陽炎座

1981年,日本,139分
監督:鈴木清順
原作:泉鏡花
脚本:田中陽造
撮影:永塚一栄
音楽:河内紀
出演:松田優作、大楠道代、加賀まり子、楠田枝里子、磨赤児

 劇作家の松崎は一人の女と不思議な出会いをする。そのことをパトロンの玉脇に話すが、実はそれは玉脇の妻だった。玉脇には二人の妻がおり、一人目の妻は実はドイツ人なのに、日本人の格好をさせているという。
 ストーリーを説明しようにも、なんだかわけのわからない清順ワールド。しかし、小気味よいカットの切り方や、フレームの美しさについつい見入ってしまう。出ている役者も超個性的で、妙に味がある不思議な味わいの作品。

 昨日の『巨人と玩具』とはうって変わって映画の流れは非常に緩やかな映画。しかし、部分部分を取ってみると、妙なスピード感がある。とくに、異常に短いカットのつなぎや、異常に速いズームアウトが目に付く。普通、人の顔の切り返しというのは会話のときに、それぞれのセリフをアップで撮るために使うのだけれど、この映画ではセリフがないのにやたらと切り返す場面がある。しかも、ワンカットは1秒にも満たない短さ。なんだかわけのわからないおかしさ。
 異常に速いズームアウトというのはかなり目に付くが、しかもそれが微妙にぶれる。これまた不思議な感じ。しかも、不気味な不思議さではなく、なんとなくおかしい不思議さ。全体としては非常にまじめに映画が作られているのだけれど、部分を見ると妙におかしい。わけがわからない。しょっぱなから出てくる人たちが誰なのかまったくわからないし、「病院」と言われているところはちっとも病院に見えないし、誰も人もいないし、しかも妙にきれいで作りたてのセットであることがばればれ(反小津)。
 何の事やらさっぱりわからん。何で品子は心中するのにたらいに乗ってんじゃ?とかね。「狂気」というてんで増村との共通項を見出しました(別に見出さなくてもいいんですが…)。あと共通するのは場面転換の早さかな。
 鈴木清順ってのは本当に不思議な監督だ。発想がとっぴなところがちょっとレオス・カラックスに似てるかも。などとこちらもわけのわからないことを考え始めてしまいました。

巨人と玩具

1958年,日本,96分
監督:増村保造
原作:開高健
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、高松英郎、小野道子、伊藤雄之助

 ワールド・キャラメルの宣伝部に勤める新入社員の西は課長の合田に誘われて会社の喫茶室でお茶を飲んでいた。そこで見かけた娘に合田課長は目をつけ、会社のマスコットキャラクターにしようと考えた。そのためにその娘・京子の住所を聞き出し、西をその世話役につけた。
 スターダムにのし上がるどこにでもいる少女、企業の非人間的な活動、などなどあまりにたくさんの要素が盛り込まれ、それがものすごいスピードで展開されてゆく。モダニスト増村の真骨頂といわれるこの作品は気持ち悪くなるほど、盛りだくさんでめまぐるしい。

