舞台恐怖症

Stage Fright
1950年,イギリス,110分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
原作:セルウィン・ジェプソン
脚本:ウィットフィールド・クック
撮影:ウィルキー・クーパー
音楽:レイトン・ルーカス
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ジェーン・ワイマン、リチャード・トッド

 舞台俳優のジョナサンが来るまで友人のイヴに告白する。彼は愛人の女優シャーロットが夫を殺し、自分の部屋に助けを求めて駆け込んできたという。そして、その血みどろのドレスを始末しようとしているところを女中に見つかって逃げてきたのだと…
 ハリウッドに渡ったヒッチコックが、イギリスに戻り、ディートリッヒを迎えて撮った作品。おそらくハリウッドとは違うヨーロッパ的なサスペンスを作ろうと考えてのこととみえ、ドラマの仕立て方も謎解き中心の落ち着いたものになっている。

 このサスペンスの展開には賛否両論あると思います。その内容はネタがばれてしまうので言えませんが、結局のところ観客を巧妙にだますことで謎解きが難しくなっているというところがある。ひとつの「うそ」が物語の鍵になるということですね。その「うそ」が見終わったときに映画全体の緊迫感を弱めてしまうような感じになってしまう。そのような意味であまり後味がよくない、ということです。
 が、しかし、その「うそ」に全く気付かなかったわたしは、「してやられた」という気持ちで映画を見終わり、エンドクレジットの直後には「さすがヒッチコックよのお」とさわやかに思っていたのでした。だからこれはこれでいいとわたしは思うのです。後から振り返ってみると、「なんかなぁ」と思うけれど、その120分間は充実したもので、見るほうは純粋に謎解きに頭を使って、あーでもないこーでもないと考えるわけです。この作業が楽しいわけで、それで十分ということです。(だからネタばれは絶対ダメなのね)
 後はディートリッヒということになりますが、この映画のころすでに40代後半、さすがに要望の衰えは隠せません。おそらくハリウッドのライティング技術を生かし、観客の心に残るかこの映像を生かし、美しくは見えるものの、若いジョナサンが夢中になるほど美しいかというとなかなか難しいところです。若さを取り繕うせいか、表情も少し乏しい。まあ、その表情の乏しさは、男を陥れようとする「魔性の女」(ファム・ファタルというらしい)っぽさを演出していていいのですが。
 それにしても、ヒッチコックらしいと思ったのはやはりライティング、大事な場面ではライティングがその恐怖心や、同情心をあおる重要なポイントになっています。先日の『レベッカ』のときも書いた気がしますが、ヒッチコックはやはりライティングが重要なのでしょう。後は、ヒッチコック自身がどこに登場するかということも!

嘆きの天使

Der Blaue Engel
1930年,ドイツ,107分
監督:ジョセフ・フォン・スタインバーグ
原作:ハインリッヒ・マン
脚本:ロベルト・リーブマン
撮影:ギュンター・リター
音楽:フリードリッヒ・ホレンダー
出演:エミール・ヤニングス、マレーネ・ディートリッヒ、クルト・ゲロン、ハンス・アルベルス

 生徒に馬鹿にされる高校の英語教師ラート教授。彼は授業中に生徒が眺めていたブロマイドを取り上げる。放課後、同じブロマイドを持っていた優等生を問い詰めると、そのブロマイドに写っているのは“嘆きの天使”というキャバレーの踊り子だという。教授はその夜、”嘆きの天使”に向かうが…
 ディートリヒとスタンバーグという黄金コンビの最初の作品。ディートリッヒがアメリカでブレイクした作品でもある。

 この映画が語られるとき、常にいわれるのはディートリッヒの脚線美ということだ。ドイツで端役をやっていたディートリッヒを見出し、主役に抜擢し、アメリカに売り込んだスタンバーグ監督が、そのとき売りにした脚線美。それはもう本当に美しく、白黒の画面でもその美しさは伝わってくる。
 しかし、この作品が成功したのは単純に脚線美だけではなく、その脚線美が生み出すドラマのせつなさ。抗いがたい魅力を持つ脚線美という土台の上に気づかれた物語がまた心をつかむ。前半はコメディタッチでテンポよく進んでいくのだけれど、後半それが一転、ドラマチックな展開になっていくその変わり方も見事だし、終盤のドラマの見ごたえがすごい。
 なんといっても最後の最後、ロラロラと教授の間で交わされる言葉にならない言葉。ロラロラの考えていることが教授に伝わらないもどかしさ。あるいは伝わっているのかもしれないけれど、それを素直に受け入れられない教授のプライド。それはもう切ないのです。その切なさをしっかりと表現できるディートリッヒとそしてエミール・ヤニングス。ヤニングスといえば、ムルナウの『最後の人』なんかに出ていた名優ですから、その名優の向こうを張ってがっちりと演じきってしまうディートリッヒにはやはり脚線美という売りを超えた才能があったということでしょう。そう、その二人が舞台と舞台袖で視線を交わし、無言で語らいあう。ロラロラのほうは教授の考えていることがわかっているのだろうけれど、教授のほうはロラロラの考えていることがよくわからない。とらえられない。そのディートエイッヒの視線はどのようにも解釈できる視線。私は彼女はいまだ教授を愛していて、彼をある意味では励まそうという視線を送っているように見えた。教授はそれを受け入れることができない。そのあたりがもう切ない。
 それから、ディートリッヒは歌も見事。何でも、スタンバーグは舞台に出て歌っていたディートリッヒを見て、主役に抜擢することに決めたということなので、歌がうまいのも当たり前です。この歌を聴いて、観客は「これがトーキーのすばらしさか」と納得したことだろうと想像します。ひとつの完成形となっていたサイレントからトーキーに移行するには、このようなトーキーでなくては作れない名作の出現が重要だったのだろうと想像します。映画史的に見れば、そういった意味で重要な作品だったんじゃないかということです。

