ラスト・ウィンド/少年たちは砂漠を越えた

A Far Off Place
1993年,アメリカ,108分
監督:ミカエル・サロモン
原作:ローレンス・ヴァン・デル・ポスト
脚本:ロバート・キャスウェル、ジョナサン・ヘンズリー、サリー・ロビンソン
撮影:ファン・ルイス=アンシア
音楽:ジェームズ・ホーナー
出演:リース・ウィザースプーン、イーサン・ランドール、サレ・ボク、ロバート・バーク、マクシリミリアン・シェル

 密猟を取り締まる動物保護監視官の両親とともにアフリカで暮らす少女ナニーと父に連れられ旅行に来ていた少年ハリーの冒険物語。ナニーはある日の夜、ケガをして倒れている現地住民のカブーを見つけ家に連れて行こうとするが、カブーの忠告で、そこに現れたハリーとともに洞窟で一晩を過ごす。すると、翌朝、ナニーとハリーの家族は密猟者たちに殺されていた。二人は追ってから逃れ、カブーとともに砂漠の向こう2000キロのかなたにある町を目指して旅立つ…
 言いたいことはわかる。ディズニーだし、子供たちに向けて作られた冒険物語だから。しかしそれにしてはちょっとリアリティがなさすぎるかなという気もしなくはない。大人のうがった見方かもしれないが、子供だましという批判は免れないのでは?

 子供の冒険ものというのはよくありますが、大概きれいすぎるのですよ。まず、話がうますぎる。そして、汚れるとかケガするとか、そういうところが映らない。一ヶ月も砂漠を旅して、あんなにきれいで過ごせるはずがない。絶対に髪はぼさぼさ、服はどろどろ、皮だってべろべろめくれてくるし、切り傷だっていっぱいできる。それを子供向けだからって見せないのは、ディズニーの欺瞞だと思いませんか? いつも、ディズニー制作の実写映画を見るとそれを感じます。
 それに、カブーの描き方だって、こんな風にアフリカ人を書くから、アメリカの子供たちはアフリカに対して妙なイメージを抱いてしまうのだと思う。アフリカは全部砂漠で、アフリカ人はテレビなんて見たこともないと。だいいち、カブーのように英語がしゃべれるほど西洋文明に接していながら、完全な狩猟生活を送ってるアフリカ人なんているのか? 英語が話せるくらい文明化(西洋化)しているなら、生活習慣にも影響を受けていると考えるのが普通なのではないの? それを無視して、自分たちに都合のいい程度の西洋化を臆面もなく描くところが納得いかないんだよ!
 失礼しました。取り乱してしまいまして。ああ、憤懣やるかたない。それで、それなのに、話としては結構面白かったりするからなおさらたちが悪いんですよね。ええ、エンターテイメントとしてはなかなかよくできた作品です。ロマンを感じます。ただ気に入らないだけです。

ノッティングヒルの恋人

Notting Hill
1999年,アメリカ,123分
監督:ロジャー・ミッチェル
脚本:リチャード・カーティス
撮影:マイケル・コールター
音楽:トレバー・ジョーンズ
出演:ジュリア・ロバーツ、ヒュー・グラント、クリス・エヴァンス、ジーナ・マッキー、ティム・マッキンリー

 ノッティングヒルで本屋をしているバツイチのウィリアム(ヒュー・グラント)の店にある日、アメリカの映画スターのアナ・スコット(ジュリア・ロバーツ)がやってきた。ウィリアムは芸能音痴で彼女が映画スターだということを知らなかったが、彼女の美しさに一目ぼれしてしまう。
 というところから始まる、ストーリーは現代版「ローマの休日」と呼ぶにふさわしいラブロマンス。ラブロマンスとしてはありきたりながらうまくできている。
 それよりも、ウィリアムのルームメイトのスパイク(クリス・エヴァンス)をはじめとする脇役たちの繰り広げる笑いが最高。

