真田風雲録

1963年,日本,90分
監督:加藤泰
原作:福田善之
脚本:福田善之、小野竜之助、神波史男
撮影:古谷伸
音楽:林光
出演:中村錦之助、渡辺美佐子、ジェリー藤尾、ミッキー・カーチス

 関が原の戦いのとき、みなし子たちの一団が死んだ侍の持ち物を盗んで歩く。そこで出会った一人の若いお侍、そして忍術を使う謎の少年佐助。そして10数年後、そのみなし子たちと佐助は再会し世に名高い真田十勇士となるのだった。
 時代劇とやくざもので名高い加藤泰監督のかなり強烈な作品。物語の設定もかなり独特ならば、映画の作りも相当独特。かなり笑えます。

 何がすごいといって、このでたらめさ加減がものすごい。映画というのは現実に似せることによって進歩してきた。というまことしやかに聞こえる誤謬を思い切り暴き、映画とは決して現実に近づきはしないということを朗々と謳い上げる。といってしまっては仰々しすぎるけれど、この映画のでたらめさはまさにそういうこと。 一番すきなのは、大阪城で兵たちがドンちゃん騒ぎするシーンでのスポットライト。確かに時代劇でもスポットライトは使われているし、現代的な照明が焚かれているのだけれど、フレームにうつるのはたいまつや焚き火だけ。しかし、この映画はしっかりとスポットライトそのものがうつり、それはしっかりとスポットライトとしての役割を果たす。
 映画の誤謬を暴くといっても難しいことではなく、そんなでたらめなことであるということ。しかし、決してすべてがでたらめというわけではないのが加藤泰。画面の構成の仕方などをみていると、そこはしっかりと考えて作りこんでいる。ひとつ気になったのは真田のところにはじめて集まった場面で、佐助が画面の手前に横たわり、奥に他の仲間がいるというシーンがあったが、このシーンはかなりローアングルというか、異常にローアングルで、視点は地中にあるとしか思えない。
 ほかにも、無数にすごいところがあります。それはもうあげきれない。しかし最後に1つ。誰もが気になる字幕について。主要人物が出てくると下に名前が表示されるというのは「シベ超」でもやっていた手ですが、なんか日曜洋画劇場のようで気に入らない。しかし、それは別にすればこの映画の字幕は本当に面白い。セリフで言えばいいところをわざわざ字幕にしたりする。この感性は何なのだろう?

団地妻 不倫でラブラブ

2000年,日本,68分
監督:サトウトシキ
脚本:小林政広
撮影:広中康人
音楽:山田勲生
出演:林由美香、横浜ゆき、伊藤猛、本田菊雄

 団地の隣同士に住む二組の夫婦。ある朝、両方の家の妻がいなくなり、途方にくれる二人の夫。実は一方の家の夫が隣の夫に片思いをしていることを知った妻がそれに腹を立て、隣の妻と連れ立って温泉旅行に出かけることにしたのだった。温泉に行った二人と残された二人は果たして…
 監督はピンク映画四天王の1人サトウトシキ。音楽は青山真治作品でもお馴染みの山田勲生。かなり不思議な可笑しさ漂う映像もなかなか。

 まあ、妻同士・夫同士が結ばれるという展開のひねり方はそれほど目新しいものではなく、プロットとしてはむしろ、温泉旅館で出会うカップル(アベックって言ってた。映画の中では)のわけのわからなさのほうが面白みがあった。 台詞回しの棒読みさ加減はピンク映画にしても棒読みすぎというところで、「狙いかな」と思わせるものがある。それは映像もひっくるめてわざとらしさがかもし出すおかしさを演出するのに一役買っている。
 その映像はというと、稚拙というか安っぽい部分は多いものの、瞬間の不思議なおかしみというのを引き出すのがうまいとは感じた。男が2人裸で座っているだけでなんとなく可笑しい映像になるというところや、ピンポイントで入る脈略のわからない映像(服のまま平泳ぎとか、のどかな温泉街の朝の風景とか)がいい。
 話の展開としてはもう少し曖昧に終わったほうが面白かったとは思いますが、まっいいか、という感じです。一般映画としても十分見るに耐える感じ。かな。

曽根崎心中

1978年,日本,112分
監督:増村保造
原作:近松門左衛門
脚本:白坂依志夫、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:宇崎竜童
出演:梶芽衣子、宇崎竜童、井川比佐志、左幸子、橋本功

