歩いても 歩いても
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2004年,日本,132分
監督:塩田明彦
脚本:塩田明彦
撮影:山崎裕
音楽:大友良英
出演:石田法嗣、谷村美月、西島秀俊、りょう、つぐみ、甲田益也子、水橋研二、戸田昌宏
テロ事件を起こしたカルト教団“ニルヴァーナ”、そこから保護された子供の中でただひとり12歳の岩瀬光一だけが抵抗を続け、児童相談所にとどまっていた。しかし光一は祖父に引き取られていった妹の朝子を取り戻すべく、児童相談所を脱走し、関西から東京へ向かうこと決意する。一方、由希は光一と同年代で援交のようなこともする少女、その由希が乗った車の前に光一が飛び出し、車が横転、由希は光一を引っ張るようにしてその場を逃げ出す…
塩田明彦監督が、オウム事件を題材に、その子供たちにスポットを当てて撮った作品。だが、それほど社会派という印象ではなく、今だからこそ振り返って考えることが出来るものを撮ったという感じ。映画初出演という谷村美月の演技が素晴らしい。
塩田明彦の作品には映画が匂いたつ瞬間がある。それは大体が些細なことなのだが、時に非常に重要で強烈で印象的なものもある。この作品で言えば、途中に出てくる駄洒落の看板や、りょうとつぐみがいきなりひっぱたきあいをはじめるところなどにはっとさせられた。そして、一番強烈な瞬間といえばもちろん最後の展開だろう(ネタばれ防止)。この最後の展開には賛否両論あると思うけれど、私はとてもいいと思った(詳しくは最後にネタばれにして書きます)。
とにかく塩田明彦の監督作品には映画的な喜びというものがあふれているような気がして私は好きなのだ。ヒットした『黄泉がえり』にはそれがあまりなかったような印象があるが、『月光の囁き』などをみると、そのような印象を強く持つ。
が、この映画はそのようなこと以前に、“オウム”という題材によって話題を呼ぶし、どうしてもそこから映画を眺めてしまうことになる。もちろんフィクション化されていて、具体的にオウムと結びつくわけではないが、この“ニルヴァーナ”がオウムであることは説明するまでもないことだし、そしてそれは「カルト教団」なるものの極限値ということでもある。
その上でこの作品を考えて行くとどのように考えることが出来るだろうか。まず、時がたつにつれて「被害者-加害者」という事件の前面に登場する関係から、その周囲のものへと目が向けられて行っているという一般的な流れにそってこの映画が作られているということはいえる。それは2001年に是枝裕和が『DISTANCE』において加害者の家族たちを物語の中心に据えた問題意識の延長線上にあると言っていいだろう。主人公の光一は加害者の家族であり、かつ自分も自主的ではないにしろ信者だったという『DISTANCE』の家族よりも一歩踏み込んだ形で教団と関わっていた存在である。
そしてもちろんもっとも重要なのは彼が子供だということである。しかも、何もわからない小さな子供というわけではない。彼にとって“ニルヴァーナ”とは何なのか。これとまったく同じことを映画の終盤で教団で少年の教育係だったジュナーナが光一に聞く。このジュナーナの長い台詞は映画の中では少し異質で、流れの中から浮いた感じはするのだが、この台詞はこの映画のエッセンスを凝縮した台詞でもある。この台詞がエッセンスを凝縮しているというのは、この映画の前提(プロローグ)が文字によって語られるということも含めて、この映画の説明臭さに通じることは確かなのだが、この映画の「意味」を考える上では非常に重要なものとなってくる。
その台詞の中には、教団も現実であったというような言葉も出てくるのだが、これもまたひとつ重要な問題を提起している。カルト教団と現実、カルト教団というものはわれわれの現実と隔絶したものであるかのように思えてしまうが、しかしもちろん彼らが現実であるということこそが問題なのではないか。この映画が捉えるのは隔絶しているはずのカルト教団と現実の中間にいる人たちだ。彼らの存在そのものがカルト教団の現実性を担保するのだ。とくに、由希の存在はもっとも現実社会に近い中間点である。それは「家族」という問題を持ち出すことでカルト教団と現実とが変わらないということを示す存在である。
そしてその由希の存在は光一や朝子にとっては「お母さん」以外の何者でもない大量殺人犯を社会はどのように扱えばいいのかという問題をも提起する。これは再び『DISTANCE』とつながる。加害者であるがゆえに家族であるにもかかわらず悼むことすら許されないような状況、許しを請うことすら罪だと考えられてしまうような状況、そのような状況が作り上げられてしまっているのをまざまざと見せられるのだ。
しかし、加害者の家族や自分は実行犯ではない信者たちが、真に被害者に対して責任を取るなり心から許しを請うなりするには、まず自分の家族たる加害者を悼むことからはじめなくてはならないのではないだろうか。死者(とはかぎらないが)を悼み、それを消化することによってはじめて被害者たちのことを正当に見ることが出来るようになる。簡単に言えばそういうことだ。
!!!!ネタばれネタばれネタばれ あり!!!!!!!
