ソウル・キッチン

 ドイツ、ハンブルクでレストラン「ソウル・キッチン」のオーナーシェフを務めるギリシャ系の青年ジノス。オーナーシェフと言っても出す料理はほとんどが冷凍食品。それでも近くの住民には喜ばれていた。そんなジノだが、恋人が上海に行ってしまうことになり、服役中の兄には仮出所のため雇ってくれと言われ、滞納している税金を払えと税務署には言われ、しまいにはジノ自身がぎっくり腰になってしまい…
ごちゃごちゃとした感じがソウルというよりはパンクでオリエンタルなヒューマンコメディ。監督は「そして、私たちは愛に帰る」などのファティ・アキン。

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アフター・デイズ

Aftermath
2008年,ドイツ,87分
監督:クリストファー・ロウリー
脚本:スティーヴ・ミルトン
撮影:フランク・ヴィラカ
音楽:クリストファー・デトリック
出演:マイク・マッカーリー(声)

 今から1分後に全世界の人類が消滅したとしたら… 人類のいなくなった世界では数時間後に電力が止まり、動物が自由を得る。しかし同時に汚染物質や原子力発電所などは危機を招きうる…
 緻密な理論とCG技術によって人類消滅後の世界をシュミレートしたドキュメンタリーというかなんというか。

 「今突然人類が消滅したら」というまったくもってありえない前提ではじまるこのドキュメンタリーはもやはドキュメンタリーではないわけだがでもまあ劇映画ではないわけで、一応ドキュメンタリーの範疇に入れておく。

 この映画のよさは前提が完全にありえないために、どのような結果になってもそれはあくまで想像上のことでしかないということが明らかになっている点だ。この作品は決して人類に警句を発しているわけではない。環境をテーマにしたドキュメンタリーというとどうしても見ている人を脅かすような警鐘になっている場合が多いが、これはそうではないということだ。

 見ている人はただ淡々と変わり行く世界を眺める。発電所が止まり、電力が止まることで汚染物質が流れ出したり、最終的には原子力発電所が臨界を起こしたりする。しかし人間のいない地球の時間は止まらない。人間の作り上げた多くの構造物は時間とともに劣化し、崩壊する。動物や植物は生き残り、環境は変化し、気候も変わる。

 ただそれだけだ。退屈といえば退屈だが、この作品からはいろいろなことが考えられる。今人間が地球に対して行っていることの意味、もし“人類が消滅しなかった”場合にどうなるかという予測、人類が今の生活を維持するために必要としているさまざまなこと。そんなことが頭をよぎり、いろいろと考える。

 この作品のシュミレーションはおそらく正確ではないだろうし、もしかしたら実際にはまったく違うことが起きるのかもしれない。シュミレーションの対象となっている地域が北米とヨーロッパの一部に限られているのも納得がいかない。しかし、そもそもが絵空事なのだから、そんな欠点にいちいち目くじらを立てる必要はない。足りないものは自分の頭で補って自分なりにこの素材を消化して、自分のものにすればいいのだ。

 そして、CGの質もかなりのものだ。明らかにアニメーションにしか見えないところもあるが、かなりリアルなところもあって、人間のいない世界を創造するのに十分なリアリティを備えている。絵空事ではあるけれど、ありえないことではない。そんな感覚を与えてくれる。

 この作品が与えてくれる人類が唐突にいなくなった地球のビジョンが私に語りかけてきたのは、まだ取り返しはつくということだ。人類が突然消滅するという大変革がおきなくとも、私たちは自分達人類の存在を薄めて地球の回復力を助けることができる。今の地球を病気の人だと考えるなら、人類の消滅というのはいわば決定的な特効薬だ。副作用もあるけれど病をもとから絶つことができる。しかし人類としてはそんな特効薬を使われてしまっては困るわけで、それならば地球に寄生する生き物のとして、宿主がなるべく長生きでき、かつ自分達が快適にいられるようにできる限りのことをするべきだ。そんなことを私は思ったが、果たして皆さんはどうでしょうか?

