ザ・ロイヤルテネンバウムズ

The Royal Tenenbaums
2001年,アメリカ,110分
監督:ウェス・アンダーソン
脚本:ウェス・アンダーソン、オーウェン・ウィルソン
撮影:ロバート・D・イェーマン
音楽:マーク・マザースボウ
出演:ジーン・ハックマン、アンジェリカ・ヒューストン、ベン・スティラー、グウィネス・パルトロー、ルーク・ウィルソン、ダニー・グローヴァー、ビル・マーレイ

 天才児として知られたテネンバウム一家の3人の子供たち、長男チャスは投資家として、長女マーゴは劇作家として、次男リッチーはテニス・プレイヤーとして、成長した。しかし今は3人とも問題を抱え、チャスは事故で妻をなくし、マーゴはバスルームに閉じこもり、リッチーは長い船旅に出ていた。そんな3人の父親は20年前に別居していらいホテルで暮らしてきたが、破産し、ホテルを追い出されることになった。『天才マックスの世界』で認められたウェス・アンダーソンが豪華キャストでとったひねりの効いたコメディ。全体的に70年代テイストで統一されているのがなかなかいい。

 全体的にスピード感のあるコメディではなくて、妙なおかしさを狙ったコメディ。リアルに作ることを放棄し、すべてにおいて作り物じみたおかしさを狙う。これがこの映画の笑いの作り方。だからさいしょから人物を正面から中心に捕らえるショットが多い。会話の場面など、普通は空間を出すために斜めから人物をとらえるんだけれど、それをしないことで会話自体が不自然になる。それにともなって切り替えのタイミングもチョっとずらし、会話の間も不思議な感じにする。
 そのような妙なおかしさがそれほどギャグやネタがあるわけでもない映画をコメディとして成立させている。コメディ的なキャラといえば、わたしが好きなのはパゴダ。かなりボケが効いていて、ロイヤルの横で看護士の姿をしていたりするのはかなり笑える。あとはイーライの部屋に掛かっている絵とか、タクシーとか、バスとか。このタクシーとバスというのはとくに笑いを誘うわけではないのですが、とてもいいネタでここにこそこの監督のすごさが出ていると思います。最初に止めるタクシーのぼろさにびっくりしますが、その後出てくるどのタクシーも同じ「ジプシー・キャブ」、バスもずっと同じバス。こういう地味なネタはとてもいいですね。
 どんなに書いても多分おかしさは伝わらない。そういう映画だと思います。それにしても予告編が面白かった割りに、字幕が相当ひどかった。英語をなんとなく聞きながら主に字幕を見ているわけですが、なんだか面白くない。セリフのおかしさがちっとも字幕から伝わってきません。この人はきっとコメディを理解していないんだ、そんな疑問を抱きながら映画を見ていて、それが最後の最後で決定的に。最後の墓碑銘のネタ、映画中に伏線が張られていて、オチになるはずなのに、あの字幕はひどすぎる… やっつけ仕事かオイ!

ロミーとミッシェルの場合

Romy and Michele’s High School Reunion
1997年,アメリカ,91分
監督:デヴィッド・マーキン
脚本:ロビン・シフ
撮影:レイナルド・ヴィラロボス
音楽:スティーヴ・バーテック
出演:ミラ・ソルヴィーノ、リサ・クドロー、ジャニーン・ガロファロー、アラン・カミング

 高校から親友で、ロサンゼルスに出て10年間ずっと一緒に暮らしてきたロミーとミッシェル、車の修理工場でキャッシャーをやっているロミーと、仕事もなく、2人の服を自分で作っているミッシェル。そんな2人のところに高校の同窓会の便りが来た。高校時代を振り返り、自分たちは決して人気者でなかったことを思い出す2人だが…
 ミラ・ソルヴィノと『フレンズ』のリサ・クドロー主演のコメディ。コメディとはいっても、ストレートな感じではなく、アンチクライマックスで変化球な感じ。リサ・クドローが『フレンズ』のままのとぼけたキャラで笑いを誘う。

