グーグーだって猫である

2008年,日本,116分
監督:犬童一心
原作:大島弓子
脚本:犬童一心
撮影:蔦井孝洋
音楽:細野晴臣
出演:小泉今日子、上野樹里、加瀬亮、大島美幸、村上知子、黒沢かずこ、楳図かずお、マーティン・フリードマン

 人気漫画家の小林麻子はアシスタント4人とともに久しぶりの読み切りを書き上げる。しかしその間に愛猫のサバが死んでしまっていたことを知る。15歳という大往生だったが、サバを失った麻子は仕事も手につかなくなってしまう。しかししばらく後ペットショップで子猫を見かけた麻子はその子猫を買って“グーグー”と名づける。
 大島弓子の同名漫画を犬童一心が映画化。吉祥寺を舞台に暖かい人間ドラマが展開される。

 締め切りを間近にした人気漫画家とアシスタント達。そのアシスタントが森三中であってもその雰囲気には緊張感があり、その間に静かに別れを告げる猫のサバの存在もあって、この最初のシーンは魅力的である。だから、語り手の上野樹里演じるナオミも主人公の麻子もすんなりと受け入れられ、その世界にすっと入ることができる。

 だから、その後の猫を失った哀しみというか虚しさや、その中で出版記念パーティーに出るということのわずらわしさ、ペットショップの前で躊躇する感覚、それらもよくわかる。しかし、ここで入り込んでくる楳図かずおとマーティン・フリードマンはどうにも邪魔だ。マーティン・フリードマンは吉祥寺という街を紹介するからまだいいが、楳図かずおのほうは吉祥寺で漫画家といえば…というだけで出ているだけで、本編には一切関係がない。彼が悪いわけではないが、その存在が作品の雰囲気を壊してしまっているといわざるを得ないだろう。

 それを除けば決して悪い映画ではない。ただ、原作者のファンだという犬童一心監督の思い入れが強すぎたのか、多分に映画的とはいえない語り口になっているのは気になる。物語の語り手は麻子のアシスタントのナオミなわけだが、その麻子への思い入れがそのまま作品に反映され、漫画そのもの(大島弓子の作品)がたびたび登場し、その中の言葉が文脈とあまり関係なく引用される。その語り方が今ひとつテンポを生まないのだ。

 それはこの物語の前半が麻子が猫を失い、新しい猫を飼い、一人の男性に出会うということに終始してしまっているかもしれない。それに比べて物語の核となる最後の30分ほどは内容も濃く、プロットの構築も秀逸で非常に見ごたえがある。

 それだけに大部分を占める中盤部分の緊張感のなさがどうにも気になる。冒頭でぐっと引き込まれたものが1時間ほどのゆるい時間の中でほどけてしまい、せっかくの内容の濃い最後にも乗り切れなくなってしまう。もっと中盤部分を圧縮して、麻子の再生を描いたとある意味ではいえる終盤に時間を割くことでこの作品のコンセプトがはっきりし、メリハリもついたのではないかと想像する。そうすれば『グーグーだって猫である』という題名が持つメッセージの重みももっとはっきりしたのではないか。

 それでも小泉今日子と上野樹里で映画としては成立する。特に小泉今日子は本当にうまいと感じさせる。彼女ももはや中年に入ったわけだが、中年に差し掛かった雰囲気を体中から発しているようだ。加瀬亮も悪くないのだが、小泉今日子の前ではかすんでしまい個性を出そうともがいているのが少しこっけいにも見えてしまう。上野樹里は小泉今日子とは対照的な存在感があるので2人が打ち消しあうことはなく、非常にいいコンビだと思った。

 猫と女優を見るためならばなかなかいい作品かもしれない。

俺もお前も

1946年,日本,72分
監督:成瀬巳喜男
脚本:成瀬巳喜男
撮影:山崎一雄
音楽:伊藤昇
出演:横山エンタツ、花菱アチャコ、山根寿子、河野糸子、菅井一郎

 サラリーマンの大木と青野はふたりでやる宴会芸が社長に気に入られ、ある日は得意先との宴会に、あるには社長の家の手伝いにと借り出される。4人の子供がいる青野は長女の結婚相手を大木に頼むが素っ頓狂な答えが返ってくるばかり。そんなある日、社長はふたりに骨休めに温泉に言って来いという。
 エンタツアチャコ主演の成瀬巳喜男戦後第2作。小市民を描いたコメディドラマで東宝と吉本の合同製作となっている。