 ラブ・ストーリーとして分析すると、何度かの困難があり、(恋愛をする上での)立場が逆転して、しかし最後は…という、完璧に定型にはまった話。この説明で言いたいことは、この映画が面白くないということではなく、ある意味で必要な映画であるということ。言うなればハーレー・クイン・ロマンスのように「結末は読める、でもその過程を楽しむ」というものがラブ・ロマンスにはなければならない。なぜって? わかっちゃいるけど、「エー、また」と思うけど、見てしまえば、結構面白いから。
 それよりも、この映画で面白かったのは、コメディの部分。まず、同居人のスパイクが最高。なんとも間抜けな風貌で、間抜けなキャラクター。うん、彼が主人公の「裏・ノッティングヒル」を作って欲しいくらいだ。ほかにも、いいところはあって、妹の誕生会で、アナが整形を告白するところとか、ジュリア・ロバーツが自分のことを言っているんじゃ? という感じだし(多分、狙ってると思う)、「馬と猟犬」ネタもかなり好き。アメリカ映画のわりには、かなりイギリス的な笑いが多いですが、なかなかです。
 と、いうことで、ロマンス好きも、(イギリス)コメディ好きも結構楽しめる作品だと思います。

真夜中のサバナ

Midnight in the Garden of Good and Evil 
1997年,アメリカ,155分
監督:クリント・イーストウッド
原作:ジョン・ベレント
脚本:ジョン・リー・ハンコック
撮影:ジャック・N・グリーン
音楽:レニー・ニーハウス
出演:ジョン・キューザック、ケヴィン・スペイシー、ジャック・トンプソン、ジュード・ロウ、アリソン・イーストウッド

 アメリカ南部の小さな町サバナで骨董商を営むジム・ウィリアムズの家で開かれるクリスマスパーティーは町の一大イベントだった。これを取材に来た記者のジョン・ケルソーが順調に取材を終えたその夜、ジムが殺人罪で逮捕されるという事件が起きた。ジョンはその事件の取材を続けるためにサバナに残ることにするのだが…
 実際にあった事件を描いたベストセラー・ノンフィクションをクリント・イーストウッドが映画化。特に映画に登場するさまざまな変わった人々の存在が魅力的。むしろ物語の重点はその住人たちにあるといったほうがいい。
 監督としても評価の高いイーストウッドだが、出演せずに監督に徹した作品はまだこれが二作目(1988年の「バード」以来)。

 クリント・イーストウッドは監督としても(と、言うよりは最近は監督としてのほうが)才能があることは疑いがない。もちろん「許されざる者」で監督賞を撮ったくらいだから、何をいまさらという感じだが、いま一つ俳優出身という観念に縛られて認めたくないところがあった。しかし、監督作品をいくつも見ていると、非常に丁寧でストレートな映画を作る優秀な監督だということがわかってきた。とくに、「画」で語ることが非常にうまい。それはつまり、(多くの場合は無言の)カットをつないでいくことによって、セリフによって説明するよりも効果的な「語り」をやっているということ。この映画での法廷のシーンは特にそれが顕著に表れていた。法廷という発言が制限されている場でも登場人物たちに「語らせる」ことが自然にできているというところに監督の力量を感じた。

エイリアン4

Alien Resurrection 
1997年,アメリカ,107分
監督:ジャン=ピエール・ジュネ
脚本:ジョン・ウェドン
撮影:ダリウス・コンジ
音楽:ジョン・フリッゼル
出演:シガニー・ウィーヴァー、ウィノナ・ライダー、ロン・パールマン、ダン・ヘダヤ

 死んだはずのリプリーが200年の時を経て、クローンとしてよみがえった。しかし7度の失敗を経て誕生した8番目のリプリーはエイリアンのDNAを併せ持つ新たな生命体となっていた。宇宙船内でエイリアンを繁殖させる軍人と科学者、そこに密輸にやってくる海賊たち、もちろんエイリアンは逃げ出し、パニックが起きるのだが…
 「デリカテッセン」や「ロスト・チルドレン」といった幻想的な作品で知られるジャン=ピエール・ジュネが監督した異色の「エイリアン」。かなりCGが多用され、前3作とはかなり異なった味付けがなされている。

 3を見て、もう続編はないなと思っていたのに、何だかんだとできてしまった4。それなりに面白いのだけれど、ストーリー展開は単純だし、しかも短いということもあって、「エイリアン」らしさに欠けるという気がした。あまりエイリアンの迫りくる恐怖というのも感じないし。それでもプロットには工夫があってなかなかよかった。特に、ウィノナ・ライダーがXXXX(ネタばれ防止)だという設定は秀逸。
 特撮について言えば、エイリアンそのもののリアルさはCGのおかげか増していたように思えるが、口から飛び出る液なんかはあまりにCGなのがみえみえで残念。
 ジャン=ピエール・ジュネ監督で、ウィノナ・ライダーが出るというので期待していたので、少々期待はずれ。もっとジュネワールドを展開してくれれば(「エイリアン」ではなくなってしまうかもしれないけれど)面白くなったかもしれない。「ロスト・チルドレン」のあの雰囲気を期待してしまったのがいけなかったのだろうか?
 「エイリアン」は“2”が一番好きかな。シガニー・ウィーバーがシュワルツネガー張りで、かなり楽しめたような記憶があります。
 皆さんのお気に入りの「エイリアン」は何ですか?

