大理石の男

社会主義体制下でしたたかに社会に訴えかけるワイダの労作

Czlowiek z marmuru
1977年,ポーランド,160分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:アレクサンドル・シチ、ボル・リルスキ
撮影:エドワルド・クウォシンスキ
音楽:アンジェイ・コジンスキー
出演:イエジー・ラジヴィオヴィッチ、ミハウ・タルコフスキ、クリスティナ・ヤンダ、タデウシュ・ウォムニッキ

 大学の卒業制作の映画制作に取り組むアニエスカは大理石像にもなった労働者の英雄ビルクートの生涯を追う。“技術的理由から”未発表となったニュースフィルムに彼の姿を認めたアニエスカは昔の彼を知る人物にインタビューをしていくが、なかなか彼の実像に近づくことができない…
 “抵抗三部作”以来久々にワイダがポーランド社会を正面から捉えた労作。カンヌ映画祭国際批評家賞を獲得。

 レンガ工としてレンガ積みの新記録を作り、英雄に祭り上げられた男ビルクート、いまはその消息すら聞こえてこないその男を映画にしようと考えたアニエスカは博物館の倉庫に埋もれている彼の大理石像を発見する。

 そして、映画は彼女がビルクートの生涯を追っていくのに伴って彼の生涯を描いていく。彼が名を上げたレンガ積みを記録した映画監督、その時代に彼と親交があった男、その話を基に作られた再現映像が積み重ねられ、彼の実像が徐々に明らかになっていく。なぜ英雄であった彼の写真が壁からはがされ、行方も知れぬ存在になってしまったのか。その物語は非常に面白い。

 彼を知る人々は警戒心を抱きながら、彼に関する事実を少しずつ明らかにしてゆく。未発表のニュース映像なども見つかり、このビルクートという人物に観客の興味はひきつけられていく。そして、その中でポーランド社会の誤謬や体制の理不尽さなどが明らかにされてゆくのだ。

 なぜこの映画がポーランドで可能になったのかと疑問を覚えたが、よく考えればこの作品が槍玉に挙げている社会の不正はあくまでも昔のものであり、おそらく旧体制のものだったのだろう。この映画が作られたそのときの現存する政権に対する批判が含まれていなければ検閲は通る。そういうことだったのではないかと私は思った。

 2時間40分という長尺はさすがに長く感じられ、終盤には見疲れてしまう感じもあったが、最後の最後まで考えられた構成はさすがとしか言いようがない。最後にアニエスカはビルクートの息子を見つける。その息子は再現映像に登場したビルクートにそっくりなのだ。そして彼は淡々と「父は亡くなりました」という。このアンチクライマックスは拍子抜けのように思えるが、最後の最後アニエスカはビルクートの息子とテレビ局に行く。そのときふと気づくのだ。再現映像に出ていたのはこの息子なのだと。

 そこからこの長い映画の持つ意味ががらりと変わる。この作品に挿入されていたもしかしたら再現映像は彼女がこの息子を発見してから撮ったものかもしれないのだ。だとすると、ニュース映像として提示されているそっくりの人物が登場する映像も…? ビルクートとそっくりな息子が登場することでこの映画には多くの謎が生まれ、さまざまな解釈が生まれる。

 そして、ワイダが4年後に同じ二人を起用した『鉄の男』を撮っていることも意味深だ。しかも、この『鉄の男』はポーランドに成立した“連帯”を支持する作品として作られた。

 ワイダはこの『大理石の男』で“連帯”へと向かう若者たちを予言しているかのようにも見える。あるいは、“落ちた英雄”の伝記という形を借りて、現在の若者が抱える社会に対する疑問を映像化したというべきか。しかもその疑問は表立っていわれることは決してなく、幾重にもカモフラージュされた表現の中にのみ見出すことができるのだ。

鉄の男

歴史的事実や当時の空気を伝えてはいるが映画としての面白さは…

Czlowoiek z Zelaza
1981年,ポーランド,152分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:アレクサンドル・シチ、ボル・リルスキ
撮影:エドワルド・クウォシンスキ
音楽:アンジェイ・コジンスキー
出演:イエジー・ラジヴィオヴィッチ、クリスティナ・ヤンダ、マリオン・オパニア、ボグスワフ・リンダ

