刺青(いれずみ)

1966年,日本,86分
監督:増村保造
原作:谷崎潤一郎
脚本:新藤兼人
撮影:宮川一夫
音楽:鏑木創
出演:若尾文子、長谷川明男、山本学、佐藤慶、須賀不二男

 何者かに薬をかがされ、背中に刺青を彫られる女。その女は裕福な質屋の娘おセツ。おセツはある夜、手代の新助と駆け落ちをした。とりあえずかくまってくれるといっていた船宿の権次のところで蜜月を過ごすが、そんなおセツに彫師の清吉が目をつけていたのだ。
 谷崎潤一郎原作、新藤兼人脚本、増村保造監督、若尾文子主演という『卍』と同じメンバーに名カメラマン宮川一夫を加えて撮られた、映画史上に残る名作。

 男を翻弄する女という増村が好むテーマにぴたりとはまる谷崎の「刺青」。なぜこれまで映画化しなかったのかという原作をやはり見事に映画化した増村だが、この作品の成功はやはり宮川一夫にかかっていたのかもしれない。ややもすれば安っぽいやくざ映画になってしまいそうな題材を見事に芸術の域に高めているのはその映像の美しさだろう。もちろん若尾文子の演技も素晴らしいけれど、人間の肌がこれだけ美しく撮られている映画は見たことがない。本当に這っているように見える女郎蜘蛛の刺青が描かれた背中は吹き替えが多いらしいが、それは美しいものだった。
 ということで、映像はさておき、この映画でもやはり狂気が登場する。ここでの狂気は若尾文子に言い寄る男全員ということもできる。妻になるという口約束を信じて妻を殺してしまう権次はその典型だ。しかし、もっとも深く「狂気」に犯されているのは新助だろう。おセツを殺そうとする瞬間、新助は「狂気」との境界を踏み越えようとしていた。そして清吉。おセツの肌に女郎蜘蛛を彫って以後狂気に犯されたようにさ迷い歩く清吉は、しかし、最後に女郎蜘蛛をさす殺すことで正気の域に踏みとどまったのか、それともあるいは、それこそが狂気への決定的な一歩だったのか? 見終わった直後はそれは彼が正気にとどまったということだと感じたのだけれど、今考えると、あれが決定的な一歩であったのだとも感じる。
 とにかく「狂気」が付き纏う増村の映画。狂気への決定的な一歩を踏み出すまいとふんばっている人々の映画である。

偽大学生

1960年,日本,94分
監督:増村保造
原作:大江健三郎
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:黛敏郎
出演:若尾文子、ジェリー藤尾、船越英二、伊丹一三(十三)

 四年浪人した末にまたも大学に落ちてしまった大津彦一は田舎の母親のためにも大学に受かったことにして、偽大学生として大学に通おうと決意する。そうして東都大学で偽大学生生活をはじめた彦一はひょんなことから学生運動グループに仲間入りし、学生運動に参加することになるが…
 当時文学界のニューウェーブとして話題を集めていた大江健三郎の小説「偽証のとき」を映画化。若者の複雑な心理を偽大学生という要素によって抉り出したサスペンスフルな映画。
 主人公はジェリー藤尾で若尾文子は主役ではないのだが、男ばかりの学生の中でその存在感は絶大。作品はモノクロ。

 いつものことながら、増村保造は人間の心理を抉り出す。「狂気」と「正気」の間には紙一重の隙間もないのかもしれない。最後のクライマックス、学食に学生たちを集めて演説会が行われ、若尾文子扮する睦子がたまりかねて演説をぶつシーン、真実を語っているはずの睦子がみなに笑われるシーン、われわれは一瞬、本当に何が真実なのかわからなくなってしまう。もしかしたらこの映画全体が狂気の産物だったんじゃないかと思ってしまう。それは「ドグラマグラ」の世界のように。
 映画は結局きちんと話を整理し、現実は現実に狂気は狂気にと返してしまうのだけれど、それで現実の問題が解決されたわけではないことに変わりはない。 増村が好んで描く「狂気」というもの。恣意的な線引きで「正気」と区別されてしまう狂気。我々はそれが怖いけれど、それは身近にある。あるいは身近にあるからこそそれが怖い。増村の映画にはその「狂気」が常にといっていいほど頻繁に出てくるのだけれど、それを正面から描くことはなかなかない。あるいは、はっきりと境界を越えて「狂気」のほうに入り込んでしまった人を描くことはなかなかない。むしろ境界ぎりぎりで「正気」のほうにいる人、あるいはまさに境界線上にいる人を描こうとする。
 そんな意味で、この作品は他の作品とは少し違うということもできるし、同じということもできる作品。私としては、増村的世界を大江健三郎が歪ませた、あるいは、増村の歪みと大江の歪みがあわさって新たな歪みを生み出した作品と考えたい。

