千羽鶴

1969年,日本,96分
監督:増村保造
原作:川端康成
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:若尾文子、平幹二郎、京マチ子、梓英子、船越英二

 とある茶室で開かれた茶会。その茶会を主催する栗本ちか子は、そのちか子を訪ねてきた青年菊治の父親の愛人だった。そしてそこには、菊治の父親のもう一人の愛人・太田夫人も娘を連れてやって来ていた。ちか子の狙いは菊治に見合いをさせようという魂胆だったが、菊治はその帰り菊治を待っていた太田夫人に出会う。
 これが増村作品最後の出演となった若尾文子の熱演がまぶたに焼きつく。川端康成の原作も、新藤兼人の脚本も小林節夫のカメラも素晴らしいのだけれど、頭に残るのは若尾文子の吐息。

 若尾文子の圧倒的な存在感。一番最初のセリフからそのキャラクターをしっかり示す息遣い。不自然なほどにまで誇張されたそのぜーぜーと音を立てる息遣いと、くねりくねりと作る「しな」。物語がどうの映像がどうのいうよりも、その若尾文子の尽きる作品。京マチ子演じるちか子は若尾文子演じる太田夫人を「魔性の女」と呼び、しかし映画は全体を通してむしろそのちか子こそが「魔性」であるのだと説得しているように見える。そして最後には菊治がちさ子に対して、「お前の方が魔性の女だ」というのだけれど、見終わって考えてみると、本当に魔性なのは太田夫人の方で、映画の舞台から去ってしまった後までもその呪縛が続き、存在は薄れない。いくら茶碗を割ってみたことで破片は残り、それは逆に存在を広げてしまうことになるのだろう。菊治は最後に吹っ切れたようなことを言うけれど、本当にその呪縛から逃れられたとは思えない。決して不愉快な呪縛ではないのかもしれないけれど、逃れることはできないのだろう。
 そんな若尾文子の存在感を支えるのはその物語と映像なのだけれど、脚本が新藤兼人で、カメラマンが小林節雄であるということを考えると、ことさらつらつら書くまでもないことなのかもしれない。小林節雄のフレーミングはいつ見ても秀逸なアンバランスさで、見事にフレームの中心と画像の重心をずらしている。この映画でも他の映画と同じく、人物を片側に寄せる場面、違和感のある切り返し、斜め方向へのものの配置という要素が多分に出てくる。
 でもやっぱり若尾文子。これで最後と思うと名残惜しい。これまでの増村との関係をすべてぶつけたような迫真の演技。これぞ女優魂というものを感じました。

黒の試作車

1962年,日本,95分
監督:増村保造
原作:梶山季之
脚本:舟橋和郎、石松愛弘
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:田宮二郎、高松英郎、叶順子、船越英二、菅井一郎

 タイガー自動車は開発中の新車のテストを行っていたが、そのテストカーが事故を起こし、その事故の事実が産業スパイによって新聞社に売られてしまった。それをライバルヤマト自動車の馬渡の仕業だと考えたタイガー自動車の小野田は部下の朝比奈を片腕として激しいスパイ合戦をはじめる決意をする。
 ビジネスの世界を舞台としたハードボイルドな物語。田宮二郎を主役として3年間で11作が作られたサスペンス「黒」シリーズの第1作。

