親不孝通り

1958年,日本,80分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:須崎勝弥
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:川口浩、野添ひとみ、桂木洋子、船越英二、小林勝彦

 飲み屋のおやじがアメリカ人の乗っている車とぶつかったところに行き会った勝也はその外人とボーリングの勝負をしようといい、車でボーリング場に行ってしまう。勝也は就職難に悩む学生だが、親不孝通りと呼ばれる横丁で毎夜遊び、賭けボーリングをしては資金をひねり出していた。
 ドロドロとしたドラマはお手の物。基本的には勝也とその姉のあき江を中心とした愛憎劇だが、なんとなくユーモラスなところもある。

 初期の増村の作品はやはり、こういった愛憎劇よりもアップテンポな喜劇のほうが面白い。増村自身が成熟してゆくに連れ、こうした太いドラマでも増村らしさを十全に発揮することができているのだけれど、この頃の作品はまだ増村らしさは埋没している。撮影所システムの中で一人の職人監督として与えられた脚本に真摯に取り込んでいるという印象がある。だからドラマとしては面白いけれど、増村映画としてはどうかなということになる。それは「不敵な男」でも同じことだが、こちらの方がドラマが軽妙な分、増村らしさは発揮されているような気がする。しかし、総合的に見ると、新藤兼人の秀逸な脚本がある分「不敵な男」の方が上かなという感じ。
 このドラマでひとつ気にかかったのはあまりに偶然に支配されているというところ。怒りを覚えた川口浩が姉を捨てた男の後をつけ、妹を突き止めたまではよかったけれど、そこからの展開がかなり偶然に支配されている。むしろ独力で妹に近寄っていった方がドロドロさが増して行き、ドラマが太くなっていったような気もする。
 そういえば、山小屋に車で向かうシーンがあるんですが、その車には9人もの人が乗っている。しかし、みんなの顔がちゃんと映る。あの狭いスペースに全員の顔が見えるように配置するのはきっと相当大変なはず。そんな何気ない部分の技量の方にちょっと目が行ったりもしました。

不敵な男

1958年,日本,85分
監督:増村保造
脚本:新藤兼人
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、永井智雄、岸田今日子、船越英二

 チンピラの立野三郎は仲間と主に、一人の男を事故に見せかけて殺す。その仕事はうまく行き、親分に褒美をもらった立野だったが、田舎から出てきた秀子を騙して部屋に連れ込み強姦したところを刑事井川に見つかってしまった。
 川口浩と野添ひとみという増村初期のゴールデンコンビで作ったフィルムノワール。新藤兼人の骨太のシナリオの中にありながら、初期増村らしいユーモアが際立つ隠れた名作。

 ドラマ自体はいかにも新藤兼人という骨太なドラマで、しっかりと組み立てられていて隙がない。それはそれで素晴らしいのだけれど、それはある意味では増村の自由さを殺してしまいかねない。それはまだ新人に毛の生えた程度の監督とすでに重鎮となっている脚本家の関係性からは仕方のないことだ。つまり、この映画は作られた時点ではあくまでも売れっ子脚本家とすでにスターとなっていた川口浩と野添ひとみの映画。それを増村保造という監督が撮ったというだけのものだっただろう。しかしいま、増村保造という監督を意識してみるわれわれは、そこに垣間見える「増村らしさ」を探してしまう。川口浩と野添ひとみがななめの関係になる構図、刑務所の場面のスピード感とユーモア、などなど。
 素直に映画を見ると、おそらくそんな細部よりも、ドラマトゥルギーに心奪われ、野添ひとみの不均衡な魅力に魅了されるのだろうけれど、作家主義という一面的な映画の見方に毒されてしまうと、そこがなかなか見えてこない。しかし、作家主義は素直な子供のような見方を隠蔽する一方で、映画を分析的に見ることができるという利点もある。わたしがいつも思うのは、そういったさまざまな見方が同時にできれば一番いいとことである。しかし、それはなかなか難しい。この映画を見ながら野添ひとみのクロースアップに魅了された私は、果たしてその場面の構図がどうなっていたのかなんて覚えていない。他に何がうつっていたのかもわからない。そういったものの配置にも気をつけて、監督の特性をとらえるのが作家主義なのだとしたら、わたしは作家主義的見方でこの映画を捉えるということには失敗していることになる。しかし、子供のように無心に映画を見ていたわけでもない。
 なぜ、こんなことを長々と書くかといえば、この映画を見ながら最も強く感じたことが「もう一回見たらずいぶん違う映画に見えるんだろうな」ということであったからだ。増村の映画は大概そうだが、この映画は特にそう思った。それはおそらく増村保造の存在が多少隠されたものとして存在するからだろう。もう一回見ることで、無心に見ることのできる場面、分析的に見ることのできる場面が変わってくるだろう。
 つまり、わたしは今1回見た時点でこの映画を見たと言い切ることはできない。だからないように関して責任あるレビューを書くことはできない。だから内容とは直接的には関係ないことを長々と書く。本当はどの映画のときもそうで、自分を騙し騙し書いているのだけれど、切実にそういうことを意識させられると、なかなか筆が(キーが?)進まないもので、こういうことになりました。