 すさまじいスピード。阿部和重はこの映画を「日本映画史上最速の映画」と呼んだ。最速かどうかはわからないが、とにかく速い。何が速いって、セリフも速いが、セリフに間がない。動きも速いがシーンからシーンへの展開の飛び方が速い。あれよあれよと言う間に京子はスターになってしまい、あれよあれよと言う間に西はアポロの女と付き合ってしまい、あれよあれよと言う間にみんながみんな人間が変わってしまう。これが本当のジェットコースタームービー。わたしは、なんだか乗り物酔いのように気持ち悪くなってしまいました。うーん、おなかいっ ぱい。  
  この間3本見たときにはしつこいほど感じられた「狂気」と言うものはそれほど感じられなかったし、「女に振り回される男」という感じもなかった。「狂気」と言うと、誰かがと言うよりは社会全体が「狂気」に陥っていると主張しているようにも思える。最初、カメラのほうに向かってくる人の波で始まり、さいご、カメラから去っていく人の波で終わるということが、後ろを振り返ることのない社会の歪みを象徴しているのかもしれない。主人公の西はその歪みを認識していて、それを拒否しようとするのだけれど、彼がそれを拒否し切れなかったのはかなり意味深い。血を吐きながらも働こうとする合田に代わって夜中に宇宙服を着て町を歩く西は何を拒否し何を受け入れたのか? どうして彼は笑うことができたのか?  
  この映画は初期の作品なので、増村らしいとされる「なまめかしさ」はない。それは『青空娘』にも共通している特徴だ。そして映画がまじめだ。別に後期(というか中期)の作品が不真面目だというわけではないが、初期の作品はメッセージがストレートだ。この作品は特にそう。社会に対する増村の目というものがかなりしっかりとあらわれていて興味深かった。  これは野添ひとみと若尾文子の差でもあるのかもしれない。初期増村は野添ひとみを好んで使い、特に川口浩との共演が多かった。しかし『最高殊勲夫人』以降は若尾文子を好んで使った。野添ひとみは自由奔放で楽しいイメージ、若尾文子はなまめかしく男を狂わせるイメージだ。個人的には若尾文子のほうが好きですけどね。
 なんとも取り留めなくなってしまいましたが、初期の増村映画について少し考えてみました。

痴人の愛

1967年,日本,93分
監督:増村保造
原作:谷崎潤一郎
脚本:池田一朗
撮影:小林節雄
音楽:山本直純
出演:安田道代、小沢昭一、田村正和、倉石功

 工場で実直な技術者として働く河合譲治はひそかに家に自由奔放な女ナオミを住まわせていた。譲治はナオミを自分の理想的な姿に育て、惜しみなく金を注いでいたのだ。
 三度も映画化されている谷崎潤一郎の『痴人の愛』。増村は安田道代と小沢昭一というコンビでこれを映画化した。この作品も女に翻弄される男、そして狂気という増村らしい作品。

 この『痴人の愛』の独特なところは、まず譲治が工場勤めであること、そして、その工場の映像とノイズとが時折インサートされること。もうひとつは「ナオミの日記」という写真日記の存在。それぞれが映画にとって非常に効果的な要素となっている。工場はもちろん、対比のために存在しているのだが、その工場の映像が完全に無人であるというところがいい。
 物語のほうも増村らしく、少々ひねってある。一番大きいのは、譲治に家を追い出され、男の家を渡り歩いている間のナオミを描く場面がないこと。浜田がひどい境遇に落ち込んだということを説明するのだけれど、実際にナオミが何をしているのかを我々は目にすることはできない。そして、服を取りに帰ってきたナオミは(戻りたいという意思があることは察することができるにしても)毅然として弱みを見せない。「強い女」。増村的世界の住人らしくナオミは男を振り回す強い女なのだ。だから、戻ってからも以前以上に譲治を強く支配する。そして譲治のほうは狂気との境をさまよう。ナオミという女を巡る狂気。浜田もまたその狂気の落ち込みそうになるのだけれど、彼はその愛を理性にとどめることで狂気への一歩を踏みとどまる(ように見える)。
 『刺青』でおセツをめぐって狂気へと踏み出していったおとこたちと同じく、男たちはナオミを巡っても狂気へと踏み出してゆくのだ。

刺青(いれずみ)

1966年,日本,86分
監督:増村保造
原作:谷崎潤一郎
脚本:新藤兼人
撮影:宮川一夫
音楽:鏑木創
出演:若尾文子、長谷川明男、山本学、佐藤慶、須賀不二男

 何者かに薬をかがされ、背中に刺青を彫られる女。その女は裕福な質屋の娘おセツ。おセツはある夜、手代の新助と駆け落ちをした。とりあえずかくまってくれるといっていた船宿の権次のところで蜜月を過ごすが、そんなおセツに彫師の清吉が目をつけていたのだ。
 谷崎潤一郎原作、新藤兼人脚本、増村保造監督、若尾文子主演という『卍』と同じメンバーに名カメラマン宮川一夫を加えて撮られた、映画史上に残る名作。