遊星からの物体X

The Thing
1982年,アメリカ,109分
監督:ジョン・カーペンター
原作:ジョン・W・キャンベル・Jr
脚本:ビル・ランカスター
撮影:ディーン・カンディ
音楽:エンニオ・モリコーネ
出演:カート・ラッセル、ウィルフォード・ブリムリー、リチャード・ダイサート、ドナルド・モファット

 南極のアメリカベースに突然現れたノルウェー隊のヘリコプター。彼等は執拗に一匹の犬を追っていた。狂気に犯されたようなノルウェー隊の二人の隊員は二人とも死んでしまう。それを不審に思ったアメリカ隊の隊員がノルウェーの基地に行ってみると、そこは全滅し、人々の死体と、奇妙な生物の焼死体が残されていた…
 サイコな要素を取り込んで、「エイリアン」とともにこれ以降のSFエイリアン・ホラーの原型となった名作。ホラーの巨匠ジョン・カーペンターの出世作でもある。

 この作品はもちろんエイリアンもののホラー映画ではあるが、同時に犯人探しのサスペンスの要素も持っている。見た目からはエイリアンが寄生しているかどうかわからないために生まれるサスペンスがこの作品の面白みを大いに増す。この構造はもちろん『エイリアン』と同じである。『エイリアン』の公開は1979年でこの作品より3年前だか、『エイリアン』の脚本家はもちろんジョン・カーペンターの盟友ダン・オバノンであり、このアイデアが昔から彼らの作品の構想の中にあったことは想像に難くない。だから、ふたつの作品が似ているのはいたしかたないのだろう。そして、それが現在に至るまでエイリアンもののサスペンス・ホラーのひとつの雛形となったのだ。
 そのような作品としてこの作品は非常に完成度が高い。外界との通交がまったく絶たれるという設定、その中でどこから迫ってくるかわからないエイリアン、仲間に対する疑心暗鬼、エイリアンの気色の悪さ、それをとっても抜群の出来。
 もちろん、この閉鎖空間という設定はジョン・カーペンターのお得意の設定であり、閉じられた中に恐怖の源があり、そこから逃れようと奮闘するというのも彼がずっと繰り返してきた物語展開である。

 しかし、その恐怖の源とはいったい何なのだろうか。果たしてそれは文字通りエイリアンなのか。ジョン・カーペンターがこのような恐怖を繰り返し描いていることからもわかるように、これは必ずしもエイリアンである必要はない。気の狂った殺人鬼でも、若者のギャング団でもなんでもいいが、とにかくそれはわけがわからないが“私”に襲い掛かってくるものでなければならないということだ。それらの映画とこの映画が違うのは、『ハロウィン』のブギーマンはそのものが恐怖の対象であるのに対して、この作品では人間がそのように恐怖の対象になるのは何かに取り憑かれたからだということだ。人間が何かに取りつかれることでわけのわからない恐怖の対象になる。それは非常に示唆的なことではないか。彼らは何かに取り付かれ、他の人間を食い物にし始めるのだ。
 それは別にエイリアンであろうと、狂気であろうと、欲望であろうと、何も変わらないのだ。つまりここでのエイリアンというのは人間か取り憑かれるなにものかの隠喩なのである。
 この物語の主人公であるはずのマクレディも「実はエイリアンなんじゃないか」と思わせる瞬間が映画の中に何度もあるのは、彼もまた何かに取り憑かれているからだ。彼はもちろんエイリアンを抹殺し、基地の外に出ないように奮闘してはいるけれど、果たして本当にそうだろうか。人間側が一枚岩ではないようにエイリアンも一枚岩ではないとしたら、エイリアン同士の殺し合いもあってもおかしくはないのではないか。実はマクレディは他のエイリアンを抹殺し、自分が地球に進出しようとたくらんでいるエイリアンなのかも知れないではないか。
 そのように考えてみると、この映画のラストはある意味ではハッピーエンドのように見えるけれど、非常にもやもやしていやな感じも残す。ジョン・カーペンターはこの作品の続編の構想があった(今もある)らしいのだが、それがどうなるのかはまったく予想がつかない。
 この作品に描かれたエイリアンは、われわれを果てしない不安に陥れる。