 心中しようと夜中に二人よりそい、坂道を登るお初と徳兵衛。お初は天満屋の女郎、徳兵衛は平野屋の手代。好きあった二人がいかにして心中まで追い込まれたのか?
 惚れたはれた、死ぬ死なない、というドロドロとした感情を描かせればやはり増村。近松門左衛門の名作を見事に映画化。徳兵衛役に俳優未経験の宇崎竜童を起用し、音楽も依頼。ATGの製作らしい斬新な時代劇に仕上がっている。

 いきなり頭から、時代劇にギターの音色というのがかなりドカンと来る。その後もエレキ有り、シンセ有りと時代劇とは思わない音楽のつけ方がすごい。近代文学の名作も素直に作らず、そこに独特の感性を埋め込んでしまうところが増村らしい。物語りも人情劇というよりは非情劇という感じで、微妙な感情の機微などはばっさり切り捨て、激しい感情のぶつかり合いをドカンとメインに据えてしまうという余りの増村らしさ。
 全体的にちょっとセリフがまどろっこしく、物語としてのスピード感に欠けたところがあるが、それはおそらく余りに初期の増村を見すぎたせい。普通の映画はこれくらいのスピードで進むはず。見ている側をじりじりさせるというのも映画(特にサスペンス)の心理効果としては必要なこと。とはいっても、やはりあのスピード感のほうが心地よいことも確か。スピードを緩めて全体をアートっぽく仕上げてしまったのはどうなのか…
 というスピードのあたりにかなり私の不満は集中しますが、全体としてはかなり面白い。梶芽衣子もいいね。

あなたと私の合言葉 さよなら、今日は

1959年,日本,87分
監督:市川崑
原作:九里子亭
脚本:九里子亭、舟橋和郎
撮影:小林節雄
音楽:塚原哲夫
出演:若尾文子、佐分利信、野添ひとみ、京マチ子、川口浩、船越英二、菅原謙二

 自動車会社の技術部に勤めるやり手のビジネスガール和子は大阪に住む大学時代の先輩梅子と結婚なんかしないと決めていた。その梅子が東京にやってきた折、急に和子が相談があると言い出した…
 市川崑が若尾文子や川口浩といった大映のスター達を豪華に使って作り出した群像劇。テンポの速い展開と独特な演出術が見どころです。

 無表情に棒読みという独特な演出が目に付き、こまごまにきられたカットもかなり頻繁に現れる。特に会話の場面での切り返しが異常に速かったりする。そのあたりの効果のほどは計りかねるものの、全体的にはその妙なテンポが面白い。計算はされているけれど、あえてそれをはずしてゆくという感じ。
 役者さんが共通していて、同時期で、同じカメラマンとなるとどうしても増村と比較してしまうけれど、そもそも増村は市川作品の助監督なんかもやっていたので、かなり共通点はあるはず。しかし、増村ファンとしてはこの作品の物語の淡白さがなんとも物足りなく、若尾文子に魅力が足りなく感じてしまう。映像的にはかなり似通っていて、これはやはりカメラマンによるところが多いのでしょう。小林節雄はデビュー作が市川崑監督の名作「穴」というかなりすごいカメラマン。やはりフレーミングというのはある程度カメラマンのセンスによるのだということが小林節雄撮影の作品を見ていると分かります。この人の作品は画面の一部分を殺してしまうことが多い。壁やふすまや扉で画面の半分くらいを使えない空間にしていしまう構図ですね。増村作品に特に目立ちますが、この映画でも2回くらい使われていたはず。
 などなど、たまにはカメラマンに注目して作品を見てみたいものですが、これはなかなか難しい。相当の数の映画を見ていかないと、カメラマンが出す特徴というのは見えてこないような気がします。うーん、なかなか難しい。

丹下左膳余話 百万両の壺

小さな笑いが重なって大きな幸せを生む、幸福な伝説の名作。

1935年,日本,91分
監督:山中貞雄
原作:林不忘
脚本:三村伸太郎
撮影:安本淳
音楽:西梧郎
出演:大河内伝次郎、喜代三、沢村国太郎

 柳生藩の殿様は、自分の家の壺に百万両のありかが塗りこめられていること知る。しかし、見た目二束三文のその壺は弟が江戸へ婿養子に行くときにくれてやってしまっていた。藩主は使いをやってその壺を取り戻そうとするが、そうそううまくはいかない。
 時代劇でありながら、コメディ映画。しかもハリウッドのスラップスティックコメディを思わせるような軽快なテンポに驚かされる。