それは、この映画の最後の光一の白髪にも通じる。この光一の白髪が意味するのは光一が母親の死を悼み、その衝撃をこの短い間に無理やりに消化したということなのではないか。だからこそ光一は祖父に向かって「ワレスベテヲユルスモノナリ」などということが出来たのだ。光一は母を死に追いやったものを許すことが出来たからこそ祖父も許すことが出来た。母を悼むことなく祖父にあっていたら、光一は(由希と同じように)祖父を殺してでも朝子を連れて帰ることになったろう。
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Say it isn’t so
2001年,アメリカ,96分
監督:ジェームズ・B・ロジャーズ
脚本:ピーター・ゴールク、ジェリー・スワロー
撮影:マーク・アーウィン
音楽:メイソン・ダーリング
出演:ヘザー・グレアム、クリス・クライン、オーランド・ジョーンズ、サリー・フィールド
インディアナの小さな町の鳥獣保護センターで働くギリーは恋人もおらず、母親を探すことに熱意を傾けていた。彼の望みは鳥肌の立つような完璧な美人と結婚することだったが、ある日、町の美容院にそんな美女がやってきたことを聞き、ギリーは髪を切ってもらうことにするが、その美容師ジョーはうっかりギリーの耳を切ってしまう。しかし、そのことから二人の付き合いがはじまり…
『メリーに首ったけ』のファレリー兄弟がプロデュースしたナンセンス・コメディ。『メリー…』よりさらにB級テイストとが増しているが、ギャグが当たり前すぎてあまり笑えない…
はっきり言って、こんなネタじゃ笑えません。映画を10分見れば、結末まで大体読めてしまうし、クリス・クラインにはいまいちコメディアンとしてのセンスが感じられず、ヘザー・グレアムもしかり。狙ったギャグでも笑えるとしても失笑というか「ハハン」と鼻で笑うくらい。
なのであまり語ることもありませんが、唯一ギャグとして成立していたのはビッグ・ディッグというキャラクター。名前がそもそもお下劣ギャグなわけで、さらに障害者をネタにしているということでいろいろ問題はあるわけですが、ファレリー兄弟らしいネタで、さすがにつぼを心得いているというか、あまり差別的にはならないようにうまく使っている。乾燥機に入っているシーンが一番の爆笑シーンだったかもしれません。
『メリーに首ったけ』は面白かったけれど、私は個人的にはあまりファレリー兄弟がヒットしてこないようです。やるならもっとばかばかしく、とにかくバカにやってほしいと思います。
Goldeneye
1995年,アメリカ,130分
監督:マーティン・キャンベル
原案:マイケル・フランス
脚本:ジェフリー・ケイン、ブルース・フィアスティン
撮影:デレク・メディングス
音楽:エリック・セラ
出演:ピアース・ブロスナン、ショーン・ビーン、イザベル・スコルプコ、チャッキー・カリョ、ジュデュ・デンチ
冷戦時代、ソ連の化学兵器研究所へと潜入したジェームズ・ボンドは相棒の006ことマックスを残して逃げ出してしまった。その9年後、アメリカ海軍の最新のヘリコプターが旧ソ連の女性パイロットによって盗まれてしまう。衛星写真の分析から北ロシアの基地にそのヘリコプターがあることを発見するが、その直後、その基地は破壊されてしまう…
ピアース・ブロスナンを5代目ジェームズ・ボンドに迎えた007シリーズ第17作。スタッフ/キャストを一新し、新しい007を作り出した。
冒頭のダムを飛び降りるシーンのすごさにぐっとつかまれる。ピアース・ブロスナンのボンドもそれほど違和感はない。その後まっとうなアクション映画のように進んでいくけれど、おなじみの秘密兵器研究所あたりから007らしくなってくる。やはり007はその過剰さがなくてはいけない。ジェームズ・ボンドというスーパーマンの不自然なまでのすごさがやはりいい。圧巻は戦車のシーン。かなり長い時間を割かれたそのカーチェイスならぬ戦車チェイスは笑ってしまうくらいすごい。過剰さが笑いを誘うアクションというのはやはりいいですね。ほかにもそんなシーンがたくさんあるので楽しめます。