0086笑いの番号

The Nude Bomb
1980年,アメリカ,94分
監督:クライヴ・ドナー
原作:メル・ブルックス、バック・ヘンリー
脚本:アーニ・サルタン
撮影:ハリー・L・ウルフ
音楽:ラロ・シフリン
出演:ドン・アダムス、シルヴィア・クリステル、ヴィットリオ・ガスマン、ロンダ・フレミング、パメラ・ヘンズリー

 あるテロリストが新型の爆弾を開発。それは人体には傷をつけず、衣服だけを破壊するというものだった。そのような地球の危機(?)に引退したはずの諜報部員(86号)マクスウェル・スマートが呼び戻された。
 スパイもの(スパイ大作戦+007という感じ)をパロったドタバタコメディ。バカバカしいので、真面目な人は見てはいけない。B級コメディの中では名作のひとつと言える。 

 なんてことはないのだけれど、笑えるところはなかなかある。しかもまったくバカバカしい。結末もわかりきっているし、見終わったら「あー、時間を無駄にした」と思うのも目に見えているのに、ついつい最後まで見てしまう。やはり細かい逆の数々が目を話させない秘訣。この映画の中で好きなのは13号。
 しかし、批評もしにくいです。何も書くことがないのでね。何も考えずに席に座って(映画館だったら)、ただただ笑って、映画館をでたらすっきり忘れる。これが正しいB級コメディの見方でしょう。どんな映画かなんてことはどうでもいい。問題はどれだけ笑えるかってことだけ。これなら多分、10~20回くらい笑えるかな。そんなもの。
 「それ行けスマート/世界一の無責任スパイ」(アメリカテレビ放映、ビデオ廃盤)という続編もある。 

マーキュリー・ライジング

Mercury Rising
1998年,アメリカ,112分
監督:ハロルド・ベッカー
原作:ライン・ダグラス・ピアソン
脚本:ローレンス・コナー、マーク・ローゼンタール
撮影:マイケル・セレシン
音楽:ジョン・バリー
出演:ブルース・ウィリス、アレック・ボールドウィン、ミコ・ヒューズ、チー・マクブライド、キム・ディケンズ

 9歳の自閉症の少年が政府の情報局の暗号を解読してしまった。少年は命を狙われ、陰謀に気づいてしまったジェフリーズ捜査官(ブルース・ウィリス)は少年を守ろうと孤軍奮闘する。
 自閉症の少年が特殊能力を持っていてそれのせいで命を狙われるというのは、「シックス・センス」を少し思い出させる。この映画は要するに「ダイ・ハード」。ブルース・ウィリスが戦っていればそれでいい。

 ちょっと、この映画はひどいね。設定も無理があるし(とりあえず、パズル雑誌に国家機密の暗号を載せたりしない)、サイモンに解読できたんだから、ほかにも解読できる人がいるはずだし、それならサイモンを殺すより、暗号を作り直したほうが安全。
 殺し屋がしょぼすぎる。あんな素人みたいな失敗ばかり繰り返す殺し屋(しかも一人)じゃうまくいくもんもうまくいかない。むだな人ばかり殺してる。
 おかしいところを上げていけばきりがないですが、ハリウッド映画なんてこんなもの、という感じがします。ちゃんと作ってある映画も多いけれど、ぽんとブルース・ウィリス出して、なんかちょっとひねったシナリオつくっときゃいいかなっていう安易な作品も多い。

TATARI

House on Haunted Hill
1999年,アメリカ,92分
監督:ウィリアム・マローン
脚本:ディック・ビーブ
撮影:リック・ボッタ
音楽:ドン・デイビス
出演:ジェフリー・ラッシュ、ファムケ・ヤンセン、テイ・ディグス、アリ・ターラー、ブリジット・ウィルソン

 1931年、精神病の犯罪者を収容した病院の火事で、その病院のバナカット医師による人体実験の事実が判明した。それを扱ったテレビ番組をみた大富豪でテーマパークのプロデューサーであるスティーブン・プライス(ジェフリー・ラッシュ)の妻エブリン(ファムケ・ヤンセン)は、自分の誕生日パーティーの場所をその病院にしようと提案する。スティーブは数々の仕掛けを用意し、「一晩生き残ったら100万ドル差し上げます」というメッセージを送ったが、当日やってきたのは、招待した覚えのない人たちだった。