 コメディという頭で見始めて、確かにコメディなんだけど、どうも笑いどころが少ないというか、テンポが悪くて、話が進んでるんだか戻ってるんだか、右にいってるのか左にいってるのか、なんのこっちゃらさっぱりわからん。感じなんですが、2人がクラブに行って踊るなぞの踊りからしても、ミッシェルが作っているという普段の服からしてもふたりのダサかっこよさが眼目になっているだろうことはわかる。
 それにしても妙な「間」で、とにかくすべての「間」が長い。ぽんぽんとテンポよくギャグの応酬という感じではなくて、なんかおこったら長い「間」があって、物語が展開しそうであいだに他のエピソードが入って、しまいにはやけに長い夢が出てきて、こりゃ最後のドカンと落とすのかと思ったら、さらに妙な「間」のダンスシーンが。しかし、このダンスシーンは最高。とてもわけのわからない笑いのセンスに脱帽。この監督は何者なのか… このダンスシーンはMTVムービー・アワードのダンスシーン賞(そんな賞があったんだ…)にもノミネートされたらしい。
 というなんだか気の抜けた笑いと気分に襲われる脱力系コメディ。アメリカのコメディらしく人生とか友情なんかについても考えさせちゃったりして、ふだん肩いからせて歩いている人はこんな映画を見てください。
 人生で一番大事なもの。それは「笑い」ふふふふふ(不気味)。

裏切り者

The Yards
2000年,アメリカ,115分
監督:ジェームズ・グレイ
脚本:ジェームズ・グレイ、マット・リーヴス
撮影:ハリス・サヴィデス
音楽:ハワード・ショア
出演:マーク・ウォールバーグ、ホアキン・フェニックス、シャーリーズ・セロン、フェイ・ダナウェイ

 仲間をかばって、服役していたレオが出所してクィーンズの家に帰って来た。そこには女でひとつでレオを育ててくれた母も、親友のウィリーもいとこのエリカもいた。レオは真面目に働こうとエリカの母の再婚相手(つまり叔父)のフランクの経営する会社に面接に行く。フランクは整備工の学校に通うように進めるが、病気の母のためにもすぐに金が欲しいレオは金回りのいいウィリーと同じ仕事をさせて欲しいと頼むが…
 マーク・ウォールバーグはじめキャストも渋いが、内容もとても地味なサスペンス。ハワード・ショアの音楽だけが『羊たちの沈黙』なみに仰々しい。

 ええ、本当に地味ですね。出所してきた息子のためにパーティーをやっているような家だからきっとマフィア一家か何かなのかと思いきや、ただ悪がきだっただけで、物語の筋になる裏社会の人がおばさんの再婚相手という微妙な関係で、しかもその裏社会というのが地下鉄の修理や保全という地味な業界で、しかも発端は普通の汚職事件。それによく考えるとわいろを贈る相手がクィーンズ区長というのだから、多分これはそんなに大規模な話じゃない。ちっちゃいところでちっちゃくおこるとっても地味な犯罪もの。「街から遠く離れた」はずのレオが電話してその日のうちに帰ってこれるんだからね。
 などなどと文句を言っていますが、本当はこれが正直なアメリカの現実というか、アメリカ人の世界観というか、日常というか、そんなものであるような気もする。自分の家族と友達と住んでいる地区の問題が生活の大部分を占めていて、それ以外のものはなんだか現実感がないというか、その規模の中ですべてがまかなえてしまうから、その外側を必要としないというか、そういうう感じがあるのかもしれない。だから、アメリカ人が見れば現実的というか、日常的というか、自分にもおこりえそうな身近なことに感じるのかもしれません。
 でも、これは映画なので、たぶん日常的なことなど見たくはなく、だからきっとこの映画はヒットしなかったはずで、キャストも地味ながらもなかなかの名前があるし、シャーリーズ・セロンもサービスカットを出しているので、多分赤字で製作会社いっこぐらいつぶれたかもしれません。それもアメリカの現実。 ホアキン君も今ひとつ光らない。もちろん兄ほどの光を求めはしませんが、もう少し光ってくれてもよかった。一番売れっ子のホアキン君がこれではフェニックス兄妹の先行きも地味なものになりそうですね。