 映画のはじめにはエンタツアチャコの芸をたっぷりと見せ、その後もドタバタコメディのような展開でまずはエンタツアチャコの面白さで観客を惹きつける。エンタツアチャコは戦前(昭和6年)に結成された漫才コンビで現在の「しゃべくり漫才」の祖といわれる。それまで漫才というのは「色物萬歳」という寄席の古典芸の一つで音曲を使ったものが多かった。エンタツアチャコは「しゃべり」を漫才の中心にすえることで現在の漫才のかたちを確立させたといわれる。横山ノックは横山エンタツの弟子で、ノックの弟子が横山やすしであることからも関西の漫才の祖であるといえる。

 そんなエンタツアチャコだが実はその寿命は非常に短く、昭和9年にアチャコの入院を機に解散している。ただ映画ではその後もコンビで出演し、この作品でも共演しているというわけだ。その人気者のエンタツアチャコの出演は敗戦直後の映画界では人々に明るさを与える要素として歓迎されただろう。

 成瀬巳喜男も戦後第2作でそれに乗っかった形になったが、そこは名匠、コメディ然とした導入から徐々に自分のドラマへと映画を転調していく。中心になるのはいやな仕事をさせられながら社長に頭が上がらないサラリーマンの悲哀である。それに対して大木の息子が労働者の権利を父親にとうとうと説き、世代間の考え方の違いと時代の変化を描く。

 折りしもこの映画が作られた1946年は東宝でストが頻発し、いわゆる“東宝争議”への機運が高まっていた時期、時代を読み取り、それを作品に反映させる成瀬らしい脚本ともいえるのだが、東宝にしてみればこんな作品を容認してしまって失敗だったと考えたかもしれない。

 そんな社会派の要素を組み込むのも成瀬らしさだが、この作品で最も成瀬らしいさえを見せたと私が思ったのは、“下駄”を使った語りである。大木が最初に家に帰ってきたとき、下駄の片方がなくなったというまったく物語とは関係ないエピソードが挟まれ、片方しかない下駄がしっかりと映される。そのときはなんだかわからないのだが、物語が終盤に差し掛かって大木と青野が社長にそれぞれが「下駄の片方ずつ」と評されることでそれが生きてくる。三和土に打ち捨てられた半端な下駄の虚しさをすら感じさせる映像がここで観客の頭に去来するのだ。

 72分という短い作品で決してそれほどいい出来とはいえないのだが、それでも成瀬は成瀬らしさを発揮し、面白い作品を作る。戦前はトーキーにいち早く取り組み、戦中は「芸道もの」というジャンルで戦時下という特殊な状況を跳ね除けた成瀬が、いよいよ自分らしさを発揮する前奏曲という感じでファンには見所のある作品となった。

地獄門

1953年,日本,89分
監督:衣笠貞之助
原作:菊池寛
脚色:衣笠貞之助
撮影:杉山公平
音楽:芥川也寸志
出演:長谷川一夫、京マチ子、山形勲、黒川弥太郎、阪東好太郎、沢村国太郎、殿山泰司

 平安末期、平清盛の臣下の武士・盛遠は平康の乱で上西門院の身代わりにたった袈裟という女の車を守る役に任ぜられ、その袈裟を助けて兄の家に連れて行ったとき、その袈裟の美しさに心を奪われる。盛遠は京を留守にしている清盛の下に謀反の知らせを届けて武勲を挙げる…
  菊池寛の原作を衣笠貞之助が脚色し、監督。大映第一回の総天然色映画で、大映の看板スター長谷川一夫と京マチ子が共演した時代劇ドラマ。

 時代劇とは、そもそも日本のアクション映画であった。日本で映画が作られ始めた当初から、時代劇での大立ち回りは映画の花、観客を喜ばせる時代劇の目玉だった。そして、黒沢明の登場により、時代劇のアクション映画として娯楽性はさらに増し、現代劇にも劣らないスピード感と面白さを持つ時代劇が次々に作られた。そして、その多くはシリーズという形で同じ主人公を擁して次々と作品が作らるにいたり、完全に娯楽映画の花形となる。長谷川一夫もその例に漏れず、51年には『銭形平次捕物帳』という人気シリーズを生み、10年間で17本が制作されている。しかし、この作品では、立ち回りといえるようなアクションシーンはほとんどない。映画の中盤で唯一、浜辺での斬りあいのシーンがあるが、これはオマケのようなもので、このシーンがどうしても必要だったというわけではない。
  そう考えてみると、永遠の二枚目・長谷川一夫には必ずしもアクションシーンは必要なかった。勝新太郎の時代劇にはどうしてもアクションシーンが必要、というよりはアクション映画として作られなければ勝新太郎の映画になり得ないわけだが、長谷川一夫の時代劇は彼のアクションがなくとも成り立つということである。

