人情紙風船

1937年,日本,86分
監督:山中貞雄
原作:河竹黙阿弥
脚本:三村伸太郎
撮影:三村明
音楽:太田忠
出演:中村翫右衛門[3代目]、河原崎長十郎[4代目]、助高屋助蔵、市川笑太郎、市川莚司(加東大介)

 とある長屋で首くくりがあった。長屋の人たちは大騒ぎするが、向かいに住む髪結いの新三は気づかず寝ていた。奉行所で取調べを受けたあと、新三は大家にみんなで通夜をしてやろうと提案し、けちな大家から5升の酒を出させる。皆が酒を飲みながら大騒ぎする中、新三の隣に住む浪人ものの海野だけは内職で紙風船を作る奥さんと二人で過ごしていた…
 28歳で夭逝し、監督作品はわずか3本しか現存していない天才監督山中貞雄の監督作品のひとつで、この作品は遺作に当たる。実際は20本以上の作品を監督したといわれ、その20本の映画は日本映画界が失った最も貴重な財産のひとつであるといえる。

 この監督の演出のさりげなさをみると、小津安二郎が魅了されたというのもうなずける。映像はよどみなく流れ、人物像もシンプル、この映画では髪結いの新三というのがとてもいいキャラクターで男でもほれそうな感じ。だからといって新三がひとり主人公として立っているわけではなく、新三と海野のふたりがともに主人公となる。そのもうひとりの主人公である海野はたたずまいがとてもいい。映画が作り出したキャラクターというよりは、この河原崎長十郎という人のキャラクターがいいのでしょう。この人は川口松太郎が脚色し、溝口が演出した『宮本武蔵』(1944)で武蔵をやっているそうなので、このキャラクターで武蔵をどうやったのか興味を惹かれます。
 山中貞雄の話に戻りますが、画面の印象としてはロングめの映像が多い感じがしました。長屋でも事件が起こるのは長屋の一番奥にある部屋で、それを長屋の手前から撮っている。そのようにして奥行きをつくるということを意識的に行っている気がします。このやり方が面白いのは、人の興味を奥にひきつけておいて、手前でいろいろなことをできるということでしょう。人がフレームインしてきたり、フレームアウトしたり、それを見るとうまいなぁと感心してしまいます。
 『丹下左膳余話』のときも思ったのですが、この監督の作品はどうも文字で表現しにくいようです。文字で表現してしまうとちっとも面白さが伝わらない。「さりげなさ」とか「粋」とかいう言葉を使って表現するしかない。
 とにかく登場人物が魅力的で、さりげなく粋な画面を作っている。ということです。物語のほうも甘くなりすぎず、しかし人情味にあふれていて、現実的でありながら、突き放す感じではない。というところです。
 見る機会があったらぜひ見てほしい一作であることは確かです。ビデオやDVD化も待たれますが、やはりこの画は大きい画面で見たほうが堪能できるような気がします。

羅生門

1950年,日本,88分
監督:黒澤明
原作:芥川龍之介
脚本:黒澤明、橋本忍
撮影:宮川一夫
音楽:早坂文雄
出演:三船敏郎、京マチ子、志村喬、千秋実、森雅之

 崩れかけた羅生門でボーっと雨宿りをする坊さんと百姓の男、そこにもう一人の男がやってきて、「さっぱりわかんねぇ」とばかり言っている百姓から話を聞く。その百姓の話は都に程近い山中で一人の侍の以外を見つけ、3日後にそのことで検非違使庁から呼び出しを受けたことに始まる…
 芥川龍之介の『藪の中』の映画化。大映製作ということもあり、黒澤作品には珍しく女性が重要な役割を果たす。三船敏郎も京マチ子もこの作品で世界的に知られるようになった。

 原作が芥川龍之介ということもあって、力強い余韻が残る。話としては事件の当事者である人たちの話が食い違うというだけの単純な話ではあるのだけれど、すべてが終わったあとでも何か背筋がぞっとするような感じが残る。
 私にはこの作品は黒澤明が自分らしさを殺してとった作品のように見える。そもそも黒澤作品でこの作品のように女性がクローズアップされることはあまりない。主役級といえるのは『わが青春に悔なし』の原節子くらいで、あとは『蜘蛛巣城』の山田五十鈴、『椿三十郎』の入江たか子がいい味を出しているというくらい。
 これは根本的に黒澤の映画が「男」の映画であるということである。男と男の対決や友情が常に物語の軸になっているということで、そこにあるのは至極単純なドラマトゥルギーであって、精神的なもの、つまり人間の心の葛藤とかそういうものをドラマの柱にすえることはあまりない。
 この映画もそういう意味では決して人間の心を主題にしているわけではないく、基本的には男の話なのだが、何かが違う。それは京マチ子が語るエピソードよりも志村喬が語るエピソードの異常さだ。そこには男と男の物語は存在せず、男と女の物語があるだけなのだ。それは黒澤らしからぬことだ。
 そしてこの終わり方。三十郎の捨て台詞「あばよっ」が象徴的に示すように黒澤の映画は大体の場合ばっさりと気持ちよく終わるものだ。しかし、この映画の余韻はすごい。これはいくら黒澤でも芥川龍之介の原作を自分のものとしきれなかったということなのか、東宝争議の影響で菊島隆三や小国英雄を欠いていたためなのかはわからないが、他の黒澤作品らしさがシナリオの段階から感じられないようだ。
 しかし、これはこれでひとつの完成形というか、作品として成立しているところが黒澤のすごさなのだろう。
 もうひとつ、この映画ではカットとカットの切れ目がすべてシンプルにつないである。黒澤は常日頃カットとカットの間が重要だといっており、普段はワイプ(次のカットが前のカットにかぶさる)やフェイド(画面が徐々に暗くなったり徐々に明るくなったりする)やオーバーラップ(二つのカットが重なり合う)を多用するだけに、この作品の単純なつなぎの繰り返しはとても気になる。それがどのような効果を生んでいるのかを分析するのはなかなか難しいが、とりあえず、現在と過去、現実と空想、現世と霊界などの位相とされるものを区別していないということはあるだろう。それを別物と考えるのではなく、すべてをひとつのつながりと考えているからこそ、カットの切れ目で断絶を表すことなくすんなりとつないだということ。そういうことだとは思います。巫女の登場もそのことを示しているし。このあたりがヨーロッパで受けた理由なのかもしれないとも思いました。

