続・新悪名

1962年,日本,99分
監督:田中徳三
原作:今東光
脚本:依田義賢
撮影:武田千吉郎
音楽:鏑木創
出演:勝新太郎、田宮次郎、赤木まり、近藤美恵子、ミヤコ蝶々

 闇市がなくなり一時田舎に帰っていた朝吉だったが、ひょんな事からみなしごだという少女の身を引き受けることになる。そんなことがあった日の翌朝、簡易旅館でオカマのおぎんに再会、今は旅芸人の一座で女形をやっているというおぎんは朝吉に頼み事があるという…
 「悪名」シリーズの4作目。相変わらず勝新太郎はかっこいいが、映画的にはシリーズが進むに連れて弱々しくなっているような…

 まず、田宮次郎があまり出てこないのが不満です。勝新は確かにかっこいいけれど、一人で何でもこなすスーパーマンみたくなると、ちょっと筋立てが単調になりがち。
 それからなんといってもカメラがいかん。この映画のカメラはなんだか不必要に動きすぎるような気がする。どの場面とはいえませんがカメラがやたらとトラックアップしたりパンしたりする。しかもゆっくり。カメラが動くこと自体は取り立てて問題はないのですが、別に動かなくてもいいところで動くと、単に構図を崩すだけで何の効果も生まない。構図としては悪くないところが多かったのに、それをカメラが動くことによって壊してしまっているような気がして残念な気分。
 しかし、相変わらず物語りのプロットはなかなか秀逸で、推理もののような味わいがあります。任侠ものは「仁義」というルールが存在しているので、そのルールを破ることで話が転がっていくというやりやすさがあるのでしょう。しかし、これが時代が下っていくに連れどうなっていくのか… この作品の時点で設定は1950年代になっているでしょうから。
 とは言ってみたものの、この作品を見る限り宮川一夫カメラのものに絞ってみた方がいいかもしれない。と思ったりもします。

新悪名

1962年,日本,99分
監督:田中徳三
原作:今東光
脚本:依田義賢
撮影:今井ひろし
音楽:斎藤一郎
出演:勝新太郎、田宮二郎、中村玉緒、浜田ゆう子、藤原礼子

 戦争から復員してきた朝吉は、自分が戦死したことになっていることを知る。家族は生き返ったことを喜んだが、妻のお絹を訪ねていってみると、お絹は他人の妻になっていた。朝吉は死んだ舎弟の貞の母親を訪ねて徳島へ向かった…
 「悪名」シリーズ第3作。前作で死んでしまった田宮二郎演じる貞だが、田宮二郎はその弟の役でしっかり復活。監督は田中徳三から森一生に変わり、カメラは宮川一夫ではなくなってしまった。しかし、勝新の魅力は今回も全開。ヒットシリーズになる理由もわかる。

 結局のところ、物語としては人情やくざものにつき、勝新の映画であるというのがはっきりとする。原作があって勝新がいれば何とかとれちまうんだろうというのは、3年で8本も作られたことからも分かってくる。
 でも、結構面白い。いまこれが、テレビドラマとしてやっていたらぜったい見るくらいには面白いし、きっとシリーズのどれを見ても大きくはずすことはないのでしょう。
 ということで、がんばって映画的な部分に話を持っていくと、この映画はシネスコで、映像はやはり宮川一夫のと比べると見劣りするけれど、シネスコ作法に忠実にしたがって、自然な感じに仕上がっています。シネスコ作法といえば、村で酒盛りをするシーンで、最初酒盛りを遠くから映すところで、画面の真ん中一番近くに大きい木がある。これですっかり画面を二分してしまっている。これは、先日お届けした「真田風雲禄」でも使われていた方法で、加藤泰はかなり意識的に使っているもの。画面構成としてメリハリがあって非常にいいです。でも、カットが変わって、今度は違う細い木が真ん中にあったのは、ちょっとどうかな?
 最近はテレビ放映でも画面サイズどおりにしっかりやってくれることが多くなったので、画面サイズに注目してみるのもいいかもしれません。

悪名

1961年,日本,94分
監督:田中徳三
原作:今東光
脚本:依田義賢
撮影:宮川一夫
音楽:伊福部昭
出演:勝新太郎、田宮二郎、水谷良重、中村玉緒、中田康子

 松島の遊郭で暴れていた土地のやくざ吉岡組の貞を、その遊郭の琴糸のところに遊びに来ていた朝吉がぶちのめした。そのことで組の親分吉岡に認められた朝吉は吉岡組の客となるが、琴糸の足抜きをしようとして失敗してしまう…
 当時のベストセラーを大映の職人監督田中徳三が映画化。カメラは宮川一夫、勝新と玉緒の共演など、見どころもいろいろ。