 70年近く前の映画なのにこれだけ笑えるというのはすごい。原作は丹下左膳なわけだけれど、どこか落語的な味わいを感じさせるシナリオでもある。そしてまた、コメディとして完成されているというのがこの映画のすごいところだ。しっかりとした構図、画面の内外で動き回る役者の動き、それは本当にうまい。

 そしてさらにすごいと思ったのは映画全体の躍動感、一つ一つのネタにはそれほど意外性があるわけではない。しかしそれを映画という手段によって笑いにもっていく。具体的にいえば、オチの前倒しというか、ネタを転がす部分を省くところ。一例をあげると、安坊が竹馬を欲しい欲しいと言って駄々をこねる場面で、女将さんは「駄目」といっているのに、カットが変わっていきなり安坊が竹馬に乗っている。言葉で説明すればただそれだけのことなのだけれど、このようにして観る者を「えっ」と一瞬驚かせるそんな瞬間が輝いているのだ。

 だから、ずーっとこの作品を見ているとどんどん楽しい気分になってくる。笑える作品を見たというよりは幸せになれる作品を見た、そんな感想がピタリと来る。やはり名作は名作といわれるだけのことはあるのだと改めて実感させられた。

 この作品が作られた1935年というと、チャップリンが『モダン・タイムス』を発表する前年、アメリカではマルクス兄弟やアステア&ロジャースが活躍していた。日本では戦争の匂いが漂い決して世の中は明るくなかった。この作品はそんな世の中を少しは元気付けたのかもしれない。

 そんな人々を明るくする作品を作り上げた山中貞雄は小津をも凌ぐ天才と言われながらわずかな作品を残して(完全な形で残っているのはわずか3本)戦争の犠牲となってしまった。この不朽の名作を見れば映画のすばらしさを感じることができるが、同時に戦争の悲しさ、虚しさをも感じてしまう。

 映画というのはただ見て楽しむことができればそれでいいのだが、私にとって山中貞雄の作品だけはどうしてもそうは行かない映画だ。面白ければ面白いほど哀しみが付きまとう、そんな作品なのだ。

大悪党

1967年,日本,93分
監督:増村保造
原作:円山雅也
脚本:石松愛弘、増村保造
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:田宮二郎、緑魔子、佐藤慶、倉石功

 洋裁学校に通う芳子はボーイ・フレンドに別れを告げた。そのとたん声をかけてきた男・安井は芳子に酒を飲ませ、マンションに連れ込んだ。翌朝目を覚ました芳子はほうほうの体で家に帰るが、そこに芳子のヌード写真を持った安井が現れる…
 「妻は告白する」につづき、円山雅也の小説を映画化。緑魔子が妖しい魅力を発散し、田宮二郎も魅力全開。増村らしい非常にウェットな映画。騙し騙され誰が本当の「大悪党」か?

 これはドロドロ。相当ドロドロ。プロットについては言うことなしです。人間の暗部をぐさりとえぐる増村らしい辛辣な物語。きれいに複線を張って物語を二転三転させる。しかも見ている側の神経を逆撫でするような残酷な物語展開がすごい。冷酷非常なプロットに怒りさえ覚えてきてしまいます。これは我々が勧善懲悪な映画を見すぎているせいなのか、それとも増村がサディスティックなのか?この映画を見て思ったのは、我々がいつも見ている映画というのがいかに平和かということ。結局我々は「正義が勝つ」と思って映画を見ている。この映画も結局正義が勝つのだからその思いは間違っていないのだけれど、それでも一度は「もしかしたらその期待は裏切られるかもしれない」という思いを抱かせるのがこの映画の力。やはりそれは田宮二郎の顔半分笑いとギラギラした目に潜んでいるのか?
 なんだか謎めいた書き方になってしまいましたが、この映画が提示する「悪」の概念というのは相当興味深いのです。結局のところ誰が「大悪党」なのか?ある意味では全員が。あるいは3人のうちの誰でもいい1人が。それは「悪」というものの取りかた次第。漫然と見ると我々は緑魔子演じる芳子に自己を同一化させていくので、安井こそが「悪党」であり、得田は味方。しかし、芳子の立場に立ったとしても人殺しをさせた得田は安井を上回るほどの「大悪党」でありうるし、むしろ自分こそが本当の「大悪党」であると胸を張ることさえ出来るかもしれない。

