機動戦士ガンダム3 めぐりあい宇宙篇

1982年,日本,141分
監督:富野喜幸
脚本:星山博之
音楽:渡辺岳夫、松山祐士
出演:古谷徹、鈴置洋孝、古川登志夫、白石冬美

 激しくなるジオン公国と地球連邦軍の戦い。シャア率いるザンジバルとの戦いを逃れたホワイトベースは中立コロニー・サイド6へ。くしくもザンジバルも同じコロニーに寄港していた。ホワイトベースを迎え撃とうとサイド6を取り囲むジオンの艦隊。
戦争に影響を与え始めた「ニュー・タイプ」。果たして勝つのはジオンか連邦か。 TVシリーズ「機動戦士ガンダム」の映画化第3弾。31話から最後までをダイジェストにする形でシナリオを練り直した作品。

 物語は佳境で、様々な人間関係が渦を巻く。シャアとセイラ、ブライト・ミライ・スレッガー、知らない人には何の事やらわからないかもしれませんが、この当たりの人間ドラマがガンダムの真の面白み。終盤はジオン側でもザビ家を中心とした人間関係の相克を見ることもできます。
 しかし、逆に前半と比べるとモビルスーツやモビルアーマーが次々と登場し(特にジオン)、ここのものに対する魅力が減じてしまうかもしれない。その当たりが少々不満ですが、やはり最後ア・バオア・クーでは感動するしかありません。ああ、やっぱりガンダムっていいわ。
 今回見て思ったのは、「ニュー・タイプ」というのはかなり面白い。単なる突然変異なのかもしれないけれど、必ずしも均一に強さではない。ある意味では強度の違う変異が同時的に起きるという異常事態。ブライトは「そんな都合よく人間変われない」というけれど、そんな無頼とが思いを寄せるミライ・ヤシマも少しニュータイプの気があったりするわけです。ララァとアムロを頂点として様々な段階のニュータイプがいる。うーん、不思議。遺伝学的にどうなのだろう、それは。
 未来史の捉え方なども考えつつ、まだまだ物思いにふけることができる。

陸軍中野学校 竜三号指令

1967年,日本,88分
監督:田中徳三
脚本:長谷川公之
撮影:牧浦地志
音楽:池野成
出演:市川雷蔵、安田道代、松尾嘉代、加東大介

 第二次大戦中、大陸へ和平交渉のため派遣されるはずだった陸軍の高官が何者かに襲われ殺された。陸軍中野学校の草薙中佐はその事件の背後には大陸の陸軍内にいるスパイが絡んでいると考え、椎名を大陸へと派遣することにした。
 人気シリーズ「陸軍中野学校」の第3作。主役はもちろん市川雷蔵。毎回変わるヒロイン、今回は安田道代。

 全5作あるシリーズの3作目。シリーズとしてのパターンも確立され、安心して見れる反面、新鮮さはかけるというのは仕方のないところ。早川雄三演じる大陸の将校のような中野学校に対して何らかの反感を持つキャラクターがいるというのも一つのパターンとして面白い。
 映画としては結局みいってしまうよくできたサスペンスという感じで、日本映画ではなかなかスパイものというのは少ない中、かなりがんばっているという感想です。映像は職人監督田中徳三らしく、盛り上げるところは盛り上げるきちっとした演出が生かされたものになっています。市川雷蔵にすっとよるクローズアップが印象的でした。カメラマンの牧浦地志が「眠狂四郎」シリーズのカメラマンということなので、市川雷蔵とはじっ魂の仲ということでしょうか、第1作目の小林節雄に負けないいい映像を作り出しています。知らなかったなぁこの人。どんどんマニアックな知識になっていきますが、戦前に阪妻の主演で作られた雄呂血をこの3人(市川雷蔵‐田中徳三‐牧浦地志)のトリオでリメイクしているらしい。ちなみに「眠狂四郎」シリーズ一作目の監督も田中徳三です。
 と、相当マニアックな話になってしまいましたが、それだけ市川雷蔵を撮るのになれたスタッフによって撮られた作品ということです。その分増村の作品とは違って、市川雷蔵ひとりにスポットライトを当てた形の作品になったのでしょうか。そして印象的なクロースアップ。

黒い十人の女

1961年,日本,103分
監督:市川崑
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
出演:船越英二、山本富士子、岸恵子、宮城まり子、中村玉緒、岸田今日子

