エンター・ザ・イーグル

渾身是胆
Enter the Eagles
1998年,香港,93分
監督:コーリイ・ユエン
音楽:ペーター・カン
出演:シャノン・リー、マイケル・ウォン、アニタ・ユン、チャン・シウチョン

 美術館に展示される世界最大級のダイヤ「皇帝のプリズム」、これを狙って盗賊組織が動き出した。厳重な警備体制をかいくぐるべく、綿密な計画が練られるが、その一方でけちなスリの二人組みもそのダイヤを狙っていた。果たして成功するのはどちらか…
 ブルース・リーの実娘シャノン・リー主演の香港アクション。

 ブルース・リーの娘とはしらずに見ましたが、シャノンはなかなかよかったです。それも含めてアクションシーンはなかなかよかったなと思います。分かりやすく香港映画で、全く新しさは感じさせませんが、単純なことこそ香港映画の美徳。アニタ・ユンは意外にアクションもいけるのでした。
 それにしてもプロットはとてもお粗末で、アクション映画にありがちなプロットよりもアクションシーンが盛り上がればいいという姿勢が感じられます。なんといっても世界最大級のダイヤを警備しているわりには警備体制が甘すぎる。それはもちろん、盗むこと自体よりも、その後の戦い(奪い合い)と言えるものにプロットの重点が置かれているからですがね。
 と、この監督コーリイ・ユエン、どこかで聞いたことがあると思ったら「キス・オブ・ザ・ドラゴン」のアクション監督です。アクション監督という役職はよくわかりませんが、要するにアクションを指導したということでしょう。うーん、といわれても共通点とかはよくわかりません。でも「キス~」のほうがはるかによかった気はします。それはジェット・リーとシャノン・リーのさなのか、それとも香港とハリウッドの技術力の差なのか。
 ハイ、何も言っていない気がしますが、アクション映画というのは適当に作っても見れるものができてしまうという好例という感じでしょうか。逆に面白い作品を作るには相当作りこむか、何か面白い狙いを盛り込まなきゃいけないということです。

恋する天使

大三元
Tri-star
1996年,香港,107分
監督:ツイ・ハーク
脚本:ツイ・ハーク、チェン・チュンタイ
撮影:アーサー・ウォン、クリストファー・ドイル
音楽:クラレンス・ホイ
出演:レスリー・チャン、アニタ・ユン、ラウ・チンワン

 結婚式を執り行う神父のツォン。しかし、その新婦は3ヶ月前恋人に借金を背負わされて借金取りに追われ、たまたまツォンの教会に逃げ込んできた売春婦のバイ。物語は、ツォンとバイ、それに売春組織と間抜けな刑事、ツォンの従妹が絡んで展開される。
 ジャンルとすると、コメディなのか、ラブ・ストーリーなのか、判別つきがたいところですが、多分コメディ。

 昨日の「食神」と同じ香港、同じ製作年。どうしても見劣りしてしまうのは、この映画のテンポのなさ。映画の流れとしてはスムーズに進んでいるようだけれど、コメディとしては笑いを誘うネタの間隔があきすぎていて、コメディを見ているのか普通のラブストーリーを見ているのか分からなくなってしまうほど。ラブストーリーとしてはお粗末すぎるので、ラブコメなのでしょう。
 面白かったところを思い出すと、神父さんが40年前に着ていた衣装。あとは、ひげの刑事周辺は結構面白かった気がするんですが、あの刑事の立場というか位置づけがいまひとつ判然としないので、なかなかすっきりとは笑えずじまい。あとは、従妹ももう少し頑張れば面白くなりそうなのに、あまり生かされずに終わってしまう感じ。ああ、カメラやさんのところは結構面白かったですね。かなりベタな感じのネタ使いがよかった。
 うーん、という感じでしたが、笑いのつぼというのはかなり人によって違うものなので、難しいところです。でも、コメディとかお笑いを見て、どこが面白かった、面白くなかったと人と話すのは楽しいもの。わたしのコメントを見て「えー、センスないなあ」と思うのももちろん自由なのです。そんなことを思うので、私はつまらないと人に言われたコメディもついつい見てしまう。たいがいは面白くないですが、たまに掘り出し物があったりします。めげずに頑張ります。コメディ通への道は険しいのです。

食神

食神(Shi Shen)
The God of Cookery
1996年,香港,92分
監督:リー・リクチー、チャウ・シンチー
脚本:チャウ・シンチー、K・C・ツァン、ロー・マンサン
音楽:クラレンス・ホイ
出演:チャウ・シンチー、ヴィンセント・コク、カレン・モク、ン・マンタ