氾濫

1959年,日本,97分
監督:増村保造
原作:伊東整
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:佐分利信、沢村貞子、若尾文子、川崎敬三、叶順子、左幸子

 画期的な発明をして化学会社の重役になった真田佐平だったが、貧乏の頃から一転、仲間や昔の知り合いから遠まわしに金を無心されることが多くなり、会社の対応も決して親切と言えるものではなかった。そんな生活に徐々に嫌気がさしている佐平だったが、妻や娘はその贅沢な生活を満喫していた。
 当時年間4本ペースで映画を撮りつづけていた増村保造初期の作品の一つ。軽快なコメディ路線とは別のどろどろとした人間ドラマ路線の作品。

 増村作品としてはそれほど卓抜した作品ではありませんが、どろどろとした感情のもつれを描くのが得意な増村らしい作品。特にこの作品はその感情を整理せずにそのままの状態で提示し、一つの方向性に持っていこうとしないという点で非常に面白い。いい/悪いというような二分法を働かせることは全くせずに、ただただ感情の奔流をそれこそ「氾濫」させるのに任せるような描き方。それは本がどうこうとか、プロットがどうこうということよりも、「どこまで見せるのか」という監督の意図がストレートに反映される部分のような気がする。そのような意味でこの感情の表現のコントロールは増村保造自身の得意分野なのであると改めて確認をしたわけです。
 そのようなドラマの部分を抵抗なく描ききるためほとんど全編にわたっていわゆる普通の映像で構成されている。よく言えば自然、悪くいえば平板な映像によってドラマを際立たせようとする意図が感じられます。しかし、その感情たちがいっせいに「氾濫」する最後の5分か10分くらいはラストシーンをはじめとして、はっとさせるシーンにあふれている。それが始まるきっかけは左幸子を前景の真ん中に配し、右に部屋、左に階段を移すシーン。この突然の構図の変化は一気に感情をスクリーンの外へ流しだす。そしてそれから連なるシーンではそれぞれの登場人物の感情が濁流のように流れ出す。そしてその感情の本流の中で登場人物それぞれの人間性を判断しようとしてしまうのだけれど、果たしてその判断がつくことはなく、このレビューもこのまま流れていきます…

曽根崎心中

1978年,日本,112分
監督:増村保造
原作:近松門左衛門
脚本:白坂依志夫、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:宇崎竜童
出演:梶芽衣子、宇崎竜童、井川比佐志、左幸子、橋本功

 心中しようと夜中に二人よりそい、坂道を登るお初と徳兵衛。お初は天満屋の女郎、徳兵衛は平野屋の手代。好きあった二人がいかにして心中まで追い込まれたのか?
 惚れたはれた、死ぬ死なない、というドロドロとした感情を描かせればやはり増村。近松門左衛門の名作を見事に映画化。徳兵衛役に俳優未経験の宇崎竜童を起用し、音楽も依頼。ATGの製作らしい斬新な時代劇に仕上がっている。