 それにしても、この作品の京マチ子はとてもいい。京マチ子この作品は数あれど、今まで見た中では一番いいと思う。三船敏郎と京マチ子は相性がよかったと誰かが書いていた気がするが、二人の競演作はこの作品と翌年にとられた木村圭吾監督の『馬喰一代』しかない。それを見て、その誰かの発言の真偽を問うてみたいが、もしそれが本当なのだとしたら、もっと共演作をとってほしかったところだが、それは仕方のないこと。
 なんだか話があっちゃこっちゃに行ってしまいましたが、京マチ子の話。京マチ子はこのとき26歳、それまでの出演作で目立つものは宇野重吉と共演した木村圭吾監督の『痴人の愛』(1949)くらいなので、この作品が事実上の出世作ということになります。この作品以降日本人離れしたグラマラスな肉体美を武器に大映の看板女優になったわけですから、ここでも黒澤の力はすごいものだと感じさせられます。

赤ひげ

1965年,日本,185分
監督:黒澤明
原作:山本周五郎
脚本:井出雅人、小国英雄、菊島隆三、黒澤明
撮影:中井朝一、斎藤孝雄
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎、加山雄三、山崎努、団令子、江原達怡

 顔を出すだけのつもりで小石川療養所にやってきた長崎帰りの若い医師・保本登は自分がそこで見習いとしてはたらくことになっているのを知る。しかし貧困にあえぐ庶民ばかりを見るその療養所にだまされて入れられたことに反発した保本は赤ひげと呼ばれる療養所の医師に反抗し、何もしようとしなかった。しかし、そのとき療養所の離れに閉じ込められている狂女が脱走する事件がおき…
 エリートであることを鼻にかける若い医師と世間的には報われないながら地道に人のためになる医療活動をしている医師の出会い、衝突、和解を描いた物語。よくある話ではあるが、見せるところは見せる。それが黒澤。

 この映画は「休憩」というクレジットが出る休憩時間をはさんで前半と後半に分けられる。物語としても前半と後半に明確に分かれるといえるだろう。そしてどちらを評価するかは見る人によって分かれるようだ。いわゆる黒澤的という感じがするのは前半で、リアリズム的な描き方でさまざまな庶民の人生を写し取っていく。その主役となる山崎努と藤原釜足はなかなかいい物を作っていて、「死」というテーマをうまく、リアルに展開している。そこでは脇役となる加山雄三も稚拙さは否定できないもののなかなかいい。
 しかし、黒澤の真意はおそらく後半にあるとおもうし、私は後半のほうが好きだ。とくに少女おとよは後半の主役として非常にいい役割を果たす。この映画で一番よかった、というかうなったのは、看病のため保本がおとよを自室に連れ帰ったシーンのライティングだ。画面右手前にいる保本はろうそくの明かりで照らされ、灯りの中にいるように見えるが、画面左奥にいるおとよは黒いシルエットとして示され、眼だけがスポットで明るく光る。それは野獣のようであり、シンプルにわかりやすくおとよのキャラクターを表現する。どう照明をあてているのかはわからないが、ほの明るい中に真っ黒い人影として提示されるおとよの姿は非常に印象的だった。

 その後半にこめられた黒澤のテーマはおそらく「生」だ。黒澤はもともとセンチメンタルな映画作家だと思うが、この作品ではそのセンチメンタルさが前面に押し出されている。人間が生きるために必要なものは愛だとでもいいたげな赤ひげの好々爺ぶりはそれまでの三船の激しさとは異なっているように見える。しかも、この作品を境に黒澤と決別してしまったということもある。しかし、私はこの作品以前も三船が主人公として演じるキャラクターは赤ひげ的なものだったと思う。ただ、虚勢によってそれが覆い隠されていただけで、年を経るとともにその虚勢がはがれてきたということだ。しかし、その虚勢こそが三船のキャラクターの面白みであり、菊千代や三十郎が魅力的に見えた秘密なのだ。
 だから私にはこの赤ひげというキャラクターは(保本が惚れ込むほどには)魅力的に見えないし、だからこそドンと主役をはらせることはせず、加山雄三と主役二本立てという感じにしたのだろう。あるいは主役である加山雄三を支える準主役という役まわりにしたのだろう。