 香港で「食神」と呼ばれる周はテレビ番組でも人気者、たくさんの店をチェーン展開して優雅な生活を送っていたが、新しい店の開店の日、ライバルの計略によってその地位から転落させられてしまう。
 香港のコメディスター、チャウ・シンチーの監督・主演作、なんともいえない独特のセンスのネタの連発に笑わずに入られない。

 笑いのセンスはとても好き。豊富なベタネタ(女子高生とか)とか、少林寺の十八鉄人(繰り返しは笑いの基本)とか、かなり笑いの壺をついてきます。カレン・モクの不細工さも相当すごい。
 しかし、香港のコメディを見ていつも思うのは物語の単純さ。大体最初の10分で最後までの展開が大体見通せてしまうところ。この作品も(少林寺以外は)読める展開になってしまいました。もっとプロットの魅力で引き込んで行くと、ネタも生きてくると思うのですが… それと、オチの弱さも気になるところです。個人的にコメディ映画の観後感の半分は落ちの強さで決まると思っているので、こう分かりやすく終わってしまうと、なんだか物足りない気がします。そしてエンドロールのNG集もどうだかねという感じ。これだけあいだのネタが面白いと、オチにも期待してしまうのが人情というもの。
 と、なんだかおしい気がするコメディですが、他の作品も見てみようかなと思うくらいに笑いのセンスは体にフィット。本人の監督・脚本じゃない方が面白いのかな… などと思ってしまいます。どうなんだろう。

ドリアン ドリアン

榴漣瓢瓢
Durian Durian
2000年,香港,117分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ティン・サムファ
音楽:ラム・ワーチュン、チュー・ヒンチョン
出演:チン・ハイルー、マク・ワイファン、ウォン・ミンヤン・メイカム

 シンセンに住むファンはシンセンと香港とを往復して商売をするおとうさんと共に香港に移り住んだ。シンセンの広い家からうって変わって狭いアパート暮らし。しかも、お母さんと一緒に皿洗いをしながら何とか生活していた。その皿洗いをする裏道をチンピラの男と若い女がいつも通っていた。女はイェン、本土から香港にやってきて、娼婦をしていた。
 「メイド・イン・ホンコン」、「リトル・チュン」のフルーツ・チャン監督が香港返還三部作から新たな展開へと踏み出した作品。

 じわっとくる。ホンコン、そこはたくさんの人であふれ、誰が誰と持つかない大都会、そこではドラマも人ごみに埋もれ曖昧なものになってしまう。イェンの存在も大陸から来た一人の娼婦という存在でしかない。娼婦仲間とポン引きにしか知られない存在。通り過ぎていく客達はその記憶の襞に一瞬引っかかるだけ。そんな中、もうひとり彼女のことを認識した存在が少女フェン。同じく大陸からやってきた彼女の眼差しはイェンに届いているかのようだけれど、結局香港の人ごみに飲まれ、そのドラマも曖昧なものとなってしまう。
 その曖昧さがこの映画を一貫するひとつのスタンスである。香港から帰ってきたイェンを迎える家族たちのイェンに対する態度も非常に曖昧だ。そして友人の態度も。
 果たして家族はイェンが娼婦をしていたことを知っているのか、知らないのか?それは観客には明かされないままイェンの曖昧な生活が続く。その曖昧さが晴れる瞬間、ドット感動が溢れ出す。イェンの感じた孤独と一種の解放感を共に感じ、京劇の濃い化粧の奥にその表情を隠しながら一心に踊るイェンの姿がすっとこころに入ってくるのだ。自分達の苦境を乗り切るために娘に体を売らせたという負い目、そしてそんな娘を疎んじる気持ち。この2つの相反する気持ちを抱える家族がもう一人娘をそんな環境に送り出すとき、イェンが感じることはどんなことだろう? イェンの感じる自由と孤独はがんじがらめの枠にはめられた中国から香港へとわたったイェンだけが感じることのできる感覚だろう。「自由」といわれている世界の人たち皆が感じるひとつの感覚なんだろうとも思う。

ゴッド・ギャンブラー/賭神伝説

賭神3之少年賭神
God of Gamblers 3 : The Early Stage
1997年,香港,110分
監督:バリー・ウォン
脚本:バリー・ウォン
音楽:カム・プイ・タット、ラオ・ジョー・タク
出演:レオン・ライ、アニタ・ユン、フランシス・ン、チョウ・ヨンファ

