闇の子供たち
描かれるのは社会の闇それ自体ではなく、それを見つめるわれわれの欲望
2008年,日本,138分
監督:阪本順治
原作:梁石日
脚本:阪本順治
撮影:笠松則通
音楽:岩代太郎
出演:江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡、豊原功補、塩見三省、佐藤浩市
日本新聞社のバンコク支局で記者を務める南部浩行は本社から闇ルートで行われる臓器移植について調べるよう言われる。調査を開始すると、臓器提供者は生きたまま臓器を取られるという可能性が明らかになってくる… 同じ頃、日本で社会福祉を学んだ音羽恵子は社会福祉センターでボランティアとして働くためバンコクにやってくる。
阪本順治が梁石日の同名小説を映画化。衝撃的な内容でタイでは上映が見送られる字体となった。
タイで横行する幼児売春と存在するといわれている臓器の闇売買を描いた社会派ドラマ。と、言いたいところだが、これを社会派ドラマというかどうかは微妙だ。そもそも社会派ドラマとは何を指すかということ自体あいまいだが、基本的には「事実に基づいて社会で問題になっている題材に一定の見解を示す」とでもいう感じだろう。重要なのはその映画が“社会派ドラマ”と目されると、そこで描かれていることの真実性が問題となるということだ。社会の問題について語るなら、その問題が真実でなければ話にならないからそれは当たり前だ。タイの幼児売春について描けば、それが存在することは真実だから社会派ドラマになりうるということだ。
この作品に登場する日本人のロリコン男の部分は社会派ドラマとして成立している。タイにまで行って幼女を買い、その子供を強姦してインターネットのコミュニティに自慢げにそれをさらす。そのようなことがいまも横行していることは確かだし、それは由々しき問題である。
あるいは、社会で問題とされていることが真実なのかどうかを議論するというパターンも社会派ドラマたりうる。それは“見えない事実”について語られるときにありうるパターンだ。たとえばアパルトヘイト後の南アフリカについて描かれた『イン・マイ・カントリー』などはその“見えない事実”について語った社会はドラマだ。
しかし、この『闇の子供たち』が描いている臓器売買についてはどうだろうか? これは議論に値する社会的テーマだろうか? もちろん子供を殺して臓器を売るなんてのは言語道断なことだが、それは誰が考えても言語道断なことであり、そのことを知りながらわが子の臓器移植を望む人間について議論の余地などないのではないか? それではこれを社会問題とし議論する対象にはなりえない。
それよりもむしろこの映画が描こうとしているのは人間の欲望の問題だろう。幼児買春も欲望の発露であるが、他人の子供の命を奪ってまで自分の子供の命を助けるというのも極端ではあるが欲望の発露なのではないか。この映画が語りかけてくるのは、そこにある問題をどうするかということではなく、われわれが抱える欲望をどうするのかということだ。タイの子供が犠牲になることを知ってまで自分の子供を生かしたいと思ってしまう欲望、それは道義心によって打ち消されるけれど、その欲望が存在するという事実を消すことはできない。その欲望を抱えながら生きていくということの意味をこの作品は問うていると考えることもできるのではないか。
この映画の結末はどこか突拍子もないという印象のものだ。しかし、この“欲望”という視点で見てみるとすべてがつながっている。人間の欲望がもたらす悲劇、その悲劇が全編を貫き、この作品に登場するすべての人を悲しみの陰が覆っている。
ただ、宮崎あおいと妻夫木聡が演じた日本人の若者ふたりだけはそこから逃れているようにも見える。それは彼らがまだ自分の欲望の何たるかをわかっていないから、無邪気に“自分探し”を続けているからだ。そこに日本という国の安寧さが透けてみる。しかし、彼らはタイにやってきてそこにはびこる欲望と、それがもたらす悲劇に身をさらすことで目的どおり“自分”を発見するだろう。そのことによって自分もまた悲しみの陰から逃れられなくなるわけだが。
世界を悲しみの陰で覆う欲望の発露は時代とともに激しくなってきているように見える。それは絶対的な人口の増大にもよるのだとおもうが、資本主義という社会体制が欲望を拡大再生産するシステムであることにも遠因があるのだと思う。“欲望の世紀”と呼ばれた20世紀は終わったけれど、欲望の拡大再生産は終わらない。ルネ・ジラールが欲望論の教科書といわれる「欲望の現象学」を著したのは1961年、それからまもなく50年になるがわれわれはまだまだ自分自身の欲望を処す術を身につけられてはいない。とりあえず知っておかねばならないのは欲望の発露がどこかで悲しみを生むかもしれないということ、この映画はそのことを壮大なスケールで描いたメッセージなのではないか。
演出も説明も過剰でドラマとしてはちょっと退屈だが、その過剰なわかりやすさが、表面に描かれた問題の奥にある“欲望”の問題を浮かび上がらせる触媒になってはいる。阪本順治という監督は上手ではないが、真摯だし、作品になるべくたくさんの物事を盛り込もうとしている。そんな風に感じた作品だった。