盲獣

1969年,日本,84分
監督:増村保造
原作:江戸川乱歩
脚本:白坂依志夫
撮影:小林節雄
音楽:間野重雄
出演:緑魔子、船越英二、千石規子

 自分がモデルとなった彫刻を見るため画廊に足を運んだアキはそこでその彫刻をなでまわす一人の盲人に出くわした。それを見たアキは不気味な感じを覚えた。数日後、マッサージ師を呼んだアキは突然麻酔薬をかがされ、目や鼻や乳房の不気味なオブジェが並ぶ大きな部屋に閉じ込められ、そこにあの盲人が現れた。
 江戸川乱歩の原作に、圧倒的な迫力のセット。とにかく妖艶にして不気味な世界がそこにある。しかしそれはただ気持ち悪いのではなく、なんともいえない魅力を放つ世界でもあるのだ。

 まず最初の印象は、異常なほどに芝居じみているということだ。アキが閉じ込められることになるアトリエもそうだし、3人の俳優たちの演技もそうだ。とにかくすべてが大げさで非現実的、それがこの映画の第一印象だった。

 しかし、その非現実的なところというのは物語が進むにつれて気にならなくなっていく。アキはその部屋から逃げ出そうと試みるが、それが難しいとわかると今度は男をたぶらかして母親と反目させ、状況を変えようともくろむ。その手練手管は非常に現実的だし、アキと母親の対決にはリアルなドラマがある。

 それでもやはり目を引くのは船越英二の異常さだ。その異常さは観ているものに恐怖心を抱かせる。これが目を引くのは、その異常さだけが実はこの非現実的な物語の中で現実的なものだからなのかもしれない。

 物語を追っていくと「こんなことはありえない」と思うけれど、なんとなく「ありうるかもしれない」と思わされてしまう瞬間がある。自分をアキの立場においてみたとき、こういうことがもしかしたらあるかもしれないと考えると心の底からいい知れない恐怖が湧き上がってくる。

 そして、船越英二の不気味さと緑魔子の妖艶さがせめぎあいながら映画はずんずん進んでいき、最初に感じた違和感のようなものはどんどん薄れて映画に引き込まれていく。

 終盤はもう怖いというか、神経に障ってくる。心臓の弱い人は見ないほうがいいんじゃないかっていうくらいにきつい。実際にグロテスクな場面があるわけではないんだけれど、グロテスクなものに弱い人にはかなりつらいと思う。

 しかも、この結末に至る心理というのがもうまったく理解できない。これはもう異常としかいいようがなく、正常な神経で理解することは不可能なんじゃないかと思う。しかし、同時にこの異常さというのは社会的認知されている異常さでもあるとも思える。具体的に言ってしまうとSM的な性倒錯で、ここまで極端なものはさすがに拒絶反応を起こしてしまうけれど、そういう性向の存在自体は広く認知されている。

 そのようなものを60年代にストレートに映画に描いたこの作品はやはり今見ても面白い。まったく古さを感じないしファンキーだ。やっぱりすごいな。

清作の妻

1965年,日本,93分
監督:増村保造
原作:吉田絃二郎
脚本:新藤兼人
撮影:秋野友宏
音楽:山内正
出演:若尾文子、田村高廣、千葉信男、紺野ユカ、成田三樹夫、殿山泰司

 いやいやながら、60過ぎの呉服屋の隠居の妾となって家族を支えていたお兼だったが、その隠居が急死。遺言通りに大金を受け取って、母と田舎に帰ったが田舎の人たちは彼女らに冷たくあたり村八分同然の扱いを受けた。しかし、そんな中隣りの清作が模範兵として復員する。清作は周囲の反対を押し切って、お兼と夫婦になろうと考えるのだが…
 女の執念を描いたいわゆる「増村的」映画。共同体・個人・女という伝統的な日本の社会構造の問題点をえぐる秀逸なサスペンスドラマ。

