けんかえれじい

1966年,日本,122分
監督:鈴木清順
原作:鈴木隆
脚本:新藤兼人
撮影:萩原憲治
音楽:山本丈晴
出演:高橋英樹、浅野順子、川津裕介

 高校生の麒六は下宿する家の娘道子に思いを寄せる。しかし、カトリックの家でもあり、思いを伝えることのできない麒六はそのエネルギーを喧嘩に向ける。果たして麒六の運命や…
 鈴木清順の代表作のひとつに数えられるこの作品。モノクロの画面に登場人物たちがよく映える。

 この映画は確かに面白い。ドラマとして面白い。喧嘩に明け暮れる番カラ男とマドンナが出てくるわかりやすい青春映画というところ。その番カラ男がキリスト教に縛られているというのも一つひねりを加えてあって面白い。
 という非常に雄弁な物語に映像の美しさが加わって、有名な桜のシーンなどは確かに色を感じさせるモノクロの映像となっているわけです。
 しかし、何かが物足りない。それは多分、これが日活映画らしい日活映画だからかもしれない。高橋英樹というスターを主役に配し、そのスターをヒーローとして描く作品。それを清順は崩そう崩そうとして入るけれど、崩しきれなかったという感じ。そう、その崩そうという努力は感じられるのだけれど、やはりスターの看板を崩すわけにはいかず、ちょっとずれた部分の面白み(有名なピアノのシーンとか)や映像的な工夫(パチンコだまのシーンとか)といった形で表現するほかなかったという不満。
 これはやはり日活という映画会社が60年代石原裕次郎をはじめとするスター映画を大量に世に送り出していた映画会社だったからなのでしょう。決して監督中心ではない映画。だから清順のやりたいことを完全にはできなかった。そんな不満が垣間見えてしまうような作品でした。

ゆきゆきて、神軍

1987年,日本,122分
監督:原一男
撮影:原一男
音楽:山川繁
出演:奥崎謙三

 反体制運動家の奥崎謙三、傷害致死、わいせつ図画頒布などで13年以上の独房生活を送った彼の活動を追ったドキュメンタリー。悲惨を極めたニューギニアから帰還した奥崎はそのニューギニアで起こった様々な悲惨な出来事の解明に乗り出す。
 今村昌平が企画をし、原一男が監督・撮影を行った日本のドキュメンタリー史に残る映画。斬新というか型破りというか、ドキュメンタリーというジャンルの典型からは大きく外れた映画。

 これは果たしてドキュメンタリーなのか、実際の起こったことを映しているという意味ではドキュメンタリーだが、この奥崎謙三という人物はエンターテナーだ。自分を見せるすべを知っていて、それをカメラの前でやる。しかしそれは彼の主義主張にあったものなのだから、作り物というわけではない。だから、フィクションかドキュメンタリーかという区分けをするならばドキュメンタリーの範疇に入る。ただそれだけのこと。ドキュメンタリーというのもあくまで程度の問題で、いくらかはフィクションの割合が入っているものである。カメラが存在することですでにノンフィクションというものは存立不可能になっている。したがって、完全にノンフィクションではないドキュメントをいかにノンフィクションらしくしかもドラマチックに見せるのか、それがいかにすぐれたドキュメンタリーであるのかという事。
 この映画はノンフィクションらしく見せるという点では余り成功していない。しかし、ドラマチックであることは確かだ。そしてそのドラマチックさはそれがノンフィクションであるということに起因している。リアルな喧嘩、省略なく行くところごとに繰り返される同じ説明、それらは見るものをいらだたせるまでに繰り返される。事実はこうであるのだということ。
 見る人によっては嫌悪感すらもよおすだろうし、私も好きなタイプの映画ではないけれど、すごいということもまた事実。

河内カルメン

1966年,日本,89分
監督:鈴木清順
原作:今東光
脚本:三木克巳
撮影:峰重義
音楽:小杉太一郎
出演:野川由美子、伊藤るり子、和田浩治、川地民夫、松尾嘉代

 河内の山間の村に住む娘は病弱な父をよそ目に坊主の愛人になる母親に反感を抱きながら日々暮らしていた。そんな彼女は村に嫌気が差し、大阪に出て行くことに決めていた。
 清順が女を武器にしてのし上がっていく女を描いた。映画的にはかなり斬新な手法がつかわれ、清順的世界観を発揮。