 1980年、ポーランドのグダニスクの造船所でストが起きる。ワルシャワの放送局に勤めるビンケルはそのストの首謀者マチェクへの取材とストへの働きかけの任務を帯びてグダニスクへ赴く。その任務にしり込みするウィンケルはスト委員会によって禁酒令が発せられると知りさらに憂鬱を募らせる…
 アンジェイ・ワイダが“連帯”に対する支持を表明する作品として発表した社会派ドラマ。“連帯”のレフ・ワレサ自身も映画内に登場し、カンヌ映画祭でグランプリを受賞した。

 物語は1981年現在の状況をビンケルが取材する形で進んでいくが、その中で関係者の証言として1970年の弾圧や1980年の連帯の誕生時の話が映像として挿入される。それは“連帯”(1980年にグダニスク造船所のストをきっかけに全国的なポーランド民主化のための組織として誕生)の誕生によってひとつの完成を見たポーランド民主化運動の歴史そのものである。この作品はその歴史をグダニスクの造船所のストの指導者であるマチェクと70年のストで亡くなった彼の父親を通して描こうとしているわけだ。

 主眼がそのような社会的な事実を描くことに置かれているだけに映画としては退屈にならざるを得ない。常に落ち着かず、額に汗を浮かべてすぐに酒に頼ろうとするビンケルのキャラクターは秀逸で彼の存在がこの映画に予想不可能な緊張感を与えている。しかしそれでも彼はあくまでストを推し進める側ではなく、それを客観的に見つめ、あるいはむしろそれを阻止しようとする体制側にいるかもしれない人間だ。そのために彼は物語の主役とはなりえず、そのキャラクターは十全には生かされていないように思えてしまうのだ。

 アンジェイ・ワイダの作品の最大の魅力は人間と人間の関係の描き方にあるように思える。言葉に頼ることなく画面に2人3人という人間を収めて物語を構築していくだけでその関係性が浮き彫りになり、そこに深みのある物語が生まれる。それがワイダが作り上げる映画の面白みに他ならない。

 この作品はビンケルとマチェクと終盤にはその妻との関係が描かれてはいるが、それはこの作品が描こうとする民主化運動と“連帯”の大きさから比べると小さすぎる。ワイダの視線は社会という大きな塊を描こうとするにはナイーブ過ぎ、その全体像を伝えきれないという印象がある。

 だからこそ、ワレサを主人公にするのではなく、グダニスクの造船所のストという“連帯”への端緒となる比較的限定された対象を選んだのだろうけれど、それが最終的に“連帯”という全国的な広がりを持つ運動へと発展してゆくのに伴って存在感を薄れさせていったのと同様、この作品も求心力を失ってしまっていっているような気がする。

 アンジェイ・ワイダは1980年9月にポーランドで成立した“連帯(独立自主管理労働組合)”に強い支持を表明した。しかしこの“連帯”は1981年の戒厳令の発令により大きく力をそがれてしまう。この作品が作られたのは“連帯”が勢いを持ったわずかな時期の間である。その高揚感は作品からは感じられるが、それが歴史となった今見ると、その高揚感によってワイダの優れた描写力が鈍ってしまっているように思える。

 私は映画監督というのは好きなものを好きなように撮っていいという時より、予算とか検閲といった制限がある程度あるときのほうがいい作品が撮れるものだと常々思っている。検閲下で優れた映画を作り続けてきたイラン映画やソ連映画、戦中の日本映画、戦後の日本映画の性的表現などがそうだ。

 この作品は散々不自由な思いをしてきたワイダがついにある程度自由に思いのたけをこめることができるようになった作品なのだと思うが、そのことが逆にワイダのよさを殺してしまった。そんな風に思えてならない。

 この作品に与えられたカンヌ映画祭のグランプリは映画そのものというより西欧社会を代表してポーランドの“連帯”に与えられたものなのだろう。良くも悪くも映画というものも“政治”とは無関係ではいられないことを示すことになった作品だと思う。ワイダも81年の戒厳令により(おそらくこの作品のせいで)映画人協会会長の座を追われしばらく国内での映画製作ができなくなってしまった。