 ぱっと見て、なんとなく映像に惹かれる。宮川一夫とは知らずに見ても、なんとなく、何かが違う気がする。何が違うのだろう。宮川一夫と勝新太郎はコンビというわけではないけれど同じ作品に関わることが多い。まあ、勝新はもともと大映で、宮川一夫も戦後は大映なのだから当たり前ではあるけれど、勝新が勝プロを立ち上げた後でも、宮川一夫はカメラを回した。確かに宮川一生の鮮やかな画面に勝新の濃い顔はよく映える。
 この映画はちょっとひねったやくざもので、やはり勝新と田宮二郎が相当いい味を出していて、すごくいい。2人とも、どの映画でもなんとなく同じタイプの役を演じる役者だけれど、それが逆にこの二人のコンビをうまく生かせているような気がする。だから、シリーズが続いたんでしょうけれど…
 この悪名シリーズは調べてみるとなかなか魅力的で、16本作られていますが、最後の2本は監督がマキノに増村ということになっていて、出演者も安田道代が出てきたり、田村高広が出てきたりするらしい。

真田風雲録

1963年,日本,90分
監督:加藤泰
原作:福田善之
脚本:福田善之、小野竜之助、神波史男
撮影:古谷伸
音楽:林光
出演:中村錦之助、渡辺美佐子、ジェリー藤尾、ミッキー・カーチス

 関が原の戦いのとき、みなし子たちの一団が死んだ侍の持ち物を盗んで歩く。そこで出会った一人の若いお侍、そして忍術を使う謎の少年佐助。そして10数年後、そのみなし子たちと佐助は再会し世に名高い真田十勇士となるのだった。
 時代劇とやくざもので名高い加藤泰監督のかなり強烈な作品。物語の設定もかなり独特ならば、映画の作りも相当独特。かなり笑えます。

 何がすごいといって、このでたらめさ加減がものすごい。映画というのは現実に似せることによって進歩してきた。というまことしやかに聞こえる誤謬を思い切り暴き、映画とは決して現実に近づきはしないということを朗々と謳い上げる。といってしまっては仰々しすぎるけれど、この映画のでたらめさはまさにそういうこと。 一番すきなのは、大阪城で兵たちがドンちゃん騒ぎするシーンでのスポットライト。確かに時代劇でもスポットライトは使われているし、現代的な照明が焚かれているのだけれど、フレームにうつるのはたいまつや焚き火だけ。しかし、この映画はしっかりとスポットライトそのものがうつり、それはしっかりとスポットライトとしての役割を果たす。
 映画の誤謬を暴くといっても難しいことではなく、そんなでたらめなことであるということ。しかし、決してすべてがでたらめというわけではないのが加藤泰。画面の構成の仕方などをみていると、そこはしっかりと考えて作りこんでいる。ひとつ気になったのは真田のところにはじめて集まった場面で、佐助が画面の手前に横たわり、奥に他の仲間がいるというシーンがあったが、このシーンはかなりローアングルというか、異常にローアングルで、視点は地中にあるとしか思えない。
 ほかにも、無数にすごいところがあります。それはもうあげきれない。しかし最後に1つ。誰もが気になる字幕について。主要人物が出てくると下に名前が表示されるというのは「シベ超」でもやっていた手ですが、なんか日曜洋画劇場のようで気に入らない。しかし、それは別にすればこの映画の字幕は本当に面白い。セリフで言えばいいところをわざわざ字幕にしたりする。この感性は何なのだろう?

コインを投げろ

Tire die
1960年,アルゼンチン,33分
監督:フェルナンド・ビリ
脚本:フェルナンド・ビリ、フアン・カルロス・カベージョ
撮影:オスカル・コップ、エンリケ・ウルテガ
出演:サンタ・フェの子供達

 サンタ・フェの街をグルっと映す空撮で始まり、子供のアップに切り替わる。サンタ・フェのスラムに暮らす子供達は列車を待っている。列車がやってくると彼らは列車の横を走り、“Tire die !”(コインを投げて!)と叫ぶ。
 アルゼンチンの監督フェルナンド・ベリが1960年に撮った作品。「シネマ・ノーヴォ」と呼ばれる作品群の一つに数えられる。