 ギャンブラーとしての才能を開花させたコウ・チャンはボスのもとで着実に勝てるようになっていく。その賭け事のいかさまや脅しや暴力が横行する世界で、コウ・チャンは確実に地位を気づきつつあるように見えた。そんななか「賭神」を決める大会がマカオで開催されることになった。
 チョウ・ヨンファ主演のシリーズ「ゴッド・ギャンブラー」の主役コウ・チャンの若かりし日々を描いた作品。

 最後、「どうしてチョウ・ヨンファ?」と思ったら、続編だったのね。続編というか、回顧篇という感じですが。とりあえず、このシリーズは1989年に撮られた「ゴッド・ギャンブラー」というやつだそうです。それから「ゴッド・ギャンブラー2」、「ゴッド・ギャンブラー完結編」と来て、4作目だけど「3」。なぜ?
 まあ、そんなことはいいとして映画ですが、予想外に展開力のあるストーリーで、けっこう先の展開が気になったりしました。全体的にはやはり安めのつくりで、特にアクションシーンなんかは香港映画とは思えない安っぽさ。キックの半分以上は明らかにあたっていないと分かってしまう。だから、アクションシーンは見どころではない。
 そして、安さでいえば、いくらでもけちをつけるところはあります。しかし、それは見てのお楽しみ、「世界選手権」というあたりがなかなか素敵。地域的な偏りとか、公正を期するといいながら、怪しげな人がするする入っていってたりとか、いろいろです。

 B級な映画はかなり取り上げていることもあり、最近どうも手抜きっぽい感じもあり、なかなか書くこともありませんが、こういう安映画はさっと見て、さっと楽しんで、さっと忘れるのが一番。現に、見てまだ半日も経っていませんが、だいぶ忘れてきています。でも、そうすると、もう1回見てもまるで初めてのように楽しめるという利点もあります。
 うーん、なんだかシリーズのほかのも見たくなってきたなぁ…

フォーエバー・フィーバー

Forever Fever
1998年,シンガポール,95分
監督:グレン・ゴーイ
脚本:グレン・ゴーイ
撮影:ブライアン・ブレニー
音楽:ガイ・クロス
出演:エイドリアン・バン、マデリン・タン、アナベル・フランシス

 1970年代のシンガポール、スーパーマーケットで働くホックはブルース・リーとバイクに夢中。毎日遅刻しながらも地道に働き、3000ドルのバイクをいつか買うことを夢見ていた。しかしある日たまたま見に行った映画「フィーバー」に出ていたトラボルタに見せられ、ダンスに夢中になってしまった。
 とにかく何でも詰め込んだB級娯楽映画。この安っぽさがたまらない。

 面白いような面白くないような。しかし、これは面白いのだとしておきましょう。とにかく安く面白く映画を作る。これがすべてといっていい。「サタデー・ナイトフィーバー」と思われる映画に出ているジョン・トラボルタと思われる人がトラボルタにちっとも似ていないことはともかくとして、すべてが安っぽすぎる。そして物語が陳腐すぎる。それでもこの映画を面白くしているのはその安っぽいB級テイストに加えて、とにかくいろいろな要素が詰め込まれていること。
 それはもう、とにかくなんでもかんでも詰め込んでやれという意気込み。そもそもブルース・リーとサタデーナイト・フィーバーを組み合わせようという発想自体無理がある上に、家族の話や恋の話やなにやら詰め込めるものなら何でも詰め込んじまえという感じ。さらに、それだけ詰め込んだにもかかわらず全く複雑にならないプロット。おそろしい…
 安っぽさでいえば、車で当てただけでじてんしゃがばらばらになるとか、殴り合いのシーンで明らかに当たってないとか、そもそも出てくる人みんなの衣装が安っぽすぎるとか、いろいろあります。しかし一番すごいのは舞台装置の少なさ。同じ場所で撮ってばかりいます。おそらく撮影期間も短かったのでしょう。同じ場所のシーンは同じ時に撮ってしまえという発想が感じられます。主人公が3時間かけてパーマをかけ、ディスコに行った次の日にスーパーに働きに出るときにはすっかりと髪型が戻っていたりもします。怪奇現象だ… こういう単純なミス(おそらくスクリプトのミス)が起こってしまうのが本当のB級映画なのです。狙って作ったB級映画は実際はちゃんと作っているのでこういうミスはあまりありません。だからこの映画は真正のB級映画ということです。すごい!

