吸血鬼ノスフェラトゥ

Die Zwolfte Stunde
1922年,ドイツ,62分
監督:F・W・ムルナウ
原作:ブラム・ストーカー
脚本:ヘンリック・ガレーン
撮影:ギュンター・クランフ、フリッツ・アルノ・ヴァグナー
出演:マックス・シュレック、アレクサンダー・グラナック、グスタフ・フォン・ワンゲンハイム、グレタ・シュレーダー

 ヨナソンはブレーメンで妻レーナと仲睦まじく暮らしていた。ある日、変人で知られるレンフィールド社長にトランシルバニアの伯爵がブレーメンに家を買いたいといっているから行くようにと言われる。野心に燃えるヨナソンは妻の反対を押し切ってトランシルバニアに行くが、たどり着いた城は見るからに怪しげなところだった…
 「ドラキュラ」をムルナウ流にアレンジしたホラー映画の古典中の古典。ドラキュラの姿形もさることながら、画面の作りもかなり怖い。

 ドラキュラ伯爵の姿形はとても怖い。この映画はとにかく怖さのみを追求した映画のように思われます。この映画以前にどれほどの恐怖映画が作られていたのかはわかりませんが、おそらく映画によって恐怖を作り出す試みがそれほど行われていなかったことは確かでしょう。そんななかで現れたこの「恐怖」、当時のドイツの人たちを震え上がらせたことは想像にかたくありません。当時の人たちは「映画ってやっぱりすげえな」と思ったことでしょう。
 しかし、私はこのキャプションの多さにどうも納得がいきませんでした。物語を絵によって説明するではなく、絵のついた物語でしかないほどに多いキャプション。映像を途切れさせ、そこに入り込もうとするのを邪魔するキャプション。私がムルナウに期待するのはキャプションに頼らない能弁に語る映像なのです。その意味でこの映画はちょっと納得がいきませんでした。なんだか映画が断片化されてしまっているような気がして。
 しかしそれでも、見終わった後ヨナソンの妻レーナの叫び声が頭に残っていて、それに気づいて愕然としました。ムルナウの映画はやはり音が聞こえる。

タブウ

Tabu
1931年,アメリカ,81分
監督:F・W・ムルナウ、ロバート・フラハティ
原作:F・W・ムルナウ、ロバート・フラハティ
撮影:フロイド・クロスビー
音楽:ヒューゴ・リーゼンフェルド
出演:マタヒレリ

 ポリネシアに浮かぶボラボラ島。そこで人々は平和に暮らしていた。島の若者同士の恋物語がある日やってきた大きな帆船によって破られる。
 ドイツの巨匠ムルナウがハリウッドに渡り、ドキュメンタリーの巨匠フラハティの協力で、ポリネシアの現地人を起用して撮った作品。セミ・ドキュメンタリー的な手法も画期的であり、ムルナウらしさも生きているかなりの秀作。

 現地の素人の人たちを出演者として使うという手法はキアロスタミを初めとして、今では数多く見られる方法だが、この時代にそのような方法が試みられたというのはやはりドキュメンタリー映画の父フラハティならではの発想なのだろうか。おそらくこの映画に出演しているポリネシアの人々は映画のことなど何も知らなかっただろう。もしかしたら映画というものを見たことも聞いたこともなかったかもしれない。そのような状況の中で映画を撮ること。それはある意味では現地の人たちの生の表情を撮ることができるということかもしれない。
 サイレント映画というのは自然な演技をしていたのでは自然には写らない。再現できない音を映像によって表現することが必要である。それを非常に巧みに扱うのがドイツ表現主義の作家達であり、それを代表する作家がムルナウである。だから、フラハティとムルナウが組んでこのような作品を撮るというのは理想的な組合せであり、また必然的な出来事であったのかもしれないと思う。この映画が製作されてから70年が経ち、はるか遠い位置からみつめるとそのようなことを考える。しかし、作品の質は現在でも十分に通じるもので、そのドラマは多少、陳腐な語り尽くされたものであるという感は否めないものの、十分魅力的だし、映像の力も強い。ほら貝や波や腰蓑が立てる音が画面から聞こえてくるように思える。
 ムルナウはこの作品の完成直後交通事故で帰らぬ人となってしまった。当時まだ43歳。わずか12本の作品しか残さずに死んでしまった天才を惜しまずにいられない。