 この頃になると増村はかなり真摯に社会を捉え、それを描こうとしているように見える。そして特に「女」についてさまざまな物語を描いている。そしてその女はどこか恐ろしい「強さ」を持っている。この映画の主人公お兼もそんな「女」のひとり。
 何といっても若尾文子の圧倒的な存在感。主人公の感情の起伏が見ている側にまでうつってしまうような濃密な緊張感がそこにはある。  そして秀逸なのはストーリー。日露戦争という時代。世間・共同体と個人、時代をおって変化するその関係性を「女」というこれまた時代とともに変化する存在から描いたある意味ではサスペンスフルな物語。
 増村作品は後期になるとこういったどろどろした話が多くなってくるが、その展開は相変わらずめまぐるしい。これもやはりいらないところはばっさり切ったという印象だ。つまり、映画の長さに対して物語の量が多い。時間の流れ方が早い感じがする。それによって、「青空娘」は軽快にとんとん拍子で話が進んでいくという印象になったが、こちらは物語が凝縮されたという印象になる。どちらにしても90分という時間はあっという間に過ぎ、幸福な充実感が残った。

中国女

La Chinoise
1967年,フランス,103分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:クロード・シャンヌ
出演:アンヌ・ヴィアゼムスキー、ジャン=ピエール・レオ、ジュリエット・ベルト、フランシス・シャンソン、ミシェル・セメニアコ、レクス・デ・ブロイン

 毛沢東主義(マオイズム)をテーマにしたゴダール流革命映画。
 相変わらず、人物や場面の設定が明らかにならないまま映画は進行して行くが、とりあえずわかるのは、毛沢東主義を信奉している5人の若者が共同生活をし、それを映画として記録しているということ。しかしこれが映画の映画なのか、どこまでが現実なのか、それはわからないまま映画は進む。
 マルクス主義・共産主義・フランスの政治に詳しくないと意味のわからない用語がたくさん出てくるので、あまりに知らないと苦しいが、マルクス主義思想なんかを少々かじっていればなんとなく意味はわかるはず(それは私)。
 しかし、そこはゴダール。もちろん思想面を伝えることが第一義なのだろうが、ゴダール映画らしい映像感覚とサウンドは相変わらず素晴らしい。とにかく見てみて、うんうんうなずくもよし、わけがわからんと投げ出すもよし、ゴダール的世界を味わうもよし。

 とにかく、設定がわからないのだけれど、「何なんだこれは?」と眉間に皺を寄せながら最後まで見きってしまった。という感じ。最後まで見れば、なんとなく設定はわかるのだけれど、映画の撮影クルーの位置付けがなかなかわからない。おそらく、ゴダールたち自身でもあり、劇中人物でもあるという微妙な立場にいるのだろうとおもうが、果たしてどうか。
 毛沢東主義との兼ね合いもあり、難解と言われがちなこの映画ですが、見てみると意外と見やすい。わけがわからないと言えばわけがわからないのだけれど、ゴダールの映画は見始める時点ですべてを理解しようなどという構えは捨ててしまっているので、理解できなくてもそれは心地よいわからなさと言ってしまえるような感覚。(負け惜しみではないよ)
 最近、ゴダールの映画を見て思うのは、こういう天才的な感性を持つ人の映画は理解するのではなく、流し込むのだってこと。頭を空っぽにして感性そのものを流し込む。そうすると、1時間半の間は自分も天才になったような気になる。そんな感覚で見るゴダール。いいですよなかなか。

 ここまでが1回目のレビュー。今回ある程度、展開を把握してみたところ、実のところ彼らの若者らしい先走り感が映画の全編にあふれており、映画を撮っている男達はそれを冷淡に見つめているという関係性があるような気がしてきました。彼らの革命ごっこが一体どうなるのかをみつめている感じなのか… そこまではなんとなく理解しましたが、それだけ。
 あとは細部に気を引かれ、映像の構図の美しさはやはりゴダールならでは。壁際にひとりが立ってクロースアップでインタビューを受ける場面はそれぞれが違う色調で描かれており、その対比が美しい。

コンドルの血

Sangre de Condor
1969年,ボリビア,82分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス、オスカル・ソリア
撮影:アントニオ・エギノ
出演:ウカマウ集団、ボリビアの農民たち

