『野良犬』などもその変形。この物語形態というのは単純に面白い。成長物語というのは人に勇気も与えるし、ユーモアを織り交ぜることもできるし、一種のヒーローものとして語ることもできるわけで、料理しやすい素材だったのかもしれない。
 あと、増幅された環境音が多く使われているのが印象的。黒澤映画といえばなんとなく音楽をうまく使っているという印象だが、この映画では音楽はあまりなく、環境音が強調されている。虫の声、風の音、などなどこれはある意味では極端な環境(豪雨、強風など)を好む黒澤のスタイルの萌芽であったのかもしれない。以後の作品では音で強風を表現するというのはあまり見た覚えがない。
 なんとなく、新しいものをつくろうとはしているけれど、戦争中という問題もあり、それほど大胆には切り込めないという口惜しさと、それでも従来のスタイルを利用して力強いものを作りうる力量との両方が伝わってくる感じ。
 村井と向き合ったときに、三四郎がひざのほころびを気にするところなどはいかにも黒澤らしいという気がした。
 なんだか、スポ根ものの原点という感じもし、当時の少年が熱狂したというのもよくわかる。

羅生門

1950年,日本,88分
監督:黒澤明
原作:芥川龍之介
脚本:黒澤明、橋本忍
撮影:宮川一夫
音楽:早坂文雄
出演:三船敏郎、京マチ子、志村喬、千秋実、森雅之

 崩れかけた羅生門でボーっと雨宿りをする坊さんと百姓の男、そこにもう一人の男がやってきて、「さっぱりわかんねぇ」とばかり言っている百姓から話を聞く。その百姓の話は都に程近い山中で一人の侍の以外を見つけ、3日後にそのことで検非違使庁から呼び出しを受けたことに始まる…
 芥川龍之介の『藪の中』の映画化。大映製作ということもあり、黒澤作品には珍しく女性が重要な役割を果たす。三船敏郎も京マチ子もこの作品で世界的に知られるようになった。

 原作が芥川龍之介ということもあって、力強い余韻が残る。話としては事件の当事者である人たちの話が食い違うというだけの単純な話ではあるのだけれど、すべてが終わったあとでも何か背筋がぞっとするような感じが残る。
 私にはこの作品は黒澤明が自分らしさを殺してとった作品のように見える。そもそも黒澤作品でこの作品のように女性がクローズアップされることはあまりない。主役級といえるのは『わが青春に悔なし』の原節子くらいで、あとは『蜘蛛巣城』の山田五十鈴、『椿三十郎』の入江たか子がいい味を出しているというくらい。
 これは根本的に黒澤の映画が「男」の映画であるということである。男と男の対決や友情が常に物語の軸になっているということで、そこにあるのは至極単純なドラマトゥルギーであって、精神的なもの、つまり人間の心の葛藤とかそういうものをドラマの柱にすえることはあまりない。
 この映画もそういう意味では決して人間の心を主題にしているわけではないく、基本的には男の話なのだが、何かが違う。それは京マチ子が語るエピソードよりも志村喬が語るエピソードの異常さだ。そこには男と男の物語は存在せず、男と女の物語があるだけなのだ。それは黒澤らしからぬことだ。
 そしてこの終わり方。三十郎の捨て台詞「あばよっ」が象徴的に示すように黒澤の映画は大体の場合ばっさりと気持ちよく終わるものだ。しかし、この映画の余韻はすごい。これはいくら黒澤でも芥川龍之介の原作を自分のものとしきれなかったということなのか、東宝争議の影響で菊島隆三や小国英雄を欠いていたためなのかはわからないが、他の黒澤作品らしさがシナリオの段階から感じられないようだ。
 しかし、これはこれでひとつの完成形というか、作品として成立しているところが黒澤のすごさなのだろう。
 もうひとつ、この映画ではカットとカットの切れ目がすべてシンプルにつないである。黒澤は常日頃カットとカットの間が重要だといっており、普段はワイプ(次のカットが前のカットにかぶさる)やフェイド(画面が徐々に暗くなったり徐々に明るくなったりする)やオーバーラップ(二つのカットが重なり合う)を多用するだけに、この作品の単純なつなぎの繰り返しはとても気になる。それがどのような効果を生んでいるのかを分析するのはなかなか難しいが、とりあえず、現在と過去、現実と空想、現世と霊界などの位相とされるものを区別していないということはあるだろう。それを別物と考えるのではなく、すべてをひとつのつながりと考えているからこそ、カットの切れ目で断絶を表すことなくすんなりとつないだということ。そういうことだとは思います。巫女の登場もそのことを示しているし。このあたりがヨーロッパで受けた理由なのかもしれないとも思いました。