 増村のサスペンス物は面白い。やはり若尾文子とものとか渥美マリの「軟体動物シリーズ」などに注目が集まりがちだが、このサスペンスというジャンルは増村は得意らしい。特にスパイものは。「陸軍中野学校」は何といってもヒットシリーズだし、この「黒」シリーズもそう。ほかには川口浩主演の「闇を横切れ」もかなり面白かった。サスペンスというと謎解きの面白さでプロットが面白さの大部分を占めると考えられがちだけれど、私は必ずしもそうではないと思う。文字で読むのとは違う映像ならではの謎解きというものが存在し、犯人を明かすも殺すも監督の演出力次第という感じがする。この作品はちょっと犯人がわかりやすかったけれど、それでも確信をもてるまではいかない隠しかたはされていた。
 増村のサスペンスが面白いのはそれだけではなく、結局サスペンスに終始しないというところ。「恋にいのちを」も一種のサスペンスだったけれど、人情とか恋愛とかそういう人間的な要素が大きな部分を占める。この作品でも結局のところスパイ合戦よりも主人公の田宮二郎のこころの動きというものが本当の物語の核であるような気がする。時代性を考えれば高度成長期を突き進む日本の企業戦士への警鐘なのかも知れない。
 またサスペンスでは増村のマッチョさが浮き立たされてそれが面白いというのもある。基本的に男の正解を描く増村のサスペンスでは登場する男達がみんな(精神的に)マッチョでそれは増村自身のキャラクターを反映しているような気がする。そのマッチョさを現代にも通じるものとして肯定することは到底できないけれど、一つのパターンとして考えるのはとても楽しい。女性をあんなに魅力的に描ける監督がどうしてこんなマッチョな面を合わせ持つことができるのか?ヨーロッパ的な騎士道精神かな? イタリア留学してたくらいだから、イタリア的なのかもしれません。
 今日のテーマは増村とサスペンスとマチスモとイタリアということでした(後付け)。

恋にいのちを

1961年,日本,93分
監督:増村保造
原作:川内康範
脚本:川内康範、下村菊雄
撮影:小原譲治
音楽:西山登
出演:藤巻潤、江波杏子、富士真奈美、山茶花究、高松英郎

 胸を病んでいた美琴は医者からもう全開といわれる。その医者のところに訪ねてきた雑誌記者の加納は行方不明となった父親を捜し、父の戦友だったその医者を訪ねてきたのだった。実はその加納は美琴の実家の料亭の得意で美琴を家まで送っていく。この二人を中心として恋愛と陰謀とが絡んだドラマが展開されてゆく。
 若尾文子や川口浩といったスターを起用せず、地味な配役で臨んだ正統派ドラマ。ドラマの練り方はさすがだがやはり全体に地味かも。

 増村にしては普通かな。ドラマとしてはドロドロ系で、いい感じですが、やはり藤巻潤と江波杏子ではパンチが弱い。野添ひとみや若尾文子とはちょっと違う。江波杏子は好きですが、脇役にいてこそ映える女優という気がします。藤巻潤もしかり。ドンと田宮二郎あたりが主役に座っていたらずいぶん違う印象の映画になったんだろうなぁ、などと思ってしまいます。
 そしてカメラマンはベテラン小原譲治。増村とは監督第1作の「くちづけ」で組んでいます。豆知識としてはこのカメラマンは川口松太郎(「くちづけ」の原作者、川口浩の父)の監督作品のカメラマンを勤めていたりしています。そんな小原譲治の画はそつがないという感想です。藤巻潤がアパートの階段を上っていく場面でのパンの仕方などがとてもスムーズで、人間の視線のようにカメラを使います。1箇所藤巻潤が社長と人悶着起こす場面でかなり細かな切り返しがあり、その部分はかなり新しい感じはありましたが、他の部分ではそれほどすごいと感じるところはありませんでした。
 ということで、全体的に地味な作品ではありますが、こういうのもありかなとは思います。こういうシンプルなドラマを見るたびに、当時の映画が1番の娯楽だった時代を思います(というか想像します)。いまならテレビで見て済ませてしまうような単純なドラマを映画館まで見に行く時代。そんな時代の有象無象のドラマの中にたくさんの名作が含まれていたということです。増村もまたそんなドラマを大量に作らなければならない職人監督の一人だったわけで、どの作品も豪華スターを使って全力投球というわけには行かなかったでしょう。この作品が撮られた60年代前半増村は毎年およそ4本の作品を監督しています。いまからでは考えられないペース。そんな中で撮られた作品なんだということが頭をよぎります。

足にさわった女

1960年,日本,85分
監督:増村保造
原作:沢田撫松
脚本:和田夏十、市川崑
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:京マチ子、ハナ肇、船越英二、大辻伺郎、ジェリー藤尾、田宮二郎、杉村春子