 いきなり頭から、時代劇にギターの音色というのがかなりドカンと来る。その後もエレキ有り、シンセ有りと時代劇とは思わない音楽のつけ方がすごい。近代文学の名作も素直に作らず、そこに独特の感性を埋め込んでしまうところが増村らしい。物語りも人情劇というよりは非情劇という感じで、微妙な感情の機微などはばっさり切り捨て、激しい感情のぶつかり合いをドカンとメインに据えてしまうという余りの増村らしさ。
 全体的にちょっとセリフがまどろっこしく、物語としてのスピード感に欠けたところがあるが、それはおそらく余りに初期の増村を見すぎたせい。普通の映画はこれくらいのスピードで進むはず。見ている側をじりじりさせるというのも映画(特にサスペンス)の心理効果としては必要なこと。とはいっても、やはりあのスピード感のほうが心地よいことも確か。スピードを緩めて全体をアートっぽく仕上げてしまったのはどうなのか…
 というスピードのあたりにかなり私の不満は集中しますが、全体としてはかなり面白い。梶芽衣子もいいね。

大悪党

1967年,日本,93分
監督:増村保造
原作:円山雅也
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:田宮二郎、緑魔子、佐藤慶、倉石功

 洋裁学校に通う芳子はボーイ・フレンドに別れを告げた。そのとたん声をかけてきた男・安井は芳子に酒を飲ませ、マンションに連れ込んだ。翌朝目を覚ました芳子はほうほうの体で家に帰るが、そこに芳子のヌード写真を持った安井が現れる…
 「妻は告白する」につづき、円山雅也の小説を映画化。緑魔子が妖しい魅力を発散し、田宮二郎も魅力全開。増村らしい非常にウェットな映画。騙し騙され誰が本当の「大悪党」か?

 これはドロドロ。相当ドロドロ。プロットについては言うことなしです。人間の暗部をぐさりとえぐる増村らしい辛辣な物語。きれいに複線を張って物語を二転三転させる。しかも見ている側の神経を逆撫でするような残酷な物語展開がすごい。冷酷非常なプロットに怒りさえ覚えてきてしまいます。これは我々が勧善懲悪な映画を見すぎているせいなのか、それとも増村がサディスティックなのか?この映画を見て思ったのは、我々がいつも見ている映画というのがいかに平和かということ。結局我々は「正義が勝つ」と思って映画を見ている。この映画も結局正義が勝つのだからその思いは間違っていないのだけれど、それでも一度は「もしかしたらその期待は裏切られるかもしれない」という思いを抱かせるのがこの映画の力。やはりそれは田宮二郎の顔半分笑いとギラギラした目に潜んでいるのか?
 なんだか謎めいた書き方になってしまいましたが、この映画が提示する「悪」の概念というのは相当興味深いのです。結局のところ誰が「大悪党」なのか?ある意味では全員が。あるいは3人のうちの誰でもいい1人が。それは「悪」というものの取りかた次第。漫然と見ると我々は緑魔子演じる芳子に自己を同一化させていくので、安井こそが「悪党」であり、得田は味方。しかし、芳子の立場に立ったとしても人殺しをさせた得田は安井を上回るほどの「大悪党」でありうるし、むしろ自分こそが本当の「大悪党」であると胸を張ることさえ出来るかもしれない。

妻二人

1967年,日本,94分
監督:増村保造
原作:パトリック・クェンティン
脚本:新藤兼人
撮影:宗川信夫
音楽:山内正
出演:若尾文子、岡田茉莉子、高橋幸治、伊藤孝雄、江波杏子

 雑誌社に勤める柴田健三はタクシーの故障で立ち往生し、近くのスナックに立ち寄った。そしてそこでかつての恋人順子と出会う。昔小説家志望だった健三は順子の紹介で原稿を持ち込んだ雑誌社の社長令嬢に見込まれ、社員となり、さらにはその令嬢と結婚したのだった。それから幾年かの月日が流れていた…
 ミステリーとしての要素と男女の愛憎劇としての要素が共存する増村らしいドラマ。ミステリーとしての要素が強いが、なんといってもすばらしいのは若尾文子と岡田茉莉子の二人。

 もっとどろどろとした愛憎劇が繰り広げられるのかと思いきや、むしろミステリーとしての要素のほうが強い。これは若尾文子演じる道子のキャラクターが増ターらしい強さと激しさを持っているのだけれど、表面に出てくる部分では非常に理知的である。だからあまりドロドロとしない。
 しかし、ミステリーとしてはなかなか優秀で、バランスが取れた作品ということが出来るのだろう。しかし、増村ファンとしてはもっと壊れた、何か奇妙なものが見たいので逆に不満感がたまる。
 さらにしかし、この映画の二人の女性はすごくいい。若尾文子はもちろんいいけれど、岡田茉莉子がそれほど多くない出番でものすごい存在感をみせつける。これに対比される二人の男があまりにさえないというのも二人を引き立てる要素となっているのだろうけれど、それにしても二人がすごい。決して表面的に対立・対決することはないのだけれど、その穏やかな対面のシーンでいろいろなことが頭をよぎる。若尾文子の凛とした表情と岡田茉莉子のはにかんだような微笑。この対面の瞬間にこの映画の魅力は凝縮している。

