キング・イズ・アライブ

The King is Alive
2000年,デンマーク=スウェーデン=アメリカ,108分
監督:クリスチャン・レヴリング
脚本:クリスチャン・レヴリング、アンダース・トーマス・ジャンセン
撮影:ジャン・スクロッサー
出演:ロマーヌ・ボーランジェ、ジェニファー・ジェイソン・リー、ジャネット・マクティア、デヴィッド・ブラッドリー

 アフリカのどこかの国、エメラルド・シティーへと向かうはずのバスだが、なかなか目的地に着かない。朝になり、どこを向いても一面砂漠の道を走っていることに気付いた一行は目的地を示すコンパスが壊れていたことを発見する。 何とか廃墟となった小さな村にたどり着いたが、そこには一人の老人が何もせずに暮らしているだけ。一人の男を救援を呼ぶために送り出し、残りの人々はただただ砂漠で待つ生活を始めた。
 デンマークの90年代の映画運動「ドグマ95」の4作目。手持ちカメラでサスペンスフルな雰囲気を作り出しているが、今ひとつ緊迫感が足りない。

 「ドグマ95」はロケ撮影、自然音、手持ちカメラを徹底し、特殊な撮影方法、特別な照明などを排した映画。基本的にジャンル映画を拒否し、リアリズムに徹する方法論である。しかも監督の名前をクレジットしないという決まりもある。(「ドグマ95」については詳しくは公式サイトを見てください。)
 そのようなルールがあるので、この映画もそれに従っているわけだが、このルールの結果生じるのはまずは劇的ではない映画だ。リアリズムの中でいかに独自性を出していくか。それはアイデアに多くをよることになる。この映画の場合、砂漠に取り残され(これ自体は新しくない)、そこで演劇を演じる(これは聞いたことない)というアイデアになるわけだ。しかし、その結果生じたのは、なんとも緊張感のないドラマだ。極限状態で演劇をやるという行為の意味がいまいちはっきりしてこない。それが彼らの心理にどのような影響を与えたのか。
 そんな、アイデア自体にも今ひとつ納得できないし、細部にも納得がいかない。なぜわざわざ炎天下の日向で演劇の練習をするのかとか、ちゃんと水は集めているのかとか、あの村に住んでいたおじいさんは結局なんなのかとか、疑問ばかりがわいてくる。結局この物語の難点はちっともリアルではないところなのかもしれない。
 もっと極限状態になってもいいような気もするし、演劇を始めるヘンリーの考えもいまいちわからない。それぞれの行動の動機付けが今ひとつわからないのが、ドラマに入り込めない一因だろう。だからといって狂気に取り付かれているわけでもなさそうだ。
 こういうひとつのテーゼに沿って映画を作るということは難しいことだ。映画には常に制約がつき物だけれど、これはその趣向に賛同して参加するものなので、自己規制でもあるわけだ。だから規制の中で工夫するというよりは規制を忠実に守ってやるということになる。そのようなフォーマットの中ではやはり独創性というのは生まれにくいのではないだろうか?

ぼちぼちだね(I’m so-so)

I’m so-so
1995年,デンマーク=ポーランド,56分
監督:クリストフ・ヴィエジュビツキ
撮影:ヤシェク・ペテリツキ
音楽:ジュビニエフ・プレイスネル
出演:クシシュトフ・キエシロフスキー

 「トリコロール」や「デカ・ローグ」などの作品を残し、1996年になくなった映画監督キエシロフスキー。「トリコロール」を最後に監督を辞めてしまった彼の姿を、ながらく彼の仕事上のアシスタントをしてきたヴィエジュビツキがカメラに収めた。彼はこの映画が撮られてから1年もたたずに亡くなってしまったが、フレームの中のキエシロフスキーは生き生きとして朗らかだ。
 日本で見られる機会はなかなかないかと思います。

