スペシャリスト・自覚なき殺戮者

Un Specialiste
1999年,フランス=ドイツ=ベルギー=オーストリア=イスラエル,128分
監督:エイアル・シヴァン
脚本:エイアル・シヴァン、ロニー・ブローマン
撮影:レオ・ハーウィッツ
音楽:ニコラス・ベッカー、オードリー・モーリオン
出演:アドルフ・アイヒマン

 何百万人ものユダヤ人を絶滅収容所へと送り込む列車の運行を管理した男アドルフ・アイヒマン。戦後海外に逃れた彼をイスラエル政府が捉え、裁判の場に引き出した。ここまでは映画以前の物語。映画はただひたすらアイヒマンの裁判の場面を映し出す。40年近くほったらかしになっていたフィルムの掘り起こし。その裁判から見えてくるのはアイヒマンの殺戮者としての側面か、それともただの一人の人間としての側面か。

 とても眠い。それは映画がひたすら裁判所を映し、劇的な変化もなく、編集上の工夫はあるにしても淡々と進むからだ。これは元の映像が裁判の記録であるから仕方がないことだけれど、とにかく淡々と進んでいく。
 まず驚くのは防弾ガラスに守られたアイヒマンの姿。それほどまでに彼がイスラエルで憎悪の対象になっているということだ。
 映画は今までのホロコースト映画と同様にユダヤ人の受難を描くのかと思いきや、そうではないらしい。アイヒマンは無表情で淡々と「自分には権限がなかった」と繰り返す、これに対して検事は感情的に糾弾する。そして数多くの証人に証言を求める。
 問題なのはこの証人たちで、次々と登場するもののアイヒマンの罪状とはあまり関係ない人々ばかりだ。裁判の焦点は検事も言うとおりアイヒマンが虐殺に関与したか否かであるはずなのに、登場する証人たちはその結果の虐殺を生き延びた人々ばかりである。彼らはその悲惨さを語りアイヒマンの非道さを語るけれど、それがアイヒマンの責任の証立てにはならない。
 前半にアイヒマンと会い、交渉したというユダヤ人側の代表が証人台に立つ。彼の語るアイヒマンは単純に有能な官僚であり、ある程度ユダヤ人に理解を示す人物である。
 後半にもそのような人物が証言台に立つ。しかしそのとき傍聴席から「そいつはわれわれを犠牲にして家族を救った」という怒号があがり、裁判長は閉廷を宣言する。
 これらの記録によって何が明らかになったのか。ここから明らかになったのはこの裁判の無意味さ。これはアイヒマンの裁判ではなくイスラエルの裁判だったということ。全く反対尋問をしない弁護士(案件と関係ないのだから反対尋問の仕様がない)、それに対して感情をあらわにまくし立てる検事。彼が求めるのはアイヒマンの罪状を明かすことではなくイスラエルの正当性を明かすことだ。
 どうも話がまとまりませんが、結局のところアイヒマンというのはそれほど重要な人物ではなく、大きな悪を行った装置の部品の一つであるということは明らかで、本当に追求すべきなのはそのような人は果たして有罪でありえるのかということであるはずだ。「悪の凡庸さ」とは誰が言った言葉か忘れてしまいましたが、その凡庸な悪を裁きうるのかどうかということを追求するべきであった。しかしこの裁判が明かそうとしているのはアイヒマンは凡庸ではなかったということであり、凡庸であるアイヒマンを凡庸でないとして断罪してしまった。
 ということはこの映画はあくまで問題を提起しているだけであって、結論ではない。ということ。

SHOAH

Shoah
1985年,フランス,570分
監督:クロード・ランズマン
撮影:ドミニク・シャピュイ、ジミー・グラスベルグ、ウィリアム・ルブチャンスキー
出演:ナチ収容所の生存者