恐怖のワニ人間

The Alligator People
1959年,アメリカ,74分
監督:ロイ・デル・ルース
脚本:オーヴィル・H・ハンプトン
撮影:カール・ストラス
音楽:アーヴィング・ガーツ
出演:ジョージ・マクレディ、ロン・チェイニー・Jr、ビヴァリー・ガーランド

 精神科医がたまたま看護婦の心に潜む恐ろしい記憶を探り当ててしまった。彼が友人の医師にも聞かせたその秘密は、彼女は一人の男と結婚したが、新婚旅行中に電報を見た彼が忽然と姿を消し待ったというものだった。果たして彼のみに何が起こったのか…
 このころのアメリカの流行のB級恐怖映画。サイレント時代からいわゆるB級の映画をとってきたロイ・デル・ルースの晩年の作品であり、『エクソシスト』や『ゴッドファーザー』などで活躍することになる特殊メイクのディック・スミスがメイクに名を連ねていることにも注目。

 この監督さんはよく知らないし、代表作がなんだかもわかりませんが、フィルモグラフィーを見ると、100本近い監督作品があります。きらびやかな経歴を誇る監督がいる一方でこういう地味な仕事をしている監督もいるということです。それこそがハリウッドというような気がします。
 映画のほうはというと、完全に古典的な恐怖映画(タイトルの頭に「恐怖の」とついている時点で怪しい)で、それはまさに時代を象徴しています。50年代後半から60年代にかけてはこういった恐怖映画が多く作られた時代で、「ホラー映画」と呼ばれる70年代以降の作品を見てしまうと、子供だましにしか見えず、とても恐怖を覚えるのは難しいですが、そのチープな味わいが好きだというB級映画ファンは多いはず。
 その場合、どうしても笑いのほうに近づいてしまいますが、この映画も最後のオチの部分ではついつい笑ってしまいました。やっているほうは大真面目なので、笑っては失礼なのですが、意外な展開だった上に全く怖さがなかったもので。
 えー、映画史的にはこういう作品も重要で(この作品が重要というわけではないけれど)、1本くらいこんなん見てても罰は当たらないかなという気がします。もしかしたら、心の底に隠れていたマニア心をくすぐられるかもしれないし…

マニュファクチャリング・コンセント – ノーム・チョムスキーとメディア

Manufacturing Consent: Noam Chomskyand the Media
1992年,カナダ,167分
監督:マーク・アクバー、ピーター・ウィントニック
撮影:マーク・アカバー、ノルベール・ブング、キップ・ダリン、サヴァ・カロジェラ、アントニ・ロトスキー、フランシス・ミケ、バリー・パール、ケン・リーヴス、ビル・スナイダー、カーク・トゥーガス、ピーター・ウィントニック
音楽:カール・シュルツ
出演:ノーム・チョムスキー、エドワード・S・ハーマン

 世界で一番重要といわれる思想家ノーム・チョムスキー。言語学者として画期的な学説を発表する一方で、ベトナム戦争の反戦運動をはじめとしてさまざまな政治活動にも参加する。多くのテレビ・ラジオに出演し、講演を行い、自分の考えを率直に述べていく。そんな彼がメディアと国家の陰謀を指摘した著書『合意の捏造』。これをネタにしてチョムスキーを追ったドキュメンタリー。
 とにかく膨大な映像を材料として手に入れ、それをうまく構成したという印象が強い。チョムスキーという人物の人物像と思想がわかりやすい形で浮かび上がり、小難しくなく見ることができる秀逸な作品。