 3人の子供を亡くし、それ以後子供も生れなくなってしまったアンデス地方の先住民の村長のイグナシオは、多くの子供が死に、多くの村の女に子供が出来なくなってしまった自体を危ぶみ、周りの村にも調査をする。そこで浮き上がってきたのは、すべての不幸は北米人の診療所ができて以降に起こってきたということだった。
 ボリビアにやってきた北米の「平和部隊」と呼ばれる人々が秘密裏に行っていた不妊手術を告発するウカマウの長編第2作。いたって素朴な映画だが、先住民の共同体の内部が描かれていて非常に興味深い。物語の構成も時間軸に沿っていくのではなく、複雑に入り組み、物事の全貌を明らかにしていく上で非常に巧妙に練られたものであるといえよう。

 まず、イデオロギー的にこれが反米帝国主義映画であることは間違いない。我々がこの映画によって知ることになったこのような事実はもちろん重要なことだが、それだけでは今の我々がこの映画を見る十分な理由にはならないだろう。
 この映画はウカマウの映画の中でもかなりドラマトゥルギーがしっかりとした映画だ。主人公であるイグナシオが撃たれてしまう事件を発端に、それまでの事件の推移と撃たれて以後のイグナシオに起きる事件を平行させて描く。その2つの出来事の推移によって語られることは同じことであり、それはもちろん権力とその奥に潜むアメリカ帝国主義の不正の告発である。
 そしてなによりも、最後にイグナシオの弟パラシオス(村を出て都市化したインディオ、つまり旧来の伝統的文化・共同体的価値観から切り離されて生きているインディオ)が共同体に戻ってたち上がる。このエピソードこそがウカマウが映画を作った動機であり、それはつまり、この映画を見た都市にすむ先住民たちに、「君たちも共同体に帰ってたち上がるんだ!」というメッセージを送っているのだ。
 このメッセージの受け手ではない我々は、この映画がこれだけ力強くメッセージを伝えていることに驚嘆する。そして物語にひき込まれ、そのメッセージに共感している自分を見つめて納得する。映画にはこれだけの力があるんだと。
 映画の持つ「力」、それは『第一の敵』を見た時にも感じたものだが、この映画のほうがより直接的に人々を動員しうる「力」に溢れている。そのような「力」を映画から感じることが出来る。それだけでもこの映画を見る価値があると思う。

アルファヴィル

Alphaville
1965年,フランス=イタリア,100分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ポール・ミスラキ
出演:エディ・コンスタンティーヌ、アンナ・カリーナ、ラズロ・サボ、エイキム・タミロフ

 「外部の国」からアルファヴィルへとやってきた新聞記者のジョンソン。ホテルに着くなり、接客係が売春婦まがいのことをするなど、そこは全く奇妙な街だった。実はスパイである彼はフォン・ブラウン教授なる人物を探し、アルファビルを自滅させるという任務を帯びていた。その娘と仲良くなったジョンソン(偽名)は徐々にアルファビルの内実に迫っていく…
 すべてがコンピュータに管理される都市アルファヴィル。そこでは言葉が統制され、人間的感情を規制されていた。簡単に言ってしまえばSF映画のパロディということになるのだろうけれど、そこはゴダール。単なるパロディにはしない。言葉をめぐる哲学的な冒険。それがこの映画のテーマかもしれない。

 メタファー。この映画を見終わったときに最初に浮かんだ言葉はそれだった。いったい何が何のメタファーなのか? サイエンスを欠いたSFはいったい何をたとえているのか?
 SFのパロディという形態はアルファヴィルが車で来られる「外部の国」であるというところにある。つまり、銀河系とか、いろいろなSFっぽい言葉を使っているけれど、それが果たして我々の言っている「銀河」という概念と同じなのかは言っていない。「銀河」というのが我々の言っている「国」程度の意味しか持たず、「外部の国」というのが、地球を意味しているのではなく、隣りの国を意味しているにすぎないとしたら…
 未来という現在のメタファー。
 宇宙という地球のメタファー。
 コンピュータという人間のメタファー。
 言葉はいったい何のメタファーなのか? 最後にナターシャが「愛している」という言葉を口にすることによって救われるのはいかにも鼻白いが、この鼻白さが意味するのは私もまたアルファ60によって感情を殺されてしまっているということなのか?