聖山

Der Heiling Berg
1926年,ドイツ,90分
監督:アーノルド・ファンク
脚本:アーノルド・ファンク
撮影:アーノルド・ファンク、ヘルマー・ラースキー、ハンス・シュニーベルガー
出演:レニ・リーフェンシュタール、ルイズ・トレンカー、エルンスト・ペーターセン、フリーダ・リヒャルト、ハンネス・シュナイダー

踊り子のディオティーマと登山家のコリ、コリの友人でスキーヤーのヴィゴ。ディオティーマが2人の山の男に出会い、恋物語が始まる。牧歌的な雰囲気だが、冬になると山は激変し人を死へと誘い込む世界になる。そんな冬の山に果敢に挑戦する男たち、それを待つ女。

『スキーの脅威』『アルプス征服』など山岳を舞台にした映画を主に撮るアーノルド・フィンクが後の女性監督となるレニ・リーフェンシュタールを主役に起用して撮ったサイレントのドラマ。レニ・リーフェンシュタールの女優デビュー作でもある。レニ・リーフェンシュタールは同監督の『死の銀嶺』『モンブランの嵐』などにも出演している。

レニ・リーフェンシュタールはそもそもダンサーで、それが女優になり、監督になって、ナチスにからめとられて、ナチスの宣伝映画のようなものを撮ってしまい、戦後は映画監督として世に出ることはできず、アフリカの先住民の写真などを撮ってカメラマンとして地位を築いたというものすごい人なわけですが、そのレニ・リーフェンシュタールの女優としての出発点がこの作品。

決して美人ではなく、しかしダンサーというだけに表現力はものすごい。やはりサイレントの時代には肉体に表現力のある人が好まれたのでしょう。とくにこの映画のように精神的というよりはある種のスペクタクルを見せる映画の場合は、ぱっとビジュアルで表現できる人が重宝される。だから、この監督はこれ以後もレニを使い続けたということ。

レニ・リーフェンシュタールのことは勉強不足で語ることができないので、この映画について書くことにしましょう。

この映画はドラマとしてはあまり面白いものではない。おそらく上映された当時もドラマとして観客を引き込むというよりは「自然の驚異!」みたいな、今で言えば「ディスカバリー・チャネル」、ちょっと前なら「野生の王国」的なものとして人々の好奇心を満たすものだったのではないかと推測できます。

そのような点から見ると、この映画はとてもよくできている。当時の編集や特殊効果の技術を差し引いても、見るべきものはある。

なんといっても感心するのは縦の構図の使い方。映画の画面というのはスタンダード・サイズ(今のテレビと同じ1×1.33の画面)でも横長なわけで、基本的には横に構図を考えざるを得ない。だから縦の構図というのは非常に作りずらい。しかし、この映画では大胆に画面を切り取って縦の構図を作ってしまう。本当に画面の左右を黒で埋めて細長い画面を作ってしまう。これはちょっと反則という気もしますが、とりあえず縦の構図というものに意識を持っていくことには成功する。

圧巻はこの映画最大の見せ場とも言える、「聖なる北壁」の登頂場面。ここでは画面サイズはそのままに縦の構図をしっかりと見せる。このシークエンスは断崖絶壁を上るシーンの連続で、とにかく上へ上へと映画は進む。これが縦の構図で非常に美しい。崖以外の部分はそれで埋めて、時間や天気の変化を表現するので画面に無駄もない。

さらに、ここにインサートされるレニ・リーフェンシュタールの部屋のシーンの構図がうまい。ものすごいロングで部屋を捉え、ものすごく立てに長い窓がある。この縦長が縦の構図という共通性を山登りのシーンとの間に築くことでシークエンスに一体感を与える。

このシークエンスはうなります。この監督立てに山の映画(「山岳映画」というらしい)ばかり撮っているわけではないらしい。

こういう場面に出会うと、映画があまり面白くなくても、我慢してみていてよかったと思います。

マーサの幸せレシピ

Bella Martha
2001年,ドイツ,105分
監督:サンドラ・ネットルベック
脚本:サンドラ・ネットルベック
撮影:ミヒャエル・ベルトル
音楽:キース・ジャレット、アルヴォ・ペルト、デヴィッド・ダーリン
出演:マルティナ・ゲデック、セルジオ・カステリット、ウルリク・トムセン、マクシメ・フェルステ

 ハンブルクのレストランでシェフとして働くマーサはすばらしい料理を作るが、スタッフには厳しく当たり、あまり打ち解けることもない。家に帰ってもしっかりと料理を作るが、食は進まず拒食症気味。休日に遊びに行くこともない。マーサを「街で2番目のシェフ」と評する友人でもあるオーナーの命令でセラピーにも通っている。そんなマーサのところに姉が交通事故死したという知らせが入る…
 女性監督であるサンドラ・ネットルベックが等身大のキャラクターを主人公にロマンティックな映画を撮った。ドイツを始めたヨーロッパでヒットし、さらにアメリカでもヒットした作品。女性ならほぼ全員が満足するでしょうという作品。料理もおいしそう…