 このことは、この映画の後半が前半より魅力的であることの理由にもなっている。つまり、前半では主役たる加山雄三=保本が映画に深くかかわってこない。準主役である人たちが主役を映画に引き込もうと懸命になっているさまを描いているだけなのだ。後半になり、加山雄三が本格的に物語にかかわってくることでこの映画ははじめて映画になりうる。だから前半部は長すぎるプロローグと、一本の映画としてのプロットとはあまり関係のないサブプロットの集積に終始してしまっていると考えざるを得ない。
 でもやはり、後半部を盛り上げるためには前半部は必要で、私はこれはこれでよかったのだと思います。あまり表面に出てくることのない黒澤の甘ったるさが前面に出ているという点でも面白いし(黒澤自身が虚勢を張っているのかもしれない)、現代性のある時代劇という点でも黒澤らしさが出ているといえる。

用心棒

1961年,日本,110分
監督:黒澤明
原作:山本周五郎
脚本:菊島隆三、黒澤明
撮影:宮川一夫
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎、仲代達矢、東野英治郎、加東大介、山田五十鈴

 ぼろを着た浪人が家々が雨戸を閉じた何かありそうな宿場町に着く。その宿場の番太は用心棒の口を捜しているなら丑寅のところへ行ったほうがいいといい、男は言われるがままにそこに行くが、そのまま帰ってきて飯屋に入る。飯屋の親父は宿場で二人の親分が抗争をしている様子をはなし、この宿場は終わりだから出て行ったほうがいいと言うが、「それは面白い」といって居座ることに決めた。
 用心棒として抜群の腕を持つ男がそれを利用して、二つの勢力の間を渡り歩く。三船敏郎は浪人姿があまりに似合いすぎ、カメラマンに宮川一夫をむかえ映像的にも研ぎ澄まされたものがある。
 マカロニウェスタン『荒野の用心棒』にリメイクされたことはあまりに有名だが、リメイクを申し出たわけではなく、パクったのだったはず。

 この映画はあまりに語りつくされている感がありますが、やはり序盤では犬がくわえる手と、ばっさりと切り落とされるジェリー藤尾の腕が圧巻。いまとなってはそれほど驚くべき効果ではないですが、当時としてみたら、劇場に悲鳴がわくくらいの衝撃だったことと思います。この衝撃的なスペクタクルひとつをとっても、この映画がハリウッド映画のバイブルになりえたことはまったく当然のことのように思える。キューブリックやスピルバーグが今あるのも黒澤があってこそ。この映画があまりにハリウッド的(現在から見ればの話ですが)であることはそのような思いを抱かせずにはおかない。
 しかし、他方で果たしてこれは黒澤の作品として最高傑作といえるのか? 私にはそれは疑問に思える。この映画の主人公、三船敏郎演じる桑畑三十郎(仮名)のキャラクターは椿三十郎と比べるとあまりに暴力的で、三船敏郎は岩井俊二の言葉を借りればゴジラに似ている。あまりに強すぎるのだ。確かに弱きを助けるという面もある。しかしそれもまたゴジラの善良な一面レベルの善良さでしかない。根本的には悪人ではないけれど、結果として招くのは破壊。勧善懲悪の衣をかぶった傍若無人。それがこの映画の本質なのだと思う。
 もちろんそれが悪いといっているわけではない。そのような物語のつくりは徹底しているという点で秀逸なものであり、それによってさまざまな珠玉のカットが生み出される。もちろんカメラマンが宮川一夫であるというのもあるが、この映画の黒澤のシャシンはあまりにさえている。

 この作品を『椿三十郎』と比べたときに、今ひとつと思えるのは、ひとつは仲代達矢演じる卯之助のキャラクターの弱さ。『椿三十郎』の室戸半兵衛と比べるといかにも弱い。その分を加東大介がコミカルなキャラクターで補っている点はあるものの、好敵手というよりはほかの奴よりちょっと手ごわい相手くらいの感覚でしかない。『椿三十郎』に感じられる敵ながら抱いてしまう仲間意識というか、自分の分身を見ているような感覚というものがないので、どうしても三十郎がほかの全員よりも高みにいるという感じになってしまう。
 それはそれでひとつの英雄譚として面白くはあるけれど、黒澤らしさということを考えると、何かが違う気がしてしまう。しかし、このシンプルなヒーロー話のほうがいわゆる時代劇/チャンバラものらしいということはある。この映画以来、あらゆる時代劇が『用心棒』のようになってしまったということは想像に難くない。 この映画は音楽の使い方にしても、それぞれのカットのすばらしさにしても、カットとカットのつなぎの見事さにしても、黒澤の作品の中でも上位に入るものではあるけれど、そのような傑作であるがゆえに、果てしなく(表層的に)コピーされ、今となっては翻って、この作品からなにか「よくある」感じを受けてしまう。それがこの映画の評価に反映されてしまうというのはおかしい気もするけれど、これも人それぞれの映画を見る環境の違いなので、仕方ありません。
 これを黒澤のナンバー1に推す人もかなりいると思いますが、私にとっては『椿三十郎』のほうが面白かった。