 それにしても、二人の男がさえないのは増村の計算だろうか? 最初、高橋幸治が棒読みセリフで登場したとき「絶対この人は主人公じゃない!」と思ったが、まんまと主人公で、最後まで棒読みで通し切ってしまった。私はこれは増村の計算だと思う。この役者さんは馴染みがないのでわからないけれど、増村作品によく出てくる人では川津祐介あたりが棒読み系。

華岡青洲の妻

1967年,日本,100分
監督:増村保造
原作:有吉佐和子
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:市川雷蔵、若尾文子、高峰秀子、伊藤雄之助、杉村春子(語り)

 田舎の武家の娘である加恵は近くの田舎医者・華岡直道の評判の妻であるお継に憧れを抱いていた。華岡家に妻にと請われた加恵は父の反対を押し切って華岡家に嫁いだ。最初は仲睦まじくやっていた加恵とお継だったが、留守にしていた夫の雲平(青洲)が帰ってくると、徐々に関係に変化が現れてくる…
 江戸時代の実在の医者華岡青洲を描いた有吉佐和子のベストセラー小説の映画化。とはいっても増村色はかなり色濃く、物語も映像もまぎれもなく増村保造という作品。

 物語が増村的であるのは、結局のところこの映画が1人の男を巡る2人の女の戦いという要素に還元できるからだろう。そういった状況での女の激しい愛情というものは増村が繰り返し描いてきたことであり、それが舞台が江戸時代となり、二人の女の関係が嫁と姑となったところで本質は変わらない。そのような物語だからこそ、そのように描ける自信があったからこそ、増村は映画化を熱望したのだろう。
 映像が増村的であるのは、やはり構図。構図に工夫が凝らされているのはいかにも増村らしい。しかし、この映画が他の映画と少々異なっているのは、3人以上の人がいるシーンが多いということ。増村の映画は全体的に見てみると、2人の人間を描いた場面が多い(ような気がする)。しかし、この映画は3人以上(特に3人)の人間を描く場面が非常に多い。そこでは2人の場面とは明らかに異なる構図の工夫がなされている。そしてそれは、会話をしている二人と、しゃべっていない1人の位置関係という形で特にあらわれる。後姿の青洲をはさんで(これによって画面は完全に二分割される)話す加恵とお継を配したシーンや、画面の右半分の手前でしゃべる加恵と青洲に対して、左側の奥でじっと座っているお継を描いた場面などがそれであるが、このときの会話に参加していない一人の存在が非常に面白い。わかりやすく表情で語らせる場面もあるが、ただの背中や表情の変わらない横顔であっても、それが語ることは非常に多く、物語を視覚的に展開させていくのに非常に効果的だ。
 個人的にはこれはかなりいいと思います。静かな映像の中に凝らされた工夫というのはかなり好み。

やくざ絶唱

1970年,日本,92分
監督:増村保造
原作:黒岩重吾
脚本:池田一朗
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:勝新太郎、大谷直子、田村正和、川津祐介

 幾人かの舎弟をしたがえるやくざ立松実は妹のあかねと暮らしていた。妾だった母が死んでからずっとあかねを育ててきた実はあかねに並々ならぬ愛情を注いでいた。しかし、そのあかねももう高校を卒業する年齢になっていた…
 「兵隊やくざ」いらいの増村保造と勝新太郎のコンビ。体裁はやくざ映画だが、内容は増村らしい愛憎劇。兄弟の間の愛情を描いたという意味では「音楽」に通じるものがある。役者陣もかなり興味深く、増村節も効いているなかなかの作品。