 夜道を歩くひとりの女。それを追いかける8人の女。ひとりの男・松吉を巡って8人の女は1人の女をつるし上げる。事の起こりはテレビ局のプロデューサーである松吉がたくさんの女と付き合っていたことだが、女たちもいつからか互いに知るようになり反目しあったり松吉の悪口を言い合ったりするようになっていた。
 豪華女優陣を使って1人の男と10人の女の愛憎劇を描くという壮大な映画。なんといっても唯一の男性船越英二の演技が秀逸。市川崑監督の代表作のひとつでもある。

 この映画はすごいです。60年代に入り、モダニズムが勃興し… という日本映画のちょっとした歴史に符合するようにモダニズムの空気が流れています。といっても斬新な画面の連続というわけではなく、ぱっと見た構図の妙が非常に美しい映画。有名な「十人の女が浜辺で船越英二を取り囲む」シーンなどはやはり非常に美しいです。そしてシネスコの画面の使い方が見事なのはやはりカメラマンが小林節雄だからでしょうか。増村映画をやったときに何度もいいましたが、小林節雄のシネスコの画面のつぶし方はすごいのです。この映画でも登場人物を偏らせて撮るカットはやはり面白い。小林節雄の定番、画面の前に遮蔽物を置いて画面の半分くらいを殺してしまう構図も出てきます。
 そして、なぜとはなく引き込まれてしまうプロットがこの映画の魅力。謎らしい謎もあまりないのに引き込まれてしまうのはやはり船越英二の煮え切らなさと十人の女(主には5人)のキャラクターのなせる技でしょう。ここからもっともっと話を膨らませてもう5本くらい映画が作れてしまいそうなそれくらいの濃さですから、それを2時間に押し込めてしまえば面白くないはずがない。ちなみに、十人の女たちは皆数字を絡めた名前になっているのですが、1が山本富士子(双葉)ではなくて、岸恵子(市子)であるというのも意味深な感じ。11人目になるか?と思わせた女が「百瀬桃子」というのもなかなか面白いところ。
 などなど不朽の名作ということはできませんが、いろいろな意味で面白い作品でした。伊丹一三とか、クレイジーキャッツなんかも出ているし。なんでも大映映画の何十周年かの記念作品らしいです。

女の中にいる他人

1966年,日本,100分
監督:成瀬巳喜男
原作:エドワード・アタイヤ
脚本:井出俊郎
撮影:福沢康道
音楽:林光
出演:小林桂樹、新珠三千代、三橋達也、若林映子、草笛光子

 思いつめた顔をした男・田代。ひとりカフェに入り、ビールを飲んでいると偶然友人・杉本が通りかかった。鎌倉に住む古い友人同士の2人はそろって鎌倉の行きつけのバーに行く。そこで杉本は妻さゆりが事件にあったと聞かされ、東京にとんぼ返りした。田代はひとり家に帰るが…
 成瀬巳喜男の晩年のストレートなサスペンス映画。

 基本的にスリルを楽しむサスペンスというよりは、人間の心を描こうとしている作品だとは思う。もちろん表情やしぐさから感情の動きは存分に伝わってくるのだけれど、それが過ぎると物語としての面白みが削られてしまう。人々の表情やしぐさから伝わってくる感情や考えというものは物語と絡み合って、サスペンスならではの観客の意識に微妙な揺れを生み出すからこそ意味があるのであって、タダひたすら「我」を言葉なしに語ってしまうだけでは意味がない。
 しかしさすがに巨匠といわれる成瀬巳喜男、映画の作りにそつはなく、特にカットとカットのつなぎ方があまりにスムーズ。あまりに自然なので、するすると目の前を通り過ぎていってしまうけれど、よく見てみればこれほどのよどみない繋ぎを生み出すのは至難の技なのだろうなと感心する。それは専門技術的なことではなくて、単純にカット同士の繋ぎに違和感がないということ。1つのシーンを見ても果たしてそのシーンが1カットだったのか複数のカットからなっていたのか一瞬わからないくらいの自然さ。おそらく全編を綿密に見れば、いろいろなつなぎ方で見事な流れを作り出しているのでしょう。
 そんな巨匠ならではのすごさも感じつつ、サスペンスとしては「並」と判断せざるを得ません。小林桂樹が悪いわけではないのでしょうが、ちょっと眉間にしわを寄せすぎたか。

