地下の民

La Nacion Clandestina
1989年,ボリビア,125分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス
撮影:セサル・ペレス
音楽:セフヒオ・プルデンシオ
出演:レナルド・ユフラ、オルランド・ウアンカ、ボリビアの人々

 村を出て街で暮らしていた先住民のセバスチャンは生まれ故郷に戻ることを決意した。理由あって数年前に村を追放された彼は少年時代に見た「死の踊り」を踊って罪滅ぼしをしようと街の仮面職人に、踊りの神の仮面を注文する。
 彼が仮面を背負って村へと向かう道中、彼は自分の反省のさまざまな場面に遭遇する。現在と過去が入り組み、セバスチャンのアイデンティティの危機を描く。果たして彼は先住民としのアイデンティティ再生することができるのだろうか?
 これまでの作品と比べて作風が様変わりし、純粋に映画としてみても素晴らしい作品になっている。ほとんどが1シーン1カットで撮られた物語世界は圧倒的な力を持っている。

 ボリビアならびにペルーの先住民たちを出演者として革命映画を撮ってきたウカマウのこの作品は1960年代初頭から彼らが行ってきた活動の延長にあるのは間違いない。しかしこの映画から彼らの映画のスタイルは大きく変わった。『第一の敵』のような直接的な教育映画ではなく、先住民もまた複雑な問題を抱えた人間であるということにスポットを当て始めた。
 街で働くセバスチャンは子供の頃に村を出て、街の人々のメンタリティを体得してしまった。そこから彼の悲劇が始まり、彼は決して村に戻ることのできない人間となってしまう。
 しかしそこで主張されるのは、「街」というものへの批判だけではなく、街へ出ざるを得ない先住民たちの複雑な状況である。途中で出てくる鉱山労働者との協力といったことからもわかるように、先住民は農村にのみ存在する人間ではなくなっているのだ。そのような状況を無視して農村の先住民たちを教化することだけに力を入れてはいられないということだろう。
 それでもしかし、西洋人に対する批判は痛烈だ。自らを「アンデス人」と語るサンヒネス監督は西洋人の脆弱さを容赦なく暴く。この映画のな化でもっとも象徴的なのは過激派の白人の青年。セバスチャンにポンチョを売ってくれと話すこの青年は西洋人の無知と脆弱さ(特にアンデスという土地での脆弱さ)を象徴している。これはウカマウたちが自己への反省も込めて盛り込んだ人物像だろう。ウカマウたちもまた西洋人でしかなかったということは「コンドルの血」の撮影にまつわるトラブルを自己反省的に映画化した「鳥の歌」によく描かれている。
 この映画の話に戻ると、純粋に映画としてみれば最大の特徴といえる1シーン1カット、これは監督の話によれば「わかりやすく」するためだという。それは一つは出演している先住民たちにとってわかりやすいということを意味し、もう一つには技巧によって複雑になってしまった西欧(アメリカ合衆国とヨーロッパ)の映画と対比しての「わかりやすさ」であるだろう。
 とはいうものの、サウンドの次のシーンへのオーバーラップなどヨーロッパ的な(ゴダール的な?)映画技術の影響も見られることは確かだ。果たして彼らはこれからどのような方向へ進んでいくのか? 彼らなりのオリジナリティをどのように出してゆくのか? そのような楽しみな疑問が次々と沸いてくるウカマウにとっての転換点となる映画だろう。

第一の敵

El Enemigo Principal
1974年,ボリビア,110分
監督:ホルヘ・サンヒネス
脚本:ホルヘ・サンヒネス、ウカマウ集団、出演者たち
撮影:エクトル・リオス、ホルヘ・ビグネッティ
出演:ペルーの先住民たち

 フリアンは地主に盗んだ牛を返してくれるよう頼みに行くことを決意した。家族の静止も聞かず、逆に家族を引き連れて地主のところへ直訴しに行ったフリアンだったが、怒った地主に首をはねられてしまう。それに怒った村人たちは地主を捕まえて判事のところへ連れてゆくのだが、判事もまた地主の味方をし、逆に村人たちは捕らえられてしまう。
 そんな村に休息を求めに偶然やってきた反政府ゲリラ。果たして彼らと村人たちが共同し、地主を倒すことができるのか、というのがこの物語の最大のテーマとなる。
 この映画はそもそも先住民(農民)たちの意識を喚起することを目的に作られたため、内容はイデオロギー的で、とっつきにくい。しかし、最初はぎこちなかった農民たちの表情が徐々に活気を帯びてくるのを見れば、映画の持つ力の強さというものが実感でき、何らかのメッセージを受け取れることだろう。