 それにしても、この作品の京マチ子はとてもいい。京マチ子この作品は数あれど、今まで見た中では一番いいと思う。三船敏郎と京マチ子は相性がよかったと誰かが書いていた気がするが、二人の競演作はこの作品と翌年にとられた木村圭吾監督の『馬喰一代』しかない。それを見て、その誰かの発言の真偽を問うてみたいが、もしそれが本当なのだとしたら、もっと共演作をとってほしかったところだが、それは仕方のないこと。
 なんだか話があっちゃこっちゃに行ってしまいましたが、京マチ子の話。京マチ子はこのとき26歳、それまでの出演作で目立つものは宇野重吉と共演した木村圭吾監督の『痴人の愛』(1949)くらいなので、この作品が事実上の出世作ということになります。この作品以降日本人離れしたグラマラスな肉体美を武器に大映の看板女優になったわけですから、ここでも黒澤の力はすごいものだと感じさせられます。

赤ひげ

1965年,日本,185分
監督:黒澤明
原作:山本周五郎
脚本:井出雅人、小国英雄、菊島隆三、黒澤明
撮影:中井朝一、斎藤孝雄
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎、加山雄三、山崎努、団令子、江原達怡

 顔を出すだけのつもりで小石川療養所にやってきた長崎帰りの若い医師・保本登は自分がそこで見習いとしてはたらくことになっているのを知る。しかし貧困にあえぐ庶民ばかりを見るその療養所にだまされて入れられたことに反発した保本は赤ひげと呼ばれる療養所の医師に反抗し、何もしようとしなかった。しかし、そのとき療養所の離れに閉じ込められている狂女が脱走する事件がおき…
 エリートであることを鼻にかける若い医師と世間的には報われないながら地道に人のためになる医療活動をしている医師の出会い、衝突、和解を描いた物語。よくある話ではあるが、見せるところは見せる。それが黒澤。

 この映画は「休憩」というクレジットが出る休憩時間をはさんで前半と後半に分けられる。物語としても前半と後半に明確に分かれるといえるだろう。そしてどちらを評価するかは見る人によって分かれるようだ。いわゆる黒澤的という感じがするのは前半で、リアリズム的な描き方でさまざまな庶民の人生を写し取っていく。その主役となる山崎努と藤原釜足はなかなかいい物を作っていて、「死」というテーマをうまく、リアルに展開している。そこでは脇役となる加山雄三も稚拙さは否定できないもののなかなかいい。
 しかし、黒澤の真意はおそらく後半にあるとおもうし、私は後半のほうが好きだ。とくに少女おとよは後半の主役として非常にいい役割を果たす。この映画で一番よかった、というかうなったのは、看病のため保本がおとよを自室に連れ帰ったシーンのライティングだ。画面右手前にいる保本はろうそくの明かりで照らされ、灯りの中にいるように見えるが、画面左奥にいるおとよは黒いシルエットとして示され、眼だけがスポットで明るく光る。それは野獣のようであり、シンプルにわかりやすくおとよのキャラクターを表現する。どう照明をあてているのかはわからないが、ほの明るい中に真っ黒い人影として提示されるおとよの姿は非常に印象的だった。