妻二人

1967年,日本,94分
監督:増村保造
原作:パトリック・クェンティン
脚本:新藤兼人
撮影:宗川信夫
音楽:山内正
出演:若尾文子、岡田茉莉子、高橋幸治、伊藤孝雄、江波杏子

 雑誌社に勤める柴田健三はタクシーの故障で立ち往生し、近くのスナックに立ち寄った。そしてそこでかつての恋人順子と出会う。昔小説家志望だった健三は順子の紹介で原稿を持ち込んだ雑誌社の社長令嬢に見込まれ、社員となり、さらにはその令嬢と結婚したのだった。それから幾年かの月日が流れていた…
 ミステリーとしての要素と男女の愛憎劇としての要素が共存する増村らしいドラマ。ミステリーとしての要素が強いが、なんといってもすばらしいのは若尾文子と岡田茉莉子の二人。

 もっとどろどろとした愛憎劇が繰り広げられるのかと思いきや、むしろミステリーとしての要素のほうが強い。これは若尾文子演じる道子のキャラクターが増ターらしい強さと激しさを持っているのだけれど、表面に出てくる部分では非常に理知的である。だからあまりドロドロとしない。
 しかし、ミステリーとしてはなかなか優秀で、バランスが取れた作品ということが出来るのだろう。しかし、増村ファンとしてはもっと壊れた、何か奇妙なものが見たいので逆に不満感がたまる。
 さらにしかし、この映画の二人の女性はすごくいい。若尾文子はもちろんいいけれど、岡田茉莉子がそれほど多くない出番でものすごい存在感をみせつける。これに対比される二人の男があまりにさえないというのも二人を引き立てる要素となっているのだろうけれど、それにしても二人がすごい。決して表面的に対立・対決することはないのだけれど、その穏やかな対面のシーンでいろいろなことが頭をよぎる。若尾文子の凛とした表情と岡田茉莉子のはにかんだような微笑。この対面の瞬間にこの映画の魅力は凝縮している。

 それにしても、二人の男がさえないのは増村の計算だろうか? 最初、高橋幸治が棒読みセリフで登場したとき「絶対この人は主人公じゃない!」と思ったが、まんまと主人公で、最後まで棒読みで通し切ってしまった。私はこれは増村の計算だと思う。この役者さんは馴染みがないのでわからないけれど、増村作品によく出てくる人では川津祐介あたりが棒読み系。

華岡青洲の妻

1967年,日本,100分
監督:増村保造
原作:有吉佐和子
脚本:新藤兼人
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:市川雷蔵、若尾文子、高峰秀子、伊藤雄之助、杉村春子(語り)

 田舎の武家の娘である加恵は近くの田舎医者・華岡直道の評判の妻であるお継に憧れを抱いていた。華岡家に妻にと請われた加恵は父の反対を押し切って華岡家に嫁いだ。最初は仲睦まじくやっていた加恵とお継だったが、留守にしていた夫の雲平(青洲)が帰ってくると、徐々に関係に変化が現れてくる…
 江戸時代の実在の医者華岡青洲を描いた有吉佐和子のベストセラー小説の映画化。とはいっても増村色はかなり色濃く、物語も映像もまぎれもなく増村保造という作品。

 物語が増村的であるのは、結局のところこの映画が1人の男を巡る2人の女の戦いという要素に還元できるからだろう。そういった状況での女の激しい愛情というものは増村が繰り返し描いてきたことであり、それが舞台が江戸時代となり、二人の女の関係が嫁と姑となったところで本質は変わらない。そのような物語だからこそ、そのように描ける自信があったからこそ、増村は映画化を熱望したのだろう。
 映像が増村的であるのは、やはり構図。構図に工夫が凝らされているのはいかにも増村らしい。しかし、この映画が他の映画と少々異なっているのは、3人以上の人がいるシーンが多いということ。増村の映画は全体的に見てみると、2人の人間を描いた場面が多い(ような気がする)。しかし、この映画は3人以上(特に3人)の人間を描く場面が非常に多い。そこでは2人の場面とは明らかに異なる構図の工夫がなされている。そしてそれは、会話をしている二人と、しゃべっていない1人の位置関係という形で特にあらわれる。後姿の青洲をはさんで(これによって画面は完全に二分割される)話す加恵とお継を配したシーンや、画面の右半分の手前でしゃべる加恵と青洲に対して、左側の奥でじっと座っているお継を描いた場面などがそれであるが、このときの会話に参加していない一人の存在が非常に面白い。わかりやすく表情で語らせる場面もあるが、ただの背中や表情の変わらない横顔であっても、それが語ることは非常に多く、物語を視覚的に展開させていくのに非常に効果的だ。
 個人的にはこれはかなりいいと思います。静かな映像の中に凝らされた工夫というのはかなり好み。