 東海道線の特急の中、小説を一心に読む少年と隣の席に座った学生。少年が食堂車にいくとそこにはその小説の作者である五無と雑誌社の編集者、それに大阪の刑事がいた。彼らとその電車に乗り合わせた美人スリさやとが繰り広げるドタバタ喜劇。
 沢田撫松の原作の3度目の映画化。2度目の映画化の際に監督をした市川崑が企画と脚本に名を連ねている。増村はクレイジーキャッツを起用することでこの作品をコメディ映画に仕上げた。

 軽快です。映画全体に非常に心地よいリズムがあって、そのリズムを崩さずに映画が進んでいく感じ。ある意味では先の展開が読めるということでもありますが、期待したとおりのことが期待したとおり起こるというのはなかなか気持ちのいいものです。そのリズムが唯一崩れるのは、厚木の飛行機を写した長いインサートですが、これはこれで物語のちょうど中間あたりにひとつの間を取るという意味でリズムを崩すというよりはひとつの間を与える。このあと少しテンポアップするので、あとから見ればいい間だったということです。
 後は、時代性ですかね。増村の作品で、主に若者を描いた作品ではことさらに「時代」というものが色濃く出ているものがありますが、それは当時のリアルタイムを今になってみているというもので、今になってみると少し押し付けがましさを感じます。それに比べるとこの作品が感じさせる時代性というものはもっとさりげないもので、今になってみるとよりリアルに感じられる。
 街角に貼られた映画のポスターや街そのもの、特急というものの新しさ(増村には「黒い超特急」というのもありました。あれも新幹線の時代性というものを感じさせてた)などなど。これはこの映画には昔を振り返るという面があるからこそ出てきた特徴でしょう。前の時代を振り返ることによって振り返った時点の時代性が浮き彫りになってくる。ただ現在を映しただけでは出てこない深みが出てきます。
 ところで、この映画のカメラは村井博さんですが、増村作品でカメラを多く握っている人の一人です。私はこの村井博という人より小林節夫が撮影を担当した作品のほうが好みです(中川一夫は別格として)。少々分析すると、村井博の映像はすっきりとしていて増村自身の意図がストレートに出てきている気がします。この作品のような軽快な作品ではこういうさりげない映像というのがとても効果的ではあります。これに対してこ小林節夫の映像は構図が非常に凝っていて、画面にインパクトがあります。だから画面自体が語ってしまい、その奥にあるドラマが薄められてしまうという感はありますが、増村の濃厚なドラマにはそれぐらい強い画面のほうがいい。濃厚なドラマと強い画面がぶつかり合う雰囲気がたまらなくいい。
 今度は小林節夫を見に行こう。

からっ風野郎

1960年,日本,96分
監督:増村保造
脚本:菊島隆三、安藤日出男
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:三島由紀夫、若尾文子、船越英二、志村喬、川崎敬三、水谷良重

 東京刑務所、今日出所予定の111番の男に面会が告げられた。しかしその111番はバレーボールの最中で仲間に代理を頼む。代理の男が面会室に行くと、そこにいた妖しげな男は相手の名前を確認して銃を発射した。実は111番の男は朝比奈組の二代目で別の組に命を狙われていたのだった。
 作家の三島由紀夫を主演に起用したかなり型破りな作品。内容もただのやくざものではなく、増村らしい人情劇という感じ。

 なんといっても三島由紀夫の存在感はすごい。いきなり上半身裸でマッチョぶりを見せつけ、その後も棒読みのセリフとお世辞にもうまいとはいえない演技ながら、それを個性としてしまうほどの存在感を示す。増村さえも食ってしまったという印象すらあるが、私はこれは増村の戦略だと思う。増村映画レギュラーの名優達に志村喬を加えた豪華脇役陣を使って三島の個性を引き出す、そんな戦略。
 それが感じられるのは、この映画では三島が前景に出る場面が多いということなどからである。たとえば若尾文子と二人でいる場面で、若尾文子が話している場合でも、前景に三島を置いて、奥の若尾文子にピントを合わせるシーンなどがある。他のシーンでもこのような場面がいくつか見られた。主役ということもあるかもしれないが、増村のほかの作品と比べても主役が画面に閉める延べ面積が大きかったように思える(延べ面積で計算することもないんですが…)。だから逆に三島がいない画面はどことなく寂しく感じられるのだろう。
 だからこれは単純に三島由紀夫の個性の問題ではなくて、増村保造の撮り方のけれど、役者でもなんでもない人を堂々と主役に据えてとるんだからそれくらいの事は仕方ない。そして、役者でもなんでもない人を使い、その個性を前面に押し出したからことで切るラストシーン。このいい画を取るために常識も何も捨ててしまったラストシーンを見れば、増村がいかに三島由紀夫の個性を買っていたかが分かる。
 そういえば、増村も三島も(精神的に)マッチョな感じで近しいところがあるのかもしれない。増村は「女なんて力でねじ伏せちまえば…」的な描写がこの映画にも出てきたし、他の映画でもたまに見られるようにかなりマッチョな性格なようです。見た目はそうでもなさそうなのに。三島由紀夫は言わずもがな。まあ、時代性もあるとは思いますが、いま見ると「そんな…」と思ったりもします。

