戦ふ兵隊

1939年,日本,66分
監督:亀井文夫
撮影:三木茂
音楽:古関裕而

 日本軍が奥地へ奥地へと侵攻していく中国大陸、映画はその中国の農民の姿で始まる。家が壊れたり焼けたりして途方にくれる人々、続いて「いま大陸は新しい秩序を 生み出すために 烈しい陣痛を 体験している」という文字が画面いっぱいに映される。
 この映画はナレーションはないが、字幕というかキャプションによって画面が中断される。そしてその字幕の多くは日本軍の偉業をたたえるものだ。そんな字幕によって区切られながら、映画は中国の奥深くへと進んでいく日本軍のあとを追う。
 この映画は内務省の検閲に引っかかって、公開禁止となり、ネガも焼却されたため「幻の映画」とされていたが、1975年に1本のポジフィルムが見つかった。

 この映画は『上海』や『北京』と比べると、兵隊たちが映っているシーンが多いが、それでも多くの部分を中国人たちの映像や、兵隊の平時の映像が占めている。これは亀井文夫の戦争に対する一貫した姿勢の表れで、それは『上海』のときのも述べたように、反戦とか軍部批判とかいったことではなく、あらゆる価値に対して中立であろうとしているということだ。
 それでも、少なくともこの映画が当時の映画界を支配していたプロパガンダ映画と異なっているということは確かだ。この映画を見て人々が戦争へと駆り立てられることはおそらくない。字幕の文字上では皇軍を賛美し、日本軍の偉大さを喧伝しているけれど、画面はそれとは裏腹にひっそりと静かである。最初に兵隊たちのキャンプが映るシーンで、断続的に大砲の音が鳴り響いているにもかかわらず、兵隊たちの行動に全く焦燥感はなく、日常的な光景が展開されている。これは文字や音よりも映像こそがメッセージを語るという信念の表れであるように思える。映画からナレーションを排したも、そのような映像の力を信じてのことだろう。

 このようなことを考えると、やはり亀井文夫は世間で言われるようにただ一人、戦争に反対し続けた映画作家だといいたくなっても来る。しかし、やはりわたしは亀井文夫が戦争に反対しているとは思えないし、そもそもこのようなプロパガンダではない映画を撮っていたのが亀井文夫一人であるとも思えない。阿部マーク・ノーシスは亀井がこのような反戦ととれるような映画を撮って、「どうして無事でいられると思ったのだろう?」という問いを自ら立て、それは「他の人々も全く同じように考えていたということだ」と答えている(山形国際ドキュメンタリー映画祭2001 亀井文夫特集 パンフレット)。
 それはつまり、このような映画をトルコとは普通のことであって、むしろ検閲に引っかかったことのほうが不思議なくらいだったということだろう。そしてそれは、この映画が検閲を逃れようと工夫を凝らして作られたというよりは、素直に、思うがままに使える素材を十分に使って(多少の自主規制はあったにせよ)作られた映画だということだ。

 この映画は、映画というものが戦争とかかわる一つのかかわり方を示している。戦争と映画のかかわりについての議論に上るのはたいていの場合、その映画が戦争を推進するのか、それとも戦争に反対するのかということだ。
 これに対して、この『戦ふ兵隊』を中心とした亀井の一連の戦争ルポルタージュは戦争に賛成という表面上の意見表明は保ちながら、その実、賛成でも反対でもないという立場を暗に示す。
 では、この映画がどのように戦争とかかわっているのだろうか。基本的にこれらの映画が描くのは戦争と人間、あるいは自然との係わり合いで、戦争が人々の生活や自然にどのような影を落とすのかを描く。これはつまり、映画を見ている人々(つまり実際に戦場には行っていない人々)と戦争との係わり合いを描いたものなのである。
 戦争に対する賛成/反対を述べる映画にはその特定の戦争の評価、つまりその戦争が正義であるか否か、という価値判断が映画そのものの価値にかかわってこざるを得ない。それに対して亀井の戦争映画はより普遍的な戦争に対するかかわり方や姿勢を示すことが可能である。
 亀井がここで表明しているのは、戦争とはその戦場に住む人々や自然にとっては悲劇以外の何ものでもないということだ。それはその戦争が善であるか悪であるかという越え、戦争一般が是であるか費であるかという判断も留保し、ただ見る人それぞれにその戦争の、そして戦争一般の是非を問うているのだ。
 もちろん亀井のメッセージは「戦争は悲劇である」ということだろう。しかし、それを受け入れるかどうかは見るものに委ねられている。

アレクサンドル・ネフスキー

Alexander Nevsky
1938年,ソ連,108分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ドミトリー・ワリーシェフ
撮影:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、ピトートル・A・パブレンコ
音楽:セルゲイ・プロコフィエフ
出演:ニコライ・チェルカーソフ、ニコライ・オフロプコフ、ドミトリ・オルロフ

 13世紀のロシア、スウェーデン軍を破った武将アレクサンドル・ネフスキー公爵は通りかかったモンゴル軍にも名を知られる名将、漁をして平和な日々を送っていた。しかし、東からゲルマン軍が侵攻してきて、近郊のノヴゴロドに迫っていた。ノブゴロドの武将はゲルマンの大群になすすべなしとして、ネフスキー公に将となり、軍を率いてくれるように依頼する。
 勇猛果敢なロシア人の伝統を振り返り、ゲルマン人に対する抵抗を訴えたプロパガンダ映画。