 男を翻弄する女という増村が好むテーマにぴたりとはまる谷崎の「刺青」。なぜこれまで映画化しなかったのかという原作をやはり見事に映画化した増村だが、この作品の成功はやはり宮川一夫にかかっていたのかもしれない。ややもすれば安っぽいやくざ映画になってしまいそうな題材を見事に芸術の域に高めているのはその映像の美しさだろう。もちろん若尾文子の演技も素晴らしいけれど、人間の肌がこれだけ美しく撮られている映画は見たことがない。本当に這っているように見える女郎蜘蛛の刺青が描かれた背中は吹き替えが多いらしいが、それは美しいものだった。
 ということで、映像はさておき、この映画でもやはり狂気が登場する。ここでの狂気は若尾文子に言い寄る男全員ということもできる。妻になるという口約束を信じて妻を殺してしまう権次はその典型だ。しかし、もっとも深く「狂気」に犯されているのは新助だろう。おセツを殺そうとする瞬間、新助は「狂気」との境界を踏み越えようとしていた。そして清吉。おセツの肌に女郎蜘蛛を彫って以後狂気に犯されたようにさ迷い歩く清吉は、しかし、最後に女郎蜘蛛をさす殺すことで正気の域に踏みとどまったのか、それともあるいは、それこそが狂気への決定的な一歩だったのか? 見終わった直後はそれは彼が正気にとどまったということだと感じたのだけれど、今考えると、あれが決定的な一歩であったのだとも感じる。
 とにかく「狂気」が付き纏う増村の映画。狂気への決定的な一歩を踏み出すまいとふんばっている人々の映画である。

偽大学生

1960年,日本,94分
監督:増村保造
原作:大江健三郎
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:黛敏郎
出演:若尾文子、ジェリー藤尾、船越英二、伊丹一三(十三)

 四年浪人した末にまたも大学に落ちてしまった大津彦一は田舎の母親のためにも大学に受かったことにして、偽大学生として大学に通おうと決意する。そうして東都大学で偽大学生生活をはじめた彦一はひょんなことから学生運動グループに仲間入りし、学生運動に参加することになるが…
 当時文学界のニューウェーブとして話題を集めていた大江健三郎の小説「偽証のとき」を映画化。若者の複雑な心理を偽大学生という要素によって抉り出したサスペンスフルな映画。
 主人公はジェリー藤尾で若尾文子は主役ではないのだが、男ばかりの学生の中でその存在感は絶大。作品はモノクロ。

 いつものことながら、増村保造は人間の心理を抉り出す。「狂気」と「正気」の間には紙一重の隙間もないのかもしれない。最後のクライマックス、学食に学生たちを集めて演説会が行われ、若尾文子扮する睦子がたまりかねて演説をぶつシーン、真実を語っているはずの睦子がみなに笑われるシーン、われわれは一瞬、本当に何が真実なのかわからなくなってしまう。もしかしたらこの映画全体が狂気の産物だったんじゃないかと思ってしまう。それは「ドグラマグラ」の世界のように。
 映画は結局きちんと話を整理し、現実は現実に狂気は狂気にと返してしまうのだけれど、それで現実の問題が解決されたわけではないことに変わりはない。 増村が好んで描く「狂気」というもの。恣意的な線引きで「正気」と区別されてしまう狂気。我々はそれが怖いけれど、それは身近にある。あるいは身近にあるからこそそれが怖い。増村の映画にはその「狂気」が常にといっていいほど頻繁に出てくるのだけれど、それを正面から描くことはなかなかない。あるいは、はっきりと境界を越えて「狂気」のほうに入り込んでしまった人を描くことはなかなかない。むしろ境界ぎりぎりで「正気」のほうにいる人、あるいはまさに境界線上にいる人を描こうとする。
 そんな意味で、この作品は他の作品とは少し違うということもできるし、同じということもできる作品。私としては、増村的世界を大江健三郎が歪ませた、あるいは、増村の歪みと大江の歪みがあわさって新たな歪みを生み出した作品と考えたい。

盲獣

1969年,日本,84分
監督:増村保造
原作:江戸川乱歩
脚本:白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:間野重雄
出演:緑魔子、船越英二、千石規子