タルチュフ

Tartuff
1925年,ドイツ,75分
監督:F・W・ムルナウ
原作:モリエール
脚本:カール・マイヤー
撮影:カール・フロイント
出演:エミール・ヤニングス、ヴェルナー・クラウス、リル・ダゴファー、ルチー・ヘーフリッヒ

 オルター氏は20年来尽くしてくれている家政婦と二人暮し。氏は家政婦から孫のエミールが俳優になり遊び暮らしていると聞き遺産をすべて家政婦に与えることにした。しかし、それは実は家政婦の陰謀であった。それに気づいた孫のエミールは変装して「タルチュフ」という映画を持って祖父の家を訪ねる。
 モリエールの「タルチュフ」を劇中劇として利用し、目先を変えた新しい映画を作り出した教訓劇じみた作品。全体的には字幕がはさまれるオーソドックスなサイレント映画。

 「最後の人」と比べると、非常にオーソドックスで、欲しいと思うところには大体字幕が入っていく。それは分かりやすくていいのだけれど、やはり字幕が入ると映像のほうに目が行きにくくていまひとつ。字幕を使わずにいかに表現するかというほうが個人的には楽しめた気がする。
 それでも、冒頭の玄関のベルが鳴るシーンから映像的工夫に驚く。 もちろん普通は呼び鈴があんなところについているはずもなく、あんなに激しく動くはずもないのだけれど、たったあれだけの工夫でベルの音が聞こえてくるのだから、すごいもの。今となってはいまひとつ実感が湧かなくなってしまった「映画的現実」と実際の「現実」との違いというものをまざまざと見せ付けられた観がある。

最後の人

Der Letzte Mann
1924年,ドイツ,72分
監督:F・W・ムルナウ
脚本:カール・マイヤー
撮影:カール・フロイント
出演:エミール・ヤニングス、マリー・デルシャフト、マックス・ヒラー

 高級ホテルのドアマンを勤める男。彼はその仕事を誇りにしていた。しかしある日、客の大荷物を持ってぐったりと休んでいるところを支配人に見つかり、トイレのボーイに降格を命じられる。おりしもその日は姪の結婚式、男はドアマンをやめさせられたとは言えず、ドアマンの豪奢な制服に身を包み毎朝出勤するのだが…
 ドイツサイレン時の巨匠ムルナウの代表作のひとつ。この映画はほとんど文による説明を使っていないが、それでも物語は十分に伝わってくる。本当に映像だけですべてを表現した至高のサイレント映画。

 この映画はすごい。サイレントといっても大体の映画はシーンとシーンの間に文章による説明が入ったり、セリフが文字で表現されたりするけれど、この映画で文字による説明があるのは、2箇所だけ。しかも、手紙と新聞記事という形で完全に映画の中のものとして使われるだけ。あとはすべて映像で表現している。
 しかも、俳優の演技、カメラ技術どれをとってもすごい。主人公を演じるエミール・ヤニングスの表情からはその時々の感情がまさに手にとるように伝わってくるし、カメラもフィックスだけでなく移動したりよったり引いたり露出を変えたり、涙で画面を曇らせたり、様々な方法で物語に流れを作り出し、映像の意味を伝えようとする。
 それに、音の表現方法が素晴らしい。最初の場面から、地面ではねる豪雨を描くことでわれわれは豪雨の音を頭の中で作り出すし、勢いよく笛を吹くしぐさで聞こえないはずの笛の音にはっと驚いたりする。
 物語時代の中身もかなり辛辣で、当時の貧富の差の大きさも感じさせるし、人々がいかに富や権威というものに踊らされているかということを風刺するものでもある。
 映像からすべてを読み取ろうとすると、けっこう想像力を掻き立てられ、「えー、最後どうなるのー?」というかなりドキドキした気持ちで見てしまいました。