 と前回書いたものの、とりあえず私は全くもってこの映画の何たるカを理解していなかったということは確かだ。いまも理解しているわけではないが、ゴダールが投げかけてきた謎のいくつかは少なくともたどることができる。
 それはまあそれとして、「銀河」が重要であることは間違いない(私の直感はある程度は正しかった?)。この映画の「銀河」とは全くもって言葉(用語法)の問題である。アルファビルは砂漠の中に作られた小都市。設定上はアメリカのどこかである。アルファ60はそのアルファビルを「国」と呼び、それ以外を「銀河」と呼ぶ。星間を結ぶ高速道路を通ってやってきたジョンソン(レミー・コーション)は「外の国の人」である。そのようにして、概念に対する言葉を置き換えることがアルファ60の中心的な働きである。そして、そのようにして言葉を置き換えていくこと、そのことによってすべてを論理整合的に、合理的にするということが目的になるわけだ。しかし、その目的が結局のところどのような結果につながるのかは明らかにされない。結局は人間によって操作されるコンピュータであるアルファ60が都市を支配しているということは、それを操作する人間の意図がその支配の方法に影響を及ぼしているはずなのだが、その操作する人間であるフォン・ブラウン教授(ノスフェラトゥ)の意図は全く見えてこない。
 言葉と合理化を端的に象徴しているのが「元気です ありがとう」という言葉である。人が出会ってすぐ口にするこの言葉は「こんにちは、お元気ですか?」「ありがとう、元気です、あなたは?」「元気です、ありがとう」の最初の2つの会話を端折ったものであると考えられる。これは会話の合理化であり、言葉に新たな意味を持たせる行為でもある。アルファ60はこのようにさまざまな言葉の意味をすり替えていき、住民をコントロールしていく。 

 アルファ60のほうの謎は映画の中でジョンソン(レミー・コーション)が解き明かしている。私はそのことに今回気づいたわけで、それはそれでいいとしよう。言葉という点に注目すればアルファビルとアルファ60がどのようなものであるかはわかる。
 わからないのはそれを作り上げ、コントロールするフォン・ブラウン教授の存在である。この謎は私には解けなかったのだが、とりあえず言葉に大きな意味を持たせている(言霊ではないが、言葉には意味があり、それが何かを変えたりする)ことからして、登場人物の本名と偽名のそれぞれにも意味があるのではないかと思った。
 まず、フォン・ブラウン教授の本名であるらしいノスフェラトゥとは言うまでもなく古典的に吸血鬼を意味する(映画史的にも『吸血鬼ノスフェラトゥ』という古典がある)。つまり、この本名が映画の終盤で明らかにされるとき、彼の吸血鬼性が暴かれたということになる。偽名のほうのフォン・ブラウンはナチス・ドイツの著名なロケット学者で戦後はアメリカでロケット開発に参加した科学者をさすと思われる。したがって、このキャラクターは科学者の仮面を被った吸血鬼という意味づけがなされているわけだ。
 これに対してレミー・コーションのほうはエディ・コンスタンティーヌが『そこを動くな!』以来演じてきた映画のキャラクター(FBI捜査官)である。テレビ・シリーズにもなったらしいので、フランス人にしてみればおなじみの顔ということになるのだろう。偽名のほうの意味はわからないがこれはゴダールの一種の遊びであると思う。
 つまり、重要なのはフォン・ブラウンのほうということになるのだが、結局のところ科学者の仮面を被った吸血鬼という隠喩的な意味以上のことは私にはわからなかった。
 かなり飛躍して考えを展開していくならば、言葉を奪うということは血を吸うように人間から生命を奪ってしまうことなのだ、とゴダールは言いたいのかもしれない。ゴダールは非常に言葉に意識的な作家であり、言葉を非常に重要視するから、言葉をこの映画のテーマのひとつとした時点でそのようなメッセージをこめようと考えた(あるいは自然とこもってしまった)と考えても不自然ではない。もうひとつ重要なものと考えられていると思われる「愛」とあわせて、ゴダールが重要視するふたつのテーマがこの映画でもテーマとなっていると考えれば、少しは(私の)気持ちもすっきりする。

二人の銀座

1967年,日本,84分
監督:鍛冶昇
脚本:才賀明
撮影:山崎善弘
音楽:林一
出演:和泉雅子、山内賢、和田浩治、小林哲子、伊藤るり子、尾藤イサオ

 日比谷公園の電話ボックスに置き忘れてあった楽譜の曲をライブハウスで演奏してしまった学生バンド。その曲が評判を得つつある頃、その曲の作曲者が行方不明であることを知る。
 ベンチャーズの曲に永六輔が詩をつけた「二人の銀座」をモチーフに作られた映画。ブルー・コメッツなど当時人気を博していたバンドが出てきて、エレキを演奏するのが見もの。