 ナチス・ドイツの絶滅収容所のひとつヘウムノ収容所のただ2人の生存者のうちの一人シモン・スレブニク、当時14歳の少年で、とても歌がうまかったというその男性が監督に伴われてヘウムノを訪れるところから映画は始まる。
 そこから当時からヘウムノの周辺に住んでいたポーランドの人たちへのインタビュー、他の収容所の生存者たちへのインタビュー、もとSS将校へのインタビュー、ワルシャワ・ゲットーの生存者へのインタビューなどホロコーストにかかわりのあるさまざまな人へのインタビューと、収容所跡地の映像、これらホロコーストにかかわるさまざまな資料を9時間半という長さにまとめた圧倒的なドキュメンタリー映画。
 ユダヤ人である監督はもちろんホロコーストの本当の悲劇を世界に伝えるべくこの映画を撮った。これでもかと出てくる衝撃的な証言、映像の数々。

 まず、この映画を見る前に、この映画をほめるのは簡単だと考えた。「ホロコースト」という主題、9時間半もの長さ、貴重な証言の数々、それは歴史的に重要な映像の重なりであり、われわれに戦争の悲惨さとそれを繰り返してはならないという教訓を投げかけるということ。それは見る前から予想ができた。その上で私はこの映画を批判しようという目線で映画を見始めた。その視線が見つめる先にあるのは、この映画の視点が一方的なものになってしまうのではないかという恐れ、現在存在するパレスチナ問題にもつながりうるユダヤ人の自己正当化、そのようなものが映画の底流に隠されているのではないかという危惧を持って映画を見始めた。
 見終わって、まず思ったのはこの映画は紛れもなく必要な映画であり、見てよかったということ。この映画を見ることは非常に重要だということだった。それは単純に映画を賛美し、そのすべてに賛成するということを意味するわけではないが。

 それでも私は9時間半、批判することを忘れずに見続けた。そして批判すべき点もあるということがわかった。
 映画の序盤、映画に登場するのは監督と証言者と通訳。私がまず目をつけたのはこの通訳だ。通訳を介し、通訳が翻訳した言葉で伝える。オリジナルではもちろんそのまま音声で、字幕版でも証言者本人の証言に字幕がつくのではなく通訳の翻訳に字幕がつく。最初これが非常に不思議だった。
 しかも、証言者たちはカメラのほうを見つめることなく、ほとんどカメラを意識させず、監督のほうを見つめる。このような撮り方は監督の存在を強調し、映画が監督によるレポートであるということを明確にする。われわれは証言者の証言を直接聞くのではなく、そのインタビュアーである監督のレポートを見ることになる。

 そして、次に疑問に感じたのが、人物の紹介のときに出るキャプション。ユダヤ人、ポーランド人、もとナチスという線引きは果たして中立的なのか、ユダヤ人とそれ以外という線引きを強調しすぎてはいまいか? と考える。
 そして登場する元SS将校。「名前を出さないでくれ」というその元将校の名前を堂々と出し、隠し撮りをし、隠し撮りであることを強調するかのようにその隠し撮りの状況を繰り返し映す。
 この「隠し撮り」がこの映画における私の最大の疑問となった。果たしてこのようなことがゆるされるのか?

 この元SS将校の生の証言によってこの映画の真実味が飛躍的に増すことは確かだ。被害者や近くにいたというだけの第三者の証言だけでなく、加害者であるナチスの直接の証言は強烈だ。
 しかし、「名前は出さない」と約束し、撮影していることも(おそらく)明らかにせず得た映像と情報を臆面もなく映像にしてしまう。名前を全世界に向けて明らかにする。その横暴さはどうなのか? 確かにそのナチの元将校はひどいことをした。反省をしてもいるだろう。繰り返してはいけないと思っているのだろう。だから証言をした。「正々堂々と名前と顔を出して証言しろ」といいたくなることも確かだ。しかしその元将校にも彼なりの理由があって名前を伏せることを条件にした。その条件があって始めて証言することに応じた。そのような条件を踏みにじることが果たして赦されるのか?
 監督はこの映像がこの映画に欠かせないと考えたのかもしれない。それはそうだろう。せっかく得た映像を使わないのは馬鹿らしい。しかし、私はそれは決してやってはいけなかったことだと思う。それをやってしまうことは一人の映像作家として、表現者として恥ずべきことであり、映像作家であり、表現者であると名乗ることは赦されるべきではない。表現者とは許された条件の中で自分の表現したいことを表現するものであり、禁じられたものを利用してはいけないはずだ。
 映画に限っても、映画とはさまざまな制限の中で作られるものだ。その制限の中に以下に自分を表現するのかが勝負であるはずだ。予算や、機材や、検閲や制限に程度の差こそあれ、その制限を破ることなく作るのが映画であるはずだ。この監督がやったことはたとえば「予算が足りないから銀行強盗をして予算を増やそう」ということと変わらない。
 そこに私は大きな憤りを感じた。

