冒険者たち

Les Aventuriers
1967年,フランス,110分
監督:ロベール・アンリコ
原作:ジョゼ・ジョヴァンニ
脚本:ロベール・アンリコ、ジョゼ・ジョヴァンニ、ピエール・ペリグリ
撮影:ジャン・ボフェティ
音楽:フランソワ・ド・ルーべ
出演:アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ、ジョアンナ・シムカス

 飛行機乗りのマヌーとレーシングカーに熱中するローラン。2人は大の親友で、いつもローランの家のガレージに入り浸る。マヌーは頼まれた仕事で凱旋門を飛行機でくぐるという計画を立てていたが、失敗し免許停止に。ローランも開発していた車が爆発し無一文になってしまった。そんな2人にコンゴの近海に宝が沈んでいるという話が転がり込んで…
 2人の男とひとりの女。そんなフランス映画にありがちな設定ながら、とても繊細で爽やかなドラマ。とてもソフトないい雰囲気を持つ映画。

 フランス映画はかくありなむ。ちょっとまえまでフランス映画といえばこんな感じでした。美男美女に海に水着に… そしてこの映画はそんなフランス映画らしいフランス映画としての完成度は高い。2人の男とひとりの女の関係を描くという、ある意味古典的な題材をプロットの中心には据えずにさらりと描く。本当はそれこそが映画の最大のテーマであるかもしれないけれど、あくまで控えめにという姿勢がいい。その抑えた感じがハリウッドと比較したときのフランス映画のイメージなのかもしれません。
 それにしても、映画にフランスらしさがあるというのは不思議なこと、同じように日本映画らしさとかハリウッド映画らしさとかイラン映画らしさとかがある。そのことは前々から疑問でした。この監督だって「よし!フランス映画らしい映画を撮るぞ!」と決めて映画を撮っているわけではないはず。意識しなくてもそういう映画になってしまう。逆にフランスでハリウッド映画っぽい映画を撮ろうとしたら「ハリウッド映画っぽく撮るぞ!」と決めないと撮れないような気がする。この映画の「国民性」というのはすごく不思議です。憶測では各国の映画製作のシステムが影響を与えているのでしょう。インディペンデントで作られた映画のレベルでは製作国による違いはそれほど明確ではない気がします。あるいはインディーズ系と呼ばれる監督達はそのレベルを超えようとしています。アキ・カウリスマキの映画は「日本映画」のジャンルに入ると誰かがどこかで言っていましたが、そういうようなこと。ジム・ジャームッシュだってアメリカ映画ではないと思う。しかし、そうして「国民性」のレベルを超えようとしているということは逆にまだ超えるべき境界が存在することを意味し、どこからそんなものが生まれるのかという疑問は解明されないのです。
 今日もまた話がすっかりそれてしまいましたが、これはなかなか興味深い問題だと思いませんか?
 さて、映画に話を戻しますがこの映画「冒険者たち」という題名のわりには、映画に起伏が少ない。比較的淡々と物語りは進み、いくつかの山場はあってもたたみかけるような勢いはない。といってもそれが悪いといっているわけではなくて、うららかな午後のひと時に何人かで紅茶でも飲みながら見たりするのには適していると思います。しかし、それは絶対にこの映画でなければいけないというのではなくて、そんなシチュエーションに適した一本でしかない。その「弱さ」が気になります。しかし、しかし、そういう映画も必要で、そういう映画をストックしておけば、たとえば気分に適したCDをかけるように、気分に合わせて映画を見るということができたりします。頭の中に入れておいて、友達がきたときにレンタルビデオ屋で借りてきたりするといいでしょう。

 それが「映画を日常に」ということ。かな。

春のソナタ

Conte de Printenmpsr
1989年,フランス,107分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:リック・パジェス
音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ
出演:アンヌ・ティセードル、フロランス・ダレル、ユーグ・ケステル

 ジャンヌは研修のためパリにやってきた従妹に部屋を貸し、自分は出張中の彼氏のアパートで過ごしていた。従妹が帰るはずの日、従妹の部屋に行くと従妹とその彼氏がまだ家にいた。従妹の滞在が伸び、ジャンヌは彼の部屋に戻ることに。その夜、気が進まない友だちのパーティーでに行ったジャンヌはそこでナターシャという少女に出会い、その娘の家に泊まることになった…
 エリック・ロメールの「四季の物語」の第一作。恋愛を巡る心理の行き来が興味深く、少々哲学的というフランス映画らしい物語。