女は女である

Une Femme est Une Femme
1961年,フランス=イタリア,84分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原案:ジュネヴィエーヴ・クリュニ
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、マリー・デュボワ

 ストリッパーのアンジェラは子供が欲しい。しかし、同性相手のアルフレッドはあまり乗り気ではない。そこで彼女は、いつも言い寄ってくる友だちのエミールを使って彼の気を変えさせようとするのだが…若き日のゴダールが取った、喜劇になりきれなかったシュールな喜劇。劇中で喜劇なのか悲劇なのかと繰り返し問われるように、喜劇のような顔をしていながらその実一体難なのかはわからない不思議な作品。個人的にはこのシュールな笑いのセンスはありです。

 冒頭のシーンのアンナカリーナの持つ赤い傘。くすんだ色調の画面にパッと映える赤い傘はまぎれもないゴダールの色調である。だからこの映画もゴダールらしい文字やサウンドを多用した天才的な構造物であるのかと予想するが、始まってみるとコメディ色を前面に打ち出したオペラ風というかミュージカル風の作品。オペラ調は後半に行くに連れ薄れていくものの、全体にコメディ映画であると主張するようなシュールなギャグがちりばめられる。このセンスのシュールさがやはりゴダールなのか。このセンスは個人的にはすごく好き。目玉焼きなんかは最高にヒットしたのでした(俺はおかしい?)。
 ゴダールの映画はどれもシンプルなのだけれど、この映画はことさらにシンプル。多くのゴダールの映画はシンプルでありながら、ひとつひとつはシンプルである要素を重ね合わせて複雑にはしないけれど理解を難しくする。シンプルなのだけれどそこに盛り込まれた要素が多すぎていっぺんにすべてを理解することは難しくなる。しかしシンプルであるがために、頭を抱えることにはならず、凡人の理解力では追いつけない映画的なものの奔流に身を任せることが心地よい。いわば、単色のレイヤーを重ね合わせることで、一つの芸術的な絵を作り上げているような感じ。
 しかし、この映画の場合は、そのレイヤーの数が抑えられているので、理解することができる。時折、不可解な場面に遭遇するものの大部分は理解することができる。これは一方ではちょっと物足りなさを感じるけれど、何かゴダールの映画作りのエッセンスを垣間見たような気にもなれる。ようは、こんな映画を3本くらいくっつけて、しかし長さは同じ90分で作ったのがいつもの映画なんじゃないかと乱暴な言い方をしてしまえば思える。面白いんだけどよくわからないゴダールがちょっと分かった気になれる一本という感じでした。

猿の惑星

Planet of the Apes
1968年,アメリカ,113分
監督:フランクリン・J・シャフナー
原作:ピエール・ブール
脚本:ロッド・サーリング、マイケル・ウィルソン
撮影:レオン・シャムロイ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演:チャールトン・ヘストン、キム・ハンター、ロディ・マクドウォール、リンダ・ハリソン

 高速で宇宙探索を続ける宇宙船。半年が経ち、船長のテイラーも長期睡眠に入ることになった。半年といっても地球では数百年に当たるときが立っていた。その睡眠がけたたましい非常ベルと共に醒める。不時着した惑星を探索して行くと、その惑星は去るが人間を支配している惑星であることが分かった。
 斬新な発想で、SFの古典となった作品。猿の特殊メイクも当時の技術力の粋を集めたもので相当なもの。リメイク版と比べても見劣りしません。