 この映画はチョムスキーという人を徹底的に追って、彼の思想をわかりやすく描こうという意図で作られていると思うけれど、それがそのまま監督(たち)が完全にチョムスキーに同意しているというわけではないと思う。もちろんチョムスキーに賛同し、その意見を人々に広めたいという意図はあるだろう。しかし、そもそも人の意見が完全に一致するはずなどなく、彼らも結局のところチョムスキーの思想を「メディア」として自分の都合のいいように媒介しているに過ぎない。
 と書くと、かなりの誤解を生みそうですが、この映画はそれくらいの疑いをメディアに対して持たせる。もちろんこの映画はそのあたりも織り込み済みで、大手企業に独占されるメディアの状況や、独自の意見を表明し続ける独立系のメディアを描いて、自らの正当化を図る。この映画はそもそもメディアについてメディアにおいて語るチョムスキーを描いたメディアなので、問題は複雑だ。
 彼らの意図は、政府や大手メディアのようにチョムスキーの意見を曲解することではなく、チョムスキーの意見を広くわかってもらうために都合のいい部分だけをピックアップする。そのような意味で自分が伝えようとする部分意外は排除するわけだから、完全にチョムスキーに同意しているわけではない。
 この辺りがなかなか難しいところで、時間の限られたテレビショーが話の長いチョムスキーを拒否するのとある部分では似通っている。しかし、ぜんぜん違うというのも確かだ。
 つまり、この映画を見るわれわれはこれはチョムスキーの解説映画であって、チョムスキー自身ではないのだと了解することは必要だ。そのようなものとしてわたしはこの映画もこの映画に登場するチョムスキーも全面的に支持する。この映画はユーモアにあふれているし、人々の目を開かせるような事実を(チョムスキーを介して)明らかにしている点で衝撃的だし、理論的にも整然としているし、チョムスキーの人柄も垣間見える。チョムスキーについてどんな入門書よりもわかりやすく解説していると思う(多分)。

 チョムスキーの思想自体は映画を見てもらえばわかると思うので、あまり深くは触れないが、彼の思想もなかなか複雑だ。ともかくメディアと大衆の関係性について語り、巨大企業と一部のエリートに操作されている大衆に警句を発する。しかし、他方で大衆を完全に信頼しているわけではない。チョムスキーを見ていると、言い方は悪いが大手メディアとの間で洗脳合戦をしているという気もする。ちょっと考えればチョムスキーのほうが正しいということは頭では理解できるのだが、彼もいうように現在の状況から逃れることはなかなか難しい。根本的な社会制度の改革、そんなことが可能なんだろうか。

愛しのローズマリー

Shallow Hal
2001年,アメリカ,114分
監督:ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリー
脚本:ショーン・モイニハン、ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリー
撮影:ラッセル・カーペンター
音楽:アイヴィ
出演:グウィネス・パルトロー、ジャック・ブラック、ジェイソン・アレクサンダー

 独身男のハルは少年時代、尊敬した父親がなくなる瞬間に一人立ち会った。その父親がモルヒネの譫妄状態で残した最後の言葉は「女は見た目だ」というものだった。それがトラウマのように働いて女を見かけでしか判断できない彼は、クラブでも美女ばかりにアタックしては振られるという生活を続けていた。そんな彼がある日テレビで有名な心理カウンセラーに出会って…
 コメディ映画のヒットメイカーとなったファレリー兄弟がグウィネス・パルトロー主演で作ったロマンティック・コメディ。グウィネスが特殊メイクで300キロの女を演じたというのも話題に。