 しかも、この映画がすごいのは、主役である長谷川一夫演じる盛遠が決して「いいもの」ではないという点だ。映画の冒頭では謀反を起こした兄に与せず、結果的に兄が加わった謀反の軍に勝利して武勲を挙げるということで、彼がヒーローになる可能性を秘めているわけだが、「おごる平家は久しからず」の言葉もあるように、彼らの行く末は歴史の証言がすでに語ってしまっている。滅び行く平家の中で彼がどのような活躍を見せることができるのかというのは、映画が進んで行く中で疑問を強めて行く。
  そこでこの映画は物語を大きく展開する。歴史上の出来事を描いたものから、その時代の色恋を描いたものへと物語をすりかえて行くのである。その中で盛遠はひとの女房に横恋慕をする横暴な男へと変貌する。気持ちがまっすぐなのだといえば聞こえはいいが、結局はひとの女房を寝取ろうとしている男、今ならばそんな話はごろごろしているが、時は平安、ひとの妻が他に好きな男が出来たからと言っておいそれと夫を捨ててその男のもとへと行っていいはずもない。しかも、その相手の袈裟が盛遠に恋しているわけでもなさそうなのだ。いったいこれはどんな物語なのだろうか。男の純愛の物語なのか、それとも男のエゴイズムの物語なのか。これがもし成瀬巳喜男によって映画化されていたならば、情けない男に振り回される女の悲劇として描かれていただろう。しかし、衣笠貞之助は基本的に盛遠を「悪者」にし、袈裟の夫である渡を「いいもの」にした。盛遠は無軌道で自分勝手な武士の代表であり、渡は思慮分別のある人物として描かれているのだ。しかし、この構図からいったい何が見えてくるのか。
  私にはここから見えてくるのは男の身勝手さしかないように思える。盛遠はもちろんのことながら、渡も結局は袈裟のことがわかっていたのか。自分も渦中に巻き込まれた袈裟と盛遠の事件を気にしないということは、袈裟に対する態度表明としてはやさしさになるのかもしれないが、世間に対しては妻に対する風評を野放しにしているということになってしまう。彼は武士ではなく貴族だから、そのような柔らかな物腰を取ることが美学として成立しているのかもしれないが、この作品に登場する彼の同僚たちは必ずしもそのような彼の態度をよしとはせず、武士的な価値観を見せる。そのような世間に対しては彼も武士的な強い態度を見せなければならなかったのではないか。そうしなければ、結局袈裟は盛遠に振り回され、どうにもならない苦境へと追い込まれていかざるを得ないのだ。
  そう考えると、この作品はひとつの時代の大きな変化、貴族の時代から武士の時代へという大きな変化を描いてもいると考えることもできるのかもしれない。旧時代の象徴たる渡と新時代の象徴たる盛遠、このふたりが一人の女をめぐって争うことで、その時代の違いを明らかにする。そして、そのどちらが、ということではなく、その違い時代の意味を浮かび上がらせようとするのだ。
  そのような映画の中で長谷川一夫はやはりスター性を発揮する。悪者であるのに魅力的、袈裟も夫への貞節と夫への思いを引きずりながら、盛遠に魅かれずにはいられない。あからさまに盛遠になびくということはないのだが、彼の体からは魅力が発散され、彼女をひきつけている事は画面を通してうかがい知ることが出来る。若かりし日の余りマスクとは違うけれど、さすがに武士らしい力強い演技が光る。