キシュ島の物語

Ghesse Haye Kish
1999年,イラン,77分
監督:ナセール・タグヴァイ、アボルファズル・ジャリリ、モフセン・マフマルバフ
脚本:ナセール・タグヴァイ、アボルファズル・ジャリリ、モフセン・マフマルバフ
撮影:アジム・ジャヴァンルー、マスード・カラニ、アハマド・アハマディ
出演:ホセイン・パナヒ、ハフェズ・パクデル、モハマド・A・バブハン

 ペルシャ湾に浮かぶ小さな島キシュ島、リゾートとしても知られるこの島を舞台として3人のイラン人監督が撮った短編集。
 1話目「ギリシャ船」は新鋭監督ナセール・タグヴァイが海に浮かぶ錆付いた難破船に流れ着いた大量の段ボールをきっかけにおきた事件を描いた作品。
 2話目「指輪」は日本でも知られているジャリリ監督が、仕事を求めて島へやってきた青年が海辺の小屋でひとり働く姿を淡々と描いた作品。
 3話目「ドア」は巨匠マフマルバフが砂漠をドアを担いで歩く老人を撮った作品。
 どの作品も美しい風景をより美しく見せるような幻想的な物語。音楽というかサウンドも耳に残る印象的なもの。

 やはり、マフマルバフの作品が一番いいかなと思いますが、ジャリリのも捨てがたい。1作目のタグヴァイ監督の作品は日本人が抱くイランというイメージに比較的近いものではないかと思います。貧困、イスラム教、エキゾチズム、ある意味でオリエンタリズム的な中東に対するイメージ、そのイメージに合致するようなイメージで描かれているのが逆に平凡で面白みにかけると思ってしまいます。ただ、海に浮かぶ難破船のイメージは絵的にすごくいいのですが。
 2話目の「指輪」は物語としては一番好きです。ジャリリ監督は基本的に起伏の少ないドラマをとりますが、この作品もその一つ。しかし、淡々と働く青年の姿は辛そうではなくどこか楽しそうで、そこに共感をもてます。しかし、最後までトラックに入れているものが何なのかは分からなかった。イラン人にはすぐ分かるんでしょうね。ただの海水なんだろうかあれ?
 3話目マフマルバフはさすがに発想の勝利。この監督の発想の素晴らしさには舌を巻くしかありません。冒頭の砂漠だけの画面に手前からドアが登場し、それが画面の奥にゆっくり去っていくところをずーと映しているシーン、これだけで、マフマルバフの勝ち。砂漠とドア、どうしてこんなイメージが頭に浮かんでくるのかは全くの謎です。そして、郵便配達が、そのドアをノックした瞬間に本当にマフマルバフはすごいと思ってしまう。奇妙なようでありながら、絶対にこれは現実だと思わせるような何かがそこにあるのです。みんな本気であのドアをドアとして扱っているひとりもからかい半分に扱っている人はいない。そう信じさせることが重要であり、それを成功させているわけです。ただ1人(1匹ね)ヤギだけが…
 やはりマフマルバフ強し。しかし、全体的にはなんとなくキシュ島観光キャンペーンという気もしてしまいました。たしかに「いいとこだな」とは思いましたが、なんか宣伝じみていて、ヴェンダースの「リスボン物語」を少し思い出しました。

パンと植木鉢

Un Instant d’Innocence
1996年,フランス=イラン,78分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:マームード・カラリ
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:ミルハディ・タイエビ、アリ・バクシ、アマル・タフティ、マリヤム・モハマッド・アミニィ

 マフマルバフ監督のもとを訪れたごつい男は、20年前に政治少年だった監督が銃を奪おうと襲った元警官だった。その当時の話を映画に撮ろうと考えた監督は少年役のオーディションを行う。元警官の男も自分の少年役の少年を選ぶのだが、監督と意見が衝突してしまう。
 静かで美しい、しかし緊迫感のある作品。いわゆる映画の映画だが、そこに仕掛けられた様々な仕掛けは並みの映画とは違う。

 この監督の作品はいつも不思議ですが、この作品もかなり不思議な作品。過去と現在が、映画と現実が交錯する。その交錯する瞬間を捉えようとする映画をとる人たちをとる映画。そこに現れる緊迫感の波もすごい。「どうなってしまうのか」という緊迫感がひしひしと伝わる場面がある一方で、全くほのぼのとする場面がある。緊迫する場面の最たるものはラストシーンで、こんな設定でものすごくドキドキしてしまうのが不思議。一方、ほのぼのとするシーンはなんとなく微笑がほほに浮かんでしまう。その中で一番すきなのは、元警官とそれを演じる少年が行進の練習をしながら雪の道を歩いていくところ。それは本当に美しく、ほほえましく、感動的だ。
 なんといえばいいのか、美しい映画は見るものから言葉を奪ってしまうけれど、これもそんな映画。とにかく不思議で、美しく、面白い。「サイクリスト」を見ていると不思議さというのはイランという馴染みのない文化のせいなのかと思うところもあったが、この映画を見るとそんなことは全く関係ないのだと思う。ただ美しい映画を撮るために、理解させるという方法論を放棄してしまった映画。そんな感じすらする。しかしそれはいわゆるアート系の難解さとは正反対のシンプルなもの。なんとなく分かるんだけれど、考えてみるとなんだかわからない。そんな不思議さが映画に浸る気持ちよさを演出していると思う。