 私はこの映画は好きですが、男性の中にはまったくもって面白くないという人も結構いるのではないかと思います。それに対して女性はほぼ全員が気に入る映画だとも思います。
 なんといってもこの映画は徹底的にロマンティックな映画。心を閉ざしていた主人公が徐々に心を開き、しかも成長していくわけですが、そこに一人の男性が現れ… とラブストーリー的な部分とシリアスな人生ものというか、ラブストーリーの枠からはみ出た部分でもちゃんと展開があり、それと主人公の心情がうまく結びついて、観客の共感を呼ぶようにできている。音楽の使い方なんかも、男っぽい観客には甘すぎる感じがするとは思いますが、映画にフィットした非常にロマンティックな音楽。それを奇をてらわずに盛り上がる場面にドンと流すので、それはもう盛り上がりをあおること請け合いです。とくにキース・ジャレットのナンバーが効いています。
 という感じですばらしいロマンティシズムの映画ということなので、展開の妙とかハラハラ感なんかはないわけです。「こうなって欲しい!」と思うとおりに物語りは展開する。マーサが運転し、リナが後部座席に座るというシーンが同じショットで2度出てくるなど映画の構成もわりにきちっとしていて、物語に入り込めるように作られているのも非常にうまいわけです。物語に入る込むことができて、あとは思うとおりに物語が展開してくれれば、それは一種の御伽噺の世界になるので、そこに浸るのは非常な快感。瞳を輝かせながら最後まで一気に… となるのです。これは皮肉でもなんでもなく、そのように観客を引き込める映画をきちっと作ったのはすごいことだと思うわけです。
 ただ、私はわずかながらロマンティックすぎると感じたわけで、それは男っぽさに価値を置いているような世にいる男性には受け入れがたい世界だということも意味しているのだと思います。

 そして、料理もとてもおいしそう。料理をおいしそうに撮るにはライティングなんかの工夫が必要なので、厨房という動きのあるところで料理をおいしそうに見せるというのはなかなか難しいと思うのですが、この映画の料理はとてもおいしそう。見終わったあとフレンチかイタリアンが食べたくなるのは男性も女性も一緒でしょう。

es[エス]

Dar Experiment
2001年,ドイツ,119分
監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル
脚本:ドン・ボーリンガー、クリストフ・ダルンスタット、マリオ・ジョルダーノ
撮影:ライナー・クルスマン
音楽:アレクサンダー・フォン・ブーベンハイム
出演:モーリッツ・ブライブロロイ、クリスチャン・ベルケル、オリヴァー・ストコウスキ

 タクシー運転手のタレクは「被験者求む」という広告を見つけ、それに応募する。その実験は集まった被験者たちを囚人役と看守役に分け、それによる精神の変化を見ようという実験だった。その実験が行われる直前、タレクは美しい女性に車をぶつけられ、そのまま一夜を過ごすという不思議な体験をする…
 過去に実際に行われ、被験者たちへの精神的影響があまりに大きく、途中で中止されてしまった。現在は心理上の問題もあり、全面的に禁止されている。この映画は実際に行われた実験をもとにして作られている。

 怖すぎます。
 この恐怖はどこから来るのでしょう。それはあまりに起こりえる出来事だから。簡単に想像できる恐怖だから。簡単に想像はできるけれど、同時にその恐怖に耐えられないことも容易に想像できる恐怖だから。
 この映画は実験を行う側についても描かれ、恋愛の話なども挟まれ、ちょっとこねたプロットになっているのだけれど、そんなことはどうでも良く、とにかく実験の中身、行われている実験のほうにしか興味は行かないし、それだけで十分であるともいえる。
 言葉にしてしまうと月並みになってしまうけれど、普通の人がいかに攻撃的に、あるいは暴力的になりうるのか、自制心を、良心を失うことができるのか。その変化は劇的なようでいて、意外に簡単なものである。結局はそういうことだ。この映画はもちろんそういうことを示唆するし、そこから考えるべきことも多く、恐怖の源もここにある。
 しかし、わたしはこの映画が成功している最大の秘密は具体的な恐怖の作り方にあると思う。ホラー映画の基本は観客に「来るぞ、来るぞ」と思わせておきながら、それでも予想もしない瞬間に観客を襲うという方法。その盛り上げ方が周到で、その遅い方が意外であるほど、観客を襲う恐怖も大きい。この映画はそんなホラー映画の文法をしっかりと守る。観客が頭の中で恐怖心を作り出せるように周到なプロットを練り、それを意外なところで爆発させる。

