血だらけの惨劇

Strait-Jacket
1963年,アメリカ,96分
監督:ウィリアム・キャッスル
脚本:ロバート・ブロック
撮影:アーサー・アーリング
音楽:ヴァン・アレクサンダー
出演:ジョーン・クロフォード、ダイアン・ベイカー、リーフ・エリクソン、アンソニー・へイズ

 夫の浮気現場を目撃したルーシーは斧で夫とその浮気相手を惨殺。それを娘キャロルが目撃していた。20年間の精神病院への収容の後、外の世界へと戻ってきたルーシーはキャロルと兄のビル夫妻のもとで暮らし始めるが…
 主にホラー映画を撮りつづけた監督ウィリアム・キャッスルの代表作の一つ。単純ながら味わいのあるサスペンス映画。

 なかなかいいできだと思います。少々わざとらしさは感じるものの結構怖くできているし、登場人物たちがみんな不気味でなかなかいい。
 ホラー映画なので何をかいてもネタばれになりそうですが、ホラー映画といえばこういう映画という感じだったと思う。いわゆるスプラッター系の映画が出る前、つまりリアルな惨殺映像が作れるようになる前はこういう見せないものが多かった。もちろんいまもホラー映画の大半は見えない恐怖を描くものが多く、ホラー映画の基本形ではあるけれど、そういう文法以前にこれしかできないとでも言いたげに淡々と怖さを演出している感じ。

陸軍中野学校 竜三号指令

1967年,日本,88分
監督:田中徳三
脚本:長谷川公之
撮影:牧浦地志
音楽:池野成
出演:市川雷蔵、安田道代、松尾嘉代、加東大介

 第二次大戦中、大陸へ和平交渉のため派遣されるはずだった陸軍の高官が何者かに襲われ殺された。陸軍中野学校の草薙中佐はその事件の背後には大陸の陸軍内にいるスパイが絡んでいると考え、椎名を大陸へと派遣することにした。
 人気シリーズ「陸軍中野学校」の第3作。主役はもちろん市川雷蔵。毎回変わるヒロイン、今回は安田道代。

 全5作あるシリーズの3作目。シリーズとしてのパターンも確立され、安心して見れる反面、新鮮さはかけるというのは仕方のないところ。早川雄三演じる大陸の将校のような中野学校に対して何らかの反感を持つキャラクターがいるというのも一つのパターンとして面白い。
 映画としては結局みいってしまうよくできたサスペンスという感じで、日本映画ではなかなかスパイものというのは少ない中、かなりがんばっているという感想です。映像は職人監督田中徳三らしく、盛り上げるところは盛り上げるきちっとした演出が生かされたものになっています。市川雷蔵にすっとよるクローズアップが印象的でした。カメラマンの牧浦地志が「眠狂四郎」シリーズのカメラマンということなので、市川雷蔵とはじっ魂の仲ということでしょうか、第1作目の小林節雄に負けないいい映像を作り出しています。知らなかったなぁこの人。どんどんマニアックな知識になっていきますが、戦前に阪妻の主演で作られた雄呂血をこの3人(市川雷蔵‐田中徳三‐牧浦地志)のトリオでリメイクしているらしい。ちなみに「眠狂四郎」シリーズ一作目の監督も田中徳三です。
 と、相当マニアックな話になってしまいましたが、それだけ市川雷蔵を撮るのになれたスタッフによって撮られた作品ということです。その分増村の作品とは違って、市川雷蔵ひとりにスポットライトを当てた形の作品になったのでしょうか。そして印象的なクロースアップ。

黒い十人の女

1961年,日本,103分
監督:市川崑
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
出演:船越英二、山本富士子、岸恵子、宮城まり子、中村玉緒、岸田今日子

 夜道を歩くひとりの女。それを追いかける8人の女。ひとりの男・松吉を巡って8人の女は1人の女をつるし上げる。事の起こりはテレビ局のプロデューサーである松吉がたくさんの女と付き合っていたことだが、女たちもいつからか互いに知るようになり反目しあったり松吉の悪口を言い合ったりするようになっていた。
 豪華女優陣を使って1人の男と10人の女の愛憎劇を描くという壮大な映画。なんといっても唯一の男性船越英二の演技が秀逸。市川崑監督の代表作のひとつでもある。