メトロポリス

2001年,日本,100分
監督:りんたろう
原作:手塚治虫
脚本:大友克洋
音楽:本多俊之
出演:井元由香、小林桂、富田耕生

 巨大都市メトロポリス、そこではそれを象徴する「ジグラット」の式典が行われていた。メトロポリスを事実上支配するレッド候は国際手配犯である科学者のロートン博士に巨額の資金を払って一体のロボット“ティマ”を作らせていた。その時、そのロートン博士を追って日本から探偵の伴俊作と甥のケンイチがやってきていた。
 手塚治虫の短編を大友克洋が戯曲化し、りんたろうが監督したという豪華な作品。その期待にたがわず豊穣な世界がそこには描かれている。本多俊之の音楽も秀逸。

 やはりアニメはこうじゃなくっちゃ。「アイアン・ジャイアント」もたしかに面白いけれど、あの単純さはやはり子供向けという観を免れない。それに比べてこの映画はすごい。勧善懲悪に表面的には見える(表面的にも見えないかもしれない)その実は非常に哲学的な善と悪の概念が交錯する。果たしてなにを「悪」とみなすのか。それが問題なのである。
 ここに出てくる登場人物たち。ロック、レッド候、アトラス、彼らは異なるものを「悪」と考えていた。その様々な「悪」に対して絶対的な「善」なるものが存在するのか。純粋無垢な存在であるケンイチとティマはその「善」なるものになれるのか?
 解釈的にあらすじを述べるとそういうことだと思います。かなり物語へのひきつけ方もうまく、キャラクターも素晴らしい。特にロボットの描き方はすごく面白い。映像はそれほど「すげえ!」ということはありませんが、やはり完成度は高いと思いました。
 そしてそして、個人的には音楽の使い方がすごくいいと思いました。デキシーランドジャズ風(でいいのかな?)を中心にジャズナンバーをうまく使う。こういう叙事詩的なものを描くとどうしてもクラッシックを使いたくなるものですが、そこをジャズで行ったというところは素晴らしいし、映像と音楽の兼ね合いがまた素晴らしい。ラスト前のあのシーン(ネタばれ防止のためシーンはいえない)にかかる曲(そして曲名もわからない)。何のことやら分かりませんが、そこだけを切り取っても一つの作品となりうるような素晴らしさでした。

ツィゴイネルワイゼン

1980年,日本,145分
監督:鈴木清順
脚本:田中陽三
撮影:永塚一栄
音楽:河内紀
出演:原田芳雄、大谷直子、藤田敏八、大楠道代、磨赤児

 汽車で旅をする男は列車で琵琶を持った盲目の三人組を見かける。鄙びた駅で降りたその男・青地は偶然そこで殺人の嫌疑をかけられているみすぼらしい格好の元同僚・中砂にであった。うまく中砂を救った青地は中砂とともに橋のたもとで列車で見かけた盲人の三人組を見かけた。二人は地元の料亭へとゆき、小稲という芸者と出会う…
 日活を追われた鈴木清順が復活を遂げた一作。清順らしい不条理な世界観と磨き抜かれた映像センスがすばらしい。

 鈴木清純らしい代表作といえば、「陽炎座」か「ツィゴイネルワイゼン」というイメージが付きまとうくらいの代表作ですが、初期のハチャメチャさとくらべるとかなり落ち着いているというか、洗練されている感じがする。
 一番凄さを感じたのは、終盤の大谷直子の登場シーン。たびたび青地のところを訪ねてくる小稲は常に薄暗いところに立つ。上半身は明るく、足下は暗くて見えない。しかし、ライティングを感じさせないその明るさのグラデーションが凄まじい。これは照明技師(大西美津雄)の技量によるところが大きいだろうけれど、それを撮らせてしまう清順のセンスもやはり凄い。
 そんな映像の凄さに圧倒され続け、あまりプロットにかまけることができないくらい。しかし、物語の核のなさというのも、個人的には非常に好きな点で、その点、この映画もいろいろなエピソードが絡みあいそうで絡み合わないまま、なぞを残しつつ進んでいくところが中々。
 この映画はおそらく一度見ただけで語るのは失礼なくらい凄い映画だと思うので、あまり語らず、また見に行きたいと思います。

幕末太陽傳

1957年,日本,110分
監督:川島雄三
脚本:田中啓一、川島雄三、今村昌平
撮影:高村倉太郎
音楽:黛敏郎
出演:フランキー堺、左幸子、南田洋子、石原裕次郎、芦川いづみ