間諜X27

Dishonored
1931年,アメリカ,91分
監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ
脚本:ダニエル・N・ルービン、ジョセフ・フォン・スタンバーグ
撮影:リー・ガームス
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ヴィクター・マクラグレン、グスタフ・フォン・セイファーティッツ、バリー・ノートン

 第一次大戦中のウィーン、女は自分のアパートでまた自殺者が出たのを見て、「私は生きるのも死ぬのも怖くない」とつぶやく。それを聞いた男が女を誘って
女の部屋へ。男は女にスパイをしないかと持ちかける。ワインを買いに行くといって部屋を出た女は反オーストリアだといった男を逮捕させるため警察官を連れて
くる。
 スタンバーグはディートリッヒがスターダムにのし上がるきっかけを作った監督で、アメリカでの初期の作品で7本コンビを組んでいる。

 ディートリッヒは美しい。ディートリッヒが美しいから、あとはどうでもいい。というか、あとはディートリッヒの美しさを引き立てるためにある。といいたくなってしまう。
 この映画のプロットはかなりお粗末といっていい。こんなのんきなスパイはいないと思う。にもかかわらず「女でなかったら最高のスパイだっただろう」などと冒頭で強調するのは、あくまでその「女」の部分を強調したかったからだろう。それはひいては、この映画がスパイ映画ではなく恋愛映画であるということを主張しているということだ。そしてその恋愛を引き立たせるために(スパイ同士という)困難な状況を作る。
 これはこの映画の過度のロマンティシズムを生む。いま見るとこの映画ロマンティックすぎる。この映画が作られたのは1930年、ちょうど世界恐慌が起こったころだ。再び戦争の足音が聞こえてきた時代、ロマンティシズムは映画制作者と観客を現実から一時逃れさせてくれたのかもしれない。ロマンティシズムで世界を救うことはできないが、一人の人間をいっとき救うことはできるのかもしれない。それを生み出すのがかくも美しいディートリッヒならなおさらのことだ。
 それにしても、ディートリッヒはずん胴ね。脚は細くて美しいのに、どうしてあんなにずん胴なんだろう?

天使

Angel 
1937年,アメリカ,91分
監督:エルンスト・ルビッチ
脚本:サムソン・ラファエルソン
撮影:チャールズ・ラング
音楽:フレドリック・ホレンダー
出演:マレーネ・ディートリッヒ、ハーバード・マーシャル、メルヴィン・ダグラス、エドワード・エヴァレット・ホートン

 ホルトン氏は友人に紹介してやってきた、パリの亡命ロシア大公妃のサロンで出会った英国人の美しい女と夕食をともにし、恋に落ちる。しかし女は彼の申し出の返事を引き延ばし、男の元から去って行く。
 ハリウッド黄金期の巨匠エルンスト・ルビッチが名女優マリーネ・ディートリッヒを迎えて撮り上げたシャレた恋愛映画。今から見ればスノッブな感じが鼻につくが、「階級」というものが今より色濃く残っていた社会では映画とはこのようなものであってよかったのだろう。
 全体的にシャレた雰囲気でクラッシクというわりには気軽に見られる作品。

 映画史的なことはよくわからないのですが、この映画で非常に多用されている切り返しというのはこのころに開発された技法なのでしょうかね?「画期的なものをどんどん使おう」と言う感じで使っているように見えますが。まあ、技術的なことはいいとして、この映画で使われている「相手の肩越しから覗きこむ画」の切り返しというのはなかなか柔らかくていいですね。最近、切り返しが使われる場合真正面から捉えた画をつなぐ場合が多いのですが(恐らく互いの視線を意識した画だと思いますが)、私としてはそのやり方はどうも今ひとつ落ち着きが悪いんですよ。なんとなく映画の中にポツリと放り込まれてしまう気がして、それよりは、肩越しとか、斜めからとかの画で、なんとなく傍観者としていられるほうがいい。映画のジャンルにもよりますが、恋愛映画では特にそう思います。
 映画的なこともそうですが、クラッシックな映画を見ると、時間的なギャップに気づいていつも感心することがあります。たとえば今回の映画では、音楽的なことに頭が行きました(「二人の銀座」の影響もあるかもしれない)。「この頃って、まだジャズですらメジャーカルチャーじゃなかったんだな」とか、そこから「若者の文化ってものもまだまだ出てこないんだな」とか。
 なかなか古い映画というのは見る機会もないし、見ようとも思わないものですが、「巨匠」と呼ばれる人の作品はやはり、多少色褪せることはあっても、映画として十分見る価値のあるものなのだと感じました。