 まったくなじみのない風景にまったくなじみのない人々、画面は白黒で音響も単調。決して楽しいとはいえない重たい物語。農民たちのたどたどしい演技。そんなとっつきづらい要素に溢れていながら、我々は徐々にこの映画に引き込まれていく。それは物語の力なのか?それとも映像の?あるいは登場人物たちの?
 この映画を理解する上でまず考えなくてはならないのは、この映画に登場するゲリラというものが果たすのと同じ役割をこの映画自体が果たすということ。それはつまり農民たちを「意識化」するということ。ゲリラが村にやって来て果たした最も大きな功績は地主を倒したというそのことではなく、村人たちに革命の意識を植え付けたこと。自分たちの窮状の元凶がどこにあるのかをはっきりと認識できたことなのである。だからこそこの映画は「第一の敵」と題されているのだ。そして、この映画はこの映画を見るすべての人民に「第一の敵」が誰であるのかを教える。
 あるいは、教えるのではなくともに学ぶ。先住民たちの言葉で語る(この映画の大部分はペルーの先住民の言葉であるケチュア語で語られる)ことによって、先住民にとって身近な問題であることが実感できる。そのようなものとしてこの映画があるわけだ。
 果たして、このような前提を理解したわれわれがこと映画から受け取るメッセージとは何なのか?
 映画として見れば非常に素朴な作品だが、「語り部」の導入とロングショットの多用という面に、この映画のオリジナリティが感じられる。この作品の十数年後に撮られることになる「地下の民」(明日お届けします)あたりから、かなり作り方が変わり、純粋に映画として語ることも可能になるのだけれど、この作品の時点では、映画としてよりはイデオローグとして情報を効果的に伝えることに重点をおかれている感が強い。それでも、広い荒野を何十人もの村人が地主を引っ立てていくシーンなどはかなり強い印象を残す。
 映画としての評価はその程度ですが、映画がもつ一つの可能性を示すものとして見る価値はある、あるいは見なくてはならない作品なのかもしれません。

カフェ・オ・レ

Metisse
1993年,フランス,92分
監督:マチュー・カソヴィッツ
脚本:マチュー・カソヴィッツ
撮影:ピエール・アイム
音楽:マリー・ドーン
出演:ジュリー・モデュエシュ、ユベール・クンデ、マシュー・カソヴィッツ

 自転車でやってきたみすぼらしい白人の青年と、タクシーでやってきたこぎれいな黒人の青年。二人は混血の美女ローラに妊娠したと告げられる。しかもどちらの子供かわからない。さらにローラは生むことにもう決めていた。さて、二人はどうするか?「人種」という重たげな問題をあっさりコメディにしてしまう。 マシュー・カソヴィッツの監督デビュー作はたわいもないコメディのようで、じっくりと味わうだけの含蓄がある作品に仕上がっている。
 「この映画はすごいよ」と私は言いたい。「この映画を消化できないようじゃダメだよ」と高飛車に言いたい。
 でも、軽い気持ちで見てください。そういう映画ですから。

 ジャマルとフェリックス、そしてローラ。この3人はただ単に黒人・白人・混血という関係性なのではない。ジャマルはアフリカ人、フェリックスはユダヤ人、ローラはマルティニク人。3人ともがフランスの社会ではマイノリティであり、この三人の間では必ずしも「白さ」「黒さ」が社会的な問題となるわけではない。  おそらく、ジャマルの家系は出身国(おそらくセネガルかどこか)がフランスの植民地であった頃から、高度の教育を受け、本土において成功したのだろう。ローラは、おばあさんがフランスにいることから、マルティニク(カリブ海のフランス領の島)から移住してきたものの大きな成功は勝ち取れなかった(だから母親はマルティニクに帰った)のだろう。フェリックスは名前からしてポーランド系、第2次大戦後にフランスにやってきたのかもしれない。
 そして、現在では、フェリックスの家がいちばん貧しい。ジャマルの家がいちばん金持ち。
 しかし、ローラは言う「彼は黒すぎるのかも」。肌の色への偏見か?
 ジャマルは暴君のように振舞う。無意識的な性差別か?
 教育とか、社会的地位とか、「やばい地区」とか、いろいろなことが複雑に絡まって、しかしそれを解きほぐそうとはせず複雑なまま提示する。それはただ、あるがままをぽんと提示するということなのだけれど、その複雑さが複雑さとして表現されるためには、ただそこらに転がっている現実を切り取ればいいというわけではなくて、それなりの選択と、表現の工夫が必要になってくる。そしてそれはひどく難しい。どんどん複雑化して行く現実をありのままに切り取っている(ように見える)この作品には非凡なものがあるということに我々は気づかなければならない。