 なんてことはないはないですが、考えていることをすぐに言葉にして表現するというのがなんとなくフランス映画っぽい。それも感情的な言葉ではなく、思弁的な言葉をさらりといってしまう。それが恋愛に関わることであってもそう。この映画も物語を進めていく中心にあるのは会話であって、登場人物たちが発する言葉である。
 言葉と映画の関係について考えてみる。映画はやはり映像の芸術で、エンターテイメントだから、言葉は不可欠な要素ではないと思う。だからサイレント映画だって面白い。しかし、このように言葉が重要な要素として使われるのも面白い。それはヌーヴェル・ヴァーグに特徴的な話なのだろうか?(不勉強ですみません)確かにゴダールも言葉に非常に意識的な作家だし、ヌーヴェル・ヴァーグからなんだろうなという気もする。
 言葉を使うことで映画は曖昧になる。受け手に任される要素が大きくなる。それは意味の伝わり方が映像よりも曖昧だから。受け手の素養によって伝わり方が大きく違ってくる。たとえばこの映画ででてきた「超越的と超越論的」というものの違いを理解できる人がどれだけいるのか? わからないものとして無視するか、当たり前のように理解するか、中途半端に理解していてそこでつまずくか。私はそこでつまずいて映画においていかれてしまいましたが、それで映画の見え方が違ってくると思う。
 映像だってもちろん受け手によって捉え方は違うのだけれど、イメージのままで植え付けられる分、個人差が少ない気がする(あくまで気がするだけ)。なので、ヌーヴェル・ヴァーグ以降のフランス映画のちょっと難しいものというイメージもまんざら間違っていない気がする。それは見る人によって見え方が違ってくるもの、イコール定まった答えがないものということ。本当はその方が自由でやさしい映画であると私は思うのですが。

夏物語

Conte D’Ete
1996年,フランス,114分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:フィリップ・エデル、セバスチャン・エルムス
出演:メルヴィル・プポー、アマンダ・ラングレ、オーレリア・ノラン、グウェナウェル・シモン

 ガスパールはバカンスを過ごすため、友人の家を借りてディナールへやってきた。街をぶらぶらとしてクレープ屋へよった彼は翌日一人海へ行き、そのクレープ屋でバイトをする女の子と出会い、仲良くなる。どことなく人待ち顔のガスパールは実は思いを寄せるガールフレンドを探していて…
 エリック・ロメールの「四季の物語」シリーズの3作目。1人の男と3人の女を描いたロメールらしいラブ・ストーリー。

 エリック・ロメールの映画というと、私ははずれはないけれど大当りもないというイメージがあります。しかしそんな中でこの映画はかなり好きなもの。四季の中でも一番でしょう。
 ロメールの作品は遠目のショットが多い。大体が人物の全身がすっぽり入る感じ。だから画面の大部分を占めるのは風景ということになり、それがロメールらしい味わいとなる。この映画でも、印象に残るのは、海・空・浜・山、人物よりは風景だと思う。それがロメールの爽やかさ、おしゃれな感じにつながっているのでしょう。
 さて、そんなことよりもこの映画が素晴らしいのはその詩情。どうにも優柔不断な男であるガスパールのキャラクターは男なら誰もがどこか引っかかる自己像だと思う。女性でもそんな男にいらいらしつつ、その恋愛劇にあこがれてしまうようなそんなみずみずしさ。誰もが自分の体験と重ね合わせることができるような物語。そんな憧れとか思い出とかそんな形で自分にひきつけることができる物語であること、それが素晴らしいところ。
 多くの映画はそこに没入することによって体験するものだけれど、ロメールの映画は逆に映画の中の人物や出来事を自分の体験にひきつけることによって経験できるもの。そのような映画が与えるのは非日常的な経験によって日常生活を乗り越えることではなく、直接的に自分の日常に何かを加えること。自分自身を(無意識にでも)内省することによって、何らかの活力とか意欲とかそのような動力が生み出されること。そのようなことだと思います。多分。なんとなく見ると元気になる気がします。