 幕末の品川、南の遊郭街として知られた品川の一軒の女郎屋相模屋に居座る高杉晋作。そこに、どこの馬の骨とも知れない佐平次なる男がやってきて派手に飲み食いし、滞在していた。高杉は仲間の侍とともに異人館の焼き討ちを計画、しかし女郎屋への借金はかさむ一方…
 侍とおかしな町人と女郎達が繰り広げる群像劇。フランキー堺のキャラクターがなんといっても面白い。出演人も後にスターとなる人たちが多数出演の豪華版。川島雄三の代表作の一つ。

 軽妙な川島映画の典型のような時代劇。松竹時代から川島映画に多数出演してきたフランキー堺はここでも抜群のキャラクターを発揮している。全体としてすごく軽い感じで、時代劇らしさも昔の映画という感じも一切ない。
 川島雄三というのは不思議な監督で、映画を見るたびに全く違う感じがして、何が川島雄三らしさなのかということは一向に見えてこない。この映画から感じるのは、何気なくリズムよく進んでいくこの映画にあふれる映像センスというか、計算し尽くされた映像というよりは作るほうもテンポよくセンスで作ってしまったように感じられる映像のすごさ。とおりを横切りながら伸びをする犬とか、飛び込む前はものすごく勢いよく流れていたのに、飛び込んだとたんに凪いでしまう海とかそんな細かい部分の何気ない配慮。小難しく構図がどうとか繋ぎがどうとか言うことを意識させないあたりがやはり監督のセンスなのかと感じさせる。
 ところで、川島雄三といえば有名な遊び人だったということなので、こんな女郎屋ものはお手のものというところでしょう。もしかしたら、実際に通ってた遊郭にヒントになるような人がいたんじゃないかと邪推してしまう。

雁の寺

1962年,日本,98分
監督:川島雄三
原作:水上勉
脚本:舟橋和郎、川島雄三
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:若尾文子、三島雅夫、木村功、高見国一、中村鴈治郎

 時代は昭和の初期、京都の襖絵師の妾をして暮らしていた里子だったが、その襖絵師が亡くなり、ゆくあてもなくなった。しかしその襖絵師南嶽が世話になっていた禅寺の住職に囲われることになった。その寺で暮らし始めた里子だったが、その寺には無口で奇妙な小坊主慈念がいた。
 変幻自在の映画監督川島雄三が大映で撮った3本の作品のうちの一本。軽妙な川島のイメージとは裏腹な重苦しい物語に若尾文子の妖艶さが加わってかなり見応えのある力作となっている。

 本当に川島雄三という監督は変幻自在で、どんな映画でも撮れるというか、撮るたびに違う映画を撮るというか、不思議な監督である。フランキー堺などを起用したコメディが川島流かと思いきや、ここでは重厚な作品を撮る。
 この映画は物語りもかなり重く、淫靡で暗澹としているが、映画としてもかなり見応えがある。川島としても晩期の(といっても夭逝の作家なのでそれほど歳ではないが)作品で、完成度は高い。特に映像面ではぐっと心に刺さってくる映像が度々出てくる。最初にぐっときたのは慈念が肥汲みをしている場面、肥溜めの汲み出し口から慈念を写す映像なのだが、その思いもがけない構図に驚かされる。今になって思えば、この場面のような普通では用いられない視点がこの映画には数多く出てくる。その違和感がこの映画にテンポ(重いテンポ)をつけ、映画へと入り込むのを容易にしている。
 この映画は、結果的に慈念が主役的な役割を演じるようになるわけだが、そのプロットの持っていき方(ネタばれになるので内容は言わない)と映像の変化のつけ方がともにラストに向かって緊張感をましていく。そして最後(エピローグ前)に非常に芸術的なラストが待つ。このもっていき方は本当に感心。最後のエピローグは個人的にはちょっとねという感じだが、これが川島流という気もする。まあ、それは置いておくとすれば、最後にくっと心をつかまれて、「いや、よかった」と言わざるを得ない映画になったと思う。

人狼

2000年,日本,98分
監督:沖浦啓之
原作:押井守
脚本:押井守
撮影:白井久雄
音楽:溝口肇
出演:藤本義勝、武藤寿美、木下浩之

 大きな戦争が終わり、10数年がたったころ、日本のような国の東京のような場所、自衛隊、自治警察、首都圏警察という3つの警察組織が存在していた。首都圏警察は甲冑に身を固めた特殊部隊。そんな武装化に対抗するかのように反政府勢力も先鋭化しゲリラ化していた。
 異なった歴史の道筋を描くという一つのSFのパターンをアニメ化した映画。いまやアニメにとどまらず、様々な活動を繰り広げる押井守が原作と脚本という作品。