 なんだろう、映画の途中で囚人役の一人が「ナチス!」と口走るように、この心理作用はあらゆる集団操作に使われているし、この後も使われる危険はある。そのことを説得的に語るのではなく、純粋な恐怖として語るというのは作戦としてすごい。見ている間は完全な娯楽作品というか、サスペンスとしてみることができるけれど、見終わって「アー、怖かった」と振り返ってみると、また現実における恐怖がわきあがってくる。そういう意味では一度で二度怖いという言い方もできる。
 ファシズムには負けないぞ!

Jazz seen/カメラが聴いたジャズ

Jazz Seen: The Life and Times of William Claxton
2001年,ドイツ,80分
監督:ジュリアン・ベネディクト
脚本:ジュリアン・ベネディクト
撮影:ウィリアム・クレサー
出演:ウィリアム・クラクストン、ペギー・モフィット

 ウェスト・コースと・ジャズのジャケットをはじめとしたアーティスト写真に加えファッション写真でも名を上げた写真家のウィリアム・クラクストン。彼の半生をインタビューに再現ドラマを加えて語る。
 モデルであり、パートナーであるペギー・モフィットに加え、デニス・ホッパー、カサンドラ・ウィルソン、ヘルムート・ニュートン、バーと・バカラックなどが登場し、クラックストンについて、あるいはクラクストンと語る。

 ドキュメンタリーらしいドキュメンタリーというか、しゃれた「知ってるつもり」というか、そんなものです。「知ってるつもり」にしてはセンスもよく、出てくる人たちもものすごいということですが、基本的なスタンスは変わりません。なんといっても再現ドラマを使うというところがなんだかTV番組っぽい。別にTV番組っぽくて悪いということはありませんが、あの再現ドラマは本当に必要だったのか?という疑問は残ります。
 監督のジュリアン・ベネディクトは『BLUE NOTE/ハート・オブ・モダン・ジャズ』というジャズ・ドキュメンタリーを撮っているだけに、おそらくクラクストンに共感を感じているのでしょう。彼の作品を撮影する仕方は非常にいい。劇中でも述べられているようにクラクストンの写真の構図は非常にすばらしいのですが、その構図の美しさをうまくフィルムにのせている。
 まあしかし、ドキュメンタリー映画というよりはやはり教養番組ととらえたほうがいいんでしょうね。ジャズと写真というなんだかしゃれた教養を身につけた大人のための(あるいは大人になるための)教養番組という感じ。教養番組も面白くないと身につかないので、面白さは必要。この映画を見ていると、クラクストンにも興味がわくし、写真にも興味がわくし、ジャズにも興味がわく。ということで、とてもよい教養番組だということでしょう。
 ヘルムート・ニュートンとの写真の専門的な話とか、4×5のカメラとか、35ミリのフィルムとか、専門的な話もあるのですが、そこを下手に解説しないところがいい。そのわからなさがなんだか味わいでもあるという気がします。

吸血鬼ノスフェラトゥ

Die Zwolfte Stunde
1922年,ドイツ,62分
監督:F・W・ムルナウ
原作:ブラム・ストーカー
脚本:ヘンリック・ガレーン
撮影:ギュンター・クランフ、フリッツ・アルノ・ヴァグナー
出演:マックス・シュレック、アレクサンダー・グラナック、グスタフ・フォン・ワンゲンハイム、グレタ・シュレーダー

 ヨナソンはブレーメンで妻レーナと仲睦まじく暮らしていた。ある日、変人で知られるレンフィールド社長にトランシルバニアの伯爵がブレーメンに家を買いたいといっているから行くようにと言われる。野心に燃えるヨナソンは妻の反対を押し切ってトランシルバニアに行くが、たどり着いた城は見るからに怪しげなところだった…
 「ドラキュラ」をムルナウ流にアレンジしたホラー映画の古典中の古典。ドラキュラの姿形もさることながら、画面の作りもかなり怖い。