やくざ絶唱

1970年,日本,92分
監督:増村保造
原作:黒岩重吾
脚本:池田一朗
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:勝新太郎、大谷直子、田村正和、川津祐介

 幾人かの舎弟をしたがえるやくざ立松実は妹のあかねと暮らしていた。妾だった母が死んでからずっとあかねを育ててきた実はあかねに並々ならぬ愛情を注いでいた。しかし、そのあかねももう高校を卒業する年齢になっていた…
 「兵隊やくざ」いらいの増村保造と勝新太郎のコンビ。体裁はやくざ映画だが、内容は増村らしい愛憎劇。兄弟の間の愛情を描いたという意味では「音楽」に通じるものがある。役者陣もかなり興味深く、増村節も効いているなかなかの作品。

 まずタイトルまでの一連の場面が音楽とあいまって絶品。これから始まるものへの期待をあおるだけのものはここにある。始まってみればテンポよく、中盤あたりまではするすると進んでゆく、このあたりは増村らしさを見せつつも、「やくざもの」というジャンルに当てはまるような映画として出来ている。しかし、結局この映画の真意はそこにはないので、後半はどろどろ愛憎劇へと変化していく。このあたりの展開がいかにもな感じでいい。
 などなど、かなり物語として非常に楽しめましたが、映画としてはどうかというと、増村の映画というよりは勝新の映画。勝新を中心とした役者さんたちが圧倒的な存在感を持つ映画。なので、他の増村映画のように構図とか、繋ぎとかいうことにあまり注意が向かない。もう一度見れば細部に気が回るのだろうけれど、一度見ただけでは(わたしには)ムリ。
 そんな増村映画もたまにはあっていい。やはり勝新はすごいのか。あるいは勝新の映画になるように増村が仕組んだのか?

音楽

1972年,日本,104分
監督:増村保造
原作:三島由紀夫
脚本:増村保造
撮影:小林節雄
音楽:林光
出演:黒沢のり子、細川俊之、高橋長英、森次浩司

 精神科医汐見のところにやってきた女弓川麗子は「音楽が聞こえない」と言い出す。しかし、麗子はやってくるたびに話がころころ変わり、的を得ない。それでも汐見は徐々に麗子の症状の核心を探っていく。
 大映を出た増村保造が行動社とATGの製作で作ったフィルム。十数年振りにスタンダードサイズの画面を使い、これまでとは異なる映画を作り出そうとしている野心が感じられる作品。

 ちょっと全体的にストーリーに現実味がないのが気になる。なんといっても精神科医汐見の診察や診断の仕方が素人目に見ても素人くさいのがどうにも気になる。こういう細部が気になるとどうしても入っていけないのが映画の常。乗りに乗っている増村映画なら、そんな些細な細部の齟齬は勢いで吹き飛ばしてしまうのだけれど、この映画にはその勢いが足りない。映画のスピードとしては決して遅くはないのだけれど、そのスピードが負うべきプロットに齟齬が起きてしまっているので、どうしてもスピードに乗り切れない。そのあたりがちょっと不満なわけです。
 しかし、黒沢のり子はなんだか渥美マリみたいで(話し方もかなり似ている)、増村好みの質感がよく、演技もオーバーではあるのだけれど、いかにも増村世界の住人という感じがしてよかった。細川俊之はやや難。
 そして、こういうどろどろ系のドラマでスタンダードサイズというのが最後までどうもしっくりこなかった。横に広く使う増村らしさが出せないよ! と憤ってみたりもする。なぜなのだろう? 増村自身の試みなのか、それともATGの目論見が含まれているのか?
 などなど、増村ファンには疑問の尽きない作品でしょう。