ギター弾きの恋

Sweet and Lowdown
1999年,アメリカ,95分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:フェイ・チャオ
音楽:ディック・ハイマン
出演:ショーン・ペン、サマンサ・モートン、ユマ・サーマン、ウディ・アレン

 ギタリストのエメットはジャンゴ・ラインハルトを除けば、世界で1番うまいと自認し、実際聞くものみなをひきつける腕の持ち主。しかし、酒でステージをすっぽかすことも多く、趣味はねずみを拳銃で撃つことと汽車を眺めることというかなりの変人。そんな変人の生涯をインタビューと再現ドラマで語ろうというドキュメンタリー風伝記。
 感動的なお話で、ショーン・ペンの演技はなかなか。ギターの音もとてもいい。しかし、ウッディ・アレン自身が冒頭に登場し、作りものじみたつくりになっているところがあまり…

 要するにこれは、ドキュメンタリー風ドラマを装った完全なドラマなわけで、映画の構造もウディ・アレンの遊びなわけです。おそらく、ジャズ好きのウディ・アレンが古きよき時代の雰囲気を引っ張り出すために作り出したキャラクター。最初は本当にいたのかと思わせるけれど、徐々にフィクショナルな人物であることがわかるという感じ。
 最後の2人の関係は『カイロの紫のバラ』ににて、なかなかいい。おそらくハティは結婚なんてしていなくて、でもエメットにはそういってしまった。その後の結末がちゃんとついているところは『カイロ…』と違うように思えるけれど、消息不明というところで、いろいろな可能性が考えられる。たとえば、やっぱりハティのところに戻り、ハティと一緒になったとか。
 というラストあたりの感情の機微以外は特に見るものはなく、後は音楽がなかなかいいというくらいのもの。さすがにギター弾きの映画だけあって、ギターの音色には気を使っていて、響き方でエメットのものだとわかるような音の使い方をしていたのが印象的。
 やはり最初からウディ・アレン自身が出てきてしまったのがよくなかったのでしょうか。こんな変なドキュメンタリー風ドラマにしないで、ひとつの架空の人物のドラマとして描けばこんなつまらないことにならなかった気もします。ストーリーテラーとしては一流だけれど、映画作家としてはやはりどうなのかというのが感想になってしまいました。どうも映画に対するスタンスが中途半端で、『カイロ…』の映画に対する哲学的な姿勢はたまたまなのかと思ってしまう。それとも真摯に映画に取り組むことに対するテレがあるのか…

カイロの紫のバラ

The Purple Rose of Cairo
1985年,アメリカ,82分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:ゴードン・ウィリス
音楽:ディック・ハイマン
出演:ミア・ファロー、ジェフ・ダニエルズ、ダニー・アイエロ、ダイアン・ウィースト

 大恐慌期のアメリカ。シンシアは姉と同じ店でウェイトレスをし、仕事もなくぶらぶらしている夫に邪険にされながら、映画館に熱心に通う。彼女のお気に入りは『カイロの紫のバラ』、ミスを繰り返しウェイトレスをクビになった日、泣きながら映画を見ていると、映画の登場人物が彼女に話しかけてくる。
 ウッディ・アレンのラブ・ロマンス、その独特の世界観は理不尽なのだけれど、破綻をきたさずそこにあり、われわれの心の何かをくすぐる。