 さて、この作品はイーストマンカラーでの総天然色作品。大映は初めてのカラー映画の制作の題材に時代劇を選んだ。日本初の総天然色映画といえば、松竹の『カルメン故郷に帰る』だが、これはもちろん現代劇、しかもほとんどがロケでの撮影であった。これは当時のカラーフィルムが非常に強い光を必要としたため、スタジオ撮影での撮影は困難だったからだ。にもかかわらず、大映はセット撮影による時代劇を企画した。もちろん全てが人工の照明ではないが、それでもその挑戦には頭が下がる。
  そのために、衣装をはじめとした美術の色彩に力が注がれる。今はもう失われた平安時代の人々の生活のなかの色彩を再現すること。それは歌舞伎などの演劇での経験はあるものの、映像としてそれを再現するのは初めての体験である。それはまるで無から何かを作り出す作業であり、非常に困難を伴うことだったのではないかと思う。この作品はカンヌ映画際でグランプリを撮ったことで有名だが、実はアカデミー賞も受賞していて、しかもその賞は「衣装デザイン賞」、受賞したのは色彩考証を担当した和田三造であった。この和田三造は50年代に大映・東映の時代劇で色彩考証を担当している。この和田三造は本業は洋画家で、日本色彩研究所を設立した研究者でもある。アメリカのアカデミー賞が日本の時代劇に衣装デザイン賞を贈ったというのも不思議な話だが、この作品にはそれだけ大映の力が込められているということは確かだ。さらにいうならば、この作品の撮影は杉山公平となっているが、ロケ撮影では宮川一夫がカメラを握ったらしい。杉山公平は昭和初年の『狂った一頁』から衣笠貞之助とコンビを組んでいる巨匠だが、宮川一夫も戦前から定評のある名手、このふたりを起用したということはそれだけ映像に力が入っているということの証拠である。
  出演者たちのメイキャップには違和感がないこともない(ほっぺたが妙に紅い)が、衣装の絢爛さや馬あわせのシーンなどの映像のダイナミックさなどは見事の一言に尽きる。

リリイ・シュシュのすべて

2001年,日本,146分
監督:岩井俊二
原作:岩井俊二
脚本:岩井俊二
撮影:篠田昇
音楽:小林武史
出演:市原隼人、忍成修吾、蒼井優、伊藤歩、田中要次、大沢たかお、稲森いずみ、市川美和子、杉本哲太

中学生の蓮見雄一は不良仲間とつるんでいるが、どこか気弱なところがあり、リリイ・シュシュというアーティストにはまっている。雄一は万引きをしてつかまり、彼らのボス的な存在である星野修介と仲間にリンチされる。しかし、雄一と修介は中学1年生のころは中のいい友達だった…

現代の中学生の3年間をイメージとして物語に閉じ込め、それを音楽でひとつにまとめた作品。ウェブサイトの掲示板を利用して、読者との対話の中から岩井俊二が生み出したインターネット小説から生まれた映画。フィルム用いずデジタルビデオだけで撮影したというのも特徴のひとつ。

個人的な感想からいえば、あまり好きな映画ではない。映画の作り方としては新しいところもあり、面白いところもあるけれど、冗長で退屈だ。随所に登場人物たち自身が持つビデオカメラの映像が挿入され、安定した映画本体の映像と対照を成すが、その過剰な手ぶれが痛ましい。

そして、この映画は「痛み」とか「癒し」ということをいっていながら、決してその痛みに本体に入って行こうとはしない。「痛み」を抱える存在として描かれる登場人物たちの痛みを作り手が共有していないというか、それは言葉としてあるだけでちとなり肉となっていないという印象がどうしてもしてしまう。

それは、この映画があまりにスタイリッシュというか、映像としてのスタイルを重視しているがために起こるような気がする。「痛み」というようなものをひとつのテーマとしながら、そこにメッセージをこめてそれを映画の主題とするよりも、スタイルを重視してしまった感じ。それが私がこの映画に感じる根本的な嫌悪感だ。だから、面白くないとはいわないが、好きではない。

それでも、この映画を見るなとはいわないし、むしろ見てもいいと思う。たぶん、こういうスタイルで作られた映像のほうがスッと心の中に入ってくる人もいるのだと思う。そういう人は非常に現代的な心の持ちようをしていると思うし、それは悪いことではない。

しかし、私はこの映画にスッと入り込めてしまうような心の持ちように対して胡散臭さを感じる。この現実を切り取ったようなさまをしながら、あくまでもすべてがイメージの産物であるような映画を、自分の現実に引き込んでリアルだと感じられるということは、その現実に何か瑕疵があるのではないかと思ってしまう。その瑕疵に気づかないまま映画の世界に浸ってしまうことにはある種の危うさが伴う。