 レビューを書くほど見れていませんが(いかんせん、スペイン語が聞き取れない)、ドキュメンタリーというにはかなり違和感のある映像の作りではありました。かなり作りこまれているということ。子供達がコインをねだるところでも、子供の側からの視点と列車の側からの視点の両方を混ぜ込みながら映像化している。ドキュメンタリーというよりはドラマ的。フィクションというわけではないけれど、映画として作りこむために相当に意図的に作られた場面という印象です。
 しかし、この映画の意義は、スラムの子供達に目を向けたということにあり、それ以上でも以下でもないという感じ。「こんな現実があるんだよ」ということを斬新な映像技法で描いてみた。そんな感じです。ある意味では、ウカマウなんかと通じるところがあるのですが、アルゼンチンとボリビアでは相当事情が違うということもあって、なかなか論評することは難しいようです。
 とにかく、かなり貴重な映画であることは確かなので、どこかで見かけたら「おっ」と思って足を止めてみてください。

大悪党

1967年,日本,93分
監督:増村保造
原作:円山雅也
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:田宮二郎、緑魔子、佐藤慶、倉石功

 洋裁学校に通う芳子はボーイ・フレンドに別れを告げた。そのとたん声をかけてきた男・安井は芳子に酒を飲ませ、マンションに連れ込んだ。翌朝目を覚ました芳子はほうほうの体で家に帰るが、そこに芳子のヌード写真を持った安井が現れる…
 「妻は告白する」につづき、円山雅也の小説を映画化。緑魔子が妖しい魅力を発散し、田宮二郎も魅力全開。増村らしい非常にウェットな映画。騙し騙され誰が本当の「大悪党」か?

 これはドロドロ。相当ドロドロ。プロットについては言うことなしです。人間の暗部をぐさりとえぐる増村らしい辛辣な物語。きれいに複線を張って物語を二転三転させる。しかも見ている側の神経を逆撫でするような残酷な物語展開がすごい。冷酷非常なプロットに怒りさえ覚えてきてしまいます。これは我々が勧善懲悪な映画を見すぎているせいなのか、それとも増村がサディスティックなのか?この映画を見て思ったのは、我々がいつも見ている映画というのがいかに平和かということ。結局我々は「正義が勝つ」と思って映画を見ている。この映画も結局正義が勝つのだからその思いは間違っていないのだけれど、それでも一度は「もしかしたらその期待は裏切られるかもしれない」という思いを抱かせるのがこの映画の力。やはりそれは田宮二郎の顔半分笑いとギラギラした目に潜んでいるのか?
 なんだか謎めいた書き方になってしまいましたが、この映画が提示する「悪」の概念というのは相当興味深いのです。結局のところ誰が「大悪党」なのか?ある意味では全員が。あるいは3人のうちの誰でもいい1人が。それは「悪」というものの取りかた次第。漫然と見ると我々は緑魔子演じる芳子に自己を同一化させていくので、安井こそが「悪党」であり、得田は味方。しかし、芳子の立場に立ったとしても人殺しをさせた得田は安井を上回るほどの「大悪党」でありうるし、むしろ自分こそが本当の「大悪党」であると胸を張ることさえ出来るかもしれない。

妻二人

1967年,日本,94分
監督:増村保造
原作:パトリック・クェンティン
脚本:新藤兼人
撮影:宗川信夫
音楽:山内正
出演:若尾文子、岡田茉莉子、高橋幸治、伊藤孝雄、江波杏子

 雑誌社に勤める柴田健三はタクシーの故障で立ち往生し、近くのスナックに立ち寄った。そしてそこでかつての恋人順子と出会う。昔小説家志望だった健三は順子の紹介で原稿を持ち込んだ雑誌社の社長令嬢に見込まれ、社員となり、さらにはその令嬢と結婚したのだった。それから幾年かの月日が流れていた…
 ミステリーとしての要素と男女の愛憎劇としての要素が共存する増村らしいドラマ。ミステリーとしての要素が強いが、なんといってもすばらしいのは若尾文子と岡田茉莉子の二人。

 もっとどろどろとした愛憎劇が繰り広げられるのかと思いきや、むしろミステリーとしての要素のほうが強い。これは若尾文子演じる道子のキャラクターが増ターらしい強さと激しさを持っているのだけれど、表面に出てくる部分では非常に理知的である。だからあまりドロドロとしない。
 しかし、ミステリーとしてはなかなか優秀で、バランスが取れた作品ということが出来るのだろう。しかし、増村ファンとしてはもっと壊れた、何か奇妙なものが見たいので逆に不満感がたまる。
 さらにしかし、この映画の二人の女性はすごくいい。若尾文子はもちろんいいけれど、岡田茉莉子がそれほど多くない出番でものすごい存在感をみせつける。これに対比される二人の男があまりにさえないというのも二人を引き立てる要素となっているのだろうけれど、それにしても二人がすごい。決して表面的に対立・対決することはないのだけれど、その穏やかな対面のシーンでいろいろなことが頭をよぎる。若尾文子の凛とした表情と岡田茉莉子のはにかんだような微笑。この対面の瞬間にこの映画の魅力は凝縮している。