 体外の人は物語を知っているだろうということでネタばれは恐れずに書いていきます。で、結末を知った上で見てみると、ちょっとこの物語は冗長すぎる。つまり、転がっていって欲しい物語がなかなか転がらず、先の展開へ時が行くものとしてはじれったさを感じる。基本的にはかなり社会に対する批判的な姿勢が明確に打ち出されており、その要素がプロットの遅滞を生み出しているということ。その批判的な要素がプロットの遅滞を補って余りあるほど魅力的であれば、そのようなじれったさは感じないのだろうけれど、この映画の場合は補いはするけれど余りはない、という程度。なので、2時間弱の作品を2時間弱に感じさせてしまう。わたしは映画は90分がちょうどいいと思っているのですが、その90分というのは物理的な(地球の)時間ではなくて、体感的な時間なわけです。だからこの映画はちょっと長い。その点では、ティム・バートン版のほうが勝っているでしょう。スピード感という点では。
 しかし、特殊メイクを見てみると、ほとんど遜色がない。というよりむしろ、古い方が自然に感じる。それはおそらく、この「猿の惑星」のころに始まったILMの特撮にわれわれが慣らされているからなのでしょう。よく考えれば全く作り物なのだけれど、いまILMがCG技術などなどを使って作ったティム・バートン版のよりもリアルに感じるのはなぜ? みんなはそうは感じないのだろうか?
 しかも、この映画は60年代の作品。「2001年」とほぼ同じ時期に製作されたもの。そう考えるとすごいのかもしれない。純粋娯楽作品としてこれだけしっかりとSFを作っているというのは。きっと文句をいわれながらも見られつづける作品だと思います、これは。

殺しの烙印

1967年,日本,91分
監督:鈴木清順
脚本:具流八郎
撮影:長塚一栄
音楽:山本直純
出演:宍戸錠、真理アンヌ、小川万里子、南原宏治

 羽田空港に降り立つ男・花田五郎は組織ナンバー3の殺し屋。それを迎えにきた男も以前は殺し屋だったが、いまは酒に手を出しランク外に落ちているという。飯の炊ける匂いをこよなく愛する五郎はその男に持ちかけられた仕事に乗り、ひとりの男を護送する。
 というストーリーですが、この映画のストーリーは日活社長が激怒したくらいわけのわからないものなので、気にしてはいけません。この映画に予備知識は要らない。これを見ればきっと「鈴木清順ってなんだろう?」と思うこと請け合い。

 この映画は製作当時、あまりにわけがわからず日活社長が激怒し、清順はクビにされたという話や、ジャームッシュやカーウァイらの映画で引用されているという話で有名になっていますが、実際映画を見てみると不思議な感じ。「スタイリッシュ」という言葉で表現されるのはむしろおかしいと思うくらい摩訶不思議な世界。これは決してスタイリッシュではなく、一種の遊びの世界であり、日活の社長がクビにしたのも企業人としてはあたりまえかなという気もします。全く映画で遊んでいるとしか思えないから。しかし、これが数十年後には一種のスタンダード(あくまで一種の、一部のですが)になるとは考えつかなかったでしょう。
 映画自体はというと、まず殺し屋の世界にランキングがあるということ自体わけがわからない。そして真理アンヌの存在の位置もよくわからない。もしかしたら本当はそんな女いないんじゃないかと私は思いました。きっとあの女は飯の精、炊き立てのご飯の妖精に違いないと思う。と言い切ってしまうのは、この映画がどんな勝手な解釈も許容するような映画であるから。とにかくやってみたいことをいろいろやって、うまい具合につなげてみて、あとはみんなの解釈に任せるよといういい意味で投げやりな姿勢なわけです。ああまとまらない。
 この映画は今年、清順自身によってリメーク(いや、むしろリ・イマージュ)されて公開されます。話によると全然違う映画のそうなので、楽しみ。

はなればなれに

Bande a Part
1964年,フランス,96分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ドロレス・ヒッチェンズ
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスール、ルイーザ・コルペイン