そのような現実感覚、つまり自分の現実をイメージで覆い隠してしまうというか、バーチャルな異なったリアルを作り出してしまうような現実との対峙の仕方をどうにも受け入れがたいということだ。

映画の中の掲示板のメッセージのひとつで、ノストラダムスの予言について言及したとき、「世の中は滅びた。今あるのはマトリックスだ」みたいな言葉があって、それは映画の中ではそれほど重要な言葉として出てくるわけではないけれど、この映画の要素を凝縮したような言葉であるという気がした。

マトリックスで起きているさまざまな出来事であるがゆえに、彼らのとる行動はこうなってしまうのだと。

岩井俊二がそのような現実感覚に対してどのようなスタンスをとっているのかはこの映画からはわからない。ここで描かれているようなものに対する危機感をもって作っているのか、それともただ現実(あるいは未来)をなぞっているのか、特に意識していないのか。

わたしはこの映画はあくまでスタイルを重視した映画だから、そのあたりはあまり意識せず、現代的なスタイルと一致する世界観を構築するということに重点が置かれているのだと思う。

そこで作られたこのような現実感覚の希薄な世界に私は共感できない。

Jam Films

2002年,日本,109分
監督:北村龍平、篠原哲雄、飯田譲治、望月六郎、堤幸彦、行定勲、岩井俊二
脚本:高津隆一、渡部貴子、飯田譲治、望月六郎、三浦有為子、行定勲、岩井俊二
撮影:古谷巧、石山稔、高瀬比呂志、田中一成、唐沢悟、福本敦
音楽:森野宣彦、矢野大介、山崎将義、池瀬広、遠藤浩二、野見祐二、めいなCo.、岩井俊二
出演:北村一輝、山崎まさよし、篠原涼子、大沢たかお、吉本多香美、麿赤兒、秋山奈津子、妻夫木聡、綾瀬はるか、広末涼子

7人のクリエーターが共通するテーマなどを設けず自由に作った7本の短編を集めた企画もの。エピソードは「the messenger -弔いは夜の果てで」「けん玉」「コールド スリープ」「Pandora -Hong Kong Leg-」「HIJIKI」「JUSTICE」「ARITA」の7本。本当に何か共通点があるわけではないので、共通した感想をあげることもできないが、多くの作品が笑いに走り、それに成功しているのはわずかという悪循環がある。

ぎりぎり合格点なのは「けん玉」「Pandora -Hong Kong Leg-」「JUSTICE」「ARITA」の4本か。

ちゃんと1本目から見ていきましょう。

1本目「the messenger -弔いは夜の果てで」

笑いに走らず、ハードボイルドに仕上げたのはなかなかよく、いけるかと思ったが、最後のカメラ目線で台無し。違う落としどころにそっと落とせたら見られる作品になったと思うが、これではどうにも。バイオレンスシーンもあまり迫力がない。

2本目「けん玉」

最初の肉のミンチのショットからなかなかという感じで、さすがは篠原哲雄となるが、ちょっと偶然性を物語の必然に織り込みすぎた感があるし、ラストも少々しつこい感じ。それでもアイデアの面白さと、山崎まさよし&篠原涼子の雰囲気で○。

3本目「コールド スリープ」

コメントのしようもない感じですが、結論から言えば発想におぼれたというところ。一種の謎解きと意外性を狙ったのだろうけれど、発想が陳腐というか定型的過ぎていかんとも。

4本目「Pandora -Hong Kong Leg-」

7本の中で一番まとまっている。けれどまとまっているぶん、面白みもあまりない。麿赤兒がうまく全体をまとめていて、吉本多香美もなかなかいいけれど、話としては意外性がなく、映画として特殊なアイデアがあるわけでもない。古ぼけた劇場の画はなかなか。

5本目「HIJIKI」

山盛りのひじき以外はどこかで見たことがある感じ。天井が低い家というのは『マルコビッチの穴』を思い出させていけない。オチも大体読めるし。途中いくつか面白いネタがあったのが救い。

6本目「JUSTICE」

ポツダム宣言をえんえん英語で朗読するというなんとも不思議な授業風景がいい。全体としても本当にどうでもいいことで、どうでもいいことというのは若者にとって大事なことのような気がする。そんな気持ちがふっとわく佳作。