天井桟敷の人々

Les Enfants du Paradis
1945年,フランス,195分
監督:マルセル・カルネ
脚本:ジャック・プレヴェール
撮影:ロジェ・ユベール、マルク・フォサール
音楽:モーリス・ティリエ、ジョセフ・コズマ
出演:アルレッティ、ジャン=ルイ・バロー、マリア・カザレス、ピエール・ブラッスール

 19世紀のパリ、犯罪大通りと呼ばれる通りは今日も人で賑わう。その通りにある劇場に役者になりたいといってやってきた男パトリック、その彼が通りで目を止めた美女ガランス、その劇場の看板役者の息子バチスト、女優のナタリー、ガランスの友人で犯罪を繰り返しながらも詩人を自称するラスネールといった人々が繰り広げる壮大なドラマ。
 物語は2幕からなり、1部が犯罪大通り、2部が白い男と題された。プレヴェールの脚本は非の打ち所がなく、カルネの造り方にも隙がない。まさにフランス映画史上指折りの名作。

 3時間以上の映画ほぼ全編にわたって、あきさせることなく見せつづける。それはこの映画のテンポがとても心地いいから。第2部の途中で少しスローダウンしてしまうが、そこでようやくこの映画のスピード感に気づく。長い映画にもかかわらず、一般的なドラマよりもテンポが速い。つまり量的には普通の2時間の映画の3倍くらいの量がある(概念的な量ですが)。それでも辟易せずに、勢いを保ったまま見られるのは、そのプロットの巧妙さ。常に見る側に様々な疑問を浮かべさせたまま次々と物語を展開していく。実に巧妙な脚本と周到な映像化のなせる技。
 劇中劇が非常に面白いというのも素晴らしい。なんとなく映画の劇中劇というと、おざなりで退屈なものが多く、時間も大体短い。しかしこの映画の劇中劇はすごく面白い。映画の中では一部分しか見られないのが残念なくらい面白い。特にバチストの演じる劇は途中で途絶えてしまったときには「終わっちゃうの?」と思ってしまうほど魅力的だった。
 しかし、なんといっても4人4様のガランスへの想い、彼らが抱える想いを描くその繊細さ、そのロマンティシズムはいまだどの映画にも乗り越えられていないのではないかと思う。もちろん中心となるのはバチストとパトリックで、他の2人は障害として作られたようなものだけれど、それでもそこには一種のロマンティシズムがある。4つのロマンティシズムの形が衝突し、それを受け止める女は何を想うのか。
 個人的に少々不満だったのは、第2部途中のスローダウンと、ガランスの配役ですかね。ガランスは魅力的だけれど、絶世の美女というわけではなく(目じりの小皺も目立つし)、ナタリーといい勝負くらいだと思う。好みの問題ですが、そこに映画と一体化するのを邪魔するちょっとした要素がありました。
 そんなことはいってもやはり名作中の名作であることに変わりはなく、何度見てもいいものです。5時間くらいのディレクターズカット版とか、あるわけないけどあったらいいななどと思ってしまいます。淀みなく、美しい。それが永遠に続けばいいのにと思う映画。そんな映画にはなかなか出会えません。

ハリー、見知らぬ友人

Hurry, un ami qui vous veut du bien
2000年,フランス,112分
監督:ドミニク・モル
脚本:ドミニク・モル、ジル・マルション
撮影:マチュー・ポアロ=デルペッシュ
出演:クセルジ・ロペス、ローラン・リュカ、ソフィー・ギルマン、マティルド・セニエ

 ヴァケーションのシーズンに入ったフランス、3人の小さな子を連れ田舎の別荘へと向かうミシェルとその家族だったが、エアコンのない車内で家族のいらいらは頂点に達していた。そんなときに立ち寄ったインターチェンジのトイレで、ミシェルは高校時代の友人だというハリーに声をかけられる。全く覚えのないミシェルだったが、なんとなくいっしょに別荘へ行くことになってしまう。
 フランス映画らしい落ち着いた雰囲気の中に怖さが潜むサイコ・サスペンス。