 その後半にこめられた黒澤のテーマはおそらく「生」だ。黒澤はもともとセンチメンタルな映画作家だと思うが、この作品ではそのセンチメンタルさが前面に押し出されている。人間が生きるために必要なものは愛だとでもいいたげな赤ひげの好々爺ぶりはそれまでの三船の激しさとは異なっているように見える。しかも、この作品を境に黒澤と決別してしまったということもある。しかし、私はこの作品以前も三船が主人公として演じるキャラクターは赤ひげ的なものだったと思う。ただ、虚勢によってそれが覆い隠されていただけで、年を経るとともにその虚勢がはがれてきたということだ。しかし、その虚勢こそが三船のキャラクターの面白みであり、菊千代や三十郎が魅力的に見えた秘密なのだ。
 だから私にはこの赤ひげというキャラクターは(保本が惚れ込むほどには)魅力的に見えないし、だからこそドンと主役をはらせることはせず、加山雄三と主役二本立てという感じにしたのだろう。あるいは主役である加山雄三を支える準主役という役まわりにしたのだろう。

 このことは、この映画の後半が前半より魅力的であることの理由にもなっている。つまり、前半では主役たる加山雄三=保本が映画に深くかかわってこない。準主役である人たちが主役を映画に引き込もうと懸命になっているさまを描いているだけなのだ。後半になり、加山雄三が本格的に物語にかかわってくることでこの映画ははじめて映画になりうる。だから前半部は長すぎるプロローグと、一本の映画としてのプロットとはあまり関係のないサブプロットの集積に終始してしまっていると考えざるを得ない。
 でもやはり、後半部を盛り上げるためには前半部は必要で、私はこれはこれでよかったのだと思います。あまり表面に出てくることのない黒澤の甘ったるさが前面に出ているという点でも面白いし(黒澤自身が虚勢を張っているのかもしれない)、現代性のある時代劇という点でも黒澤らしさが出ているといえる。

生きものの記録

1955年,日本,113分
監督:黒澤明
脚本:橋本忍、小国英雄、黒澤明
撮影:中井朝一
音楽:早坂文雄
出演:三船敏郎、志村喬、千秋実、三好栄子、東野英治郎

 家庭裁判所の参与員をやっている歯科医の原田のもとに裁判所から電話がかかってくる。今回の懸案は原水爆と放射能に対する恐怖から、全財産を売り払って家族全員でブラジルに移住しようとする工場主の中島老人を、家族が準禁治産者に認定してもらおうと家族が訴えたというものであった。精神錯乱でもない老人の対処に裁判所は頭を痛め、さらに老人には何人もの妾とその間に作った子供もいて…
 三船敏郎が老人役で怪演を披露する社会派ドラマ。一本の映画で扱うにはテーマが大きすぎた感があり、興行的にも成功しなかったが、これも黒澤のひとつのチャレンジであり、思想的な面が伺える作品ではある。

 この映画の評判が今ひとつ芳しくないのは、プロットが今ひとつだからだろう。時代としては第五福竜丸事件なんかがあって、原水爆に対する意識が盛り上がっていたころで、このようなテーマが取り上げられることは必然的でもあるし、それだけ面白いものになる可能性もあった。しかし、この映画はその原水爆を正面から描いたものではなく、人間の「狂気」という問題を原水爆という最も切迫した問題を使って描こうとしたものだ。
 しかも、その狂気の捉え方が今ひとつはっきりしない。狂気と正気の境のあいまいさとかいうことではなく、人間が狂気へと落ち込んでいく過程を淡々と描いていく。それは題名が暗示するとおり一種の「記録」であり、ドラマではない。
 この作品を境に再び時代劇に回帰する黒澤にとって、この作品は失敗した実験だったのだろうか。それを考えるためにはこの映画の題名にある「生きもの」という言葉に注目する必要があるだろう。この生きものとはもちろん中島老人を含めた人間たちを示すのだが、志村喬が『死の灰』という本を読んで吐く「鳥や獣がこの本を読んだら、日本から逃げ出すね」というセリフは人間の生きものとしての危うさを示す、少々鼻白いくらいの暗示になっている。
 おそらく黒澤はこの人間と野生動物の対比から人間の利己性やその利己性が招いてしまう自滅的な結果について考えようとしている。それにたいして中島老人は自分たちの家族を守ることを一途に思い、その家族に仕事や財産を奪われそうになっても彼らを守ろうとするある種のヒーローになる。そして、このキャラクターは黒澤が追い求めたムイシュキン(ドストエフスキーの『白痴』の主人公)の一変形であるとも考えられる。1951年に黒澤はドストエフスキーの『白痴』を映画化しているが、それ以後もこのムイシュキン的キャラクターを描こうと腐心している姿が見える(典型的な例はもちろん『どですかん』だろう)。
 つまりこの映画はやはり失敗した実験だったといわざるを得ない。