 はっきり言ってSFとしては劣悪だ。ありえない過去を描くという発想はSFにとって無益だと思う。それが起こる可能性があったというだけのことで、物語を構築し、そこに何らかの教訓を見出せるほどわれわれは自己批判に積極的ではない。
 この物語自体は、押井守が「ケルベロス」などで描いてきた世界の延長にあるのだろうけれど、私はこういうディストピア(ユートピアの逆)的な世界観は気に入らない。ナレーションに頼る長い導入部というのも気に入らない。
 確かに映像としては、昔ながらの古風な平面アニメーションであるようで、光や透明感の出し方が非常に秀逸で、目を見張るものはある。特に光と影の表現は秀逸。画自体は非常に平面的なのに、光の強弱と影の作り方で奥行きを作り出しているところはかなりすごい。
 これだけいいアニメーション(映像という意味)を作りながら、どうしてこんな退屈な物語を作ってしまったのか、とかなりの疑問が湧いてくる作品。登場人物の無表情さもおそらくアニメのパターンを壊そうという演出なのだろうけれど、それによって人物の深みが奪われてしまっているような気がする。
 やはり、こういうアニメーションを見ていると、アニメはマニアのものというところから脱しきれていないような気がしてくる。マニア向けということもないのだろうけれど、アニメをアニメとして気構えて見ないと、この世界にはのめりこめないと思う。

DISTANCE

2000年,日本,132分
監督:是枝裕和
脚本:是枝裕和
撮影:山崎裕
出演:ARATA、伊勢谷友介、寺島進、夏川結衣、浅野忠信

 カルト教団が水道水にウィルスを混ぜ、多数の被害者を出す事件がおきてから3年。3年目のその日、年齢も職業もばらばらな4人が事件の起きた貯水池へと向かう。彼らは事件を起こした後死んでしまった加害者の遺族達。彼はそこで元信者に出会った。
 監督3作目にしてすでに評価の定着した是枝監督は、淡々とした中に複雑な思いを織り込んだ物語をつむぐ。この映画もそんな味わいの作品。
 「グループ魂」でおなじみ大人計画の村杉さんも出演。

 いくつかのテレビドキュメンタリーを手がけてきた是枝監督ならではのドキュメンタリー要素を取り込んだ作品。カメラマンもTVドキュメンタリーで有名な山崎裕を「ワンダフル・ライフ」に続いて起用。手持ちカメラの映像がドキュメンタリーらしさをさらに演出する。
 私はいつも最近のいわゆる「ドキュメンタリータッチ」を毛嫌いしていますが、この作品は違う。ドキュメンタリーとフィクションの違いとわれわれが思う一番多い要素はドキュメンタリーの予測不可能性で、シナリオがないドキュメンタリーでは計算どうりに映像を作り上げることはできないということである。いわゆるドキュメンタリータッチのフィクションの多くはその予測不可能性を演出によって作り出そうとすることでそこに幾らかの「うそ臭さ」が漂ってしまう。
 この映画は脚本の時点で細かいセリフやカメラ割の指定を排除することで、予測不可能性を作り出す。つまりカメラを回し始めるとき、そこで何が起こるのかの予測が不可能であるわけだ。もちろん、設定や人物の位置や動くタイミングなどは決められているし、うまく取れなければ取り直しをするということだろうが、ここで実現されるのは意外性のある映像である。
 監督の頭の中で作品が組み立てられ、その要素をとっていくという典型的なフィクションの手法はここでは取られない。ある種の意外性が監督の頭の中のイメージに付加されていくことで映画自体に様々な価値が加わってくる。これは是枝監督がドキュメンタリーとフィクションを融合させるということを実現させつつあることの証明なのかもしれない。
 前もってドキュメンタリーであるかフィクションであるかを告げられない限り、単純に見ただけではその区別をつけることは難しい場合がある。つまりフィクションとドキュメンタリーの間には映画としての絶対的区別は存在しない。そのそもそも存在しないはずの区別によって意味もなく分類されているドキュメンタリーとフィクションというの境界を消滅させつつあるのがこの映画なのかもしれない。