 フランツとアルチュールは車で一軒の家を見にいく。それはフランツが英会話学校で一緒のオディールの叔母の家で、そこに出入りしている男が相当の額の現金を隠し持っているらしい。その後英会話学校に向かった二人はオディールも巻き込んでその現金を盗み出す計画を立てる。
 白黒・スタンダードの画面に3人の若者の組み合わせはジャームッシュを思わせる。もちろん、ジャームッシュが影響を受けたということですが。

 「気狂いピエロ」とはうって変わって白黒・スタンダード、初期のゴダールらしい作品。またこの作品では絶対的な第三者が語り手として存在するのも特徴である。この語りは非常に効果的で、ほとんどが3人の関係性で紡がれていく物語にアクセントを加える。特に3人がカフェで過ごす一連のシーンは絶品。「一分間黙っていよう」というところから、踊るシーンまでの語りと音楽・サウンドの使い方は「うまいねぇ」と嘆息するしかないのです。
 またも天才ゴダールの計り知れなさということになってしまいますが、ここのシーンを見ただけで、並みの監督では想像もできないような作り方ということがわかります。踊りのシーンではいきなり音楽を切って語りを入れるのですが、踊っている音(足音や手拍子)はそのまま使われる。その音楽が「ぷつっ」と切れるタイミングの絶妙さはどうにも説明のしようがありません。
 ゴダールは音の面でもかなり革新的なのですが、この作品もそれを如実に表すものです。今ある映画のかなりのものがゴダールの音の使い方を剽窃(といったら語弊がありますが)しているともいえる。それでもこの踊りのシーンはほかのどんな映画でも見たことがない。「これはやはりまねできないんだろう」と私は解釈しました。

気狂いピエロ

Pierrot le Fou
1965年,フランス,109分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ライオネル・ホワイト
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:アントワーヌ・デュアメル
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、グラツィエラ・ガルヴァーニ、サミュエル・フラー

 ジュリアンが妻とパーティに参加する間、友人のフランクの姪が子供たちの面倒を見てくれるという、フランクに姪がいたかといぶかしがる彼だったが、現れた学生風の女性に子供たちを任せてパーティへ向かった。しかし、ジュリアンはパーティを中座し先に帰宅する。実はその姪という女性はジュリアンの元恋人だった。
 天才ゴダールの作品の中でも最も知名度が高いといえる作品。ゴダールらしさを維持しつつも単純なサスペンスとしても楽しめる(と思う)作品。

 ゴダールは初期の作品では白黒の画面にこだわり、カラーの映画は撮ろうとはしなかった。しかし「」で一転、カラーへの取り組みを始めると、カラー作品でもつぎつぎと名作を生み出す。しかも、激しい色使いでほかの映画との違いを見せつけながら。中でもこの「気狂いピエロ」と「中国女」は色使いに抜群の冴えを見せる。「中国女」では徹底的に赤が意識的に使われるのに対して、この映画で使われるのはトリコロール。赤と青と白のコントラストを執拗なまでに使う。マリアンヌと兄(?)の船に掲げられているトリコロールの国旗をみるまでもなく、繰り返し移される青い空と白い雲を考えるまでもなく、その3色のコントラストが頭にこびりつく。
 青い空と白い雲といえば、この映画で多用されるがシーン終わりの風景へのパン。つまり、人物が登場するシーンの終わりに空舞台の(人がいない)風景へとカメラが動く。これが何を意味するのかは天才ゴダールにしかわからないことかもしれないが、単純に感じるのは「いい間」を作るということ。単純にシーンとシーンをつないでいくタイミングとは異なったタイミングを作り出すことができるのではないだろうか? しかも、一ヶ所だけそのパン終わりを裏切るところがあります。人物から風景にパンして終わりかと思ったらまた人が映る。
 となると、このシーンをやりたかったがために繰り返しパン終わりをやったのかとも思えるのです。そこはゴダール、はかり知れません。気づかなかった人は今度見たときに探してください。私もその構成に初めて気づいたので、もしかしたら一ヶ所じゃないかもしれない。
 ゴダールをやるたびに理解できなさをその天才のせいにしてしまうのですが、本当に心からそう思います。