Smoke
1995年,アメリカ,113分
監督:ウェイン・ワン
原作:ポール・オースター
脚本:ポール・オースター
撮影:アダム・ホレンダー
音楽:レイチェル・ポートマン
出演:ハーヴェイ・カイテル、ウィリアム・ハート、ストッカード・チャニング、フォレスト・ウィテカー、ジャンカルロ・エスポジート
毎朝自分の店の写真を撮る煙草屋の主人オーギー(ハーヴェイ・カイテル)、なじみの客で小説家のポール(ウィリアム・ハート)、ポールに助けられる少年ラシード(ハロルド・ペリノー)という3人を中心としてブルックリンの人々の日常を描いた。
ポール・オースターの原作・脚本だけあって、物語には深みがあり、現実とも虚構ともつかない語りに味わいがある。決してハラハラドキドキする物語ではないが、みるものを引き込む魅力に満ちたストーリー。
なんだかよくわからないけれど面白い、ついつい何度も見てしまう映画というのはそういう映画が多い。私にとってこの『スモーク』はそんな映画だ。ドラマらしいドラマが立ち現れそうになると、ふっと静かな間が挟まれて、アンチクライマックスになる、その繰り返しであるこの映画にはよくわからない魅力が溢れている。
この映画の主人公は誰かではなく、ブルックリンという街である。だから、オーギーはこの街を毎日写真に撮る。それはそこを歩いている人を撮っているわけではなく、街そのものを撮っている。ポールが「みな同じだ」といい、オーギーが「ゆっくり見るんだ」というとき、それが意味するのはその場所がやっぱり変わっていないということに対する喜びであり、その街の持つゆったりとした時間の流れのよさである。
だから、この物語はその街の時間の流れに合わせるようにゆっくりと進行する。しかし、他方でこの街には生き急ぐギャングのような若者もいて、時間の流れは一様ではない。
そして、この映画を見ながら思うのは、そのような時間の流れの違いを生むのは、お金や地位や名誉といった外からの評価に対してどのような態度をとるのかというスタンスの違いではないかと思う。オギーやポールもお金を欲しがっていないわけではないけれど、それを第一には考えない。彼らはお金や地位や権力よりも、自分自身が満足するということを重要視している。そこには友達や自分の周りにいる人々との関係も含まれるわけだが、何かに向かって突き進んで行くというよりは、その時々の悦び、タバコのような刹那的な快楽も含めた一瞬の楽しみをより大事にしているのだ。ポールが語ったデカルトだか誰かがタバコの巻紙がなくって自分の論文を丸ごと吸ってしまったというエピソードなどは、そのような価値観を端的にあらわしている。彼は自分が論文によって構成の人にどのように評価されるのかということより、今この瞬間にタバコをすうことのほうを重要だと考えたのだ。
そして、ラシードがそれを信じないのは、彼が若者でそのような刹那的な悦びよりも未来を重視しているからだ。だからポールやオーギーとラシードとは本当には交わらない。しかし、それはそれでいいのだ。
この映画のもうひとつの面白さは、普通に考えたらおかしいようなことがまったく普通の事として行われていることだ。「タバコをやめなきゃ」といっているオーナーが当たり前のように大きな葉巻の箱を2箱も持って行く。ルビーは義眼を「失くした」といとも簡単に言う。
当たり前に過ぎてゆく時間の中に紛れ込む不思議なおかしさ、それもこの映画が魅力的である大きな理由のひとつであると思う。
そして、その当たり前に過ぎ行く時間というのは、基本的に繰り返しの時間である。オーギーが毎日写真を撮ることに象徴される繰り返し、それはポールが毎日、同じ時間に起きてタイプライターに向かうということ、タバコ屋という同じものが並んでいる空間、映画の公正もほぼ同じ長さの5つのエピソードで構成されている。この繰り返しは、その一つ一つが同じことの繰り返しのようで少しずつ違っている。その小さな変化に悦びがあり、だから日常に満足することが出来る。
この『スモーク』という映画を見るということも、そのような少しずつ違う繰り返しなのではないか。何度見ても煙にまかれるようにその本質はするりと見るものの手を逃れて行ってしまうけれど、そのたびごとに違う面白さが見えてくる。だから、この作品を繰り返し観てしまうのだと思う。