 しかしそれでも、三船敏郎はすごい。タイトルクレジットの配役のトップに出てくる三船の姿が見えない。観客は映画を見はじめてしばらくはそのようにして三船を捜すことになる。そして、「あれが、三船だ」とあるとき気づく。その驚きは隠せない。そして三船はすばらしい演技を見せる。ほかの多くの映画と同様に、三船に拮抗できているのはただ志村喬だけだ。
 だから、千秋実がどんなにがんばってもこの映画は三船敏郎の独壇場となり、プロットが今ひとつなことでさらに三船の映画となってしまう。まあ、しかしこの映画はおそらくそれでよくて、三船ってすごいなと思えばよろしい。
 黒澤明とは人それぞれ好きな作品・嫌いな作品が分かれるもので、「これは失敗作だ」という意見も分かれる。だから本当は黒澤作品の評価というのは無意味で、人それぞれの意見があればそれでいいはずだ。なぜそのように評価が分かれるのかというのも少し追求してみたいテーマだが、とりあえずそういう意味でこの映画は私にフィットしなかったということ。原水爆を扱った映画ならほかにもっといい映画がいくらでもあるし、黒澤のドラマとしてももっといいものがいくらでもある。ただそれだけの理由で私はこの作品が今ひとつ気に入らない。

酔いどれ天使

1948年,日本,98分
監督:黒澤明
脚本:植草圭之助、黒澤明
撮影:伊藤武夫
音楽:早坂文雄
出演:志村喬、三船敏郎、小暮美千代、中北千枝子、山本礼三郎、千石規子

 闇市近くの薄汚れた建物に医局を構える眞田医師、そこにしゃれた風体の男がやってくる。男は手を打たれており、手から弾丸をとりだすが、咳が気になった眞田医師は結核の診察もして、その男に「肺に穴が開いている」と告げると、男はいきり立って医師に殴りかかってきた…
 無類の酒好きで毒ばかり吐く医師とぎらぎらした眼でその土地の顔にのし上がった若いやくざ。黒澤明がほぼ新人の三船敏郎を主役に抜擢し、終戦直後の混沌とした時代を描いた作品。『野良犬』対置してみると、当時の黒澤の世の中の見方がわかるかもしれない。

 三船は本当に新人とは思えないほどすばらしい。やはり全体に荒さは感じるものの、その荒さというのが時代性や松永というキャラクターにマッチしていて非常にいい。この作品を機に20本以上の名作を生み出したわけだから、黒澤の役者に対する眼力は相当なものだったのだろう。
 しかし、一方でこの映画だけを考えると、その三島演じる松永のキャラクターが一人浮きすぎているような気もする。基本的には眞田と対比させられ、人生の岐路で少し違う方向に進んだだけの二人という黒澤映画に頻繁に見られる構図がここにも見られる。たとえば野良犬の若い刑事と犯人、椿三十郎の三十郎と室戸半兵衛などがその対置構造にあるが、この映画でも眞田のセリフにあるように松永は眞田の若いころに共通するものを持っている。それはつまり、松永をどうにかすれば自分くらいの一応の人間に離れるという眞田の思いであり、その原因は環境にあると彼は考えている。しかし、同じ環境にあっても松永のようにならない人のほうが多く、『野良犬』ではむしろそこに焦点を当てているような気がする。
 このことだけにとどまらず、この映画の黒澤は今ひとつ物語りやテーマへの掘り下げ方が甘いような気がする。松永にセーラー服の純粋な少女を対比させるやり方も、一途な女としての千石規子の使い方も、あまりに定型的な設定で、黒澤にも若いころがあったのだという当たり前のことを思わせる。これにはおそらく脚本の影響もあるだろう。黒澤黄金時代の菊島隆三や小国英雄ではなく、この作品の共同脚本は植草圭之助、黒澤の幼馴染らしいが、今ひとつ黒澤とは意見が合わなかったらしく、協作はこの映画と『すばらしき日曜日』の2本にとどまっている。