 この映画は結構狂っていていい。「すべてが狂っている」ほどに驚愕するものではないけれど、「ふふ」とほくそえみたくなるような作り方。特に終盤はその傾向が強く、ひひじじいが映画を撮影するというときに照明とか、それが終わった後のマンションでのシーンとか、相当めちゃくちゃなことをやりながら、それを清順らしさという言葉で片付けてしまえるような味を出す。
 これがまさに清順的世界という感じなのでしょうね。ぎこちなさと狂気の描き出す美というところでしょうか。
 あとは、展開の速さがかなりいい。清順の映画はそれほど速いという印象はなかったんですが、この映画は相当速い。あっという間に物語が進んでいく。というより過ぎ去っていく。どんどん勝手に転がっていく展開の仕方は60年代らしさなのか、3時間分の物語を90分に無理やり収めたような印象がある映画がおおく、それがまた快感。

散弾銃の男

1961年,日本,84分
監督:鈴木清順
脚本:松浦健郎、石井喜一
撮影:峰重義
音楽:池田正義
出演:二谷英明、南田洋子、小高雄二、芦川いずみ

 山道を走るバス、乗り合わせた若い娘にお酌をさせようとする中年男に散弾銃を突きつけてそれをやめさせた男。男は散弾銃を担ぎ、通りがかりの村人に止められながらもあまり人が行かないという山に入っていく。実はその山はバスに乗り合わせた中年男が製材所を経営している山だった。
 清順映画常連の二谷英明の主演作。場所は日本の山奥だが、いわゆる西部劇。

 これは西部劇なのですね。場所は山、銃は猟銃ではあるけれど、女がいて、バーがあり、決闘がある。分かりやすい悪役と分かりやすいヒーローと分かりにくい悪役がいる。
 ということを加味しつつ考えると、かなり不思議な映画ではあり、パッと見退屈な映画であるようなんだけれど、いろいろと味わい深いという感じ。物語的にも、「なるほどね」「やっぱりね」という展開で、驚きはしないけれど関心はする。つまり全体としてみると崩れず均整を保った映画。細部に入っていけばもちろん不思議な魅力にあふれてはいるのだけれど。
 西部劇ということで基本的に人間の描き方は画一化されているところが清順らしいくずしを拒んだ一つの原因であるのかもしれないと思いながらも、端的な色彩や音楽や映像に清順らしさが垣間見える。たとえば、バーに並べられたビールジョッキの不均一さとか、山奥の酒場には似つかわしくない彩りの構成とか、そういったものです。保とうとする均衡とそれを崩そうとする力とが拮抗する点が清順映画の焦点だと私は思いますが、この映画は少し均衡がわに寄った映画なのではと。私はどちらかというとくずれた側に寄った映画のほうが好き。あるいは狂気の側に。

裸女と拳銃

1957年,日本,88分
監督:鈴木清太郎
原作:鷲尾三郎
脚本:田辺朝巳
撮影:松橋梅夫
音楽:原六朗
出演:水島道太郎、白木マリ、南寿美子、二谷英明、芦田伸介、宍戸錠

 繁華街のキャバレーで、雲隠れした麻薬密売組織のボスらしき人物を見かけた新聞記者とカメラマンの健作。その男は見失ってしまうが、その夜健作はそのキャバレーの踊り子を助け、その踊り子の家にいくことになった。しかし、そこで想像もしていなかった事件がおきる…
 まだ若かりし清順が撮ったサスペンス。ハリウッドのフィルム・ノワールのような雰囲気で展開力のあるドラマという感じ。

 清順にしては素直な映画といっていいのか、主にプロットのほうに趣向が凝らされていて、衝撃的な映像とか、シーンとかがあまりない。しかし、50年代の話としてはかなり現代的な感じがする。
 なんとなく007を連想してしまった理由はよくわからないけれど、なぜか清順の映画の主人公はみなもてる。この映画のさえない顔した水島道太郎でさえもてる。それから小道具がさえてる。この映画はカメラマンということで、いろんなカメラを使ってみる。しかし、あの拳銃型のようなカメラはどうかと。あんなもんつかったら普通は殺されるがな。
 という映画ですが、やはりちょっと映像にこだわってみると、この映画でのポイントはアングルかな。ボーっと見てると、なんとなく過ぎていく映像ですが、なんとなく全体にいいアングルだったという印象がある。清順はクレーンとかをよく使うし、この映画でもクレーンの場面があったっと思いますが、なかったかな… まあ、いいです。 それよりも、この映画のポイントはローアングル。ローアングルといえば、小津安二郎と加藤泰の専売特許のように言われますが、清順のローアングルもなかなかのもの。ローアングルというよりは、至近距離で人を下から撮るという感じ。たとえば座っている人の視線で立っている人を撮るとか、そういうことです。
 そういうアングルで映された人の表情が非常に印象的だったので、こんなことを書いてみましたが、まったくまとまる様子もなく、今日はこのままふらふらと終わります。