この映画は冷戦後を冷戦を引きずって描いている。「旧ソ連」の一部の人々がスパイの敵になるという設定。この方法は冷戦時代の方法を生かすことができるのでやりやすいでしょう。しかし時がたつにつれ、リアルさが薄れてくると思われるので、こればかりに頼っているわけには行かない。007もこれ以降は冷戦からは距離を置いているようです。
これからのスパイ映画を考えるとやはり、対テロリストというのがホットなトピックになるでしょうか。「ワールド・イズ・ノット・イナフ」はテロリストの話だったような気が… 個人的にはアメリカの陰謀を暴くイランのスパイ映画なんかがあったら見たいですが、誰か作ってくれないかなー、そういう映画。
The Talking of Pelham One Two Three
1998年,アメリカ,90分
監督:フェリックス・エンリケス・アルカラ
原作:ジョン・ゴーディ
脚本:ピーター・ストーン、エイプリル・スミス
撮影:フェリックス・エンリケス・アルカラ
音楽:スチュワート・コープランド
出演:ヴィンセント・ドノフリオ、エドワード・ジェームズ・オルモス、ロレイン・ブラッコ、ドニ-・ウォールバーグ
2人の男が合図を送りあいながら地下鉄に乗り込む。駅に着くと別の2人が運転手と車掌を銃で脅し、電車を発車させた。地下鉄は四人の男女にハイジャックされた。果たして彼らのねらいは…
1974年の「サブウェイ・パニック」のリメイク。アメリカでテレビ用の映画として作られた。フェリックス・エンリケス・アルカラはセガールの「沈黙の断崖」の監督。出演者たちも「どっかで見たことあるけど…」という感じ。
テレビ用と考えるとなかなか優秀な作品。それはもちろんもとがあるからだろうけれど、しっかりとした脚本にしっかりとした映像。20分に一回くらい「ここでCM」というようにフェードアウトしていくのはご愛嬌。
といっても、特筆すべきことはありません。全体に映像にフィルタがかかって青っぽい映像になっているのがなかなかいい感じ。ブルー役のヴィンセント・ドノフリオですが、どこかで見たことあるんだけど、結局どこで見たのかは思い出せずじまい。
Killer Crocodile 2
1990年,イタリア,87分
監督:ジアネット・デロッシ
脚本:ジアネット・デロッシ
撮影:ジョバンニ・バーガーミニ
音楽:リズ・オルトラーニ
出演:デブラ・カー、アンソニー・クレンナ、トーマス・ムーア
密林に現れた巨大ワニ(クロコダイル)を退治する二人の男を描いた前作から数年後、再びやつが現れた。
いわゆるジョーズ系パニック映画のバリエーション。驚きなのはイタリア映画ということ。しかし、セリフは英語、出てくる人もドウみてもアメリカ人。ワニは手の込んだ張りぼて。このあたりがB級映画らしくて非常にいい。B級映画好きの人にはお勧め。普通の映画好きの人には薦めません。
すべての仕掛けがわかりやすいところが非常にB級映画らしくていい。川を泳いでいるワニが丸太のように微動だにしなかったり、アングルによって明らかにワニの大きさが違っていたり、これぞB級!というつくりです。
そして、もうひとつB級なところは映画のつくり。特に登場人物の感情を表すときに使われるのがほとんど顔のアップという非常にわかりやすい構成。黒人の船頭が欲情するときに顔のアップと、視線の先にある尻のアップを交互に見せるところなんかがその典型。
「映画にA級もB級もない」などといわれますが、こういう映画を見ると、普通の映画の駄作といわゆる「B級映画」との違いがわかります。