 自分がモデルとなった彫刻を見るため画廊に足を運んだアキはそこでその彫刻をなでまわす一人の盲人に出くわした。それを見たアキは不気味な感じを覚えた。数日後、マッサージ師を呼んだアキは突然麻酔薬をかがされ、目や鼻や乳房の不気味なオブジェが並ぶ大きな部屋に閉じ込められ、そこにあの盲人が現れた。
 江戸川乱歩の原作に、圧倒的な迫力のセット。とにかく妖艶にして不気味な世界がそこにある。しかしそれはただ気持ち悪いのではなく、なんともいえない魅力を放つ世界でもあるのだ。

 まず最初の印象は、異常なほどに芝居じみているということだ。アキが閉じ込められることになるアトリエもそうだし、3人の俳優たちの演技もそうだ。とにかくすべてが大げさで非現実的、それがこの映画の第一印象だった。

 しかし、その非現実的なところというのは物語が進むにつれて気にならなくなっていく。アキはその部屋から逃げ出そうと試みるが、それが難しいとわかると今度は男をたぶらかして母親と反目させ、状況を変えようともくろむ。その手練手管は非常に現実的だし、アキと母親の対決にはリアルなドラマがある。

 それでもやはり目を引くのは船越英二の異常さだ。その異常さは観ているものに恐怖心を抱かせる。これが目を引くのは、その異常さだけが実はこの非現実的な物語の中で現実的なものだからなのかもしれない。

 物語を追っていくと「こんなことはありえない」と思うけれど、なんとなく「ありうるかもしれない」と思わされてしまう瞬間がある。自分をアキの立場においてみたとき、こういうことがもしかしたらあるかもしれないと考えると心の底からいい知れない恐怖が湧き上がってくる。

 そして、船越英二の不気味さと緑魔子の妖艶さがせめぎあいながら映画はずんずん進んでいき、最初に感じた違和感のようなものはどんどん薄れて映画に引き込まれていく。

 終盤はもう怖いというか、神経に障ってくる。心臓の弱い人は見ないほうがいいんじゃないかっていうくらいにきつい。実際にグロテスクな場面があるわけではないんだけれど、グロテスクなものに弱い人にはかなりつらいと思う。

 しかも、この結末に至る心理というのがもうまったく理解できない。これはもう異常としかいいようがなく、正常な神経で理解することは不可能なんじゃないかと思う。しかし、同時にこの異常さというのは社会的認知されている異常さでもあるとも思える。具体的に言ってしまうとSM的な性倒錯で、ここまで極端なものはさすがに拒絶反応を起こしてしまうけれど、そういう性向の存在自体は広く認知されている。

 そのようなものを60年代にストレートに映画に描いたこの作品はやはり今見ても面白い。まったく古さを感じないしファンキーだ。やっぱりすごいな。

清作の妻

1965年,日本,93分
監督:増村保造
原作:吉田絃二郎
脚本:新藤兼人
撮影:秋野友宏
音楽:山内正
出演:若尾文子、田村高廣、千葉信男、紺野ユカ、成田三樹夫、殿山泰司

 いやいやながら、60過ぎの呉服屋の隠居の妾となって家族を支えていたお兼だったが、その隠居が急死。遺言通りに大金を受け取って、母と田舎に帰ったが田舎の人たちは彼女らに冷たくあたり村八分同然の扱いを受けた。しかし、そんな中隣りの清作が模範兵として復員する。清作は周囲の反対を押し切って、お兼と夫婦になろうと考えるのだが…
 女の執念を描いたいわゆる「増村的」映画。共同体・個人・女という伝統的な日本の社会構造の問題点をえぐる秀逸なサスペンスドラマ。