 まずタイトルまでの一連の場面が音楽とあいまって絶品。これから始まるものへの期待をあおるだけのものはここにある。始まってみればテンポよく、中盤あたりまではするすると進んでゆく、このあたりは増村らしさを見せつつも、「やくざもの」というジャンルに当てはまるような映画として出来ている。しかし、結局この映画の真意はそこにはないので、後半はどろどろ愛憎劇へと変化していく。このあたりの展開がいかにもな感じでいい。
 などなど、かなり物語として非常に楽しめましたが、映画としてはどうかというと、増村の映画というよりは勝新の映画。勝新を中心とした役者さんたちが圧倒的な存在感を持つ映画。なので、他の増村映画のように構図とか、繋ぎとかいうことにあまり注意が向かない。もう一度見れば細部に気が回るのだろうけれど、一度見ただけでは(わたしには)ムリ。
 そんな増村映画もたまにはあっていい。やはり勝新はすごいのか。あるいは勝新の映画になるように増村が仕組んだのか?

音楽

1972年,日本,104分
監督:増村保造
原作:三島由紀夫
脚本:増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:黒沢のり子、細川俊之、高橋長英、森次浩司

 精神科医汐見のところにやってきた女弓川麗子は「音楽が聞こえない」と言い出す。しかし、麗子はやってくるたびに話がころころ変わり、的を得ない。それでも汐見は徐々に麗子の症状の核心を探っていく。
 大映を出た増村保造が行動社とATGの製作で作ったフィルム。十数年振りにスタンダードサイズの画面を使い、これまでとは異なる映画を作り出そうとしている野心が感じられる作品。

 ちょっと全体的にストーリーに現実味がないのが気になる。なんといっても精神科医汐見の診察や診断の仕方が素人目に見ても素人くさいのがどうにも気になる。こういう細部が気になるとどうしても入っていけないのが映画の常。乗りに乗っている増村映画なら、そんな些細な細部の齟齬は勢いで吹き飛ばしてしまうのだけれど、この映画にはその勢いが足りない。映画のスピードとしては決して遅くはないのだけれど、そのスピードが負うべきプロットに齟齬が起きてしまっているので、どうしてもスピードに乗り切れない。そのあたりがちょっと不満なわけです。
 しかし、黒沢のり子はなんだか渥美マリみたいで(話し方もかなり似ている)、増村好みの質感がよく、演技もオーバーではあるのだけれど、いかにも増村世界の住人という感じがしてよかった。細川俊之はやや難。
 そして、こういうどろどろ系のドラマでスタンダードサイズというのが最後までどうもしっくりこなかった。横に広く使う増村らしさが出せないよ! と憤ってみたりもする。なぜなのだろう? 増村自身の試みなのか、それともATGの目論見が含まれているのか?
 などなど、増村ファンには疑問の尽きない作品でしょう。

くちづけ

1957年,日本,74分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:舟橋和郎
撮影:小原譲治
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、三益愛子、若松健

 拘置所に父親の面会にやってきた欽一は選挙違反で拘留されている父親に「早く出してくれ」と囁かれ、10万円の保釈金を作らなければならなくなった。そんな時、拘置所で同じく父親が拘留されている章子に出会った…
 溝口健二や市川昆の助監督を勤めていた増村保造がはじめて監督をした作品。ヌーベルヴァーグを思わせるスタイルは当時では新鮮だったと思わせる、簡潔な青春ドラマ。

 いま増村的と考えるものとは少し違う。ロングショットが多用されていたりするし、直線的なパースペクティブが重要な場面で利用されていたりする。しかし、これは以後の映画でも所々に見られる手法で、増村の一つの「道具」ではあると思う。この映画では逆にそのような手法が前面に押し出され、「増村的」なものは小道具として利用される。一つの理由はこの映画がスタンダードで撮られていて画面の偏りを利用する構図が利用出来ないことだろう。
 それにしても、ドラマとしてはすごく分かりやすく爽やかな感じ。初期増村の映画はどれもさっぱりとしていて、テンポが速くて、爽快な作品が多いけれど、これもそんな作品でした。スピード感としては「青空娘」や「最高殊勲夫人」には劣るという気がしますが、それはおそらくストーリーがわかりやすいせいでしょう。74分という短さでこれだけのストーリーを展開させてしまうのはやはりかなりのスピード。

 さて、余談ですが、原作者の川口松太郎は川口浩の父親だそうな。共演の野添ひとみは後の川口浩の奥さん。母親役の三益愛子は本当に川口浩のお母さん(要するに松太郎さんの奥さん)というなんだかファミリーな映画なのでした。