7本目「ARITA」

最後にもってこられるだけあってアイデアは一番。広末涼子のひとり芝居という形態にしたのも短編としてまとめる上ではプラスになっている。ただ、途中のCGが妙にリアルなのに違和感を持つ。光量の調整やフォーカスの仕方などにもうまさが光る。

全体として、結局テーマを絞らなかったのが裏目に出たというか、まとまりのなさと作品の質の低下を招いたかもしれない。撮影自体は簡単に済むかもしれないが、短編のアイデアを練るにはおそらく長編と同じくらいの苦労があるだろう。多分、制約があったほうがアイデアのひねりようもあり、制約の中でどのようにオリジナリティを出すかという発想が生まれてくる。

それに対して、「どうぞ自由にやって」といいながら、時間だけは区切られているとなると、そこに自分が積み込めるものは何か、それでいて観客を楽しませることができるものは何か、という問題に突き当たるはずだ。しかもこの映画の監督たちは短編映画のスペシャリストではないわけだからなおさらのはずで、イメージ先行の安易な企画だったといわざるを得ない。

それでも、いま売れているクリエーターたちのスタイルが一望できるという点では見る価値があるのかもしれない。

張込み

1958年,日本,116分
監督:野村芳太郎
原作:松本清張
脚本:橋本忍
撮影:井上晴二
音楽:黛敏郎
出演:大木実、宮口精二、高峰秀子、田村高広、菅井きん、高千穂ひずる、浦辺粂子

東京発鹿児島行きの汽車に駆け込んだふたりの刑事、電車は混みあってなかなか座れず、まる1日以上かけてようやくたどり着いたのは佐賀。まず地元の警察により、犯人がやってくるのではという目当ての家の目の前にある旅館に部屋をとる。犯人の元恋人と思われる女は毎日平凡な日常を送る主婦で、張り込みは成果のないまま何日も続いていく。

10本以上の清張作品を映画化した野村芳太郎による清張作品の第1作。脚本には黒澤作品で知られる橋本忍、音楽は市川崑、小津安二郎など数多くの作品に参加している黛敏郎と豪華な顔ぶれ。

映画はいかにも良質のサスペンスという感じだが、直接ストーリーにはかかわりのない部分を膨らませ、ゆったりとしたリズムで進むあたりが、味がある。

最初の汽車での長い旅から、徐々に事件の全貌と柚木の抱える事情が明らかになっていく展開の仕方がなかなかうまく、「どういうことなんだ?」という疑問を抱かせたまま中盤までトントンと進んでしまう。そして後半は一気に物語が展開し、サスペンスらしい面白さに満ちる。

とは言っても、決して派手な立ち回りなんかがあるわけではなく、非情に微妙な真理的な展開で話を転がしていくところがいい。

宮口精二扮する下岡刑事と旅館の仲居たちとのやり取りなんて物語にはまったく関係ないのにとても魅力的だ。こういう瑣末なことが実は重要で、隣に泊まったアベック(アベックという言葉もなかなか時代がかっていて印象的)が事件に絡んでくるんじゃないかとかいらない邪推をしてしまうのもサスペンス映画を見る楽しみなわけです。

サスペンスを見るとどうしても、いまのTVサスペンスと比べてしまう(いま日本映画ではこういうサスペンスというものはほとんど存在していない)けれど、それと比べるとやはり非情に慎ましやかでいい。扇情的な音楽を使うのでもなく、クロースアップを使うのでもなく、唯一映画的な効果といえば大木実のモノローグくらいでそれでも十分にサスペンスフルな展開にする。画面のサイズとか予算の違いもあるけれど、それだけ力強いものを現在の日本では作れなくなっているということなんだろう。

クロースアップといえば、ふたりの刑事のクロースアップはたまにはさまれる(1度などはおでことあごが切れるくらいのものすごいクロースアップ)のに、高峰秀子のクロースアップはまったく出てこない。これは張込みする刑事の側に視点を置くために非情に周到なやり方で、なかなかその表情をうかがい知ることができないところで張込みする刑事の焦燥感のようなものを観客が共有できるように作られている。

そんななか、ロングで捉えても高峰秀子はすばらしい演技をしている。背中で、肩で、そして傘でも感情を表す。高峰秀子はこのとき34歳で、3人の子がいる母親役をやってもおかしくないはずなのに、童顔のせいかすごく若く見えるし、そのような立場に不似合いに見えるというのも映画にぴたりとはまる。