七人の侍

1954年,日本,207分
監督:黒澤明
脚本:橋本忍、小国英雄、黒澤明
撮影:中井朝一
音楽:早坂文雄
出演:志村喬、三船敏郎、加東大介、藤原釜足、木村功、千秋実、宮口精二、津島恵子

 時は戦国時代、野武士の来襲に怯える山間の農村、村人たちは知恵を絞り、村の長老の忠告に従って、食事を供するという条件だけで村のために戦ってくれる浪人者を探すことに。そのために4人の百姓が町に出たが、なかなか見つからず仲間割れも起こりそうになったころ、ある村で子供を人質に立てこもった盗人を見事に成敗した侍に出会う。そしてその侍に話を持ちかけると、じっくり考えた末、侍が7人いれば村を守れるだろうといって百姓の頼みを聞き入れ、仲間探しが始まった。
 いわずと知れた日本映画の金字塔。3時間半もの上映時間、型破りのアクション、何をとっても偉大なる作品。三船敏郎よりも志村喬が光っている。1960年に、ハリウッドで『荒野の七人』として西部劇にリメイクされたのもいまさら言うには及ばぬ話。

 この映画の脚本と編集は本当にすばらしい。3時間半という長い時間をどのように配分するか。1時間半や2時間という上映時間になれた観客をどのようにそれだけ長い間引っ張っていくか。その点ではこの映画は本当にすばらしく、まったく飽きるということがない。ヨーロッパでの上映の際にあまりに長すぎるということでカットを余儀なくされたようだが、それは本当におろかなことで、黒澤明の言うとおりこの映画に削ることができる部分はまったくない(休憩はちょっと長いけど)。映画の序盤、村の水車だけに費やした3カットも必要なカットだったと思う。
 全体のバランスからすると、最後の合戦の場面が少々長いような気もする。それよりも7人を集める過程とか、村人たちとともに準備する過程とか、そのほうが面白い。しかしやはり、合戦の場面こそが見せ場で、それがあるからこそそれまでの話が面白いというのも事実。このあたりは個人の好みになるでしょう。おそらく村での場面がダレるという意見のほうが大勢を占めるかと思います。
 この物語の面白さというのは、基本的に「侍-百姓-野武士」という関係性によっている。まったく立場が違うようでいて、実は微妙に重なり合っている3者の戦い。最後に志村喬が言うように、この戦は百姓にとっての勝ち戦であって、侍と野武士にとっては負け戦であった。その3者の(主に侍と百姓の)関係性が刻一刻と変化していくところがこの映画が飽きることなく見られる映画になる最大の要因になっているといえる。
 その関係性の最大の鍵になっているのは、三船敏郎の存在で、三船が馬小屋でぼそりと「思い出すなぁ」というところは、私がこの映画のなかで最も好きなシーンのひとつである。そのシーンをはじめとして、三船演じる菊千代が存在するからこそこの映画が展開していけるということは確かである。

 しかし、その一方で私はこの映画の主人公というのは三船敏郎ではなく志村喬だと思うし、侍たちの関係だけを考えたなら、三船敏郎の存在というのはある種バランスを崩す存在になってしまっていると思う。映画全体として三船敏郎の役割を果たす存在は絶対に必要だった。しかし彼のキャラクターは危ういバランスの上に成り立っているということもいえる。彼が三船敏郎であるがゆえにようやくこなすことができた役、しかし逆に三船敏郎であるがゆえにこのような役になってしまったとも言える。
 つまり、この役はおそらく本来は一人でこなせるような役ではない。侍たちの間に漣をおこし、和ませ、一方で百姓と侍の橋渡しをし、百姓たちの中にもいろいろな種を植え、さらにさまざまな面倒の種にもなる。普通の役者なら2人か3人が役割を分担しなければ演じられないような役、それを一人で演じてしまう三船敏郎はすごい。しかし、同時にそれによってアンバランスも生じている。たとえば、千秋実演じる平八が果たすべき場を和ませる存在としての役割をも菊千代は奪ってしまった。タイトルに七人とある割にはその七人の役割分担がぼんやりとしているのは、このようにして菊千代がその構図を突き崩してしまっているからだろう。