すべてが狂ってる

1960年,日本,72分
監督:鈴木清順
原作:一条明
脚本:星川清司
撮影:萩原泉
音楽:三保敬太郎、前田憲男
出演:川地民夫、禰津良子、奈良岡朋子、芦田伸介、吉永小百合

 街でちょっと悪い遊びをし、バーにたむろするハイティーンの若者達、そんな若者達のひとり次郎は母に限りない愛情を持っていたが、日ごろから反感を持っていた母の情夫である南原が理由で家を飛び出してしまう。
 物語としては特別どうということはなく、物語の前半60分は清順らしいと関心はするものの感動というほどではないけれど、最後の10分は息が止まるほど素晴らしい。
 まだまだ新人の吉永小百合もちょい役で出演。

 情夫がどうとか、若者がどうとか、戦後がどうとか、そういった安っぽいメディアにいたるまでありとあらゆるところで語られてきた問題を、あえて取り上げているのだけれど、この映画の本質はそんなところにはない。
 冒頭近くの交差点のシーン、カメラは平然と幹線道路のトラフィックの中に平然ととどまる二人の女を平然と俯瞰からとらえる。その画があまりに平然としていることに戸惑う。日常的ではあるけれど、映画では実現しにくいようなシーンがさりげなくちりばめられる。
 最後の10分になると、そのようなシーンも勢いを増し、それにもまして美しい構図と力強いカメラワークが引き立つ。その最後の10分間の始まりは、敏美がオープンカーの後部座席にうつ伏せで乗り込むシーンだろう。その非日常的な、しかし美しい構図にはっとし、そこから先は目くるめく世界。
 ホテルの一連のシーンはまさに圧巻。見てない人はぜひ見て欲しい。この1シーンに1500円の料金を払ったって惜しくはない。そのくらいのシーンでした。多くは語るまい。アップのものすごい切り返しと、足によって切り取られた三角形と、緊迫したシーンに突如入り込んでくる笑いの要素。見た人はそれですべてが分かるはず。

続・新悪名

1962年,日本,99分
監督:田中徳三
原作:今東光
脚本:依田義賢
撮影:武田千吉郎
音楽:鏑木創
出演:勝新太郎、田宮次郎、赤木まり、近藤美恵子、ミヤコ蝶々

 闇市がなくなり一時田舎に帰っていた朝吉だったが、ひょんな事からみなしごだという少女の身を引き受けることになる。そんなことがあった日の翌朝、簡易旅館でオカマのおぎんに再会、今は旅芸人の一座で女形をやっているというおぎんは朝吉に頼み事があるという…
 「悪名」シリーズの4作目。相変わらず勝新太郎はかっこいいが、映画的にはシリーズが進むに連れて弱々しくなっているような…

 まず、田宮次郎があまり出てこないのが不満です。勝新は確かにかっこいいけれど、一人で何でもこなすスーパーマンみたくなると、ちょっと筋立てが単調になりがち。
 それからなんといってもカメラがいかん。この映画のカメラはなんだか不必要に動きすぎるような気がする。どの場面とはいえませんがカメラがやたらとトラックアップしたりパンしたりする。しかもゆっくり。カメラが動くこと自体は取り立てて問題はないのですが、別に動かなくてもいいところで動くと、単に構図を崩すだけで何の効果も生まない。構図としては悪くないところが多かったのに、それをカメラが動くことによって壊してしまっているような気がして残念な気分。
 しかし、相変わらず物語りのプロットはなかなか秀逸で、推理もののような味わいがあります。任侠ものは「仁義」というルールが存在しているので、そのルールを破ることで話が転がっていくというやりやすさがあるのでしょう。しかし、これが時代が下っていくに連れどうなっていくのか… この作品の時点で設定は1950年代になっているでしょうから。
 とは言ってみたものの、この作品を見る限り宮川一夫カメラのものに絞ってみた方がいいかもしれない。と思ったりもします。

グラマ島の誘惑

1959年,日本,106分
監督:川島雄三
原作:飯島匡
脚本:川島雄三
撮影:岡崎宏三
音楽:黛敏郎
出演:森繁久彌、フランキー堺、三橋達也、桂小金治、岸田今日子

 対戦中、グラマ島という無人島に船が着いた。船は2人の宮様を含む3人の軍人を残して沈んでしまった。そしてその島に残ったのはその3人の軍人と報道部隊の2人の女性隊員、5人の慰安婦、1人の戦争未亡人、そして1人の原住民だけとなった。
 日活を離れた川島雄三の後期のコメディ。かなり破天荒な映画の作りで、いい仕上がりのB級映画という趣き。