 三船の話に戻ると、三船の激しさはこの映画のなかで最も魅力的な面である。それを黒澤も見逃さず、ぎらぎらとして眼を繰り返しクロースアップで映画に挿入する。しかし、脚本はその三船の激しさを支えきれず、三船だけがと出してしまう。志村喬はそれを支えようと懸命だが、支えきれていないのが現実だ。つまりこの映画は物語としては三船を見ていればそれでよく、千石規子は蛇足であるということだ。
 物語から少し離れると、音楽の使い方にこの映画の特徴が現れる。それが意識的であることは岡田の登場シーンが拳銃ではなくギターによるものであることからもわかる。音楽を使って画面の雰囲気を作りだしたり、緊迫感や恐怖感をあおるという手法が、いつごろ確立されたのかはわからないが、初のトーキー映画が作られたのは1927年、トーキーが普及したのは1930年代中ごろ。つまりこの映画はトーキー映画が確立してからそれほど時間のたってないころに作られた映画であり、この映画の音楽の使い方が世界的に見ても画期的であったことは想像に難くない。
 それを思うのは、映画の冒頭でただのBGMかと思った曲が実際にギターを弾いている人がいるという設定であることだ。そして、通りに流れる音楽もどこかからもれ出るもの。そのようにして音楽が画面と常に結びついていて、ただのBGMというものはない。それは何か映画と音楽というものが必然的に結びついているものではないということを思い出させてくれる。BGMという現実にはないものをいかにしてフィルムの上で成立させるのか、という繊細な意識がそこに働いている。
 これは黒澤のひとつの実験性であり、実験性というのは黒澤映画の特徴のひとつである。若いからこそその実験性が表にあらわれ際立つが、以後も黒澤は実験をし続け、それが映画の新たな伝統となっていることも多い。『椿三十郎』のラストの決闘のシーンをあげさえすれば、それは明らかになるだろう。それまで日本映画では殺陣のシーンで血が噴出すなんてことはなかったし、ついでに言うならばきりつける「ズバッ」という音もしなかったのだから。

用心棒

1961年,日本,110分
監督:黒澤明
原作:山本周五郎
脚本:菊島隆三、黒澤明
撮影:宮川一夫
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎、仲代達矢、東野英治郎、加東大介、山田五十鈴

 ぼろを着た浪人が家々が雨戸を閉じた何かありそうな宿場町に着く。その宿場の番太は用心棒の口を捜しているなら丑寅のところへ行ったほうがいいといい、男は言われるがままにそこに行くが、そのまま帰ってきて飯屋に入る。飯屋の親父は宿場で二人の親分が抗争をしている様子をはなし、この宿場は終わりだから出て行ったほうがいいと言うが、「それは面白い」といって居座ることに決めた。
 用心棒として抜群の腕を持つ男がそれを利用して、二つの勢力の間を渡り歩く。三船敏郎は浪人姿があまりに似合いすぎ、カメラマンに宮川一夫をむかえ映像的にも研ぎ澄まされたものがある。
 マカロニウェスタン『荒野の用心棒』にリメイクされたことはあまりに有名だが、リメイクを申し出たわけではなく、パクったのだったはず。

 この映画はあまりに語りつくされている感がありますが、やはり序盤では犬がくわえる手と、ばっさりと切り落とされるジェリー藤尾の腕が圧巻。いまとなってはそれほど驚くべき効果ではないですが、当時としてみたら、劇場に悲鳴がわくくらいの衝撃だったことと思います。この衝撃的なスペクタクルひとつをとっても、この映画がハリウッド映画のバイブルになりえたことはまったく当然のことのように思える。キューブリックやスピルバーグが今あるのも黒澤があってこそ。この映画があまりにハリウッド的(現在から見ればの話ですが)であることはそのような思いを抱かせずにはおかない。
 しかし、他方で果たしてこれは黒澤の作品として最高傑作といえるのか? 私にはそれは疑問に思える。この映画の主人公、三船敏郎演じる桑畑三十郎(仮名)のキャラクターは椿三十郎と比べるとあまりに暴力的で、三船敏郎は岩井俊二の言葉を借りればゴジラに似ている。あまりに強すぎるのだ。確かに弱きを助けるという面もある。しかしそれもまたゴジラの善良な一面レベルの善良さでしかない。根本的には悪人ではないけれど、結果として招くのは破壊。勧善懲悪の衣をかぶった傍若無人。それがこの映画の本質なのだと思う。
 もちろんそれが悪いといっているわけではない。そのような物語のつくりは徹底しているという点で秀逸なものであり、それによってさまざまな珠玉のカットが生み出される。もちろんカメラマンが宮川一夫であるというのもあるが、この映画の黒澤のシャシンはあまりにさえている。