 なるほど「アメリカン・サイコ」とはまったく対照的な作品。衝撃的な映像もなく、クローズアップの連続といった無理から恐怖観をあおるような映像的工夫もない。それでも怖さは伝わってくる。サイコサスペンスはやはり怖くなさそうなところに怖さがないといけないのだと思います。そういう意味では典型的なサイコサスペンスということなのでしょう。
 惜しむらくは筋にひねりがなく展開が想像できてしまうことと、音楽の使い方があまりにストレートなこと。「これから怖いことが起こるよ」とあからさまにわかる音楽を使い、しかも予想したとおりのことが起こる。それはそれで今か今かというドキドキ感を確実に感じさせていい気もしますが、やっぱりもうちょっとひねりがね…
 あとは、映像的な面で、サイコサスペンスにもかかわらず全体的に明るく暖かな映像だったのが印象的。断片的に見るとサイコ・サスペンスとは絶対に思わないでしょう。特にライティングに気を使っているのがよくわかります。 しかしいまひとつ抜けきれなかったのは、ハリーのキャラクターの弱さのせいか。あるいは曖昧さというか。ハリーはただ単に利己的な男なのか、それともミシェルのメフィストフェレス的キャラクターなのか、そのあたりは曖昧。はっきりとメフィストフェレスと分かれば物語の見え方も変わって来たのでしょう。あるいはただのわがままなサイコ野郎だと。

キス・オブ・ザ・ドラゴン

Kiss of the Dragon
2001年,フランス=アメリカ,98分
監督:クリス・ナオン
原案:ジェット・リー
脚本:リュック・ベッソン、ロバート・マーク・ケイメン
撮影:ティエリー・アルボガスト
音楽:クレイグ・アームストロング
出演:ジェット・リー、ブリジット・フォンダ、チャッキー・カリョ、ローレンス・アシュレイ

 パリにやってきた一人の中国人リュウ、彼はパリ警察の助っ人として北京からやってきた刑事だった。その初日、麻薬密売組織をつかまえるためホテルで監視をする。しかしフランスの刑事リシャールがそのボスを殺し、リュウにその罪をなすりつけようとする。リュウは証拠を持って逃げようとするのだが…
 リュック・ベッソンが新たなアクション映画をジェット・リーと組んで製作。監督にはCM界では名の知れたクリス・ナオンを起用した。やはり、ジェット・リーのアクションは切れ味最高。

 リュック・ベッソンはなんだかいろいろな色がつけられていて、感動ものとか、少女がとか、いろいろ言われますが、私はリュック・ベッソンの基本はアクションにあると思います。そもそも最初の長編「最後の戦い」はセリフなしの長尺アクションシーンという常識破りのことが話題を呼んだはず。それをあげずとも、「ニキータ」も「レオン」も「フィフス・エレメント」だってアクションなわけですから。
 といっても、この映画はリュック・ベッソンらしさはあまりなく、むしろジェット・リーの映画作りにベッソンが手を貸したという風情です。そのあたりが同じ製作・脚本でも「タクシー」とは違うところ。
 さて、ベッソンは置いておいて、この映画はあくまでもジェット・リーの映画。プロットも単純明快、心理描写の機微などいらない、とにかくアクションに徹することでこの映画はいい映画になっている。逆にドラマの部分に力を入れている映画はアクションだけを取り上げると物足りないものが多い。今アクション映画を語るには「マトリックス」と「ワイヤー・アクション」を抜きにして語ることはできない。ワイヤー・アクションを世界的に勇名にしたのはやはり「マトリックス」で、「グリーン・デスティニー」ではない。でもやはり元祖は香港で、ハリウッドはその人材を輸入したに過ぎない。
 しかしやはり世界的には「マトリックス」で、アクション映画を見るときにはマトリックス後であることを意識せずには見れない。だからいまのアクション映画は「マトリックス」をいかに超えるのかということ考えざるを得ないだろう。同じようなワイヤー・アクションと特殊撮影を使っただけでは、マトリックスの二番煎じになってしまう。
 ということを考えた上で、この映画を見てみると、このジェット・リーは1人でマトリックスを(部分的にでも)越える。それはまことしやかということ。「マトリックス」の明らかな特撮とは違う生にな感じ。それはジェット・リーだからできたことだろう。やっぱりかっこいいなジェット・リー。

ガッジョ・ディーロ

Gadjo Dilo
1997年,フランス=ルーマニア,100分
監督:トニー・ガトリフ
脚本:トニー・ガトリフ
撮影:エリック・ギシャール
音楽:トニー・ガトリフ
出演:ロマン・デュリス、ローナ・ハートナー、イシドア・セルバン