 この映画はすごいです。60年代に入り、モダニズムが勃興し… という日本映画のちょっとした歴史に符合するようにモダニズムの空気が流れています。といっても斬新な画面の連続というわけではなく、ぱっと見た構図の妙が非常に美しい映画。有名な「十人の女が浜辺で船越英二を取り囲む」シーンなどはやはり非常に美しいです。そしてシネスコの画面の使い方が見事なのはやはりカメラマンが小林節雄だからでしょうか。増村映画をやったときに何度もいいましたが、小林節雄のシネスコの画面のつぶし方はすごいのです。この映画でも登場人物を偏らせて撮るカットはやはり面白い。小林節雄の定番、画面の前に遮蔽物を置いて画面の半分くらいを殺してしまう構図も出てきます。
 そして、なぜとはなく引き込まれてしまうプロットがこの映画の魅力。謎らしい謎もあまりないのに引き込まれてしまうのはやはり船越英二の煮え切らなさと十人の女(主には5人)のキャラクターのなせる技でしょう。ここからもっともっと話を膨らませてもう5本くらい映画が作れてしまいそうなそれくらいの濃さですから、それを2時間に押し込めてしまえば面白くないはずがない。ちなみに、十人の女たちは皆数字を絡めた名前になっているのですが、1が山本富士子(双葉)ではなくて、岸恵子(市子)であるというのも意味深な感じ。11人目になるか?と思わせた女が「百瀬桃子」というのもなかなか面白いところ。
 などなど不朽の名作ということはできませんが、いろいろな意味で面白い作品でした。伊丹一三とか、クレイジーキャッツなんかも出ているし。なんでも大映映画の何十周年かの記念作品らしいです。

女の中にいる他人

1966年,日本,100分
監督:成瀬巳喜男
原作:エドワード・アタイヤ
脚本:井出俊郎
撮影:福沢康道
音楽:林光
出演:小林桂樹、新珠三千代、三橋達也、若林映子、草笛光子

 思いつめた顔をした男・田代。ひとりカフェに入り、ビールを飲んでいると偶然友人・杉本が通りかかった。鎌倉に住む古い友人同士の2人はそろって鎌倉の行きつけのバーに行く。そこで杉本は妻さゆりが事件にあったと聞かされ、東京にとんぼ返りした。田代はひとり家に帰るが…
 成瀬巳喜男の晩年のストレートなサスペンス映画。

 基本的にスリルを楽しむサスペンスというよりは、人間の心を描こうとしている作品だとは思う。もちろん表情やしぐさから感情の動きは存分に伝わってくるのだけれど、それが過ぎると物語としての面白みが削られてしまう。人々の表情やしぐさから伝わってくる感情や考えというものは物語と絡み合って、サスペンスならではの観客の意識に微妙な揺れを生み出すからこそ意味があるのであって、タダひたすら「我」を言葉なしに語ってしまうだけでは意味がない。
 しかしさすがに巨匠といわれる成瀬巳喜男、映画の作りにそつはなく、特にカットとカットのつなぎ方があまりにスムーズ。あまりに自然なので、するすると目の前を通り過ぎていってしまうけれど、よく見てみればこれほどのよどみない繋ぎを生み出すのは至難の技なのだろうなと感心する。それは専門技術的なことではなくて、単純にカット同士の繋ぎに違和感がないということ。1つのシーンを見ても果たしてそのシーンが1カットだったのか複数のカットからなっていたのか一瞬わからないくらいの自然さ。おそらく全編を綿密に見れば、いろいろなつなぎ方で見事な流れを作り出しているのでしょう。
 そんな巨匠ならではのすごさも感じつつ、サスペンスとしては「並」と判断せざるを得ません。小林桂樹が悪いわけではないのでしょうが、ちょっと眉間にしわを寄せすぎたか。

