Digital Short Films by Three Filmmakers
2001年,韓国,92分
監督:ジャ・ジャンクー、ジョン・アコムフラー、ツァイ・ミンリャン
脚本:ジャ・ジャンクー、ジョン・アコムフラー、リサ・ハットニー、ツァイ・ミンリャン
撮影:ユー・リークウァイ、ジャ・ジャンクー、ドゥウォルド・オークマ、ツァイ・ミンリャン
音楽:ダリオ・マリネッリ
香港のジャ・ジャンクー、イギリスのジョン・アコムフラー、台湾のツァイ・ミンリャンの3人が「デジタルの可能性」をテーマにデジタルビデオで30分の短編を作り、それをオムニバス作品にしたもの。
ジャ・ジャンクーの『イン・パブリック』は多分中国の北部の鉄道の駅やバス停に集まる人々を淡々と撮影した作品、ジョン・アコムフラーの『デジトピア』はデジタルミックスされたラヴ・ストーリー、ツァイ・ミンリャンの『神様との対話』はデジタルビデオの機動力を生かして祭りやシャーマンを撮影した作品。
3作品ともかなり見ごたえがあるので90分でもかなり疲れます。
一番印象に残っているのは2番目のジョン・アコムフラーのお話なんですが、まず映像のインパクトがかなりすごくて、幻想的というか、妄想的というか、黙示録的というか、派手ではないけれど頭にはこびりつく感じ。物語のほうはすべてが電話での会話とモノローグで成り立っていて、映るものといえばとくに前半は男が一人でいるところばかり。たいした物語でもない(30分でたいした物語を作るのも大変だが)し、よくある話という感じだけれど、その映像のなんともいえない味が映画全体にも影響して、不思議な印象を受ける作品でした(だからといって特別面白いというわけではない)。
他の2作品は一見普通のドキュメンタリーで、ツァイ・ミンリャンのものは完全に普通の(上手な)ドキュメンタリーになっているわけですが、ジャ・ジャンクーのほうは何かおかしい。というか面白い。
ジャ・ジャンクーの『イン・パブリック』という作品は一見よくあるドキュメンタリーで、市井の人々を人が集まる駅やバス停で映した作品に見える。しかし、この作品で気になるのは映っている人たちがやたらとカメラのほうを見、カメラについてこそこそと話をすること。「台湾の有名な監督らしい」といったり、カメラに向かって髪形を整えてみたり、とにかくカメラを意識する。普通のドキュメンタリーだと、そういう場面はなるべく排除するか、あらかじめ了解を取ってあまりカメラを見ないようにしてもらう(あるいは共同することで自然にカメラを気にしなくなる)かするのだけれど、この映画はそのような努力をせずに、逆にカメラを意識させるようなショットを集めて編集している印象がある。
最初のエピソードからして、メインの被写体となる男性はカメラを意識していないのに対して、そこにたまたま居合わせた男性はやたらとカメラのほうを見る。この対比を見せられると、メインの被写体となる男性は撮影者との了解があって、カメラを見ずに行動している(ある種の演技をしている)のだと思わずにはいられない。他の場面でも何人かの人は一度カメラを見つめ、それを了解した上で、そのあとは自然になるべくカメラを意識しないように行動しているかのように見えることがある。
これらのことがどういうことを意味するのかと考えてみると、この『イン・パブリック』という映画は、イン・パブリックで、つまり公衆の中でカメラを回し、それを切り取った映画などではなくて、イン・パブリックにあるカメラがどのような存在であるのか、つまり公衆の中でカメラを回す行為というのがどういう意味を持つのかということを描こうとしている映画であると考えることができる。
それはつまりドキュメンタリー映画を作る過程というものを浮き彫りにし、それが必ずしも日常を切り取ったものではないということ、カメラが存在するということがすでに人々を日常から切り離しているということ、カメラの前で自然に振舞っているように見える人々もカメラがあることに気付いている限りある種の演技をしていることを明らかにしている。それはまさにフィクションとドキュメンタリーの間について語ることであり、その観点から言うとこの映画は非常に意義深い映画であるといえる。
マルセイユ国際ドキュメンタリー映画祭がそのような意味でこの映画をグランプリに選んだのだとしたら、それはとても正当なことだと思う。