 ドキュメンタリーとしては非常にオーソドックスな作品。それもそのはず。これは劇場公開用の映画として撮られたのではなく、デンマークのテレビ用に撮影されたいわゆるテレビ・ドキュメンタリー。なので、インタビューをメインに、作品を紹介しつつ、現在のキエシロフスキーについて語っていくというスタイル。
 なので、この映画の眼目は彼の哲学と彼がこれからしようとしていることにあるといっていい。全体を通していえることはキエシロフスキーは映画監督は語るべきものではなく、映画が語るべきだということを言っていると思う。質問に答え、映画が語らんとしていることを話して入るけれど、彼が強調するのは常に「解釈の余地」ということだ。いろいろな可能性を映画に盛り込んで、解釈は観客に任せるというスタンス。それがキエシロフスキーが自分の過去の作品について言っているすべてだといっても過言ではないだろう。
 という感じでのドキュメンタリーですが、私が一番思ったのはキエシロフスキーってなんて横顔がかっこいいんだろうということ。正面から映っているとそうでもない(といっては失礼か)のですが、映画の後半で部屋に座って、固定カメラで映している場面があって、その横顔がすごくかっこいい。大きめの鼻がでんと座っていて、りりしい顔立ち。

ダンサー・イン・ザ・ダーク

Dancer in the Dark
2000年,デンマーク,140分
監督:ラース・フォン・トリアー
脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ビョーク
出演:ビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ、デヴィッド・モース、ピーター・ストーメア

 60 年代のマメリカの田舎町、チェコから移住してきたセルマは工場で働きながらひとりで息子を育てていた。つらい中でも、大好きなミュージカルをすることさえできる充実した生活を送っていた。しかし実は彼女は遺伝的な病気で失明しつつあり、息子のジーンもまたその運命になるのだ。セルマは息子に手術を受けさせるために必死で働いていたのだった。しかし…
 カンヌの常連、デンマークの名監督ラース・フォン・トリアーがビョークを主演に迎えて撮ったミュージカル映画。とはいっても、今までのミュージカルの概念を突き崩すという意味で革命的な名作。『奇跡の海』に続いてカメラを担当したロビー・ミューラーの映像もさすがに素晴らしい。

 いきなり3分30秒の黒い画面から始まる映画。もちろん暗い映画館で黒い画面を眺めさせることは盲目の疑似体験だろう。この映画の主人公が視力を失いつつあるという予備知識をもって映画館に入れば、その事実は容易に受け入れられる。しかし、そんな予備知識は追いやって画面に見入るほうがいい。そこでは自分の位置間隔が失われたような感覚に襲われるはずだから。
 そして、映像は手持ちカメラのドキュメンタリー風映像に切り替わる。執拗なクロース・アップと手持ちカメラの移動撮影。短いピントが用いられるときにはそれはセルマの視野を象徴しているのだろう。しかし、執拗な手持ちの映像。さすがのロビー・ミューラーの映像でも飽きが来はじめた頃、カメラが止まる。工場で最初のミュージカルシーンが始まり、フィックスのカメラの短カット(そんな言葉はありませんが)の映像に切り替わる。その変化の激しさを色合いの変化がさらに強調する。
 私はこの瞬間にこの映画に捕えられてしまいました。そこから先はリズムに乗って、手持ちと固定が繰り返される。そこから先はカメラは意識から遠のいて、映画のないようにすっと入り込めた。
 もちろん、周到に計算された設定がこの映画を成功に導いている。観客は他のよりよい方法をそれこそ必死で探そうとするけれど、セルマの選ぶ道に同意せざるを得ないことに気がつく。そのストーリーテリングの巧妙さも注目に値する。 しかし、結局のところこの映画はカメラとビョークに主役の座を譲る。つまり映像と音に。
 しかし、あえて難をいうとするならその映像かな。中盤あたりはもっといじってもよかったかなという気もします。具体的にいうと、セルマが視力を失ったということを実感できるような映像的工夫がひとつ欲しかった。焦点の短さがセルマの視野狭窄を象徴しているならば、セルマが視力を失ったということを象徴するようなシーンが、あってもよかったなという感じです。
 でも、ラストのクライマックスはすごくよかった。最後のシーンは現実とミュージカル(あくまで便宜的区別ですが)を融合させるシーンであるわけだから。色合いは現実でカメラはフィックス(つまりミュージカル)。よいです、非常に。