2001年宇宙の旅

2001 : A Space Odyssey
1968年,アメリカ=イギリス,139分
監督:スタンリー=キューブリック
原作:アーサー・C・クラーク
脚本:スタンリー=キューブリック、アーサー・C・クラーク
撮影:ジェフリー・アンスワース、ジョン・オルコット
出演:ケア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド、ウィリアム・シルヴェスター

 人類の夜明け、そこには黒く巨大な直方体があった。それに触った猿達は道具を使うことを覚え、他の猿の群れに優位に立てるようになった。それから数百万年後、月へと向かう宇宙船に乗り込んだフロイド博士は極秘の任務を帯びていた。それからさらに数年後、最新鋭の人工知能HAL9000を搭載したディスカバリー号が初の有人木星航海に向かう。
 壮大に映像でひとつの宇宙像を描き出した言わずと知れたキューブリックの代表作。まだまだ赤子に過ぎない人類への壮大な子守歌だと私は思う。

 この映画を見るといつも寝てしまう。劇場で見れば大丈夫かと思ったけれど、劇場で見てもやはり寝てしまった。何も考えず、物語を追い、映像に浸り、ただスクリーンを目で追っていると、どうしようもない眠気が襲う。その心地よさは何なのか。私はこれは一種の子守歌だと思う。宇宙を舞台とした壮大な子守歌。原作を読むと、かなりプロットも複雑で、物語の背景が説明されていて、SF物語として読むことができるけれど、この映画は原作とは別物であるだろう。
 もちろんこの映画にはいろいろな解釈ができ、じっくり考えて自分なりの解釈を導き出すという営為はキューブリックが狙ったことに一つなのだろうけれど、そのために原作なんかの周辺知識を利用することは私はしたくはないので、ただただ「これは子守歌だ」とつぶやくだけで満足する。

2007年のレビュー
  この映画は私にとって映画探求の端緒となった作品のひとつであった。それは何年か前、私がこの作品を劇場とビデオで立て続けに2度見たとき、同じところで眠ってしまったことから起きる。この作品の最終版、サイケな映像でトリップをするあたりからラストのスペースチャイルドが登場する辺りまでうつらうつらと眠ってしまうということが2度続いたのだ。
  そんなことから考えたのは、眠ることもまた映画を見るあり方の一つだということである。眠っていたら映画を見てはいないのだけれど、しかし途中眠っていたとしても映画は見たことになる。その眠ってしまった時間もあわせて映画の体験なのだ。そんなことを考えながら私はこの作品を「宇宙を舞台とした壮大な子守歌」と名づけた。まだまだ赤子に過ぎない人類への壮大な子守歌、それは映画を見ながら眠ってしまった自分自身への言い訳であると同時に、このように心地よく眠れてしまう映画への自分なりの解釈でもあった。
  そこから私は映画を見るということへの魅力にひきつけられて行ったのだ。

 まあ、それはいい。今回改めて見直してみて、最後まで眠ることなく見て思ったのは、この作品が本当に面白い作品だということだ。序盤の類人猿が登場するシーンの、その類人猿のぬいぐるみ然とした演技には40年という隔世の感を感じざるを得ないし、宇宙船などに使われている技術にもSF的想像力の豊穣さを感じると同時に、限界をも感じるわけだが、作品全体としては本当に40年前の作品とは思えない完成度と面白さを保っている。
  まず思うのは、イメージとサウンドによる絶対的な表現力である。この作品は2時間半という時間の作品にしては極端にセリフが少ない映画である。その代わりに映像によるイメージとサウンドによって観客の想像力を刺激し、様々なイメージや想念を喚起する。とくにサウンドは「美しき青きドナウ」のような音楽に加えて、ノイズの使い方が非常にうまい。船外作業をするときのノイズと呼吸音、ただそれだけで彼らの緊迫感が手に撮るように伝わり、「何かが起こるのではないか」という緊張をわれわれに強いる。そして、そのような明確な効果がない部分でも、この作品にはノイズが溢れ、それが静に私たちに働きかけ続けるのだ。
  そして、イメージも実に豊富だ。モノリスという空白をも意味するのではないかと考えうる漆黒の平面と対照的な形で様々なイメージがわれわれに提示される。もちろん円を回転させて擬似重力を作るという方法を映像化したのも見事だが、それ以上にハルのカメラに点る赤いランプや宇宙飛行士のヘルメットに映る明かりによって観客のイメージを喚起するそのやり方が実に見事だ。特殊な技術を使わずとも、そして言葉を使わずとも、観客の側で何かを考えてしまう。実に綿密に計算された映像であると思う。