 映画と政治というのはなかなか難しい関係にあるもののようだ。

夜の終りに

社会主義の暗さを感じさせない万国共通の青春の煮え切らなさが秀逸

Niewinni Czarodzieje
1961年,ポーランド,87分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:イエジー・アンジェウスキー、イエジー・スコリモフスキー
撮影:キシシュトフ・ウイニエウィッチ
音楽:クリシトフ・コメダ
出演:クデウィシュ・ウォムニッキー、ズビグニエフ・チブルスキー、クリスティナ・スティプウコフスカ、アンナ・チェピェレフスカ

 スポーツ医でジャズドラマーのバジリはガールフレンドのミルカに冷たく当たる。その夜、バジリと飲んでいた友人のエディックが一人の女に目をつける。エディックが連れの男をだましてその女ペラギアを連れ出したバジリはペラギアに振り回されながら、彼の部屋に2人でたどり着く。
 アンジェイ・ワイダが“抵抗三部作”に続いて撮った青春映画。シンプル表現が秀逸で若きワイダの才能を感じさせる作品。

 電気かみそりにテープレコーダをもつ身なりのいい若い男、当時のポーランドの状況はわからないが、なかなか羽振りのいい男のようだ。その男バジリはガールフレンドの呼びかけに対して居留守を決め込み、やり過ごすとドラムスティックを持って出勤する。職場はボクシング上で仕事は医師らしい。そこに勤める看護婦とも過去に何かあったらしく、思わせぶりな会話が交わされる。

 夜はジャズバンドにドラムで参加、医師でミュージシャンなんていかにももてそうだし、顔もハンサムで、そのイメージどおりプレイボーイのようだ。何の説明もないが、ワイダはそのあたりをうまくさらりと描く。特別個性的な表現があるわけではないが、無駄な描写もなく着実に物語が構築されていっていると感じることができる。

 その後はプレイボーイであるはずの彼がペラギアに振り回されてしまうのだが、そこで展開される哲学的な話や煮え切らなさに青春映画の輝きを感じる。夜が更けてから翌朝にいたるまでの2人のやり取りというのは国や時代を超えてどの若者にも通じる感覚を持っている。それがワイダの才覚なのだろう。

 アンジェイ・ワイダの監督デビューとなった“抵抗三部作”はそのメッセージ性の強さが際立って、ワイダの監督としての力量や作家性はその陰に隠される形になった。それでも彼の映像の冴え、表現のうまさというのは感じさせたが、この作品からは彼の簡潔な表現のよさが感じられる。それは青春映画というシンプルなものになったことでディスコースが明確になったということであると同時に、“抵抗三部作”という労作を通して彼の表現力が増したということでもあるだろう。アンジェイ・ワイダはデビュー・シリーズである“抵抗三部作”によって有名だが、その直後に撮られたこの作品は彼の才能がそこにとどまらないことを明確に語っている。

 リアルタイムにこれを見た人はこれからの彼の作品にわくわくするような予感を感じたのではないか。50年後に彼の作品を見直す私でさえそう感じるのだから。あとは社会主義という体制が彼の才能と表現にどう影響してくるのか。

 この作品の時点ではその体制の不自由さがわずかに影を落としているだけだが、彼が体制と戦っていかねばならないという予感は感じさせる。ヒロインのペラギアはおそらく“自由”の暗喩であるのだろう。それは幻影のように目の前にちらりちらりと表れるけれどなかなか手に入らないものである。最後に“アンジェイ”という本名が明かされるバジリはまさしくワイダの化身なのだ。

地下水道

Kanal
1956年,ポーランド,96分
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:イエジー・ステファン・スタヴィンスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
音楽:ヤン・クレンツ
出演:タデウシュ・ヤンツァー、テルサ・イジェフスカ、エミール・カレヴィッチ、ヴラデク・シェイバル

 1944年ワルシャワ、レジスタンスの一中隊が廃墟で敵に囲まれる。ドイツ軍による攻勢に抵抗するが死者、負傷者を出し本部の指令でやむなく地下水道を通って撤退することに。しかし、その地下水道も汚臭と暗闇に覆われた迷宮で撤退は困難を極める…
 アンジェイ・ワイダがワルシャワ蜂起を描いた“抵抗三部作”の第2作。57年のカンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞した。