あの子を探して

一個都不能少
Not One Less
1999年,中国,106分
監督:チャン・イーモウ
脚本:シー・シャンシェン
撮影:ホウ・ヨン
音楽:サン・バオ
出演:ウェイ・ミンジ、チャン・ホエクー、チャン・ジェンダ

 山奥の村のカオ先生が1ヶ月間休むということで、代用教員として連れてこられたのは近くの村に住む13才の少女ミンジ。小学校を出たばかりの彼女にカオ先生は不安を募らせるが、「生徒を減らさずにやれたら、10元あげよう」と約束して去っていった。果たしてミンジは無事に1ヶ月過ごすことができるのか…
 プロの役者ではない素人たちを使って生の感じを非常にうまく作り上げた力作。

 映画の全編(特に前半)にわたって、妙な「間」がある。そして噴出すような感情の奔流がある。そのざらざらした感じがなんとも「生」っぽくていい。最初ミンジが戸惑ってぶっきらぼうに生徒と接するところも、生徒たちが自由に遊んでいるようでいながら常に先生を意識していると感じさせるところも、ミンジが街の少女やテレビ局の受付のおばさんと衝突するところもそんな「生」な感じが非常によく出ている。
 そんなざらざらとしていらだたしいような展開からゆっくりと雰囲気が変わっていくことで、この物語は非常に感動的なものになっている。最初から感動させようという意図が見え透く感動ものより(この映画も設定から見ると、感動ものなんだろうと予想できるのだけれど、前半の展開がそれを裏切っている)こういった展開の変化があるほうが深い感動があるような気がしてしまう。
 結局最後まで妙な間とざらざら感がなくなることはないのだけれど、その普通の映画とは違う、一種典型的な映画というものを拒否しているような雰囲気がこの映画の魅力なんだろう。言葉ではうまく表現できないけれど、すごく違和感を感じ、その違和感がどこかですっと感動とすりかわるという感じ。そういう違和感のある映画に出会うと映画の可能性を感じる。いわゆる映画とは違う何かがあるということはその映画がすばらしいものであるということだと私は思う。この映画にもその「何か」がわずかだけれどあったような気がする。だからひねくれた心には素直な「初恋の来た道」よりむしろ感動的だったのだろう。

初恋の来た道

我的父親母親
The Road Home
1999年,アメリカ=中国,89分
監督:チャン・イーモウ
脚本:パオ・シー
撮影:ホウ・ヨン
音楽:バオ・サン
出演:チャン・ツィイー、チョン・ハオ、スン・ホンレイ、チャオ・ユエリン

 中国の寒村、三合屯。父が死んだという知らせを聞いてやってきたチャンユーは母が父が勤め続けた学校の前から動かないと聞き、連れ戻しにいく。家に戻り、両親の新婚のころの写真を見て、二人の結婚が村で語り草になるほど劇的なものだったことを思い出す。
 中国の田舎を舞台にしたシンプルなラブ・ストーリー。中国の田舎に風景には何かノスタルジーを感じさせるものがある。チャン・イーモウはそのあたりをうまく描く。

 「感動するぞ」と構えていけば、きっとすっと心に入ってくる。この映画のシンプルさは簡単に人を感動させることができる。シンプルであり、わかりやすいことはひとつの「美」であるといえる。天候を中心とした色彩に主人公の気持ちを反映させたりすることで、言葉はそれほど用いずに、わかりやすく物語を語っていく。それに多くの人が感動の涙を誘われるのはわかる。
 しかし、どうにも気になるのはオーバーラップの連発とエピローグの冗長さ。プロローグの部分は白黒からカラーへの転調の見事さも含めてなかなかうまいと思わせるものがあるが、エピローグはいかんせん長いと思う。最後の展開が読めるだけにうだうだと御託を並べず、すっと終わったほうがさらに感動を誘うこと請け合い。と、感動しながらも冷静さを失わずに思ったりするのでした。
 それにしてもオーバーラップの多さはどうしても気になる。オーバーラップ自体が悪いというわけではないけれど、これだけ連発されるとどうしても食傷してしまうし、感動させようという意図が見え透いてしまうようでいやだ。これも一種のわかりやすさなのかもしれないけれど、わかりやすすぎるのもどうかなという感じ。