 まあ、コメディということで、あまり細かいところにはこだわりたくないのですが、どうしても引っかかるのでいっておきます。ちょっくらネタばれ目ですが、あまり気にしないでください。
 えー、マウリシオが心理カウンセラーに会いに行って問い詰めるところで、「どうして、知らない人の心なんて見えるんだ?」と質問する場面があります。そこでカウンセラーは「見ようと思えば見える」と答えるわけですが、この会話を受け入れられるかどうかでこの映画を受け入れられるかどうかが決まってくる。
 この映画を見ていて誰もが感じる疑問は、どうして待ち行く知らない人々の心のよしあしがわかるのか? ということで、ファレリー兄弟はその根本的な疑問をわざわざ自ら持ち出してくる。しかし、その答えを観客に対して用意するのではなくて、さらりと流してしまう。この確信犯的なごまかしには何かあると考えるのは考えすぎなのか?
 そもそも、この映画における「心が美しい」という基準はあまりに短絡的過ぎる。ボランティアをやっていたり、病気のおばあさんの看病をしたり、ただそれだけで心が美しい人になってしまう。ハルが見ている心の美しさとはそんな短絡的な美しさなのだ。
 となると、この映画でいう心のよしあしが見えるというのはあくまで表層的な心のよしあしで、その程度のものならば知らない人でも見ようと思えば見えるものだといってしまっているということができるかもしれない。だとすると、この兄弟は相当シニカルでやなやつらだが、一応筋は通る。
 でも、本当のところはおそらくそんなことまでは考えておらず、あるいは考えたかもしれないけれど、考えなかったことにして、「見ようと思えば見える」という無理やりな論法で、しかも美しさの基準もわかりやすいものにして、その単純な構造から生まれる単純な物語を語る。その単純さを求めたのだろう。ファレリー兄弟のコメディの作り方にはそんな単純化の傾向が見られ、その単純な物語でとりあえず観客を映画に乗せて、周りのギャグで笑わせようという発想があるのではないか。
 なので、結論を言ってしまえば、細かいことにはこだわらず、面白いギャグがあったら笑えばいい。ということになります。

モンスターズ・インク

Monsters. Inc.
2001年,アメリカ,92分
監督:ピート・ドクター
脚本:ダン・ガーソン、アンドリュー・スタントン
音楽:ランディ・ニューマン
出演:ジョン・グッドマン、ビリー・クリスタル、メアリー・ギブス、ジェームズ・コバーン、スティーブ・ブシェミ

 子供部屋のクローゼットの扉の向こう側にはモンスターたちの世界がある。モンスター界ではエネルギーとして子供たちの悲鳴が使われるためモンスターズ・インク社ではクローゼットの扉からモンスターを派遣して子供たちの悲鳴を集めている。しかし、モンスターたちは子供に触れられると死んでしまうらしい。そんなある日、会社ナンバー1のモンスターであるサリーはあやまって子供をモンスターシティに引き入れてしまう…
 『トイ・ストーリー』『バグズ・ライフ』と同じくディズニーがピクサーと組んで作ったフルCGアニメーション。従来のCGアニメと比べると毛皮の質感の表現が飛躍的に向上、フワフワ感がとてもいい。

 エンド・ロールに注目しよう。まず、エンドロールのほぼ全編にわたって流れるNGシーン、香港映画やアメリカのB級映画によくあるおまけだが、もちろんアニメにNGがあるわけもなく、わざわざこのために作られた映像であるわけだ。それにはかなりの費用と時間が掛かる。しかし、本編を作った後で、それを作る作業はとても楽しいものだろう、あーでもない、こーでもないといいながら、笑える演出を探す、そんな楽しい作成現場が目に浮かぶようだ。
 さらに、エンドロールの最後のほうに出てくる一文、「No monster was harmed in this motion picture.」という感じの文だったと思うが、これはもちろん普通の(実写)映画で動物虐待をしていないことを断るための一文のパロディだ。こんな人が気付くか気付かないか(そもそもエンドロールを最後まで見る人も少ない)というところまで遊びを加えるその精神に、この映画のすべてが象徴される。
 そう、この映画はすべてが遊び心でできていて、楽しく遊ぶためならどんな努力も惜しまない、そんな映画だ。言い古されて言い方でいえば、子供に夢を与えるために、ということだが、そんな言い古された言い方がぴたりとくるような、ウォルト・ディズニーがアニメを作る始めたころの精神がよみがえってくるようなそんな映画だ。