 この頃になると増村はかなり真摯に社会を捉え、それを描こうとしているように見える。そして特に「女」についてさまざまな物語を描いている。そしてその女はどこか恐ろしい「強さ」を持っている。この映画の主人公お兼もそんな「女」のひとり。
 何といっても若尾文子の圧倒的な存在感。主人公の感情の起伏が見ている側にまでうつってしまうような濃密な緊張感がそこにはある。  そして秀逸なのはストーリー。日露戦争という時代。世間・共同体と個人、時代をおって変化するその関係性を「女」というこれまた時代とともに変化する存在から描いたある意味ではサスペンスフルな物語。
 増村作品は後期になるとこういったどろどろした話が多くなってくるが、その展開は相変わらずめまぐるしい。これもやはりいらないところはばっさり切ったという印象だ。つまり、映画の長さに対して物語の量が多い。時間の流れ方が早い感じがする。それによって、「青空娘」は軽快にとんとん拍子で話が進んでいくという印象になったが、こちらは物語が凝縮されたという印象になる。どちらにしても90分という時間はあっという間に過ぎ、幸福な充実感が残った。

青空娘

1957年,日本,89分
監督:増村保造
原作:源氏鶏太
脚本:白坂依志夫
撮影:高橋通夫
音楽:小杉太一郎
出演:若尾文子、菅原謙二、川崎敬三、信欣三、沢村貞子、ミヤコ蝶々

 田舎の高校を卒業した有子は東京に住む両親のもとへ引っ越すことが決まっていた。そんな時、一緒に暮らしていた祖母が急死。死の直前、東京の母は本当の母親ではないことを知らされる。憧れの先生の「いつでも青空を見て元気を出せ」という言葉に勇気付けられて、有子は気丈に東京での生活をスタートさせるのだが…
 増村保造が若尾文子とはじめて組んだ記念すべき作品。継母と娘というシンデレラの物語のアレンジだが、少しも悲惨さがない明るい作品にしあがっている。軽妙なテンポで映画は進みあっという間に終わってしまう勢いのある作品。

 とにかくテンポがいい。むしろ早過ぎるくらいにトントン拍子に物語は進み、一気呵成にセリフをしゃべる。セリフもカットもリズムに乗って、あれよあれよと進んで行く感じ。停滞するとか焦らせるということはまったくなく、軽快にして軽妙(あ、同じか)。
 しかし、それは必ずしも短いカットもつないでつないでというわけではなくて、長いカットも短いカットもいらないところはばっさり切る。その潔さがリズムを生む。まさにモダニズム、日本映画に付きまとう暗いイメージや静謐なイメージとはかけ離れたところで展開する映画。とにかく楽しい。楽しく笑って、わけのわからないうちに映画は終わる。素晴らしいですね。これは。
 しかも、40年前の映画とは思えないほどやさしい。すっと映画の中に入っていける感覚。これこそが映画の快感。こんな映画をスクリーンで見られる機会を逃してしまってはいけません。

2000年,日本,123分
監督:阪本順治
原案:宇野イサム
脚本:阪本順治、宇野イサム
撮影:笠松則通
音楽:coba
出演:藤山直美、豊川悦司、國村隼、牧瀬里穂、内田春菊、佐藤浩市

 昔ながらのクリーニング店で母親といっしょに働く少々アタマの弱い正子と、家を出てスナックで働く妹の由香里。二人はいつも衝突していた。そんなある日、二人の母常子が急死してしまう。その母の通夜の夜、ショックで母の通夜に出席できなかった正子は由香里を殺してしまう。そこから正子の逃亡生活が始まった。
 「どついたるねん」「トカレフ」などで知られる阪本順治監督が藤山直美を主演に撮った笑いに溢れたサスペンス。藤山直美の個性が前面に押し出されていて面白い。