 この作品を『椿三十郎』と比べたときに、今ひとつと思えるのは、ひとつは仲代達矢演じる卯之助のキャラクターの弱さ。『椿三十郎』の室戸半兵衛と比べるといかにも弱い。その分を加東大介がコミカルなキャラクターで補っている点はあるものの、好敵手というよりはほかの奴よりちょっと手ごわい相手くらいの感覚でしかない。『椿三十郎』に感じられる敵ながら抱いてしまう仲間意識というか、自分の分身を見ているような感覚というものがないので、どうしても三十郎がほかの全員よりも高みにいるという感じになってしまう。
 それはそれでひとつの英雄譚として面白くはあるけれど、黒澤らしさということを考えると、何かが違う気がしてしまう。しかし、このシンプルなヒーロー話のほうがいわゆる時代劇/チャンバラものらしいということはある。この映画以来、あらゆる時代劇が『用心棒』のようになってしまったということは想像に難くない。 この映画は音楽の使い方にしても、それぞれのカットのすばらしさにしても、カットとカットのつなぎの見事さにしても、黒澤の作品の中でも上位に入るものではあるけれど、そのような傑作であるがゆえに、果てしなく(表層的に)コピーされ、今となっては翻って、この作品からなにか「よくある」感じを受けてしまう。それがこの映画の評価に反映されてしまうというのはおかしい気もするけれど、これも人それぞれの映画を見る環境の違いなので、仕方ありません。
 これを黒澤のナンバー1に推す人もかなりいると思いますが、私にとっては『椿三十郎』のほうが面白かった。

七人の侍

1954年,日本,207分
監督:黒澤明
脚本:橋本忍、小国英雄、黒澤明
撮影:中井朝一
音楽:早坂文雄
出演:志村喬、三船敏郎、加東大介、藤原釜足、木村功、千秋実、宮口精二、津島恵子

 時は戦国時代、野武士の来襲に怯える山間の農村、村人たちは知恵を絞り、村の長老の忠告に従って、食事を供するという条件だけで村のために戦ってくれる浪人者を探すことに。そのために4人の百姓が町に出たが、なかなか見つからず仲間割れも起こりそうになったころ、ある村で子供を人質に立てこもった盗人を見事に成敗した侍に出会う。そしてその侍に話を持ちかけると、じっくり考えた末、侍が7人いれば村を守れるだろうといって百姓の頼みを聞き入れ、仲間探しが始まった。
 いわずと知れた日本映画の金字塔。3時間半もの上映時間、型破りのアクション、何をとっても偉大なる作品。三船敏郎よりも志村喬が光っている。1960年に、ハリウッドで『荒野の七人』として西部劇にリメイクされたのもいまさら言うには及ばぬ話。