 この作品が“名作”とされながらどこかで無条件に絶賛されるわけではないのは、理解しがたい部分があるからだ。見終わって誰しもが感じるであろう「だから何なの?」という感覚、この消化不良な感じが引っかかりとして残るのだ。そして、そこから何かを導き出すことができなければ、結局この作品はなんでもなくなってしまう。ただ退屈なだけの映像詩となってしまうのだ。
  そしてそれはこの作品が持つ必然的な欠点である。この作品は基本的に哲学として作られている。それはこの作品のテーマ曲のひとつが「ツァラトゥストラはかく語りき」というリヒャルト・シュトラウスの交響詩であることからも明確に示唆されている。
  哲学とは問であり、それに対峙する人はそれに対する答えを求めるのではなく、答えを探すのだ。哲学に答えはない。哲学にとって重要なのはその答えを探す過程であるのだ。だからこの作品を見ることも、作品が何を言っているかが重要なのではなく、作品が何を言っているのかを考えることが重要なのだ。
  しかし、それは無駄かもしれない。それは結局何の役にも立たないかもしれないのだ。私はそのような無駄も尊いものだと思うからこの作品は絶賛されるべきものだと思うが、果たして本当にそうなのだろうかという疑問は当然だ。
  あるいは、何らかの答えを出して、その答えから演繹して作品に対して否定的な態度をとるというあり方もありえるだろう。そのあり方に対しては私は間違っていると言いたい。なぜならば、この作品自体は何も結論じみたことを行っていないからだ、見る人それぞれが導き出した結論は、作品よりもその見る人それぞれを反映している。人それぞれの世界と人類に対する見方を反映しているのだ。それをもって作品を批判するというのは、結局は思い込みによって世界を観ている自分自身の姿を露呈しているにすぎないのではないか。

 この作品が投げかける、世界とは何か、人類とは何かという問、類人猿と人類の境界はどこにあるのか、そして人間とコンピュータの境界はどこにあるのか。この広大な宇宙において独立独歩歩んできたと一般的には考えられている人類と宇宙との関係をどう捉えるか、それらの問に対する答えは用意されていないし、導き出すこともできない。類人猿は棒を持った瞬間にヒトとなったのか、ハルは機械に閉じ込められた人間ではないのか、デイブの新宇宙での経験は果たして何なのか、それらの問に答えようと真摯に考えること、それこそがこの作品の意味なのではないか。

雁の寺

1962年,日本,98分
監督:川島雄三
原作:水上勉
脚本:舟橋和郎、川島雄三
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:若尾文子、三島雅夫、木村功、高見国一、中村鴈治郎

 時代は昭和の初期、京都の襖絵師の妾をして暮らしていた里子だったが、その襖絵師が亡くなり、ゆくあてもなくなった。しかしその襖絵師南嶽が世話になっていた禅寺の住職に囲われることになった。その寺で暮らし始めた里子だったが、その寺には無口で奇妙な小坊主慈念がいた。
 変幻自在の映画監督川島雄三が大映で撮った3本の作品のうちの一本。軽妙な川島のイメージとは裏腹な重苦しい物語に若尾文子の妖艶さが加わってかなり見応えのある力作となっている。