 この映画面白かったのですが、監督の才能というより、出演者たちそしてカメラが素晴らしかった。まあ、それを引き出すのが監督の才能と考えれば阪本順治はすごい監督ということになるのでしょうが、さらっと見てしまうと、藤山直美はいいね。ということになるでしょう。何と言っても役者を見る映画、それぞれの出演者がやはりそれなりにいい個性を出していて、それが混沌とした魅力を編み上げているといった感じでしょうか。物語全編を通して登場する人物が少ないというのも役者の個性を重層的に積み上げる上で非常にいい作り方だと思います。
 もう一ついいのはカメラワーク。映像が斬新だとかいうのではなくて、非常に自然なカメラワーク。ほとんどが人の視線で撮られていて、見る側にまったく違和感を与えない。しかしその裏には相当な苦労があったとうかがわせる。そのようなカメラ。例を二つ上げると、一つは鏡のシーン。おそらく4回か5回鏡が出てきたと思いますが、映画で鏡を使うのは非常に気を使う。とくに、トイレで由香里の幻覚を見るシーン。正子ひとりが映っているところと後にいる由香里が映るところは多分ワンカットで撮られていたと思いますが、そのためには牧瀬里穂が映り込まないようにカメラを移動させなければならないという問題がある。そこがなかなか難しいポイント。もう一つは、由香里が殺されているシーン。かなりのローアングルで、正子の足から横にパンして由香里の死体、再び足を追ってパンして、正子がカメラから遠ざかって全身がカメラに収まる。というなんでもないようでいるけれど、これはかなり計算し尽くされたカメラでしょう。「うまい!」とうなりたくなるところでした。
 という感じです。いい感じの映画ですね。すごく面白いというほどではないけれど、見て損はなかった。

DRUG GARDEN

2000年,日本,89分
監督:広田レオナ
脚本:広田レオナ
音楽:坂井洋一
出演:広田レオナ、吹越満、マーク、クリスティーヌ・ダイコ★、マーガレット、HOSSY

 最初、元ドラッグ常用者のインタビューで始まるこの映画だが、それが終わると雰囲気は一転し、3人のドラァグ・クイーンが登場。
 レオナは夫のフッキー、息子のマーク、3人のドラァグクイーンとシンケンとチル(ともにモデル)と同居生活を送っている。みんなで食べる朝ご飯の席でレイナはパニック・ディスオーダーの発作で倒れてしまった。レオナはトラウマからパニック・ディスオーダーに陥り、8年前から大量の薬を常用しているのだった。
 レオナの物語、ドラァグ・クイーンコンテストを目指す3人、マーク、チル、それぞれの物語が交錯し、みんなの中で何かが変わっていく。
 広田レオナが自らの体験を映画化。シリアスなドラマを斬新な映像で切り取り、ドラァグ・クイーンの笑いの要素をうまくはめ込んだ秀作。

 まず批判。果たして最初と最後のドラッグ常用者のインタビューは必要だったのか? 確かに、これがあればテーマがストレートに伝わるが、そこまで丁寧に説明しなくても、伝わるし、むしろ全体の映画のカラーを乱している印象を受けた。  という点はありますが、全体的にはかなりいい作品でした。この映画ではパニック・ディスオーダーというのは実はそれほど大きなテーマではなくて、むしろドラッグとやはり「人間」一般がテーマになっている。「ドラッグ」の持つ意味や人はなぜドラッグをやるのかということを言葉すくなに語っている。
 かなりさまざまな語り方が出来る映画だが、私が注目したいのは「ドラァグ・クイーン」。この映画に出てきたドラァグ・クイーンは本当に有名なドラァグ・クイーンたちで、本名(ではないか、現実での名前)で映画に出演している。彼ら(彼女ら?)がコンテストに出るというテーマ自体はどうでもよくて(カレンダーにバツをつけて行く映像はかなりいいけれど)、彼らの摩訶不思議な存在がこの映画を成立させている鍵だと思う。これだけ重いテーマを普通の(というとドラァグ・クイーンに失礼か)人たちだけでやってしまうと、深刻になりすぎる。そこにドラァグ・クイーンを入れることで映画全体がファンタジックで面白いものに変わってしまう。それはドラァグ・クイーンがゲイカルチャーの中で演じている役割と同じものであって、それこそがドラァグがドラァグである所以なのだ。
 映像についても語ることが結構ありそうだけれど、別に難解な映像を作り上げているわけではないので、単純に見た感じで「面白い」とか「きれい」だとか言っていればいいような気もする。チルの葬式の場面でひとりひとりを正面から映す過露出の映像はかなりきれいだった。じっと魅入ってしまうような澄んだ美しさだった。他にもサイレント映画風に仕上げたり、フレームを落としてコマ送りのようにしたりとさまざまな工夫が凝らされていて非常によかった。