 この映画の脚本と編集は本当にすばらしい。3時間半という長い時間をどのように配分するか。1時間半や2時間という上映時間になれた観客をどのようにそれだけ長い間引っ張っていくか。その点ではこの映画は本当にすばらしく、まったく飽きるということがない。ヨーロッパでの上映の際にあまりに長すぎるということでカットを余儀なくされたようだが、それは本当におろかなことで、黒澤明の言うとおりこの映画に削ることができる部分はまったくない(休憩はちょっと長いけど)。映画の序盤、村の水車だけに費やした3カットも必要なカットだったと思う。
 全体のバランスからすると、最後の合戦の場面が少々長いような気もする。それよりも7人を集める過程とか、村人たちとともに準備する過程とか、そのほうが面白い。しかしやはり、合戦の場面こそが見せ場で、それがあるからこそそれまでの話が面白いというのも事実。このあたりは個人の好みになるでしょう。おそらく村での場面がダレるという意見のほうが大勢を占めるかと思います。
 この物語の面白さというのは、基本的に「侍-百姓-野武士」という関係性によっている。まったく立場が違うようでいて、実は微妙に重なり合っている3者の戦い。最後に志村喬が言うように、この戦は百姓にとっての勝ち戦であって、侍と野武士にとっては負け戦であった。その3者の(主に侍と百姓の)関係性が刻一刻と変化していくところがこの映画が飽きることなく見られる映画になる最大の要因になっているといえる。
 その関係性の最大の鍵になっているのは、三船敏郎の存在で、三船が馬小屋でぼそりと「思い出すなぁ」というところは、私がこの映画のなかで最も好きなシーンのひとつである。そのシーンをはじめとして、三船演じる菊千代が存在するからこそこの映画が展開していけるということは確かである。

 しかし、その一方で私はこの映画の主人公というのは三船敏郎ではなく志村喬だと思うし、侍たちの関係だけを考えたなら、三船敏郎の存在というのはある種バランスを崩す存在になってしまっていると思う。映画全体として三船敏郎の役割を果たす存在は絶対に必要だった。しかし彼のキャラクターは危ういバランスの上に成り立っているということもいえる。彼が三船敏郎であるがゆえにようやくこなすことができた役、しかし逆に三船敏郎であるがゆえにこのような役になってしまったとも言える。
 つまり、この役はおそらく本来は一人でこなせるような役ではない。侍たちの間に漣をおこし、和ませ、一方で百姓と侍の橋渡しをし、百姓たちの中にもいろいろな種を植え、さらにさまざまな面倒の種にもなる。普通の役者なら2人か3人が役割を分担しなければ演じられないような役、それを一人で演じてしまう三船敏郎はすごい。しかし、同時にそれによってアンバランスも生じている。たとえば、千秋実演じる平八が果たすべき場を和ませる存在としての役割をも菊千代は奪ってしまった。タイトルに七人とある割にはその七人の役割分担がぼんやりとしているのは、このようにして菊千代がその構図を突き崩してしまっているからだろう。

 見方によって変わるであろうこの菊千代=三船の捉え方によってこの映画の評価は大きく変わる。それはこの映画を誰の立場で見るのかという見方にもよる。黒澤はいつものように特定の視点を設けず、第三者の視点からすべてを見通させる。しかし、「七人の」というタイトルの割には群像劇というわけではなく、誰でも好きな侍に、あるいは百姓たちにでも自己を没入させることができるように作っている。それはおそらくこの長時間をずっと客観的に過ごすのは退屈すぎると考えたからかもしれないが、とにかく2時間そこそこの映画とは少し趣が違っている。
 そのようなわけもあって、この映画はさまざまな見方を受け入れる。私は今回どのようにこの映画を見たのか自己分析してみたら、自分でも意外なことに加東大介演じる七郎次に肩入れしてみていたような気がした。多分それは加東大介という役者が好きだからというだけの理由だと思うが、だからなんとなく菊千代にある種の胡散臭さのようなものを感じていたのかもしれない。
 別の誰かに肩入れしてみたなら、菊千代の、そして映画の見方はがらりと変わったのだろうと強く感じました。それが「七人の」という冠にこめられた黒澤の意図のひとつであると私は信じます。そして、いろいろな人に愛される理由であるとも思います。『荒野の七人』とか『宇宙の七人』とか、を見るとその監督が誰に身を置いて見たかがわかるかもしれないとも思います。
 皆さんは自分が誰に身をおいてこの映画を見ましたか?