 本当に川島雄三という監督は変幻自在で、どんな映画でも撮れるというか、撮るたびに違う映画を撮るというか、不思議な監督である。フランキー堺などを起用したコメディが川島流かと思いきや、ここでは重厚な作品を撮る。
 この映画は物語りもかなり重く、淫靡で暗澹としているが、映画としてもかなり見応えがある。川島としても晩期の(といっても夭逝の作家なのでそれほど歳ではないが)作品で、完成度は高い。特に映像面ではぐっと心に刺さってくる映像が度々出てくる。最初にぐっときたのは慈念が肥汲みをしている場面、肥溜めの汲み出し口から慈念を写す映像なのだが、その思いもがけない構図に驚かされる。今になって思えば、この場面のような普通では用いられない視点がこの映画には数多く出てくる。その違和感がこの映画にテンポ(重いテンポ)をつけ、映画へと入り込むのを容易にしている。
 この映画は、結果的に慈念が主役的な役割を演じるようになるわけだが、そのプロットの持っていき方(ネタばれになるので内容は言わない)と映像の変化のつけ方がともにラストに向かって緊張感をましていく。そして最後(エピローグ前)に非常に芸術的なラストが待つ。このもっていき方は本当に感心。最後のエピローグは個人的にはちょっとねという感じだが、これが川島流という気もする。まあ、それは置いておくとすれば、最後にくっと心をつかまれて、「いや、よかった」と言わざるを得ない映画になったと思う。

けんかえれじい

1966年,日本,122分
監督:鈴木清順
原作:鈴木隆
脚本:新藤兼人
撮影:萩原憲治
音楽:山本丈晴
出演:高橋英樹、浅野順子、川津裕介

 高校生の麒六は下宿する家の娘道子に思いを寄せる。しかし、カトリックの家でもあり、思いを伝えることのできない麒六はそのエネルギーを喧嘩に向ける。果たして麒六の運命や…
 鈴木清順の代表作のひとつに数えられるこの作品。モノクロの画面に登場人物たちがよく映える。

 この映画は確かに面白い。ドラマとして面白い。喧嘩に明け暮れる番カラ男とマドンナが出てくるわかりやすい青春映画というところ。その番カラ男がキリスト教に縛られているというのも一つひねりを加えてあって面白い。
 という非常に雄弁な物語に映像の美しさが加わって、有名な桜のシーンなどは確かに色を感じさせるモノクロの映像となっているわけです。
 しかし、何かが物足りない。それは多分、これが日活映画らしい日活映画だからかもしれない。高橋英樹というスターを主役に配し、そのスターをヒーローとして描く作品。それを清順は崩そう崩そうとして入るけれど、崩しきれなかったという感じ。そう、その崩そうという努力は感じられるのだけれど、やはりスターの看板を崩すわけにはいかず、ちょっとずれた部分の面白み(有名なピアノのシーンとか)や映像的な工夫(パチンコだまのシーンとか)といった形で表現するほかなかったという不満。
 これはやはり日活という映画会社が60年代石原裕次郎をはじめとするスター映画を大量に世に送り出していた映画会社だったからなのでしょう。決して監督中心ではない映画。だから清順のやりたいことを完全にはできなかった。そんな不満が垣間見えてしまうような作品でした。

河内カルメン

1966年,日本,89分
監督:鈴木清順
原作:今東光
脚本:三木克巳
撮影:峰重義
音楽:小杉太一郎
出演:野川由美子、伊藤るり子、和田浩治、川地民夫、松尾嘉代

 河内の山間の村に住む娘は病弱な父をよそ目に坊主の愛人になる母親に反感を抱きながら日々暮らしていた。そんな彼女は村に嫌気が差し、大阪に出て行くことに決めていた。
 清順が女を武器にしてのし上がっていく女を描いた。映画的にはかなり斬新な手法がつかわれ、清順的世界観を発揮。

 この映画は結構狂っていていい。「すべてが狂っている」ほどに驚愕するものではないけれど、「ふふ」とほくそえみたくなるような作り方。特に終盤はその傾向が強く、ひひじじいが映画を撮影するというときに照明とか、それが終わった後のマンションでのシーンとか、相当めちゃくちゃなことをやりながら、それを清順らしさという言葉で片付けてしまえるような味を出す。
 これがまさに清順的世界という感じなのでしょうね。ぎこちなさと狂気の描き出す美というところでしょうか。
 あとは、展開の速さがかなりいい。清順の映画はそれほど速いという印象はなかったんですが、この映画は相当速い。あっという間に物語が進んでいく。というより過ぎ去っていく。どんどん勝手に転がっていく展開の仕方は60年代らしさなのか、3時間分の物語を90分に無理やり収めたような印象がある映画がおおく、それがまた快感。