 見方によって変わるであろうこの菊千代=三船の捉え方によってこの映画の評価は大きく変わる。それはこの映画を誰の立場で見るのかという見方にもよる。黒澤はいつものように特定の視点を設けず、第三者の視点からすべてを見通させる。しかし、「七人の」というタイトルの割には群像劇というわけではなく、誰でも好きな侍に、あるいは百姓たちにでも自己を没入させることができるように作っている。それはおそらくこの長時間をずっと客観的に過ごすのは退屈すぎると考えたからかもしれないが、とにかく2時間そこそこの映画とは少し趣が違っている。
 そのようなわけもあって、この映画はさまざまな見方を受け入れる。私は今回どのようにこの映画を見たのか自己分析してみたら、自分でも意外なことに加東大介演じる七郎次に肩入れしてみていたような気がした。多分それは加東大介という役者が好きだからというだけの理由だと思うが、だからなんとなく菊千代にある種の胡散臭さのようなものを感じていたのかもしれない。
 別の誰かに肩入れしてみたなら、菊千代の、そして映画の見方はがらりと変わったのだろうと強く感じました。それが「七人の」という冠にこめられた黒澤の意図のひとつであると私は信じます。そして、いろいろな人に愛される理由であるとも思います。『荒野の七人』とか『宇宙の七人』とか、を見るとその監督が誰に身を置いて見たかがわかるかもしれないとも思います。
 皆さんは自分が誰に身をおいてこの映画を見ましたか?

椿三十郎

1962年,日本,98分
監督:黒澤明
原作:山本周五郎
脚本:菊島隆三、小国英雄、黒澤明
撮影:小泉福造、斎藤孝雄
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎、仲代達矢、加山雄三、志村喬、田中邦衛

 藩内で賄賂が横行していることを発見した若い侍たちが神社の八代で相談をしていた。その相談は侍の一人井坂の叔父である城代家老に相談したところ、うやむやにされたため、大目付の菊井に話を持っていき、協力するといわれたというものだった。そのとき、社の奥から薄汚れた浪人の男が現れ、彼らに意見した。侍たちはその浪人をもちろん信用しなかったが、そのとき男の言ったとおり菊井の軍勢が社にやってきて…
 『用心棒』の三十郎が再び登場し、若侍たちと活躍する痛快時代劇。黒澤明の映画の中ではユーモラスなもので、黒澤ビギナーでも楽しく見ることができる。もちろんそれにとどまらない深みもある作品。伝説的なラストシーンも必見。短いのもいい。

 なんといっても椿三十郎というキャラクターのつくりがすばらしい。黒澤明のテーマのひとつであるといえる「人情」の塊であり、ユーモアがあり、男らしく、かっこいい。このキャラクターを作るには過去がないといけない。もちろん『用心棒』を先に見ていれば、それを過去として認識できるわけだが、見ていなかったとしても、そこにさまざまな過去を暗示する。
 物語の展開はスピーディーで、それも黒澤らしくないという面がある一方で作品としての完成度を増している。「長さ」によって「間」を作り、観客に考えさせるという黒澤のスタイルはここでは鳴りを潜め、モダニズム的なスピード感を作り出す。60年代という時代、「俺だってこれくらいはできるんだ」とでも言いたそうな黒澤明の根性を感じる。
 しかし、この作品の完成度は非常に高い。無駄なカットはまったくない。登場人物にも無駄がなく、そのキャラクターとプロットが非常にうまいバランスをとりながら展開していく。椿三十郎、侍たち、室戸半兵衛、だけではなく、城代家老夫人、押入れの侍など脇役のキャラクターも映画に欠かせない要素となる。侍たちの半分くらいは別にいなくてもかまわないかもしれないけど。
 このように登場人物を無駄なく使うというのは実は非常に難しいことだ。脚本や撮影の段階ではすべてがつながっていても、編集によって余分なものをそぎ落としていくうちに、ただ笑いのためだけにいるキャラクターや、説明的な役割のキャラクターが出てきてしまうものだ。しかし、この映画は100分弱という短い時間にまで削りながらも絶妙のバランスを維持している。

 さて、内容のほうに行きましょう。この映画、なんと言ってもすごいのはラストシーン、このラストシーンは文字通り映画史に残っているわけです。しかし、このラストシーンはただ観客を驚かせるためだけに存在しているわけではない。このラストシーンに至るまでには椿三十郎と室戸半兵衛の間の微妙な関係があるわけです。この二人は出会ったときから互いに非常に意識しあっている。それは三十郎が言うように二人が同じ種類の人間だからであり、室戸半兵衛が言うように二人が組めば無敵だからである。
 特に室戸は三十郎にとことんほれ込む。それがこの映画を転がすのに重要な役割を果たす。三十郎と侍たちは最後の最後に大きなミスをするのですが、映画を見ているとそのミスに気づくのは室戸であると感じる。しかし室戸はそのミスには気づいていないように振舞う。本当に気づいていないのか、それとも気づいていないふりをしているのかは微妙なところだが、おそらく本当は気づいている。しかしそれをおそらく無意識に押し殺してしまっている、のだと思う。
 室戸は三十郎に惚れている。仲代達矢は何だかゲイっぽいので、なおさらそんなことを感じる。明確な同性愛的な意識があるとは思えないけれど、友情や敵意や尊敬といったものを越えた何かが二人の間にあることは確かだ。それによって二人は惹かれあい、そして反発しあう。二人は同じ穴のムジナでありながら、決して同じ方向に進むことはできない。そのように惚れていることで、三十郎たちのミスを見逃し、その思いの強さがラストシーンに現れているのだと思います。