 理不尽な映画、誰もがそう感じるだろう。スクリーンから現実に飛び出す人。スクリーンの中に残り、逃げ出してしまったことを何日にも渡って愚痴り続ける出演者たち。登場人物がスクリーンから逃げ出してしまったことをあまり不思議にも思わず受け入れてしまう人々。「そんなはずないだろう」という反論がすぐに口をつく。しかし、映画の中にそんな反論を言い出す人はいない。この反論する人を登場させないところがウディ・アレンの巧妙さだ。普通は、反論する人を登場させ、それがありえるかありえないかが物語のひとつの核になっていく。そうさせないためにウッディ・アレンは反論の芽を摘む。「スクリーンから人が出てきてしまうことはありうべきことなのだ」という了解を無理やり作り出してしまう。映画を見ているわれわれは最初は首肯じ得ないものの、いつしかそれに従わざるを得ないことに気付く。ストーリーはどんどん展開していくから、それがありえないんだという主張を映画に対して投げかける余地はなく、その疑問はいつしか気にならなくなってくる。このあたりが巧妙だと思う。この映画にはスクリーンと現実の世界の間に何らかのルールが存在し、登場人物たちはみなそれを了解している。それはもちろん彼らみながスクリーン上の夢の存在に過ぎないからだ。見ている側にそのルールは説明されていないが、聞く暇がない以上、そのルールを受け入れて映画を見るしかない。そのルールが受け入れられないと、この映画は恐ろしくつまらない映画になってしまう。だからウッディ・アレンは見ている人たちがそのルールを受け入れざるを得ないように巧妙に映画を組み立てているのだ。
 そのルールをわれわれが受け入れるということは、自分自身をシンシアと同じ立場におくということにも通じる。劇中劇を見ていたシンシアのようにわたしたちはこの映画を見ている。その二重性(あるいは三重性)もこの映画の作戦のひとつだ。ゴダールが『女と男のいる舗道』で『裁かるるジャンヌ』を引き合いに出したように、映画の中で映画を上映することで観客が存在している空間を映画の中の空間と不可分なものとする。この観客が存在している空間と映画の中の空間のつながりをファンタジックに描いたのがこの映画だ。この映画は『キートンの探偵学入門』と対比されることがあり(『キートン…』のほうはバスター・キートンがスクリーンの中に入り込む)、それと比べて「笑えない」という評価がされることが多いようだ。しかし、キートンのそれは映画の中の世界と現実の世界との断絶を笑いにしているの対して、ウッディ・アレンのそれはその境界の不明確さを笑いにしているのだから、この二つは似て非なるものだと思う。
 意地の悪い見方をすれば、確かにゴダールの域にも、キートンの域にも達していない映画となるのだろうけれど、わたしはこのようなあいまいな空間に見るものを引き込む映画は感覚的にわかりやすくていいと思う。映画の中のファンタジーと現実の関係性を包む映画全体がファンタジーであるという関係性が、この映画とわれわれにとっての現実との関係性の鏡像であるという感覚。ファンタジックに表現するならば、この映画を見ているわれわれを見ている観客がまた存在しているかもしれないということ。あるいは、劇中劇の役者が言っていたように、映画こそが現実で、われわれのいる世界こそが幻影なのかもしれないということ。そのような可能性が感覚として伝わってくるというのがこの映画の最もすばらしい点だと思う。
 わたしはこれをウッディ・アレンの最高傑作に推したい。ダニー・アイエロも好き。

おいしい生活

Small Time Crooks
2000年,アメリカ,95分
監督:ウディ・アレン
脚本:ウディ・アレン
撮影:チャオ・フェイ
出演:ウディ・アレン、トレイシー・ウルマン、ヒュー・グラント、エレイン・メイ

 レイは銀行強盗に失敗して2年間服役していた、今はうだつのあがらない皿洗いの初老と男。そんなレイが奥さんのフレンチーにチョコレートを買って帰る。何か裏があるとフレンチーが勘ぐったとおり、レイはさえない二人の仲間と銀行の2軒隣の空き家を買い取ってトンネルを掘るという計画を立てていたのだった。しぶしぶ計画に乗ったフレンチーはカモフラージュのためクッキー屋さんをはじめたが…
 ウディ・アレンとドリーム・ワークスが組んだメジャー向けドタバタ・コメディ。癖がなくなった分、いいところもいやなところもなくなってしまった感じ。

 この映画でいいところは小ネタのみ。ウディ・アレンがベチャベチャとしゃべるところは、ウディ・アレンらしさもあり、癖もあり、悪くない。それほど笑えるところがあるわけではないけれど、「ああ、ウディ・アレンを見ているんだ」という気になる。しかし、全体的に見ると、ウディ・アレンは普通の人になりすぎたと思う。ちょっと変わり者で、頭の足りない、初老の男。そんな薄いキャラクターでは映画も締まらない。
 それより何より、この映画でしょうもないのは物語。毒もなく、味もなく、感動もなく、意味もない。結局のところ貧乏人が小金をもうけて金持ちの振りしたってそんな金は身につかない。貧乏人は貧乏人らしくしてりゃいいんだと言っていると解釈したくなるようなお粗末な物語。貧乏人が金持ちに近づこうとすることで、金持ちを批判しようとするのかと思いきやそうでもなく、金持ちは金持ちで、いやなやつだけど別に悪い人ではないといいたいようだ。ひとつ言っているといってもいいことは「金持ちは孤独だ」ということくらい。だからどうした、それがなんだ。
 金持ちが貧乏人を馬鹿にして、貧乏人は馬鹿にされたまま終わる。貧乏人は金持ちになりきれなくて、貧乏人であることに満足して終わる。結局何の波風も立たず、状態は保存され、いたずらに時が過ぎただけ。
 何でウディ・アレンはこんなしょうもない映画を撮ってしまったのか。私はウディ・アレンはあまり好きではないけれど、彼なりのスタイルがあることは認めるし、それを好む人がいることも認める。私の好みにはあわないというだけ。でも、この映画はそんなアレンらしさもなく、ドリームワークスに寄りかかって、端っこで小さく自分の芸を見せているだけに見える。