 物語はワルシャワ蜂起がすでに鎮圧されようとしているところから始まる。亡命政府の指令でソ連軍の支援を当てにして始まったワルシャワ蜂起だったが、ソ連軍がワルシャワに到達できなかったことで戦況は絶望的になり、レジスタンスは敗走を余儀なくされることになる。ワルシャワ中に張り巡らされた地下水道(つまり下水道)は彼らがドイツ軍に見つかることなく移動できる唯一の手段であり、多くの命を救った。

 この作品は敗走する一中隊がその地下水道を行軍する様子を克明に描く。実際にそれを体験したイエジー・ステファン・スタヴィンスキーによる脚本には迫力があり、モノクロの画面から伝わってくるのは常に絶望だ。

 ここに描かれるのは祖国のために立ち上がった人々が侵略者によって虐げられる姿だ。しかし印象的なのは、そこにドイツ兵の姿がほとんど登場しないということだ。最初に攻撃されるところでも攻撃してくるのは戦車である。しかし銃弾や砲弾によってドイツ軍の存在は明瞭にわかる。そして、この見えないものへの恐怖というのがこの作品全体を覆い、地下水道に入ってからも毒ガスや手投げ弾という形で彼らを襲うのだ。

 この「見えない」ことによって恐怖はリアルになる。多くの人々にとって恐怖のもとは見えないものだ。それは日常でも戦争でも。見えないからこそいつ襲われるかわからない恐怖が生まれ、人間の心を圧倒してしまう。ワイダは戦争が人に植え付ける恐怖をドイツ兵を“見せない”ことによって描いた。それが彼の非凡なところなのだろう。

 そしてその「見えない」恐怖は彼がこの映画を作ったリアルタイムの現実についても言えるはずだ。彼が味わう、検閲・迫害・粛清という恐怖。現代のわれわれから見ればこの作品にはそんな彼自身の恐怖の匂いも漂っているように思える。祖国のために闘って死んでいった人たちの死が犬死になってしまうような現状、ナチスドイツの残酷さを描いているようでいて、彼は彼らの死の虚しさを描いているのではないかという気がしてくる。

 それでもこの作品に希望があるのはそこにかすかに存在する青春のためだ。どんなに悲惨で絶望的な状況でも若者はどこかに希望を見出し、もがく。その結果がどうあれ、青春とは生きることだ。自身もまだ若かったアンジェイ・ワイダがこの作品でやりたかったのは恐怖に圧倒される中でも希望を失うなと自分に言い聞かせることだったのではないか。そうでなければ暗黒の中では気が狂ってしまうのだ。

 重苦しく、見ていて楽しい作品ではないが、見なければならない作品でもある。

世代

Pokolenie
1954年,ポーランド,88分
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:ボフダン・チェシコ
脚本:ボフダン・チェシコ
撮影:イエイジー・リップマン
音楽:アンジェイ・マルコフスキ
出演:タデウシュ・ウォムニッキ、ウルスラ・モジンスカ、ズビグニエフ・チブルスキー、ロマン・ポランスキー

 ナチスドイツ占領下のポーランド、ドイツ軍の石炭を盗んで憂さを晴らしていたスターシュは仲間が殺されたのを機に工場で働くようになる。そしてそこで労働者の団結について知り、レジスタンス活動に関わるようになってゆく…
 アンジェイ・ワイダの長編デビュー作で『地下水道』『灰とダイヤモンド』とつづく“抵抗三部作”の第1作。情熱にあふれた意欲作。

 この作品は何も知らなかった青年スターシュが共産主義思想に触れて感化され、レジスタンス運動へ参加してゆく過程が描かれている。この作品が作られたのは1954年、戦争が終わって約10年、ソ連の強い影響下にある社会主義政権による検閲が映画に対しても行われていた。この作品はもちろん検閲にはまったく引っかからない。むしろマルクス主義の精神を賛美する作品として“文部省推薦”になってもいいくらいのものだ(そんな制度が当時のポーランドにあったかどうかは知らないが)。