散弾銃の男

1961年,日本,84分
監督:鈴木清順
脚本:松浦健郎、石井喜一
撮影:峰重義
音楽:池田正義
出演:二谷英明、南田洋子、小高雄二、芦川いずみ

 山道を走るバス、乗り合わせた若い娘にお酌をさせようとする中年男に散弾銃を突きつけてそれをやめさせた男。男は散弾銃を担ぎ、通りがかりの村人に止められながらもあまり人が行かないという山に入っていく。実はその山はバスに乗り合わせた中年男が製材所を経営している山だった。
 清順映画常連の二谷英明の主演作。場所は日本の山奥だが、いわゆる西部劇。

 これは西部劇なのですね。場所は山、銃は猟銃ではあるけれど、女がいて、バーがあり、決闘がある。分かりやすい悪役と分かりやすいヒーローと分かりにくい悪役がいる。
 ということを加味しつつ考えると、かなり不思議な映画ではあり、パッと見退屈な映画であるようなんだけれど、いろいろと味わい深いという感じ。物語的にも、「なるほどね」「やっぱりね」という展開で、驚きはしないけれど関心はする。つまり全体としてみると崩れず均整を保った映画。細部に入っていけばもちろん不思議な魅力にあふれてはいるのだけれど。
 西部劇ということで基本的に人間の描き方は画一化されているところが清順らしいくずしを拒んだ一つの原因であるのかもしれないと思いながらも、端的な色彩や音楽や映像に清順らしさが垣間見える。たとえば、バーに並べられたビールジョッキの不均一さとか、山奥の酒場には似つかわしくない彩りの構成とか、そういったものです。保とうとする均衡とそれを崩そうとする力とが拮抗する点が清順映画の焦点だと私は思いますが、この映画は少し均衡がわに寄った映画なのではと。私はどちらかというとくずれた側に寄った映画のほうが好き。あるいは狂気の側に。

すべてが狂ってる

1960年,日本,72分
監督:鈴木清順
原作:一条明
脚本:星川清司
撮影:萩原泉
音楽:三保敬太郎、前田憲男
出演:川地民夫、禰津良子、奈良岡朋子、芦田伸介、吉永小百合

 街でちょっと悪い遊びをし、バーにたむろするハイティーンの若者達、そんな若者達のひとり次郎は母に限りない愛情を持っていたが、日ごろから反感を持っていた母の情夫である南原が理由で家を飛び出してしまう。
 物語としては特別どうということはなく、物語の前半60分は清順らしいと関心はするものの感動というほどではないけれど、最後の10分は息が止まるほど素晴らしい。
 まだまだ新人の吉永小百合もちょい役で出演。

 情夫がどうとか、若者がどうとか、戦後がどうとか、そういった安っぽいメディアにいたるまでありとあらゆるところで語られてきた問題を、あえて取り上げているのだけれど、この映画の本質はそんなところにはない。
 冒頭近くの交差点のシーン、カメラは平然と幹線道路のトラフィックの中に平然ととどまる二人の女を平然と俯瞰からとらえる。その画があまりに平然としていることに戸惑う。日常的ではあるけれど、映画では実現しにくいようなシーンがさりげなくちりばめられる。
 最後の10分になると、そのようなシーンも勢いを増し、それにもまして美しい構図と力強いカメラワークが引き立つ。その最後の10分間の始まりは、敏美がオープンカーの後部座席にうつ伏せで乗り込むシーンだろう。その非日常的な、しかし美しい構図にはっとし、そこから先は目くるめく世界。
 ホテルの一連のシーンはまさに圧巻。見てない人はぜひ見て欲しい。この1シーンに1500円の料金を払ったって惜しくはない。そのくらいのシーンでした。多くは語るまい。アップのものすごい切り返しと、足によって切り取られた三角形と、緊迫したシーンに突如入り込んでくる笑いの要素。見た人はそれですべてが分かるはず。