椿三十郎

1962年,日本,98分
監督:黒澤明
原作:山本周五郎
脚本:菊島隆三、小国英雄、黒澤明
撮影:小泉福造、斎藤孝雄
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎、仲代達矢、加山雄三、志村喬、田中邦衛

 藩内で賄賂が横行していることを発見した若い侍たちが神社の八代で相談をしていた。その相談は侍の一人井坂の叔父である城代家老に相談したところ、うやむやにされたため、大目付の菊井に話を持っていき、協力するといわれたというものだった。そのとき、社の奥から薄汚れた浪人の男が現れ、彼らに意見した。侍たちはその浪人をもちろん信用しなかったが、そのとき男の言ったとおり菊井の軍勢が社にやってきて…
 『用心棒』の三十郎が再び登場し、若侍たちと活躍する痛快時代劇。黒澤明の映画の中ではユーモラスなもので、黒澤ビギナーでも楽しく見ることができる。もちろんそれにとどまらない深みもある作品。伝説的なラストシーンも必見。短いのもいい。

 なんといっても椿三十郎というキャラクターのつくりがすばらしい。黒澤明のテーマのひとつであるといえる「人情」の塊であり、ユーモアがあり、男らしく、かっこいい。このキャラクターを作るには過去がないといけない。もちろん『用心棒』を先に見ていれば、それを過去として認識できるわけだが、見ていなかったとしても、そこにさまざまな過去を暗示する。
 物語の展開はスピーディーで、それも黒澤らしくないという面がある一方で作品としての完成度を増している。「長さ」によって「間」を作り、観客に考えさせるという黒澤のスタイルはここでは鳴りを潜め、モダニズム的なスピード感を作り出す。60年代という時代、「俺だってこれくらいはできるんだ」とでも言いたそうな黒澤明の根性を感じる。
 しかし、この作品の完成度は非常に高い。無駄なカットはまったくない。登場人物にも無駄がなく、そのキャラクターとプロットが非常にうまいバランスをとりながら展開していく。椿三十郎、侍たち、室戸半兵衛、だけではなく、城代家老夫人、押入れの侍など脇役のキャラクターも映画に欠かせない要素となる。侍たちの半分くらいは別にいなくてもかまわないかもしれないけど。
 このように登場人物を無駄なく使うというのは実は非常に難しいことだ。脚本や撮影の段階ではすべてがつながっていても、編集によって余分なものをそぎ落としていくうちに、ただ笑いのためだけにいるキャラクターや、説明的な役割のキャラクターが出てきてしまうものだ。しかし、この映画は100分弱という短い時間にまで削りながらも絶妙のバランスを維持している。

 さて、内容のほうに行きましょう。この映画、なんと言ってもすごいのはラストシーン、このラストシーンは文字通り映画史に残っているわけです。しかし、このラストシーンはただ観客を驚かせるためだけに存在しているわけではない。このラストシーンに至るまでには椿三十郎と室戸半兵衛の間の微妙な関係があるわけです。この二人は出会ったときから互いに非常に意識しあっている。それは三十郎が言うように二人が同じ種類の人間だからであり、室戸半兵衛が言うように二人が組めば無敵だからである。
 特に室戸は三十郎にとことんほれ込む。それがこの映画を転がすのに重要な役割を果たす。三十郎と侍たちは最後の最後に大きなミスをするのですが、映画を見ているとそのミスに気づくのは室戸であると感じる。しかし室戸はそのミスには気づいていないように振舞う。本当に気づいていないのか、それとも気づいていないふりをしているのかは微妙なところだが、おそらく本当は気づいている。しかしそれをおそらく無意識に押し殺してしまっている、のだと思う。
 室戸は三十郎に惚れている。仲代達矢は何だかゲイっぽいので、なおさらそんなことを感じる。明確な同性愛的な意識があるとは思えないけれど、友情や敵意や尊敬といったものを越えた何かが二人の間にあることは確かだ。それによって二人は惹かれあい、そして反発しあう。二人は同じ穴のムジナでありながら、決して同じ方向に進むことはできない。そのように惚れていることで、三十郎たちのミスを見逃し、その思いの強さがラストシーンに現れているのだと思います。

 こういう映画は黒澤ファンには好まれないかもしれない。黒澤らしい重厚さがなく、沈思黙考する間もない。しかし、私はこれが黒澤明の作品の中で(いまのところ)ナンバー1だと思っています。