 しかし、そんな体制迎合の作品であっても(実はそうではない部分もあるのだが、それは後述する)、アンジェイ・ワイダの才能はあふれ、これがデビュー作とは驚きだ。

 一人の青年の成長をレジスタンスとナチスドイツの対立を軸に語り、そこにもう一つのなぞの勢力を絡めるプロットのうまさ、スターシュを中心に思想と友情と少々の恋愛を描いてゆく物語のふくらみ、それらのストーリーテリングのうまさがまずひかる。

 そしてワイダを特徴付けるのはやはり映像だ。アンジェイ・ワイダの特徴はモンタージュ(映像の組み合わせ)によって語るという映画の古典的な文法の使い方のうまさなのかもしれない。クロースアップ、ロングとさまざまなサイズを使い分け、カットの切り替えによって物語を展開していく。

 たとえば、スターシュが材木運びの際にドイツ軍につかまってしまう場面、ほとんどセリフはないが、画面の動きやスターシュの表情によってそのエピソードの意味、スターシュとドイツ兵たちの感情は手にとるように伝わってくる。この手法はサイレント映画によって洗練されたモンタージュの技法を想起させる。ワイダ自身はサイレント映画を撮ったことはないが、サイレント映画を観ながら育った世代だろう。それが彼の映画美学を育てたのではないかとこのデビュー作から推察できる。

 さて、そんなワイダがデビューしたこの作品は社会主義体制のお気に召す必要があった。しかし彼自身は決してマルクス主義の信奉者ではなかった。彼はこの作品の中でナチスドイツを批判し、資本主義を批判している。ナチスドイツへの批判はもちろんのこと、資本主義への批判もある程度は本心だろう。しかしだからと言って彼が共産主義者だとはいえない。

 この作品が語りかけるのは体制への反抗である。体制というものは人々のことを考えてはくれない。ここで名指しされ批判されているのはナチスドイツだが、その背後に現在の社会主義体制に対する不満があることも今見れば明らかだ。

 そしてこの“世代”というタイトルも秀逸だと思う。その意味は最後の最後に明らかになり、観客はスターシュと同じ哀しみともあきらめとも、あるいは逆に希望とも取れる感情に襲われる。戦争の時代には一つの“世代”というのは10年20年単位ではなく、数年単位になってしまっている。その厳しい現実の中で若者はあっという間に年をとってしまう。それはなんとも悲しいことだ。

灰とダイヤモンド

Popiol i Diament
1957年,ポーランド,102分
監督:アンジェイ・ワイダ
原作:イエジー・アンジェウスキー
脚本:アンジェイ・ワイダ、イエジー・アンジェウスキー
撮影:イエジー・ヴォイチック
音楽:フィリッパ・ビエンクスキー
出演:ズビグニエフ・チブルスキー、エヴァ・クジジェフスカ、バクラフ・ザストルジンスキー

 1945年、ポーランド。ふたりの男マチェックとアンジェイが共産党の書記シチューカの暗殺を試みるが人違いで失敗。その日、戦争が終結し、祝賀ムードが漂う中、マチェックは偶然にシチューカを発見し、暗殺を実現しようとするが…
 ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダがその名を世界に知らしめた名作。『世代』『地下水道』につづく“抵抗三部作”の第3作。

 この映画から真っ先に感じるのは「混沌」である。物語は第二次世界大戦が終わった日、ソ連の影響下で共産主義化しつつあるポーランドとそれを阻止しようとする勢力が対立する。この映画が作られた当時、ポーランドは完全に共産主義政権下にあったのでその抵抗勢力は“ゲリラ”として描かれている。しかし、“ゲリラ”である彼らの出自はワルシャワ蜂起にあることが見て取れる。

 ワルシャワ蜂起は1944年、ポーランド国内軍がドイツ占領軍に対して蜂起した事件である。この蜂起にはソ連軍による働きかけもあったのだが、ソ連軍はドイツ軍の抵抗にあってワルシャワに到達できず、ポーランド国内軍はドイツ軍に鎮圧され、国内軍の一部は地下水道を伝って南部の解放区に脱出した。

 最終的にソビエト軍はポーランドをナチス・ドイツから解放したわけだが、同時にこのワルシャワ蜂起の際の苦い記憶もある。映画の中でも描かれているようにブルジョワは共産主義体制が固まる前に西側に脱出してしまう。