 こういう映画は黒澤ファンには好まれないかもしれない。黒澤らしい重厚さがなく、沈思黙考する間もない。しかし、私はこれが黒澤明の作品の中で(いまのところ)ナンバー1だと思っています。

隠し砦の三悪人

1958年,日本,139分
監督:黒澤明
脚本:小国英雄、橋本忍、菊島隆三、黒澤明
撮影:山崎市雄
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎、千秋実、藤原釜足、上原美佐、志村喬

 戦で一儲けしようとして当てが外れた百姓の二人組み太平と又七は些細なことで喧嘩別れ。しかし、国に帰ろうとしても関所ができて結局、負けた秋月家の軍用金を掘り出すための強制労働現場で再開した。そして二人は混乱に乗じて手を取り合ってそこを逃げ出し、川で野宿をしているところ薪の中から金の延べ棒を発見した。軍用金だと喜ぶ彼らだったが、いかつい浪人風の男が彼らに近寄る…
 時代劇は時代劇でも時代物ではなくて、娯楽活劇。太平と又七のでこぼこコンビは東海道中膝栗毛などの世界を思い出させるが、外国の人たちには新鮮だったらしく、後にジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』でC3POとR2-D2のモデルにしたという逸話もある。

 「世界の黒澤」といわれても、所詮映画、片意地張ってみるもんじゃない、ということをこの映画は思い出させてくれる。三船敏郎演じる真壁六郎太を中心に、ある種の英雄譚としてこの映画を見ると、そのようなかんがいはわいては来ない。それよりも題名が示すとおり、3人を主役と見て3人がひとつの笑いの舞台を演じていると考えればそのように思える。
 というのも、この映画で光っているのは三船敏郎よりもむしろ千秋実と藤原釜足だからである。そして、そうであるにもかかわらず三船敏郎を確固たる主役と考えることはこの映画のプロットに及ぼす二人の役割を無視することになってしまう。二人は三船敏郎の身に降りかかる災難を作り出す障壁なのではない。むしろ困難な状況を作り出すことで物語に面白みを加え、あるいは物事をよい方向へと運ぶ役笑いを果たしている。いわばこの3人はお笑いトリオのようなもの、役割分担が決まっていて、それを手を変え品を変え繰り返すことで笑いを生み出す。
 ただ、この二人のあまりの成長しなさには辟易する。もちろん彼らが成長してしまって、物事をこじらせなくなってしまうと映画的には困るのだが、常識的に考えると、もう少し成長してもよさそうなものである。しかしこの同じことの繰り返しが生み出す余剰の時間が考えるための時間となる。

 黒澤明の時代劇はそれが時代劇である(つまり現代とはかけ離れている)ことを常に意識して作られている。しかし、同時に映画と自分(の生活)が無関係なものではないことを観客にうったえる。
 一方で、黒澤は一人の人物への同一化に観客をいざなうことはせず、常に観客をすべてを見通せる視点、いわゆる「神の視点」において、展開される物語を距離を置いて見つめさせる。
 この二つを両立させることは難しい。誰かに同一化できるのであれば、時代がいつであっても、場所がどこであっても、観客を映画に引き込むことは容易だ。しかし、黒澤明がやろうとしていることは観客を映画の外部に置きながら、映画世界と現実世界をすり合わせることだ。そしてこれを可能するということが黒澤の黒澤たるゆえんなのだろう。
 たとえば、この映画で過去と現実をつなぐものはなんだろうか。よく考えればいろいろあるだろうが、まず思いつくのは「人情」ということだ。人の情け、黒澤明はこれを戦略的に用いることも多い。六郎太の人情がさまざまな障害の原因となっているけれど、同時にそれに助けられることもあり、人情は両刃の剣となる。今考えると少々古風な感じはするが、映画が作られた当時はいまだリアルな感覚だったのかもしれない。そして今でも完全に失われた感覚ではない。
 もちろん映画的なこと、特に映像の迫力というのも黒澤の現代性を示す大きな要素だ。そして人物の迫力、人物の作り方のうまさも見逃すことはできない。
 そのようなことも含めて、時代を超えても何か近しいものと感じさせ、観客を引き込むものがないと時代劇は映画として成立し得ない。もちろんそれは黒澤以外の作品にも当てはまることだが、時代劇を多くとっている黒澤が今も評価されていることを考えると、そこに現代性があると考えざるを得ないし、この作品をはじめとして彼の多くの作品にはそのような現代性が備わっているように思える。

蜘蛛巣城

1957年,日本,110分
監督:黒澤明
原作:ウィリアム・シェイクスピア
脚本:小国英雄、橋本忍、菊島隆三、黒澤明
撮影:中井朝一
音楽:佐藤勝
出演:三船敏郎、山田五十鈴、千秋実、志村喬、浪花千栄子