 ドラキュラ伯爵の姿形はとても怖い。この映画はとにかく怖さのみを追求した映画のように思われます。この映画以前にどれほどの恐怖映画が作られていたのかはわかりませんが、おそらく映画によって恐怖を作り出す試みがそれほど行われていなかったことは確かでしょう。そんななかで現れたこの「恐怖」、当時のドイツの人たちを震え上がらせたことは想像にかたくありません。当時の人たちは「映画ってやっぱりすげえな」と思ったことでしょう。
 しかし、私はこのキャプションの多さにどうも納得がいきませんでした。物語を絵によって説明するではなく、絵のついた物語でしかないほどに多いキャプション。映像を途切れさせ、そこに入り込もうとするのを邪魔するキャプション。私がムルナウに期待するのはキャプションに頼らない能弁に語る映像なのです。その意味でこの映画はちょっと納得がいきませんでした。なんだか映画が断片化されてしまっているような気がして。
 しかしそれでも、見終わった後ヨナソンの妻レーナの叫び声が頭に残っていて、それに気づいて愕然としました。ムルナウの映画はやはり音が聞こえる。

嘆きの天使

Der Blaue Engel
1930年,ドイツ,107分
監督:ジョセフ・フォン・スタインバーグ
原作:ハインリッヒ・マン
脚本:ロベルト・リーブマン
撮影:ギュンター・リター
音楽:フリードリッヒ・ホレンダー
出演:エミール・ヤニングス、マレーネ・ディートリッヒ、クルト・ゲロン、ハンス・アルベルス

 生徒に馬鹿にされる高校の英語教師ラート教授。彼は授業中に生徒が眺めていたブロマイドを取り上げる。放課後、同じブロマイドを持っていた優等生を問い詰めると、そのブロマイドに写っているのは“嘆きの天使”というキャバレーの踊り子だという。教授はその夜、”嘆きの天使”に向かうが…
 ディートリヒとスタンバーグという黄金コンビの最初の作品。ディートリッヒがアメリカでブレイクした作品でもある。

 この映画が語られるとき、常にいわれるのはディートリッヒの脚線美ということだ。ドイツで端役をやっていたディートリッヒを見出し、主役に抜擢し、アメリカに売り込んだスタンバーグ監督が、そのとき売りにした脚線美。それはもう本当に美しく、白黒の画面でもその美しさは伝わってくる。
 しかし、この作品が成功したのは単純に脚線美だけではなく、その脚線美が生み出すドラマのせつなさ。抗いがたい魅力を持つ脚線美という土台の上に気づかれた物語がまた心をつかむ。前半はコメディタッチでテンポよく進んでいくのだけれど、後半それが一転、ドラマチックな展開になっていくその変わり方も見事だし、終盤のドラマの見ごたえがすごい。
 なんといっても最後の最後、ロラロラと教授の間で交わされる言葉にならない言葉。ロラロラの考えていることが教授に伝わらないもどかしさ。あるいは伝わっているのかもしれないけれど、それを素直に受け入れられない教授のプライド。それはもう切ないのです。その切なさをしっかりと表現できるディートリッヒとそしてエミール・ヤニングス。ヤニングスといえば、ムルナウの『最後の人』なんかに出ていた名優ですから、その名優の向こうを張ってがっちりと演じきってしまうディートリッヒにはやはり脚線美という売りを超えた才能があったということでしょう。そう、その二人が舞台と舞台袖で視線を交わし、無言で語らいあう。ロラロラのほうは教授の考えていることがわかっているのだろうけれど、教授のほうはロラロラの考えていることがよくわからない。とらえられない。そのディートエイッヒの視線はどのようにも解釈できる視線。私は彼女はいまだ教授を愛していて、彼をある意味では励まそうという視線を送っているように見えた。教授はそれを受け入れることができない。そのあたりがもう切ない。
 それから、ディートリッヒは歌も見事。何でも、スタンバーグは舞台に出て歌っていたディートリッヒを見て、主役に抜擢することに決めたということなので、歌がうまいのも当たり前です。この歌を聴いて、観客は「これがトーキーのすばらしさか」と納得したことだろうと想像します。ひとつの完成形となっていたサイレントからトーキーに移行するには、このようなトーキーでなくては作れない名作の出現が重要だったのだろうと想像します。映画史的に見れば、そういった意味で重要な作品だったんじゃないかということです。

