リオ40度

Rio 40 Graus
1955年,ブラジル,100分
監督:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
原作:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
脚本:ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス
撮影:エリオ・シルヴァ
出演:グラウセ・ローシャ、ロベルト・バタリン、アナ・ベアトリス、モデスト・デ・ソウザ

 ブラジルの巨匠、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスの初期の作品。リオデジャネイロを舞台に、町に住む様々なカリオカ(リオっ子)の休日を描く。
 物語はスラムに住む少年たちと若者たち、休暇で町に出てきた兵士、を中心に展開する。コパカバーナのビーチやサッカー場を舞台に、巻き起こる短い物語を互いに絡ませあいながらモザイク状に見せてゆく。
 1960年代にブラジルを中心にラテン・アメリカ全体に起こった「シネマ・ノーヴォ」に先鞭をつけるといわれるこの作品はヌーベル・ヴァーグの担い手アンドレ・バザンとフランスワ・トリュフォーに絶賛されたことで世界的な注目を集めた。 

 この作品は、漫然と見ていると、人間の描写も平板だし、今から見れば映像もいたって普通の映画だが、この映画が画期的な点は様々なエピソードが微妙な接点を持ってモザイク上に絡みあるという点である。
 このつくり方はモンタージュ理論に新たな意味を加える意味がある。あるいは、従来のモンタージュから因果関係を奪ったという意味がある。従来のモンタージュ理論というのは、一見飛んでいる場面と場面をつないでそこに自然なつながりを作り出すことだったが、ここでのモンタージュは因果関係のない場面をただつなぐだけ、しかし観衆はそこに、かすかなつながりを見いだす。このような手法は今ではありふれたものだけれど、この当時では画期的なものだったろう。
 わかりやすい例をあげれば、コパカバーナでナッツをだめにし、物乞いをする少年が他の場面で主人公となっている兵士からお金をもらうシーン。この少年周辺の物語とと兵士の物語はまったく因果関係は書いているのだれど、ここで二つの物語が一瞬出会うのだ。
 したがって、この物語は最終的に収縮することがない。一応婚約がまとまり、一日が終わることで、区切りはつけられるものの、プロットは散逸したままである。死んでしまったジョルジはほおっておかれたままだし、ダニエルの今後だってわからない。
 このようにプロットが散逸していく映画(つまり、すべてのものごとが一件落着大団円で終わらない映画)というのは比較的新しいものなのだ。このドス・サントスはゴダールやトリュフォーと並んで、そのようないわゆる「新しい映画」を生み出した先駆的な監督なのである。

忘れられた人々

Los Olvidados
1950年,メキシコ,81分
監督:ルイス・ブニュエル
脚本:ルイス・ブニュエル、ルイス・アルコリサ
撮影:ガブリエル・フィゲロア
音楽:ロドルフォ・ハルフター
出演:ロベルト・コボ、エステラ・インダ、アルフォンソ・メヒア

 ルイス・ブニュエル初期の代表作。メキシコシティのスラムに生きる少年を中心とした人々の暮らしを描く。貧しいゆえの不幸、精神の歪みを感情を押し殺して描き出すさまは見事。
 夢の描写、動的なカメラワークとブニュエルらしい映像美も味わえる。娯楽色の強いものが多いメキシコ時代の作品の中では異彩を放つシリアスな作品に仕上がっている。
 カンヌ映画祭監督賞受賞。 

 映像とセリフ以外のものをまったく使わずに、これだけ人の心理を表現するブニュエルの力量はさすがとしか言いようがない。特に、校長に信用され意気揚揚と出かけたペドロがハイボにつかまり、いらだたしさをつのらせてゆく辺りは、こちらまでもがこぶしを握り締めてしまうような見事な描写力である。
 ここに出てくる人々はみなが皆悪人ではなく、しかし貧しさのゆえに心を歪ませ、そのせいで自らの状況から抜け出せないという悪循環に陥っている。この設定はまさにブニュエル的といえる。人々の善の部分を信じ、社会の悪を告発する。そのようなブニュエルの信念が、作品全体から滲み出す。そして、救われない結末……
 観る側の精神の奥底に入り込んでくるような力のある映画だった。

セントラル・ステーション

Central do Brasil
1998年,ブラジル,111分
監督:ヴァルテル・サレス
脚本:ホアン・エマヌエル・カルネイロ、マルコス・ベルンステイン
撮影:ヴァルテル・カルヴァロ
音楽:アントニオ・ピント、ジャック・モレレンバウム
出演:フェルナンダ・モンテネグロ、マリリア・ペーラ、ヴィニシウス・デ・オリヴェイラ、ソイア・ライラ

 ブラジル、リオデジャネイロのセントラル駅で代書屋をするドーラのもとに、ある日行方知れずの父親に手紙を書こうとする親子がやってくる。しかし、その直後、その母親が事故で死んでしまい、少年はドーラを頼ってくる。
 ブラジル版「グロリア」とでも言うような雰囲気をもつフェルナンダ・モンテネグロがとてもの味があっていい。
 ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞

 ブラジル映画というとなかなかなじみが薄いものですが、1960年代に作品を撮ったグラウベル・ローシャやネルソン・ペレイラ・ドス・サントスらの映画は<ラテンアメリカの新しい映画>の波の先駆的なもので、フランスの「ヌーヴェル・バーグ」と呼応する形で新しい映画の形を築こうとするものでした。現代では、ハリウッドに進出した映画監督エクトル・バベンコがかろうじて知られているというところでしょうか。
 レヴューではなく、ただのブラジル映画の紹介になってしまいましたが、この映画は、そのようなブラジル映画の歴史を背景に新たなブラジル映画の地平(国際的な意味での)を開くものとして評価できるのではないかということです。

幻影は市電に乗って旅をする

La Ilusion Viaja en Tranvia
1953年,メキシコ,83分
監督:ルイス・ブニュエル
脚本:マウリシオ・デ・ラ・セルナ、ルイス・ブニュエル、ルイス・アルコリサ、ホセ・レヴエルタス
撮影:ラウル・マルチネス・ソラレス
音楽:ルイス・ヘルナンデス・ブレトン
出演:ギリェルモ・ブラボ・ソーサ、リリア・ブラド、カルロス・ナバロ、フェルナンド・サト

 メキシコシティの市電局の車掌カレイレスと修理工タラハスは、担当していた133号の解体によって自分たちも解雇されるであろうことを知る。133号に別れを惜しむ彼らは酔っ払い、気づけば133号のところにきていた。彼らは勢いで133号に乗り込み、夜の町へと出発する。
 カレイレスとタラハスを中心としたやりとりがおかしく、カフカが喜劇を書いたならこんな風になっていたのではと思わせるコメディ。
 ルイス・ブニュエルのメキシコ時代の代表作のひとつ。

 帰りたいけど帰れない。そこに現れる乗客たちの多様性が暗示しているものは何なのだろうか?単なるコメディではなく、その乗客たちにブニュエルは何らかの意味を託したのだろう。社会(階層)・宗教・政治(共産主義)・アメリカなどを象徴的に示す人々が乗り込み、我々にじんわりと何かを訴えかけては下りてゆく。
 そして、全体がまた現実であるのか幻想であるのかもわからない構造。一貫して現実として描かれた入るのだけれど、それがどうして現実だとわかるのか?果たして133号は本当に町を走ったのか?カレイレスとタラハスの夢物語では?町の人々の見た幻影では?最後のナレーションを聞いてそんなことを考えた。

南東からきた男

Hombre Mirando al Sudeste 
1986年,アルゼンチン,107分
監督:エリセオ・スビエラ
脚本:エリセオ・スビエラ
撮影:リカルド・デ・アンヘリス
音楽:ペドロ・アスナール
出演:ウーゴ・ソト、ロレンツォ・クィンテロス、イレーネ・ベルネンゴ、クリスティーナ・スカラムッサ

 田舎の精神病院に勤めるデニスのところに突然現れた青年ランテースは、自分は宇宙船で地球にやってきたと主張する。そのこと意外はすべて正常な彼はいったい何のために精神病院にやってきたのか?アルゼンチン版『カッコーの巣の上で』とも言える作品。

 ランテースは果たして「キリスト」なのか?
 ランテースをキリストとし、デニスは自分をピラトゥに例えるが、それならば救われるべきローマの民は精神病院の患者たちということになる。果たしてそのような図式でこの映画は成り立ちうるのか?精神病院という閉ざされた世界でのみ語られる物語は、全的な救済の一部として描かれているのか?
 好意的にとれば、この物語はランテースによる救済の物語と考えることもできるが、救済されるべき(無知な)人々として精神病患者たちを取り上げるというのはどうにも落ち着きが悪い。しかもその患者たちはあくまで没個性的であって、非人間的である。それに対して、医師のデニスは内面も深く描かれ、人間的である。非人間的な患者たちが徐々にランテースに感化され、人間デニスの苦悩はいっそう深くなってゆくという構図はあまりに安直で納得がいかなかった。
 映像は非常に美しいのだけれど、その美しさまでもがなんだか作り物のように見えてきてしまって辛かった。

メタル&メランコリー

2000/3/11
Metaal en melancholie
1993年,オランダ,80分
監督:エディ・ホニグマン
脚本:ピーター・デルピー、エディ・ホニグマン
撮影:ステフ・ティジンク
出演:ペルーのタクシー運転手たち

 ペルーの首都リマで、タクシー運転手をする人々を取材したドキュメンタリー。ドキュメンタリーというよりは、エピゾードの集成。彼らは本職の運転手ではなく、俳優だったり、教師だったりする。経済的理由によって、副業として運転手をせざるを得ないのだ。
 日本人から見れば彼らタクシードライバーは皆、ひどい生活をしているのだけれど、そこに悲惨さはなく、陽気ささえ感じられる。私はそれをラテン気質とは言いたくない。ラテンアメリカという地域を「ラテン」という言葉でくくってしまうことは簡単だけれど、適切ではないと思う。それをこのドキュメンタリーは語ってくれる。
 決して安っぽいヒューマニズムに陥ることもなく、笑いをちりばめ、タクシードライバーたちの生活を描く描き方は、「これが本当のペルーだ!」と感じさせてくれる力があり、見てて飽きることがなかった。