 破天荒というか突拍子もないというか、プロットとしてもかなりめちゃくちゃな感じで、それぞれのキャラクターが異常に極端なところが可笑しい。映画の作りもかなりめちゃくちゃで、セットさ加減が見え見えだとか、原住民役がどう見ても日本人(というよりどう見ても三橋達也)だとか、そういうことをおいておいても、ちょっと不思議なカットがあって、このあと何か起きるのかな?と思わせておいて何も起こらないなんてことがあったりする。一番端的なのは、額もあごも切れた超々アップの連続で、話し合いが行われるところなんか。
 そういうめちゃくちゃなところが飛び飛びで出てきて笑いを誘い、しかしまとまりはなく、それをすごいと言うかそれともわけがわからないと言うかはわかれるところ。「おっすごい!」と思わせるポイントはいくつかあったものの、全体としては抜けきれなかったかな。という気はします。

新悪名

1962年,日本,99分
監督:田中徳三
原作:今東光
脚本:依田義賢
撮影:今井ひろし
音楽:斎藤一郎
出演:勝新太郎、田宮二郎、中村玉緒、浜田ゆう子、藤原礼子

 戦争から復員してきた朝吉は、自分が戦死したことになっていることを知る。家族は生き返ったことを喜んだが、妻のお絹を訪ねていってみると、お絹は他人の妻になっていた。朝吉は死んだ舎弟の貞の母親を訪ねて徳島へ向かった…
 「悪名」シリーズ第3作。前作で死んでしまった田宮二郎演じる貞だが、田宮二郎はその弟の役でしっかり復活。監督は田中徳三から森一生に変わり、カメラは宮川一夫ではなくなってしまった。しかし、勝新の魅力は今回も全開。ヒットシリーズになる理由もわかる。

 結局のところ、物語としては人情やくざものにつき、勝新の映画であるというのがはっきりとする。原作があって勝新がいれば何とかとれちまうんだろうというのは、3年で8本も作られたことからも分かってくる。
 でも、結構面白い。いまこれが、テレビドラマとしてやっていたらぜったい見るくらいには面白いし、きっとシリーズのどれを見ても大きくはずすことはないのでしょう。
 ということで、がんばって映画的な部分に話を持っていくと、この映画はシネスコで、映像はやはり宮川一夫のと比べると見劣りするけれど、シネスコ作法に忠実にしたがって、自然な感じに仕上がっています。シネスコ作法といえば、村で酒盛りをするシーンで、最初酒盛りを遠くから映すところで、画面の真ん中一番近くに大きい木がある。これですっかり画面を二分してしまっている。これは、先日お届けした「真田風雲禄」でも使われていた方法で、加藤泰はかなり意識的に使っているもの。画面構成としてメリハリがあって非常にいいです。でも、カットが変わって、今度は違う細い木が真ん中にあったのは、ちょっとどうかな?
 最近はテレビ放映でも画面サイズどおりにしっかりやってくれることが多くなったので、画面サイズに注目してみるのもいいかもしれません。

悪名

1961年,日本,94分
監督:田中徳三
原作:今東光
脚本:依田義賢
撮影:宮川一夫
音楽:伊福部昭
出演:勝新太郎、田宮二郎、水谷良重、中村玉緒、中田康子

 松島の遊郭で暴れていた土地のやくざ吉岡組の貞を、その遊郭の琴糸のところに遊びに来ていた朝吉がぶちのめした。そのことで組の親分吉岡に認められた朝吉は吉岡組の客となるが、琴糸の足抜きをしようとして失敗してしまう…
 当時のベストセラーを大映の職人監督田中徳三が映画化。カメラは宮川一夫、勝新と玉緒の共演など、見どころもいろいろ。

 ぱっと見て、なんとなく映像に惹かれる。宮川一夫とは知らずに見ても、なんとなく、何かが違う気がする。何が違うのだろう。宮川一夫と勝新太郎はコンビというわけではないけれど同じ作品に関わることが多い。まあ、勝新はもともと大映で、宮川一夫も戦後は大映なのだから当たり前ではあるけれど、勝新が勝プロを立ち上げた後でも、宮川一夫はカメラを回した。確かに宮川一生の鮮やかな画面に勝新の濃い顔はよく映える。
 この映画はちょっとひねったやくざもので、やはり勝新と田宮二郎が相当いい味を出していて、すごくいい。2人とも、どの映画でもなんとなく同じタイプの役を演じる役者だけれど、それが逆にこの二人のコンビをうまく生かせているような気がする。だから、シリーズが続いたんでしょうけれど…
 この悪名シリーズは調べてみるとなかなか魅力的で、16本作られていますが、最後の2本は監督がマキノに増村ということになっていて、出演者も安田道代が出てきたり、田村高広が出てきたりするらしい。