 この映画が描いているのは、戦争が終わりドイツ軍はいなくなったがまだ次の支配者は確立されていない混沌がきわまった一日なのである。共産党の書記を暗殺しようという動きと、ゲリラを鎮圧しようという動き、共産党の書記はブルジョワの家とつながりがある。誰もが次の一歩をどこに踏み出すかを迷っているようなもやもやとした空気がそこらじゅうを覆っているのだ。

 そしてそのような政治状況とは別に個人の生活がある。戦時にはいやおうなく抗争や戦争に巻き込まれてしまったが、戦争が終わったのなら平凡な生活がしたいと望む人も多いだろう。しかし抗争は続き、平凡な生活は容易には手に入らない。

 『灰とダイヤモンド』というタイトルが意味するところは、戦火が生み出した大量の灰の中に埋もれる平凡な生活こそがダイヤモンドの輝きを放つものなのだということなのではないか。この言葉はポーランドの詩人ノルヴィトの詩の中の言葉ということだが、作中で語られた詩からは今ひとつこの言葉の意味をつかめなかった(単に私の理解力不足かもしれないが)ので、そんな意味にとって見ることにした。

 そのダイヤモンドをつかむため混沌という灰の中を這い回らなければならない人々、そんな人々にとってこの混沌の意味するところは何なのか。そこにワイダはある種の虚しさを見出してしまっているのではないか、そんな気がしてならなかった。

 アンジェイ・ワイダの演出はその混沌を非常にうまく表現する。逆さ吊りのキリスト像、突然現れる馬、楽隊の調子はずれの音楽、そして最後のゴミ捨て場、それらは整然と物語を進行させる映画の構築の仕方とは異なる混沌の表現に違いない。そして混沌の中で局面局面に生じる緊張感がこの映画を稀有なものにしているということができるだろう。

 このように混沌とした作品になった理由には共産主義体制化での検閲を通過しつつメッセージを伝えるために象徴的な表現を使わざるを得なかったことにも起因しているだろう。しかし、それがポーランドにとって決定的な終戦の日を描くのに最も適した方法でもあり、映画が作られた当時の状況をも表現しうる手段であったともいえるだろう。

 アンジェイ・ワイダが体現する世界をもっと掘り下げてみたいと思わせてくれる作品だ。

煉瓦工

Murarz
1973年,ポーランド,18分
監督:クシシュトフ・キエシロフスキー
撮影:ヴィトール・シュトック
出演:ジョセフ・メレサ

 一人の初老の男のモノローグで全編が語られるこの映画は、そのモノローグによってポーランドの歴史を垣間見せる。男ジョセフ・メレサは昔からの共産党員で、その視点から歴史を振り返る。そして、しっかりと身づくろいをして向かった先は党大会のパレードだった。旧知の人たちとにこやかにパレードするメレサ。彼以外の人々も非常に楽しそうだ。
 すでに開放的雰囲気の中、党は変わりつつあるが、そのパレードは昔の華やかな姿を想像させるものがある。
 最後の最後、パレードの場面からモノローグは続いたまま、煉瓦工の姿が映る。煉瓦とセメントで煉瓦の壁を積み上げる。不意に現れるその姿が妙に印象的で、感動的だった。

ある党員の履歴書

Zyciorys
1975年,ポーランド,47分
監督:クシシュトフ・キェシロフスキ
脚本:ヤヌス・ファスティン、クシシュトフ・キェシロフスキ
撮影:ヤシェク・ペトリツキ、タデアス・ルシネック

 映画が撮られた当時のポーランドはいまだ社会主義体制下。その社会主義体制の中で、ある工場に勤める男が党から除名されるか否かを決めるために呼び出される。予備的な議論の後、本人が呼び出され、討論が始まる。男は委員会の意見に執拗に食い下がり、除名を避けようとする。党に不信感を抱きながら、党から除名されないように必死な男とその鼻が非常に印象的。
 キエシロフスキーは社会主義体制下で数多くのドキュメンタリーを撮ってきた。そのスタンスは必ずしも反体制であるとは限らないが、真摯なドキュメンタリーを作っていたようだ。