 映画としてはなんてことはない。シナリオもひねりもないし、映像も至って普通。役者の演技もうまくない。大学生にしてはふけすぎてる。などなど。
 しかし、音楽はなんとなくいい。決して懐かしいはずはないのだけれど(何せ生まれてませんから)なんとなく懐かしい。耳に残って離れない。ちょっと聞いて、「ベンチャーズ」っぽいなと思ったら、本当にそうだった。何でわかるんだ? いったい俺はいくつなんだ?
 途中ちょっと飽きたけど、結構面白かったですよ。昔の銀座の風景というのもなかなか興味深い。少し画面が暗かったのでわかりにくかったのが残念でしたが、「銀座だな」ということはわかる。

金星怪人ゾンターの襲撃

Zontar, The Thing from Venus
1966年,アメリカ,80分
監督:ラリー・ブキャナン
脚本:ラリー・ブキャナン、H・テイラー
撮影:ロバート・B・オルコット
出演:ジョン・エイガー、スーザン・ビューマン、アンソニー・ヒューストン、パトリシア・デラニー

 金星人との交信に成功した科学者のキースは、友人の科学者カートが打ち上げた衛星を利用して、金星人を地球に招く。金星人は進んだ科学力を生かして人間たちを操ろうとするのだが…
 50年代のSF「金星人地球を征服」(ロジャー・コーマン監督)のリメイク。いわゆるB級SFで、セットもちゃちい、役者もへたくそ、ストーリーもよめよめ、という感じですが、60年代のSFってこんなもんかということはわかる。 

 私はB級SFはかなり好きですが、これはかなりすごい。何がすごいって、セットが見るからに張りぼて、金星人が人間を襲わせる鳥みたいのが異常にちゃちい。役者がショボイ。あの将軍が死ぬシーンとか爆笑してしまいました。そして金星人の着ぐるみ加減。登場を引き伸ばすから、どんなのがでてくるのかと思えば、仮面ライダーの敵役よりひどい着ぐるみ具合。あー、脱力、苦笑。
 これを裏返して楽しめるほど、私の懐は深くなかったようですが、これでも楽しめてしまうあなたはきっとB級SFの達人。
 という感じですが、この映画を見て感じたのは、「デジタル」という発想の欠如。サンダーバードを見ているときも思ったんですが、60年代というのは、デジタルという発想がなくて、すべてがアナログです。あんなに高性能なロケットがあるのに、発射の秒読みをする時計はアナログ。「あー、そうなんだー、そうだよね」と妙に感心することしきりでした。 

引き裂かれたカーテン

Torn Curtain
1966年,アメリカ,128分
監督:アルフレッド・ヒッチコック
脚本:ブライアン・ムーア
撮影:ジョン・F・ウォーレン
音楽:ジョン・アディソン
出演:ポール・ニューマン、ジュリー・アンドリュース、リラ・ケドロヴァ、デヴィッド・オパトッシュルド、ウィッグ・ドナス

 シカゴ大学の教授マイケル・アームストロング(ポール・ニューマン)は学会を抜け出し東ドイツへと亡命を企てる。しかしそこに、置いてきたはずの婚約者サラがついてきてしまい……
 冷戦時代のベルリンを舞台にしたスパイ映画。アルフレッド・ヒッチコック監督50作目という記念すべき作品。いかにもヒッチコックというからくりといかにもヒッチコックという展開。しかし、それは展開を読みやすいという欠点にもなっているかもしれない。過去の名作と比べると見劣りするが、ヒッチコックは駄作は作らない。若いポール・ニューマンもかっこいい。

 「ヒッチコックはハッピーエンド」そう思いながら見てしまうと、ここでも助かる、ここでも助かる、と考えながら見てしまう。どういう助かり方をするのか、どういうふうに警官を巻くのか、そこに興味は移ってしまう。
 ハラハラどきどきのサスペンスというより、クイズのようなもの。劇場での「火事だ!」は予想通り。しかし、”fire!!”と叫んで、ドイツ人はわかるのだろうか?
 冷戦も終わって10年、スパイ映画も作りにくくなってるんだとしみじみ感じた一作でした。