 まあ、物語などは単純というか、お決まりというか、あれですが、子供というのは単純な物語をくり返し見ることを好むようなので、この映画は子供にも非常によろしいのではないかと思います。
 大人としては、ストーリーがもっと複雑だったらいいのになぁ、とは思うものの、キャラクターのかわいさ(特にブーのしゃべり方や笑い方がなんともいえない)なんかを見て、母性本能だか父性本能だかをくすぐられるもよし、アニメにしてはよくできたアクションシーンを堪能するもよし(わたしはここが一番よかった。ドアのアクションシーンは最高!)、物語のからくりの奥にある現代社会を反映したような不正や巨悪について考えるもよし。単純に癒されるもよしです。
 関係ないですが、この映画に出てくるドアって、どうしても「どこでもドア」を思い出してしまう。『ライオン・キング』の『ジャングル大帝』のパクリ方といい、なんだか納得いかないものがありますね。日本はディズニーにとってかなり大きな市場のはずなのに、こんな商売してていいのかね? というディズニーへの反感も(いくらいい映画であるとはいっても)やはりわきます。

バガー・ヴァンスの伝説

The Legend of Bagger Vance
2000年,アメリカ,125分
監督:ロバート・レッドフォード
原作:スティーヴン・プレスフィールド
脚本:ジェレミー・レヴェン
撮影:ミヒャエル・バルハウス
音楽:レイチェル・ポートマン
出演:ウィル・スミス、マット・デイモン、シャーリーズ・セロン、ジャック・レモン

 ゴルフ場で倒れた老人が、回想する昔話。
 南部の町サバナ一のゴルファーといわれていた青年ジュナは第一次世界大戦に参戦し、戦場で受けたショックからゴルフをやめてしまった。一方、ジュナの元恋人アデールは不況のあおりを受けて父親の残したゴルフ場が危機にさらされる。そこで、彼女は名ゴルファー二人のエキシビジョンマッチを企画するが、何故かそこにジュナが出場することになってしまい…
 レッドフォードが古きよきアメリカを描いたヒューマンドラマ。

 ノスタルジックな感じですね、つまり。グッド・オールド・デイズというやつですね。しかも南部というと、特にそんなイメージがつきまといますね。それが悪いというわけではないですが、あまり目新しさはないですね。しかも、そのノスタルジックな世界はおそらく現実とは違っていて、それはノスタルジーだから当たり前ではあるんだけれど、現実の姿よりも美しく描かれているに違いない。不況だといっているのにみんなこぎれいな格好をしているのもどうも気になるし、そもそも第二次大戦前の南部で黒人と白人があんなに対等な立場でいられたものかと考えるとかなりの疑問が生じてくる。
 しかも、映画のテーマも物語の展開もさして面白くはない。それでもなんとなく見させてしまうのは、映像の(月並みな)美しさと映画空間の閉鎖性だろう。主に自然の風景を映す映像の美しさというのはレッドフォードの得意技という感じで、『リバーランズ・スルー・イット』とかわんねぇジャン!という気もするけれど、それはそれでいいのでしょう。

 映画空間の閉鎖性というのは、この映画が外に広がっていく映画ではなくてあくまで映画の内部で閉じているということ。物理的にも、サバナという町から出ることはなく、登場する人々も少数の外から来る人意外はサバナの人々。
そして、そのサバナの町というのが映画のとしても前面に押し出されている。そして、物語的にもこの映画のはじめから終わりまでで完全に物語りは閉じていて、他に広がりようがない。バガー・ヴァンスは誰なんだ?とか、ジュナはどうなったんだ?とか、後日談のようなものは作れても、概念的な広がりを持つということはありえない。
 それは、否定的に見ればテーマ的な貧しさというか薄っぺらさととることもできるけれど、このようなすべてがイメージでできている映画においては、そのイメージがイメージとしてとどまれる範囲内で映画を作ってしまったほうがいい。この映画を素直に見ると、その見た人は自らをサバナという場に、そしてこの時代に置き、この映画で語られている時間だけを生きる。その閉鎖空間から出るきっかけを与えてしまうと、その空間が現実とあまりにかけ離れてしまうことに気がついてしまうから、その閉鎖空間を作り上げるイメージでがんじがらめにしてそこから逃がさない。しかも物語としても閉じているから、映画を見終わった後でも、別世界の出来事として現実から突き放して簡単に処理することができる。