 ソヴィエトにあって、その革命思想に共鳴し、人々を動員するような映画を撮りながら、それを芸術の域にまで高めていたのは、かたくななまでの映像美、特にモンタージュの秀逸さであった。そんなエイゼンシュテインがナチスの侵攻を前に、ゲルマン人に対する抵抗を人民に訴えるために撮った映画。その映画はプロパガンダ映画に堕してしまった。エイゼンシュテインはトーキーという技術によって「声」を手に入れたことで堕落してしまった。ゲルマンとローマとキリスト教を悪魔的なものとして描き、ロシアを正義として描く。完全に一方的な視点から取られた寓話は映画ではなく、ひとつの広告に過ぎない。映画をプロパガンダに利用しようという姿勢ではソヴィエトもナチスと大差ないものであったようだ。
 ロシア側を描くときにたびたび流れる「歌」、その歌詞は明確で、戦士たちの勇敢さを朗々と歌い上げるものだ。それに対して、最初にゲルマン軍が登場するときのおどろおどろしい音楽、映像の扱いには非常なセンスと気遣いをするエイゼンシュテインがここまでステレオタイプに音楽を使ってしまったのはなぜなのか、そのような疑問が頭を掠める。しかも、ゲルマン側の(おそらく)司祭は悪魔的な容貌で、悪者然としている。そのような勧善懲悪のプロパガンダ映画でしかないこの映画が、さらに救われないのは映像の鈍さである。サイレント時代のエイゼンシュテインの鋭敏さは影を潜め、説明的なカットがつながっている。音に容易にメッセージをこめることが可能になってしまったことによって、映像を研ぎ澄ますことがおろそかになってしまっているのか、その映像のつながりは鈍い。
 それでも、映像にエイゼンシュテインの感性を感じることはできる。戦闘シーン、行軍する大人数の軍隊をものすごいロングで撮ったカット。個人個人が判別できないくらい小さいそのロングショットの構図の美しさは、冒頭の湖の場面と並んでエイゼンシュテインらしさを感じさせる場面だ。しかし、それが美しいからといってこの映画のプロパガンダ性を免罪しはしない。逆に美しいからこそ、プロパガンダとしての効果が高まり、その罪も重くなるのだろう。だとするならば、この映画が映画として精彩を欠いていることは、逆にエイゼンシュテインを免罪することになるのかもしれない。

全線

Staroye i Novoye
1929年,ソ連,84分
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリー・アレクサンドロフ
脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン、グレゴリー・アレクサンドロフ
出演:マルファ・ラブキナ、M・イワーニン

 革命前の慣習が残る農村では、土地は相続されるためにどんどん細分化されてゆき、暮らし向きはどんどん苦しくなっていく。そんな貧農の一人マルファは馬を持たず、牛に畑を耕させるがなかなかうまくいかない。中には自分で鋤を引き、畑を耕そうとする農夫もいた。そんな現実に我慢できないマルファはソヴィエトの提案するコルホーズの組織に賛成し、積極的に参加してゆく。
 『戦艦ポチョムキン』で世界的名声をえたエイゼンシュテインの革命賛歌。

 これは一種のプロパガンダ映画で、ソヴィエトがコルホーズによって農民を組織することで、農民たちの暮らしがどれだけ楽になるかを描いたということはわざわざ書くまでもないが、それを誰に向けたのかということは問題となるかもしれない。被写体となっている農民たち自身に向けているのか、それとも革命に参加したような都市の人々に農村の問題を投げかけようとしているのか。映画を見ると、農村の人たちに向けた映画のように見えるが、上映する手段はあったのだろうか? と、考えるとむしろ都市部の人たちに向けた映画であるような気がする。あるいは、ソ連の外の人たちにも向けているかもしれない。すでに国際的な注目を集める監督であったエイゼンシュテインの作品を使って共産主義思想の浸透を図る。別に革命へ導くというまでの意図はないにしても、ソヴィエトというものがどのようなものかを教える。そしてそれが有益なものであると感じさせる。そのような意図が映画全体から見えてくる。
 そんな映画を共産主義体制が崩壊してしまった今見ること。それが意味するのは当時の意図とは異なってくる。むしろその意図を見る。映画がそのような何かを変えようという意図を持って作られるということ。そのことが重要なのかもしれないと思う。映画が産業ではなかったソ連で作られた映画を見ることは、現代にも意味を持つと思う。
 その意味はまた考えることにして、もうちょっと映画に近づいてみていくと、エイゼンシュテインのカッティングはすごい。映画前編で使われるクロース・アップの連続もすごいけれど、最初のほうでのこぎりで木を切るシーンに圧倒される。のこぎりを引くリズムに合わせて大胆に切り返される画面が作る躍動感はすごい。まさに音が聞こえる映像。画面が切り返されるたびに「ギッ」という音が聞こえてくる。ただ、これだけ細かくカットを割っていくと、どうしてもフィクショナルな印象になってしまう観があり、このような映画にはマイナスかもしれない。しかし、現在の視点からはこのエイゼンシュテインの表現はすばらしいものに見える。これだけダイナミックな映像を作り上げられるエイゼンシュテインはやっぱりすごい。