 流行のサイコスリラーなどではなく、純然としたホラー。とにかく怖い仕掛けを五月雨式に繰り出して、ジェットコースターのような勢いがある。リアルさにはかけるが、音響効果など恐怖感を与えるには充分の仕掛けがある。テーマパークに行くような気分でみれば、すっきりして帰れるかも。 

踊るのよ! フランチェスカ

Franchesca Page
1997年,アメリカ,106分
監督:ケリー・セーン
脚本:ケリー・セーン
撮影:クリス・ノー
出演:モーリーン・グリフィン、バーラ・ジーン・マーマン、ロッシ・ディ・パルマ、タラ・レオン、ロンダ・ロス・ケンドリック

 昔ショー・ガールをしていたリタ・ペイジは自分の果たせなかったブロウドウェイの夢を娘のフランチェスカに託し、オーディションに送り込む。しかし、フランチェスカは音痴に運痴、オーディションも大失敗。しかし、あきらめていた二人のもとに合格の通知が…
 「アタメ!」や「キカ」などのアルモドバル作品で知られる怪女優ロッシ・ディ・パルマが悪徳プロデューサー役を熱演。ジャンルとしてはミュージカルとされているが、実際はミュージカル映画をパロディ化し、映画というものをもパロディ化した作品。リタ・ペイジ役のバーラ・ジーン・マーマンやその友人役(名前わからず)の二人が歌って踊るのが本当に笑える。バーラ・ジーン・マーマンはニューヨークでは有名なドラァグ・クィーンらしいので、その素晴らしくそして笑える身のこなしにも納得。

 ドラァグ・クィーンであるバーラ・ジーン・マーマンが普通に女性役として登場するところがこの映画のすごいところ。ドラァグ・クィーンの映画というと、「プリシラ」のようにドラァグ・クリーンの役として登場するのが一般的だし、それを演じる役者が本当にドラァグ・クィーンであることは少ない。そのような意味ではかなり考える材料になる映画でもある。
 よく考えてみれば、フランチェスカはリタの子供で、お父さんはサミー・デービス・ジュニア(笑)という設定になっていて、そのこと自体がパロディ化された親子関係とみることもできる。フランチェスカは本当にリタが産んだ子供という設定なのか? 映画の中でリタは完全に女性として納得されているけれど、なかなか微妙な設定だ。このようなどうとでも解釈できる設定こそがレズビアン&ゲイ映画祭のコンセプトにあっていたということなのかもしれない。ことさらにホモフォビアや偏見を強調するよりも、このような笑いの中に隠されたいかようにも解釈できる現実という要素のほうがむしろ心に訴えかけてくるのかもしれない。それはドラァグ・クィーンの心に通じるのだろう。 

12モンキーズ

Twelve Monkeys
1995年,アメリカ,130分
監督:テリー・ギリアム
脚本:デヴィッド・ピープルズ、ジャネット・ピープルズ
撮影:ロジャー・プラット
音楽:ポール・バックマスター
出演:ブルース・ウィリス、マデリーン・ストー、ブラッド・ピット、クリストファー・プラマー

 2035年、1996年に発生した謎のウィルスによって地球の人口は1パーセントにまで減少し、地上に人は住めなくなっていた。科学者たちはそのウィルスの発生に関係すると思われる「12モンキース」について調べるため、囚人のジェームズ(ブルース・ウィリス)を過去へと送り出すだが、彼が着いたのは1990年だった。ジェームズはそこで精神異常者と見なされ、病院送りになるが、そこで謎の男ジェフリー(ブラッド・ピット)と出会う。
 さすがテリー・ギリアムと思わせる映像、ディテイルの凝りようが素晴らしい。この映画でもうひとつ素晴らしいのはブラッド・ピット。見た後に残るのは「これはブラッド・ピットの映画だった」というイメージかもしれない。 

 ストーリー自体にそれほど新しさはなく、タイムトリップものと終末論ものをうまくミックスしたという感じ。この映画の展開にハリを持たせているのはなんといっても2035年の世界だろう。まさにテリー・ギリアムが好き放題やっという感じの世界像が圧巻。くり返しでてくるのがうれしい。ただ、少し話の展開がゆっくり過ぎる感じもする。物語が展開してゆく中で次の細かい展開がかなり読めてしまうので、「早く進めよ」という気分になる。
 あとはブラッド・ピット。それほど出演している時間は多くないはずなのに、その存在感は他を圧倒。ブルース・ウィリスも決して悪い演技をしているわけではないのだけれど、ブラッド・ピットの本物さ加減にはかなわないだろう。顔の表情、特に目の動きが本当におかしい。