 それにしても、二人の男がさえないのは増村の計算だろうか? 最初、高橋幸治が棒読みセリフで登場したとき「絶対この人は主人公じゃない!」と思ったが、まんまと主人公で、最後まで棒読みで通し切ってしまった。私はこれは増村の計算だと思う。この役者さんは馴染みがないのでわからないけれど、増村作品によく出てくる人では川津祐介あたりが棒読み系。

華岡青洲の妻

1967年,日本,100分
監督:増村保造
原作:有吉佐和子
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:市川雷蔵、若尾文子、高峰秀子、伊藤雄之助、杉村春子(語り)

 田舎の武家の娘である加恵は近くの田舎医者・華岡直道の評判の妻であるお継に憧れを抱いていた。華岡家に妻にと請われた加恵は父の反対を押し切って華岡家に嫁いだ。最初は仲睦まじくやっていた加恵とお継だったが、留守にしていた夫の雲平(青洲)が帰ってくると、徐々に関係に変化が現れてくる…
 江戸時代の実在の医者華岡青洲を描いた有吉佐和子のベストセラー小説の映画化。とはいっても増村色はかなり色濃く、物語も映像もまぎれもなく増村保造という作品。

 物語が増村的であるのは、結局のところこの映画が1人の男を巡る2人の女の戦いという要素に還元できるからだろう。そういった状況での女の激しい愛情というものは増村が繰り返し描いてきたことであり、それが舞台が江戸時代となり、二人の女の関係が嫁と姑となったところで本質は変わらない。そのような物語だからこそ、そのように描ける自信があったからこそ、増村は映画化を熱望したのだろう。
 映像が増村的であるのは、やはり構図。構図に工夫が凝らされているのはいかにも増村らしい。しかし、この映画が他の映画と少々異なっているのは、3人以上の人がいるシーンが多いということ。増村の映画は全体的に見てみると、2人の人間を描いた場面が多い(ような気がする)。しかし、この映画は3人以上(特に3人)の人間を描く場面が非常に多い。そこでは2人の場面とは明らかに異なる構図の工夫がなされている。そしてそれは、会話をしている二人と、しゃべっていない1人の位置関係という形で特にあらわれる。後姿の青洲をはさんで(これによって画面は完全に二分割される)話す加恵とお継を配したシーンや、画面の右半分の手前でしゃべる加恵と青洲に対して、左側の奥でじっと座っているお継を描いた場面などがそれであるが、このときの会話に参加していない一人の存在が非常に面白い。わかりやすく表情で語らせる場面もあるが、ただの背中や表情の変わらない横顔であっても、それが語ることは非常に多く、物語を視覚的に展開させていくのに非常に効果的だ。
 個人的にはこれはかなりいいと思います。静かな映像の中に凝らされた工夫というのはかなり好み。

黒の超特急

1964年,日本,94分
監督:増村保造
原作:梶山季之
脚本:増村保造、白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:田宮二郎、藤由紀子、船越英二、加東大介

 岡山で細々と不動産業を営む桔梗のところに東京の観光開発会社の社長と名乗る男が儲け話を持ってきた。その男・中江によれば、桔梗の住む町に大きな工場が誘致されるらしい。大金をつかみたい桔梗はその男の話に乗り、地主達を説得するのだが…
 増村としては三作目の「黒」シリーズだが、シリーズとしては11作目(なんと2年ちょっとで)にして最後の作品。金と正義とが複雑に絡み合う社会派サスペンスで、なんといっても田宮二郎の熱演が光る。

 冒頭(タイトルの前)、激しいフレーミングで驚かされる。すごくローアングルだったり、腰の高さだけを切り取ったりという感じ。タイトルが出た後は少々落ち着くので安心。増村らしい構図は健在だが、それほど目に付かず、それよりも(黄金期の)ハリウッド映画を思わせるディープ・フォーカスのパースペクティヴが使われているのが印象的だった。それとローアングルが多い。この二つはおそらくサスペンスドラマとしての劇的効果を狙ってのことだと思う。
 しかし、映画としてはサスペンスというよりはメロドラマという感じで、硬派なドラマさよりは増村らしいウェットな雰囲気を感じる。それは増村ファンとしてはうれしい限りだが、サスペンスとしてはどうなのか? あるいは、完全に増村的ではない(例えば、主人公のキャラクターが他の作品と比べると徹底されていない)ところはどうなのか? などと、増村的なるものといわゆるサスペンスなるものの間で揺れ動いてしまった。

