煉瓦工

Murarz
1973年,ポーランド,18分
監督:クシシュトフ・キエシロフスキー
撮影:ヴィトール・シュトック
出演:ジョセフ・メレサ

 一人の初老の男のモノローグで全編が語られるこの映画は、そのモノローグによってポーランドの歴史を垣間見せる。男ジョセフ・メレサは昔からの共産党員で、その視点から歴史を振り返る。そして、しっかりと身づくろいをして向かった先は党大会のパレードだった。旧知の人たちとにこやかにパレードするメレサ。彼以外の人々も非常に楽しそうだ。
 すでに開放的雰囲気の中、党は変わりつつあるが、そのパレードは昔の華やかな姿を想像させるものがある。
 最後の最後、パレードの場面からモノローグは続いたまま、煉瓦工の姿が映る。煉瓦とセメントで煉瓦の壁を積み上げる。不意に現れるその姿が妙に印象的で、感動的だった。

ある党員の履歴書

Zyciorys
1975年,ポーランド,47分
監督:クシシュトフ・キェシロフスキ
脚本:ヤヌス・ファスティン、クシシュトフ・キェシロフスキ
撮影:ヤシェク・ペトリツキ、タデアス・ルシネック

 映画が撮られた当時のポーランドはいまだ社会主義体制下。その社会主義体制の中で、ある工場に勤める男が党から除名されるか否かを決めるために呼び出される。予備的な議論の後、本人が呼び出され、討論が始まる。男は委員会の意見に執拗に食い下がり、除名を避けようとする。党に不信感を抱きながら、党から除名されないように必死な男とその鼻が非常に印象的。
 キエシロフスキーは社会主義体制下で数多くのドキュメンタリーを撮ってきた。そのスタンスは必ずしも反体制であるとは限らないが、真摯なドキュメンタリーを作っていたようだ。

 作者の意図がどうであれ、この映画は共産党の幹部(おそらく地方の幹部)たちをネガティヴに映し出している。彼らの議論は理念ばかりが先に立ち、実際的な議論は全く先に進まない。そもそも問題としているのは、除名されようとしている男の内心の問題であり、彼の党に対する姿勢の問題なのである。
 男は党に対して不審や不満をもち、それを表明することに正当性を感じている。幹部たちはその党を疑う態度を批判する。男はそのようにして発言することを押さえつける党に疑問を投げかける。また男は批判される。
 結局はこのような空転する議論の繰り返しであり、延々とそれを見せられるだけなのだ。およそ40分間ただ進むことのない議論が映っている。それでも微妙に話の内容が滑っていき、男と幹部の意見は平行線をたどるどころか、どんどんかけ離れていくようだ。
 見ていると、男のほうに肩入れしたくなるが、その男が党に残ることに固執する。おそらく除名されることで生きにくくなるのだろうけれど、その男の態度も解釈するのは難しい。
 極めつけは幹部の一人が言う「共産党に内部対立はありえない」という言葉だ。この言葉が表しているのは、彼らの議論がそもそも理念から始まっており、その理念を覆すような現実はありえないものとして排除するという考え方だ。つまり、除名されようとしている男は党に対して不満を述べ、疑問を抱いている。彼が党内に存在しているということは党内に意見の相違が対立があるということであり、それはありえないことである。となると、男を除名して、その対立が存在しないようにするしかない。という論理。 
 これでは、焦点がぼやけ、どうにもならない議論になることは明らかだ。そのような体制によって支配された国が(理念的には素晴らしいものであっても)袋小路に陥るのは仕方のないことだったのかもしれない。ポーランドの共産党独裁が崩れるのはこれからさらに十数年後だが、この映画にはすでに、その崩壊の兆しが写し取られていたのだと(今見れば)思える。

ぼちぼちだね(I’m so-so)

I’m so-so
1995年,デンマーク=ポーランド,56分
監督:クリストフ・ヴィエジュビツキ
撮影:ヤシェク・ペテリツキ
音楽:ジュビニエフ・プレイスネル
出演:クシシュトフ・キエシロフスキー

 「トリコロール」や「デカ・ローグ」などの作品を残し、1996年になくなった映画監督キエシロフスキー。「トリコロール」を最後に監督を辞めてしまった彼の姿を、ながらく彼の仕事上のアシスタントをしてきたヴィエジュビツキがカメラに収めた。彼はこの映画が撮られてから1年もたたずに亡くなってしまったが、フレームの中のキエシロフスキーは生き生きとして朗らかだ。
 日本で見られる機会はなかなかないかと思います。

 ドキュメンタリーとしては非常にオーソドックスな作品。それもそのはず。これは劇場公開用の映画として撮られたのではなく、デンマークのテレビ用に撮影されたいわゆるテレビ・ドキュメンタリー。なので、インタビューをメインに、作品を紹介しつつ、現在のキエシロフスキーについて語っていくというスタイル。
 なので、この映画の眼目は彼の哲学と彼がこれからしようとしていることにあるといっていい。全体を通していえることはキエシロフスキーは映画監督は語るべきものではなく、映画が語るべきだということを言っていると思う。質問に答え、映画が語らんとしていることを話して入るけれど、彼が強調するのは常に「解釈の余地」ということだ。いろいろな可能性を映画に盛り込んで、解釈は観客に任せるというスタンス。それがキエシロフスキーが自分の過去の作品について言っているすべてだといっても過言ではないだろう。
 という感じでのドキュメンタリーですが、私が一番思ったのはキエシロフスキーってなんて横顔がかっこいいんだろうということ。正面から映っているとそうでもない(といっては失礼か)のですが、映画の後半で部屋に座って、固定カメラで映している場面があって、その横顔がすごくかっこいい。大きめの鼻がでんと座っていて、りりしい顔立ち。