メトロポリス<リマスター版>

Metropolis
1984年,アメリカ,90分
監督:フリッツ・ラング
脚本:テア・ファン・ハルボウ、フリッツ・ラング
撮影:カール・フロイント、ギュンター・リター
音楽:ジョルジオ・モロダー
出演:アルフレート・アーベル、ブリギッテ・ヘルム、グスタフ・フレーリッヒ、フリッツ・ラスプ

 地下で機械的な労働をする大量の労働者達を尻目に繁栄を誇る巨大都市メトロポリス。そのメトロポリスを治めるアーベルの息子フレーリッヒは地上で見かけた労働者の娘マリアを追って地下に降り、労働者の過酷な現実を目にする。
 ロボットのようにエレベータに向かう労働者達の衝撃的な映像で始まるフリッツ・ラングの不朽の名作をカラー処理し、音楽を加えた作品。そうすることが悪いわけではないのだけれど、原作がもったいないという気もしてしまう。

 果たしてこのリマスターに意味があったのか? と思ってしまう。最初に「現代的な音楽を加え」と書かれていたけれど、それはすでに現代的ではなくなってしまっている。大部分がテクノ風の音楽で近未来といえばテクノという単純な発想が感じられていまひとつ乗り切れない。そしてそれよりもひどいのは歌詞が映画を説明してしまっていること。フリッツ・ラングが考え抜いて作り出したサイレントの画面を台無しにしてしまう饒舌すぎる説明はむしろ邪魔。日本にくるとそれがさらに字幕で律儀に翻訳されて、迷惑この上ない。
 しかし、元の作品自体はさすがに傑作中の傑作。すべてのSF映画の原点、大量の労働者達を一つの画面に収めたシーンの数々は本当にすごい。もちろんすべてに本当の役者を使い、CGとか合成なんて使ってはいない。いまなら引きの絵はCG合成してしまうところだけれど、それを生身の人間で実現してしまうのは当時のハリウッドが得意とした力技だけれど、ドイツでもやっていたのね。やはり20年代のドイツの映画ってのはすごいのね。
 この映画はすべてがすごい。できればオリジナル版のほうを見て欲しいところ。

緋文字

Der Scharlachirote Buchstabe
1972年,西ドイツ=スペイン,90分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ナサニエル・ホーソン
脚本:ヴィム・ヴェンダース、ベルナルド・フェルナンデス
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クナイパー
出演:センタ・バーガー、ハンス・クリスチャン・ブレヒ、イエラ・ロットランダー、アンヘル・アルバレス

 開拓期のアメリカ、原住民のガイドを連れ、セイラムという町を探してやってきたロジャーは街に着くなり、教会の前で裁判が開かれているのを目にする。その裁判はへスター・プリンの姦通の罪を裁き、相手を白状させようとする裁判だった。裁判中のへスターに近づき、意味ありげにヘスターに目配せをするロジャー、そのとき牧師が急に倒れた。
 ホーソンの緋文字をヴェンダースが映画化。ヴェンダースとしては最初で(今のところ)最後の歴史もの。違和感はあるがそれでも舞台にアメリカを選ぶあたりはヴェンダースらしさか。

 ヴェンダースの退屈さが、マイナスの方に働いてしまったかもしれない。映画自体は紛れもなくヴェンダース。回り道をしながら映像美を足がかりにゆるゆると進んでいくヴェンダースらしさ。映像美と単純に言い尽くせない映像の味をこの映画でもしっかりとこめている。
 この映画が撮られたのは「都会のアリス」から始まるロードムーヴィー3部作(って勝手に呼んでる)の直前。「ゴールキーパーの不安」で評価を得た直後に撮られている。こう考えていくとこの映画がヴェンダースの自由な意思によって撮られたのかということに疑問を感じてしまう。ヴェンダースという監督は結構人に頼まれた仕事をほいほいこなす監督のようで、最近の「ブエナ・ビスタ」しかり、「リスボン物語」しかりである。
 で、この映画がたとえ何らかの商業的な意図のものに作られたものであってもそれがそのまま映画としての価値をうんぬんということにはならないのだけれど、なんとなくこの映画には不自由な感じがしたので、そのようなうがった見方をしてしまうわけです。
 でももしかしたら、何度か見たら好きになっていくような気もする映画なんですね。最近のヴェンダースのパッとみのよさとは違う、退屈なんだけれどなんだかひきつけられる力のようなものがある気がする。「まわり道」あたりが生まれる要素になるようなものが。やはりそれは私がヴェンダースファンだからなのかしら。