高峰秀子はいいですねぇ。

王将

1948年,日本,94分
監督:伊藤大輔
原作:北条秀司
脚本:伊藤大輔
撮影:石本秀雄
音楽:西悟郎
出演:坂東妻三郎、水戸光子、三條美紀、小杉勇、斎藤達雄、滝沢修

関西で素人名人として名の通った坂田三吉は今日もいそいそと将棋大会に出かけた。次々とプロ棋士を倒して賞品をもらい、賞金をもらい、新進気鋭の関根七段と対戦ことに… 一方三吉の将棋道楽に苦しめられ、チンドン屋でビラをまいて帰ってきた妻の小春は三吉が仏壇をうっぱらって将棋大会の参加費を捻出したことを知り、家出を決意する…

明治から大正に実在した関西の棋士坂田三吉をモデルにした北条秀司の戯曲を伊藤大輔が映画化した作品。伊藤大輔はこの「王将」を3度にわたり映画化しており、これがその1回目。

やはり阪妻。私は若くてかっこいい阪妻より、40代くらいの味のある阪妻のほうが好き。だれっとたれ目になる笑顔、くっとよる皺、などなど。これくらいの年になってやっと味が出てきたという感じでしょうか。その点ではおそらく田村正和も同じで、若いころも確かに男前でよかったのですが、やはり年をとってからのほうが味があってよろしい。そう考えると、阪妻が50歳そこそこでなくなってしまったのは残念という以外に言葉はありません。

この映画の阪妻で一番いいと思ったのは首の振り。といっても何のことかは判らないと思いますが、阪妻がよく首を振る。いわゆる歌舞伎的な動きという感じで頭を左右に振ったりする動きがありますが、そんなようなものだと考えてください。とはいえ、それを大げさにやるわけではなく、動作の一貫としてふっと自然にやる。くくくくくっと首を振る。日常には普通ありえない動作のようでありながら阪妻がやると非常に自然で、とても絵になる。その首振りにはっと目が留まりました。よくよく思い出してみると他の作品でもやっていたような気もします。

こういう役者さんの癖というか味というか特徴というのは非常に重要な気がします。時には役柄にかかわらず出てくる特徴であったり、時にはその特徴があるためにいつもとは違う役柄をやるとなんだかピンとこなかったり、その特徴を逆手にとってある効果を生んだり。それは癖ではなくてなんとなくのイメージ姿かたちのパターンでもいい。例を上げようと思ったんですが、ちょっと思い出せません。田中絹代のほつれ毛…? ロビン・ウィリアムスはうれしいときにサイドステップを踏む?

まあ、いいか。とにかく阪妻は首の振りということです。田村正和なら眉間に皺。勝新なら着流し…

この映画はなんだか前半のほうが面白かった。前半の三吉が素人名人として破天荒にやっているところは面白い。将棋版に張り付くようにして将棋を打つ姿もすごく絵になる。ドラマとしても妻と子と近所の人たちと、親密な空間があって、とてもいい感じ。みていて「こりゃ名作だ」と思いました。

しかし、後半に入ると、ネタばれ防止のために詳しくはいえませんが、なんだか普通の話になってしまっている。映画の画面上の空間の密度が薄まってしまったというか、映画から密度が伝わってこない。私の個人的な気持ちとしては前半の話を引き伸ばして引き伸ばして、後半の話は最後の10分くらいでばたばたばたとやっちまってもよかったんじゃないかと思います。それくらい前半部分(ちょうど真ん中あたりでインタータイトルが入る前まで)はよかったのでした。

ところで、伊藤大輔(日本の黄金期を支えた映画監督のひとり。職人っぽい扱いをされてきたが、近年見直しが進む。阪妻作品を5本、他に『鞍馬天狗』『丹下左善』『大江戸5人男』など)は「王将」を3度も映画化しています。1度目がこの『王将』、2度目は55年に辰巳柳太郎と田中絹代で『王将一代』を、3度目は62年に三国連太郎と淡島千景で『王将』を撮っている。伊藤大輔が好きだったというよりは、この物語が受けたというのが大きいのではないかと思います。3度目の62年には映画にも出演した村田英雄が歌う『王将』が大ヒットというのもあります。

それにしても同じ監督が同じ題材で3度も映画を作るというのはかなり珍しい。ちょっと見比べてみたい気もします。