 映画のちょうど真ん中辺りにあるアウシュビッツの映像。生存者の証言にあわせてカメラがアウシュビッツの跡地を進む。その映像は徹底して一人称で、見ているわれわれは自分がその場所に立っているかのような錯覚にとらわれる。そしてそこに40年前に起こっていたことが陽炎のように表れるのを体験する。そのシークエンスは非常に秀逸だ。この映画の中で最も映画的で、最も感動的な場面といっていいだろう。想像させるということは、どんなにリアルな再現よりも効果的である。
 しかし、批判の眼を忘れないように見続ける私はその感動と衝撃の合間に監督の意図を探る。このシークエンスの意図は明確だ。当時のユダヤ人の衝撃と悲しみの疑似体験をさせること。それは殺されていったユダヤ人たちを理解するための近道である。しかしこのような近道を作ることで見ているわれわれはユダヤ人の視線に追い込まれていく。それは中立な視線を保つことの困難さ、ユダヤ人の受難を自分自身の身に降りかかったことであるかのように思わせる誘導。そのような誘導を意識せずに見ると、この映画は危険かもしれない。ひとつの見方に押し込められてしまう危険があるということを常に意識していなければいけない。
 そのような観客の感情の誘導はそのあたりがピークとなる。その後、感情の高ぶりはやや抑えられ、逆に生依存者たちの心理の複雑さも垣間見えるようになる。生存者のほとんどは「特務班」と呼ばれる労働者だった。それは到着してすぐにガス室に送られるユダヤ人とは違う境遇にある。彼らは被害者であると同時に、ナチスの虐殺にある種の加担をする立場でもある。自分が生きながらえるために仕方ないとはいえ、その仕方なさはそれ以外によりどころがないという仕方なさであり、それにすがるしかないというのは心理的に非常にきついことなのだ、ということが証言の端々から感じられる。

 このあたり、映画の後半の証言はほとんど直接に字幕がつく。それは英語であったり、イスラエル語(?)であったりする。それは言語の問題なんだろうか? 単純に監督が通訳を必要とせずに話せるというだけの理由なのだろうか?しかし、字幕なしにすべての言語を理解できる人は少ないだろう。
 この、通訳を介するということから直接の証言への変化はこの映画のつくりのうまさのようなものを感じる。ドキュメントは虐殺の中心、より悲惨な生存者の少ないところから、虐殺の周辺、より生存者の多いところへと移動していく。それとは裏腹に、証言者たちは通訳を介した間接的な存在から、通訳なしで語りかけてくる直接的な存在へと変化する。虐殺の中心から周辺へという移動は、最初で一気に観客をつかむとともに、物語の強弱によって9時間半という長さを退屈にならないようにする。一つ一つのエピソード(たとえばチェコ人のケース)も非常にドラマティックだ。
 このような映画のつくりのうまさは監督の手腕を感じさせると同時に、なんとなく姑息な感じというか、計算高さを感じてしまう。観客を自分の側に取り込んでいくための周到な計画がそこに感じられる。
 もちろんそれが悪いわけではない。ホロコーストという想像を絶する悲惨な体験を自分のものとするためには並大抵の衝撃では無理である。この映画はその並大抵ではないことをある程度実現しているという点ですごい映画であり、この体験をすることは非常に有益である。しかし、映画を見終わってその自分の体験を客観視することが必要になってくる。単純に映画に浸るだけで終わってしまっては、描かれた歴史的事実のはらむ根本的な問題は見えてこない。
 この映画もまたひとつの暴力であるということを見逃してはいけない。私があくまでもこだわる元SS将校の証言はその具体的なものだが、全体としてこれがナチを一方的に攻撃していることは確かだ。そしてそれはユダヤ人を正当化することにつながりうる。