 作者の意図がどうであれ、この映画は共産党の幹部(おそらく地方の幹部)たちをネガティヴに映し出している。彼らの議論は理念ばかりが先に立ち、実際的な議論は全く先に進まない。そもそも問題としているのは、除名されようとしている男の内心の問題であり、彼の党に対する姿勢の問題なのである。
 男は党に対して不審や不満をもち、それを表明することに正当性を感じている。幹部たちはその党を疑う態度を批判する。男はそのようにして発言することを押さえつける党に疑問を投げかける。また男は批判される。
 結局はこのような空転する議論の繰り返しであり、延々とそれを見せられるだけなのだ。およそ40分間ただ進むことのない議論が映っている。それでも微妙に話の内容が滑っていき、男と幹部の意見は平行線をたどるどころか、どんどんかけ離れていくようだ。
 見ていると、男のほうに肩入れしたくなるが、その男が党に残ることに固執する。おそらく除名されることで生きにくくなるのだろうけれど、その男の態度も解釈するのは難しい。
 極めつけは幹部の一人が言う「共産党に内部対立はありえない」という言葉だ。この言葉が表しているのは、彼らの議論がそもそも理念から始まっており、その理念を覆すような現実はありえないものとして排除するという考え方だ。つまり、除名されようとしている男は党に対して不満を述べ、疑問を抱いている。彼が党内に存在しているということは党内に意見の相違が対立があるということであり、それはありえないことである。となると、男を除名して、その対立が存在しないようにするしかない。という論理。 
 これでは、焦点がぼやけ、どうにもならない議論になることは明らかだ。そのような体制によって支配された国が(理念的には素晴らしいものであっても)袋小路に陥るのは仕方のないことだったのかもしれない。ポーランドの共産党独裁が崩れるのはこれからさらに十数年後だが、この映画にはすでに、その崩壊の兆しが写し取られていたのだと(今見れば)思える。

SARA

SARA
1997年,ポーランド,112分
監督:マチェイ・シレシツキ
脚本:マチェイ・シレシツキ
撮影:アンジェイ・ラムラウ
音楽:マレク・ステファニケウィック
出演:ボグスワフ・リンダ、アグニェシュカ・ヴォタルチック、チェザーリ・パズラ

 特殊部隊の任務を終え、帰宅したレオンは自らの不注意で娘を死なせてしまう。それ以後酒びたりの日々を送っていたレオンに、マフィアから娘サラのボディガードの依頼がきた。
 ポーランド版「レオン」と呼ばれるこの作品は、確かに主人公の名前もレオン、マフィアの家には「レオン」のポスターと、「レオン」を意識して作られていることは確かだが、映画としてはまったく別物。レオンほどかっこよくはないが、なんだか温かみのある映画に仕上がっている。

 マフィアそして殺し屋、銃弾がバンバン飛んで、人がドンドン死ぬのに、なんとなく温かみのある映画。緊迫する場面よりもなんだか微笑んでしまう場面のほうが多い不思議な映画。なんとなくまとまりはないのだけれど、とにかく監督の映画への愛情が感じられる。
 まず、いろいろな映画が映画の中に登場するのがいい。家にはレオンのポスター、食事時にゴットファーザーがテレビで流れていて、それ以外のときでもいつもマフィア映画を見ている。このマフィアがいつもマフィア映画を見ているというシチュエーションも何かの映画で見た気がするけれど、思い出せないなぁ。で、サラとレオンが中華料理屋で踊りだすシーン、あれはおそらく「パルプフィクション」。フレームが一緒だったもの。
 こんなものがちらちら出てくるたびににやりとしてしまうのだけれど、他にもニヤリとしてしまうところがかなりある。サラを中絶させようとしているとき、サラの父親が「麻酔は心臓に悪いから」と言う。「そんなばかなぁ」と思うけど、案外、こんな対応のほうが現実なのかもしれないとも思ってしまう。 こんなちょっと間抜けなエピソードのどれもが、いわゆるマフィア映画よりも現実に見えてしまうと言うのがこの映画のすごいところ。だから、普通にマフィア映画のようでいて、ちっともドキドキしないし、けれどもすごく面白い。
 ものすごーくヒットしなそうな映画(実際ヒットしなかった)だけれど、私はこういうの非常に好きです。