 戦国時代、難攻不落の蜘蛛巣城の城主・都築国春に使える二人の武将鷲津武時と三木義明は敵の襲撃を追い払い、城主にそれを伝えるため城に向かった。しかし慣れているはずの城下の森で迷ってしまった。二人は物の怪の声をきき、その声を追っていくと、そこには不思議な老婆がいた。そしてその老婆は、二人の未来について予言を始める…
 シェイクスピアの『マクベス』を戦国時代に置き換えるという大胆なことをした黒澤明。言われてみれば『マクベス』という感じだが、基本的にはいつもどおりの時代劇。圧巻はラストシーン。内容は明かせませんが…

 1つの予言があり、その予言どおりになるかどうか、予言から逃れようとするかどうかという設定は古典的なもの。それは『マクベス』が原作なわけだから当たり前のことだが、その古典的な物語をその手順どおりに展開していくとなると、物語の展開でスリルを生み出すことは難しい。この映画で物語りにひねりを加えているのは山田五十鈴演じる浅茅だが、これもひとつの古典的な役回りのひとつであるに過ぎない。
 だから、映画は全体として冗長な印象がある。なかなか進まない物語、長すぎると感じられるようなシーンの積み重ね。展開を追ってそのために必要なシーンをつないでいくだけならば、1時間で終わる映画だろう。予言を行う物の怪が現れ、歌を歌うシーン、あのシーンがあそこまでに長いのはなぜか。物の怪から逃れ、二人が霧の中をさ迷うシーン、あそこまで同じ場所を行ったり来たりするのはなぜか。
 このような長いシーンはその画面の端々を観察し、そのシーンが持つ意味を考えるための間なのだ。人がストーリーを追いかけるだけで過ごすには遅すぎるテンポを使うことによって黒澤明はそのような「間」を作り出す。それはスペクタクルとして、プロットによって観客を引っ張っていくハリウッド映画とは対照的なものである。ハリウッド映画に飼いならされてしまったわれわれはそのテンポの遅さにいらだってしまう(しかも外面上は一種のスペクタクルとして展開されている)。
 先ほどの物の怪がらみの二つのシーンが得ようとしている効果とは何か。それは物の怪の力が二人に及んでいることを示すことだろう。物の怪の老婆にひきつけられ、自分が自由にならないような感覚、霧の中をさ迷っている時点でもいまだ物の怪の力は及んでいて、同じところを堂々巡りしていることに気づかない。そのような感覚を表現しようとしている。しかし、それを彼ら二人の視点から描くのではなくて、客観的な視点から描くところにも黒澤明の特徴があるのだが、それについてはここでは詳しく述べない。

 さて、先ほど言った「間」は映画の現代的な意味を考える時間にもなる。それほど注意を向けなくても映画を追っていけるとき、映画をいつもより注意深く見るか、あるいは映画について考えるかすることになる。それはつまり、映画を自分の生活にひきつけて考えるということである。特にこの映画の場合映画の始まりがおそらく現在の「蜘蛛巣城址」であることから考えても、単なる過去の逸話としてではなく、現在と何らかのつながりがあるものとして描いているのだろう。
 その意味はもちろん見ている人によって異なる。見ている時期によっても違う。しかし、共通するのは1つは「盛者必衰」ということであり、もう1つは物の怪という一種の怪奇と幻想という一種の狂気のつながりや境界の不確かさということであるだろう。
 私が興味を引かれたのは後者で、この映画で交錯する狂気と怪奇は宴の席に義明が現れるところに端的に現れる。このシーンを見ながら、正気な人の想像が現実化したものが「怪奇」であり、狂気の人の想像が現実化したものは「幻想」であるのだという考えが浮かんだ。ともに見ている当人にとっては現実であるのだけれど、その人が狂気か正気かということで、その意味が変わってくる。しかし、もう少し考えてみると、その正気と狂気の境界などというものは明らかではない。「怪奇」を信じない人たちは、それを正気な人の一時的な狂気による「幻想」と考えるわけで、結局のところ信じるか信じないか(その人にとって現実であるかないか)ということに帰結してしまうのである。
 この映画でも結局のところ信じるか信じないかだが、ひとつの予言が実現したことで皆が信じる土壌ができているということなのだ。それは一人(二人か)の狂気が生み出した「幻想」であったかもしれないものが、衆人の現実となる過程であると考えることもできるかもしれない。

助太刀屋助六

2001年,日本,88分
監督:岡本喜八
原作:生田大作
脚本:岡本喜八
撮影:加藤雄大
音楽:山下洋輔
出演:真田広之、鈴木京香、村田雄浩、岸田今日子

 助六はひょんなことから仇討ちの助っ人をしたのがきっかけで勝手に助太刀屋助六と名乗るようになった。なんといっても武士が自分に頭を下げ、ついでにお礼までもらえるというのが魅力だった。ヤクザモノと気取りながら刀を抜くのは大嫌い。そんな助六が15両の大金を手にして、7年ぶりに故郷に帰った。しかし、村はひっそりと静まり返っていた。
 御年78歳、岡本喜八6年ぶりの新作。全体に軽いタッチの仕上がりで、『ジャズ大名』以来のコンビとなった山下洋輔の音楽がよい。