 ちょっと、わかりにくいですかね。簡単に言ってしまえば、簡単に入り込めるし、映画を見ていてつまらないことはないけれど、終わってみれば何も残らず、3日か1週間か経ったら映画を見たことすら忘れてしまうような映画ということです。
 しかし、気をつけなければいけないのは、そのイメージはなんとなく残っていて、意識しないままにそのイメージを受け入れてしまうかもしれないということ。つまり、この映画が「おかしい」ということ(つまらないというのではなくておかしいということ)に気付く目を失わないように気をつけなければならないということ。だと思います。

60セカンズ

Gone in Sixty Seconds
2000年,アメリカ,117分
監督:ドミニク・セナ
脚本:スコット・ローゼンバーグ
撮影:ポール・キャメロン
出演:ニコラス・ケイジ、アンジェリーナ・ジョリー、ジョヴァンニ・リビシ、ジェームズ・デュヴァル、ロバート・デュヴァル

 車泥棒のキップは強引な手口でポルシェを泥棒、アジトに持ってくるが、警察にアジトを突き止められ、これまでに盗難した車を放置して逃げてしまう。そのキップに50台の車を手配するように注文したカリートリーは、キップの兄で今は引退した伝説の車泥棒メンフィスに弟の尻拭いをするように言うが…
 1974年の『バニシングIN60』をもとに作られたクライム・アクション。車好きにはたまらない映画だと思うが、普通にアクション映画としてみるとちょっと退屈するかも。監督は『カリフォルニア』以来何故か沈黙していたドミニク・セナ。この映画に続いて『ソード・フィッシュ』を撮って復活。

 アクション映画としては中の中というところでしょうか。元ネタの『バニシングIN60』を見ていないのでわかりませんが、おそらく元ネタの方が面白いのでしょう。そもそも車を盗むというところにアクションの緊張感を求めるのはどうも間違っているようで、どんなに見事な手際でも、それ自体が面白いというわけには行かない。それでどうしても、カーチェイスということになるわけですが、そのカーチェイスの見せ場が出てくるのは後半だけ。ということでなんとなくだれたアクション映画になってしまうわけ。
 となると、ニコラス・ケイジとアンジェリーナ・ジョリーのセクシー・コンビのセクシー光線で攻めていくのかと思いきや、そうでもなく、ラブ・シーンらしきものも尻切れトンボで終わり、そこにも見所を求められません。なので、まっとうにアクション映画、ハリウッド映画を楽しもうとしてみると、どうにもならない映画といわざるを得ないということです。

 それでもわたしはこの映画は悪くないと思うわけですが、それはこの映画が全体的に持っている「へん」な雰囲気。アクション映画として物足りない部分を補うためか、それとも監督の性癖か、どうも「へん」な感じがあります。
 最初に感じたのは、スフィンクスがメンフィスを助けるシーン、スフィンクスは基本的にへんで、最後のオチまでへんで、わたしはとても気にってるんですが、とにかくその登場シーンのおおげささというか、過剰さというのがどうもへん。全体的に地味な映画を補うためなのか、豪勢に爆発します。最後のオチというのもかなりへんで、せっかくのオチなので言いませんが、映画の脈略から全く浮いているし、その意味がよくわからん。しかもそれでぷつりと終わってしまう。なんじゃありゃ?という感じ。
 あとは、犬のエピソードとか、ケイジがボロ車をガンガンにふかすシーンとか、なんか「へん」なんですよ。映画のプロットには乗っているんだけど、映画全体の雰囲気を壊すというか、全体的に一つの雰囲気にまとめるのを拒否するというのか、こちらがイメージするアクション映画というものや登場人物のキャラクターからはずした描き方をしていく。それも、あまり伏線もなく突然に。
 キップがメンフィスに料理を作ってて、塩のふたが取れちゃって、でも何事もなかったようにそのままさらに持ってメンフィスに食べさせて、メンフィスは、「ゲッ」と吐き出すんだけど、「うまい」というシーン。あれも相当へんだった
なー