 この「黒」シリーズは基本的にメロドラマ的な要素が強く、サスペンスといいながら、ヒロインとのウェットな関係がいつも物語のスパイスというか、サブプロットというか、主人公のキャラクター作りの一つとして使われている。最終作になっても、増村は自分が作り上げたそのスタイルを守り、シリーズに一貫性を持たせている。そして、この2年間で11作というモーレツな勢いで作られてシリーズは、時代のモーレツさを象徴しているものかも知れなず、シリーズの最後はまさに時代を象徴するものとしての“新幹線”がテーマとなっているのだ。
 60年代は田宮二郎の時代と私は(勝手に)主張するが、その60年代の前半の時代的なものをすべて盛り込んだシリーズがこの「黒」シリーズであったのだと思う。そこには60年代という時代が描きやすい単純な時代の空気を持っていたということも大きく、今となっては時代を象徴するようなシリーズなんてものはどうあがいても作れないだろう。だから私がこの「黒」シリーズを賞賛するのは、自分が生まれていない時代へのノスタルジーでしかないということも言える。
 でも、時代なんてそんなものだとも思うし、ノスタルジーだって悪い面ばかりじゃないんだよといいたい。ハリウッド映画の未来への幻想と、日本映画のノスタルジーと、まったく違うもののようで、行き着くところは夢の世界に浸れる時間という同じものなのかもしれないと、ずいぶん大規模なことを考えてみたりもした。

好色一代男

1961年,日本,92分
監督:増村保造
原作:井原西鶴
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:市川雷蔵、若尾文子、中村玉緒、船越英二、水谷良重

 京都の豪商のボンボン世之助は女が何よりも好き。女を喜ばせるためなら財産も命も捨てるそんな男だった。そんな男だからもちろん倹約、倹約で財産を築いてきた父親とはそりが合わなかった…
 市川雷蔵が念願だった世之助の役をやるために当時まだ若手だった増村保造と白坂依志夫のコンビに依頼、増村としては初の時代劇、初の京都撮影所作品となった。時代劇でも変わらぬスピード感が増村らしい快作。

 この作品はかなり速い。時代劇でしかも人情劇なんだから、もっとゆっくりとやってもよさそうなものだが、増村は情緒の部分をばっさりと切り捨ててひたすらスピード感にあふれる時代劇を撮って見せた。
 そのスピード感はストーリー展開にあるのだが、なんといっても一人の女性にかける時間がとにかく短い。それでいて主人公の冷淡さを感じさせることもない。そんな主人公に否応なく惹かれてしまうのは、世之助が自分をストレートに表現するいかにも増村的な人物だからだろう。日本の社会の封建的な部分が強調される江戸という時代にこれだけ自分の感情を直接的に表す人物を描くことはすごく異様なことであるはずだ。そのように理性では考えるのだけれど、そこからは推し量れない人間的な魅力というものをさらっと描き出してしまう増村はやはりすごい。
 そして、この映画のもう一つすごいところは中村玉緒演じるお町が棺桶の中でにやりと笑うシーンに集約されている。そしてそれがすらりと過ぎ去ってしまうところに端的に現れる。このシーンが何を意味するのかを考える時間は観客には与えられない。そんなことはなかったかのように次のシーンへと飛んでいく(なんと、地図をはさんだ次のシーンは新潟から熊本までと距離的にも離れている)ので、われわれはすっかりそのことを忘れてしまう。しかし、見終わってふと考えると、「あれはいったいなんだったんだ?」と思う。いろいろと答えらしきものは思いつくけれど、それが何であるかが重要なのではなくて、見終わった後までも楽しみを継続させてくれるところがにくい。
 あるいは、世之助に心底入り込んでしまった我々は若尾文子演じる夕霧の美しさに息を呑む。心のそこから彼女を喜ばせたいと思う。その若尾文子の出番は本当に短く、ほんの一瞬にすら感じられるのだけれど、その余韻はいつまでも続く。
 こんなに終わって欲しくないと思った映画は久しぶりに見た。面白い映画というのは結構あるけれど、それは見終わって「ああ、面白かった」と満足して思う。しかしこの映画は面白くて、見ている間も「終わるな、終わるな」と心で叫び、終わった後は「終わっちゃった」と残念な気持ちを残す。「この映画が永遠に続いてくれたら幸せなのに」と。