 音楽の使い方がよい。こんな完全な時代劇を、何の工夫もせずに今劇場でかけるのはなかなか難しい。何か現代的な工夫を凝らさなくてはいけない、と思う。その工夫がこの映画では音楽で、ジャズのインストに笛(尺八かな?)の音などを絡ませながら、うまく映画の中に配する。これが映画のコミカルさ、盛り上がりに大きな助けになっています。音楽を担当するのはジャズ・ピアノの名手山下洋輔。『ジャズ大名』でも岡本喜八作品の音楽を担当したが、『ジャズ大名』がストレートにジャズをテーマとした作品だったのに対して、こちらは単純な時代劇、そこに和楽器を絡ませたジャズを入れるというなかなか難しいことをうまくこなした。
 そのほかの部分はそつがないという印象です。特に奇をてらった演出もせず、ドラマの展開も予想がつく範囲で、登場人物もコンパクトにまとめ、そもそも物語が一日の出来事であるというところからして、全体的にコンパクトな映画だということがわかります。そつがない、コンパクトということは無駄な部分がないということでもある。つまりストーリーがもたもたしたり、余計な挿話があったりしないということですね。それはつまり編集がうまいということ。やはり経験によって身につけた技なのか、見事であります。
 あとは、岸田今日子がいい味かな、と思います。ナレーションが始まった時点でも「おおっ」と思ったのですが、その後しっかり出演してさらに「おおっ」。あまり岸田今日子らしい味は出しませんが、因業婆らしさを見事にかもし出しています。最後には立ち回りでもさせるのかと期待しましたが、それはやらせませんでした。そのあたりは残念。たすきがけに、薙刀でもも持って後ろからばっさりなんていうシーンを想像して一人でほくそえんでいました。

おぼろ駕籠

1951年,日本,93分
監督:伊藤大輔
原作:大仏二郎
脚本:依田義賢
撮影:石本秀雄
音楽:鈴木静一
出演:阪東妻三郎、田中絹代、月形龍之介、山田五十鈴、佐田啓二

 江戸時代、権勢をほしいままにし、その権力は将軍をも上回るといわれた沼田家。その下には全国各地から贈り物と請願が届き、その贈り物いかんでどうにでもなる世の中。そんな時代、沼田家に対抗する家臣の家に推され将軍の中藹になろうかというお勝が殺された。そんな話が生臭坊主夢覚和尚の耳にも届く。阪妻演じる和尚が活躍する推理時代劇。
 若い阪妻もいいけれど、わたしはむしろ年を重ねて十分に味が出てきた阪妻が好き。50歳にしてこの色気を出し、同時に笑わせることもできる芸達者振りが今阪妻を振り返って魅力的なところ。

 阪妻はもちろんいいです。たしか『狐の呉れた赤ん坊』でも描いたと思いますが、スタートは思えないほどコミカルに動く顔の表情が最高。立ち回りも、坊主であることによってコミカルなものにはやがわり。若かりしころの緊迫感漂う、颯爽とした立ち回りもいいですが、コミカルに立ち回りができるというのは得がたき才能なのでしょう。
 立ち回りといえば、この映画で印象的だったのは橋の上での立ち回り。多勢に無勢、多数の軍勢を阪妻一人で受けて立つわけですが、それを橋の上に展開させる監督の(あるいは脚本の)周到さ、いかに剣豪ばりの刀捌きを見せる和尚であっても(そして阪妻であっても)、何もない平原で多勢に無勢じゃ歯がたたない。多勢に対抗するときには細いところで一度に相手にする敵の数を減らす。これは戦いの基本であるようです。そのあたりをきっちり守るところがなかなかよい。そういえば、準之助を逃がす場面の立ち回りも一方が塀、一方が堀の細い道でした。
 映画の作りのほうの話をすれば、監督は巨匠の、そして阪妻と数多くの作品で組んでいる伊藤大輔。さすがに見事な画面構成といわざるを得ません。何度か使われる手持ちカメラでのトラックアップ、たまに出てくることで、そのシーンの緊迫感が増す。使いすぎるとうるさくなる。しかし、他のシーンからあまりに浮いていても映画にまとまりがなくなる、そのあたりのバランスをうまく取って、抜群の効果を挙げています。
 そう、監督の演出も手法もさすがという感じですが、まあ伊藤大輔ならこれくらいやってくれるさと(生意気にも)思うくらいのものです。それよりもやはり阪妻の顔。それは面白いだけではなく、その場面場面でセリフ以上のことを語る顔。伊藤大輔はさすがにそれを知ってズームアップを多く使う。そして顔から伝わる物語。そういえば、阪妻最初の登場は坊主の笠で顔を隠し、隠したままで1シーン、2シーンと進んでいました。その登場の仕方からしても、監督は阪妻の顔の魅力を十全に知っていたということでしょう。ついでに、終盤は田中絹代と、山田五十鈴の顔がクロースアップされます。阪妻には負けますが、彼女たちも女優魂をかけてかどうかはわかりませんが、懸命に顔で演技をする。
 いい顔がじっくり見れます。