 という、なんだか不思議な映画でした。
 あとは、「フレンズ」のコアなファンは気がついたかもしれませんが、キップはフィービーの弟(腹違いの弟)でしたね。

チョコレート

Monster’s Ball
2001年,アメリカ,113分
監督:マーク・フォースター
脚本:ミロ・アディカ、ウィル・ロコス
撮影:ロベルト・シェイファー
音楽:アッシュ・アンド・スペンサー
出演:ビリー・ボブ・ソーントン、ハル・ベリー、ピーター・ボイル

 州刑務所の看守ハンクは病気の父と同じく看守をする息子のソニーと暮らしている。ハンクは父の人種差別意識を引き継ぎ、息子のソニーを訪ねてきた黒人の少年たちを銃で追い返す。
 黒人の死刑囚マスグローヴの死刑執行の日、息子のソニーは執行場へと付き添う途中に戻してしまう。執行後、ハンクはソニーを激しく怒り、殴りつける。
 演技には定評のあるビリー・ボブ・ソーントンと、この作品でアカデミー主演女優賞を獲得したハリー・ベリーなんといってもこの二人がいい。特にハリー・ベリーはとても美人でいい。

 映画自体はたいした映画ではありません。アメリカの白人の中にいまだ人種差別主義者がいっぱいいることなどは繰り返し描かれてきたことだし、実際にそうであることも理解できる。この映画は人種差別を中心として、家族や死刑というさまざまな問題を含んではいるけれど、それが行き着く先は結局のところ恋愛で、セックスで、人を愛するということが異性間の関係に集約されてしまっている。
 ハンクが息子を「憎んでいる」といってしまったり、父親を施設に入れてしまったりする、そのことを考える。そのことを考えると、この男はやはり自己中心的で、他人を思いやっていると見える行動もヒューマニスティックなものというわけではなく、実は弱さの顕れでしかない。もちろん人間は弱いものだけれど、この映画はそこには突っ込まない。
 この映画から人種の問題を取り去ったら何が残るだろうか。それは単なるメロドラマ、息子を失った男女が出会い、互いに慰めあう。新たな愛に出会う。そういう話。

 果たして、ハンクは人種差別主義を克服したのだろうか? この2時間半の時間を見る限り、それは克服されていない気がする。レティシアに大しては差別もないが、それはおそらく「黒人」という意識がないだけのこと。近所の自動車修理工場の家族とも仲良くし始めるけれど、それも彼らを「黒人」の枠からはずしただけのことのような気がする。「黒人」一般に対する差別は温存したままで、「仲間」として認められる黒人は受け入れる。そのような態度に見えて仕方がない。
 そう見えるからこそわたしには、この映画が人種差別主義の根深さを示す映画だと思うのだけれど、製作者の側にはそんな意識はなく、一人の男が差別を克服する映画という考えだろうし、見るアメリカ人もそういう映画としてみているような気がする。
 それは、本来は黒人と白人のハーフである、ハリー・ベリーを「黒人初のアカデミー賞女優」といってしまうアメリカの人種意識から推測できることだ。それはアメリカの人種意識が「白人」を中心として作られていることを示している。「白人」でなければ、白人の血が半分入っていようと「黒人」になってしまう。つまりちょっとでも黒ければ「黒人」、ちょっとでも黄色ければ「アジア系」となる。
 この映画はそんなアメリカの人種意識をなぞっているだけで、何も新しいものもないし、アメリカの人種意識を変えるものではないと思う。だからわたしは、「たいした映画ではない」という。

 たいしたことない話が長くなってしまいましたが、わたしがこの映画で一番気に入ったのはハリー・ベリー。『X-メン』などではちょっとわかりませんでしたが、この映画のハリー・ベリーは本当に美人。さすがミス・オハイオ、ミス・コンも捨てたものではないですね。わたしはこのハリー・ベリーの美しさはいわゆる「ブラック・ビューティー」ではない、一般的な美しさだと思います。黒人でなくても受け入れられる美しさ。この映画は本当にハリー・ベリーの映画。主演女優賞をとっても当然、という感じです。
 映画にとって美女が重要だということもありますが、人種の問題に立ち返っても、彼女のような美女の存在こそが人種の壁を突き崩すきっかけになる可能性を持っている。そんな気が少ししました。