 この映画を見終わって、監督があまりに感情的であることに救われる。もしこのようなドキュメントを冷静に描いていたらこの9時間半は鼻持ちならない時間になってしまっていたことだろう。そうではなくて、この映画があくまで監督の憤りの表現であることがわかると、納得できる。果てしなく果てしなく果てしないモノローグ。他人の口を借りたモノローグ。それがモノローグであることを理解したならば、そのメッセージを冷静に噛み砕くことができる。そしてその部分部分は歴史的証言として非常に価値がある。そしてまたこのモノローグが吐露する憤りはユダヤ人といわれる人たちに(少なくともその一部に)共有されている感情なのだろう。
 そのように自分なりに客観的に見つめてみて、あとはこの映画からはなれて、しかしこの映画とかかわりのあるさまざまなことごとと接するたびに思い出すことになるだろう。

夜と霧

Nuit et Brouillard
1955年,フランス,32分
監督:アラン・レネ
原作:ジャン・ケイヨール
脚本:ジャン・ケイヨール
撮影:ギスラン・クロケ、サッシャ・ヴィエルニ
音楽:ハンス・アイスラー
出演:ミシェル・ブーケ(ナレーション)

 「ガス室」によって知られるようになったユダヤ人強制収容所の町アウシュビッツ。今は平穏な町となっているその町で戦争中行われていた暴虐の数々。ナチスによって残されたスチル写真と、現在の強制収容所後の姿を重ね合わせながら、その実態を明らかにしていく。
 さまざまなメディアによって取り上げられ語られてきたホロコーストとアウシュビッツだが、1955年の時点でこれだけのことを語り、これだけの恐怖を体験させる映画世界はものすごいとしか言いようがない。

 最初、のどかの田園風景のはじにちらちらと映る鉄条網と監視所。この時点ですでに鋭いものを感じるけれど、このカラーの跡地となった強制収容所の映像が、過去の白黒の映像にはさまれることで変化していくそのさまがすごい。跡地のがらんどうのベットの列、ただの穴でしかないトイレの列。これらのただのがらんどうである空間を見ることで体の中に沸いてくる恐怖感は、過去の映像だけでは実感できないもの。そこにひしめき合っていた人々がリアルに感じられるのはなぜだろう? 腹の底から沸き上がってくるような恐怖感を生み出すものは何なのだろう?
 それは「視線」だろう。記録としてとられた収容所の映像の視点はあくまで傍観者のものでしかない。しかし、レネは跡地を訪れ、それを傍観しているのではなく、強制収容所の生活というものを再体験しようと欲し、映画を見る人にもそれを再体験してもらおうと思っている。そこから生まれる、視線の置き方がすばらしいのだと思う。
 もちろん悲惨な映像もあり、それはそれで衝撃的なのだけれど、ただ悲惨なだけで恐怖感が沸くわけではない。それは一種の見せ方の問題だ。たとえば、髪の毛の山。一枚のスチル写真であるこの髪の毛の山を、普通は静止した一枚の写真として見せるだろう。しかし、この映画ではまずその静止画の下のほうを映し、そこからカメラを上にずらしていく。つまり、実際の山を下から上へと映していく効果を一枚の写真で生み出している。これはカメラによるひとつのドラマ化であるといえる。われわれが理解するのは強制収容所と虐殺という事実であるが、本当に恐怖するのは、われわれが虐待され虐殺されるというドラマなのだ。だから、人に何らかの感情を呼び起こそうとするならば、それがたとえドキュメンタリーであってもドラマ化が必要となるのだ。そういう意味でこの映画は純粋に優れた映画であり、ドキュメンタリーという枠で捉らえたとしても優れたドキュメンタリーであるといえるだろう。
 この映画を見て、あなたは何度身をすくめただろうか?