 フランス人のステファンは、父が生前聞いていたテープの歌い手「ノラ・ルカ」を探して、ルーマニアを旅する。その途中彼はロマと呼ばれる音楽家たち(いわゆる「ジプシー」)に出会い、彼らが「ノラ・ルカ」のところにつれてっくれると信じ、彼らの村に滞在する。
 音楽と映像が美しく絡み合い、ひとつのアートとしての統一感を持つ作品。「ロマ」に強い思い入れを持つガトリフ監督のロマものの中でも一番のできでしょう。

 「ジプシー」という言葉は差別語とみなされ、最近では「ロマ」を使うのが適切だとされているようだが、この作品を見ていると、そんな名称なんてどうでもいいという気になってくる。
 イシドールの顔に刻まれた一本一本の皺からも音楽が聞こえてくるような、空間すべてが音楽で満たされているような、そんな素晴らしい映画。ロマやジプシーといわれて思いつくのは、エミール・クストリッツァの「ジプシーのとき」という映画で、これも素晴らしい映画でしたが、もっと殺伐としていて、悲哀にみちた映画でした。どちらが本当ということはないですが、厳しい生活の中でも、明るい生活を送っているということが伝わってくるこの作品のほうが好みではあります。
 ガトリフ監督には「ベンゴ」という映画もありました。これはアンダルシアを舞台としたフラメンコ映画で、場所こそ違えどこの映画と近しいものを感じます。ほかには「ガスパール 君と過ごした季節」(ビデオでは、「海辺のレストラン ガスパール&ロバンソン」というタイトルになっているはず)、「MONDO」という作品もありました。どちらもなかなかいい作品。紹介できたらしたいところですね。

ベーゼ・モア

2000年,フランス,74分
監督:ヴィルジニー・デパント、コラリー・トラン・ティ
原作:ヴィルジニー・デパント
脚本:ヴィルジニー・デパント、コラリー・トラン・ティ
撮影:ブノワ・シャマイアール、ジュリアン・パマール
音楽:ヴァルー・ジャン
出演:ラファエラ・アンダーソン、カレン・バック、デルフィーヌ・マッカーティー

 フランスのスラムに暮らす女性達。その1人ナディーヌは売春をして生計を立てる。友だちと一緒に住んでいるが、その友だちは口うるさくイライラを募らせる。マニュはドラッグに溺れ、仕事もなくバーをやっている兄に金を無心する。兄はマニュを愛してはいるが、小言も多くマニュはそれにいらだっていた。
 フランスの女流作家デパントが自作を友人でもとポルノ女優のコラリー・トラン・ティと組んで映画化。そのセックスとバイオレンスの過激さでフランスで上映禁止にされたといういわく付きの作品。日本では再編集されて劇場公開されたが、オリジナルに近いバージョンもビデオで発売。

 バイオレンスとセックスの描写という点を見れば、確かに過激ということもできるが、むしろ露骨。ことさら過激にしようというよりは生っぽさを表現しようという意図が感じられる。確かに子供に見せるのは… というくらいではあるけれど、物の分かった大人なら、見ても別にどいうということはないなと思う。逆に殺人やセックスのリアルさが感じさせる監督の緻密さが興味深い。
 冷静でしかしそれが逆に冷淡さにつながるマニュの行動や表情から伝わってくるメッセージはそんな過激さがもたらす悪影響を越えるほどの強い力を持っている。いくらフェミニストが言葉で攻撃を繰り返しても実現できないことを1時間強の映画でやってのける。それはすごいこと。強姦されながらも無表情で悪態をつくマニュの視線は男の弱さ(虚勢)とずるさと身勝手さを貫き通す。物理的な力によって女を支配する男が、物理的な力を逆転されたときに起きること。
 女性にとって権威に反逆することは男に反逆することに常に通じる。いまは片意地を張って男性と並ぶことを誇るような女に反逆することも含むが、やはり権力を持つのは男性であり、男性の借りている権威を攻撃することがどうしても必要だ。もちろん暴力をふるうことでそれが解決するわけではないけれど、この映画は権威に反逆するということを象徴的に表現しているのだろう。
 男が買春をして払う金が意味しているものは、彼女達が男を殺して奪う金が意味するものと違うものなのだろうか?

満月の夜

Les Nuit de la Plene Lune
1984年,フランス,102分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:レナート・ベルタ、ジャン=ポール・トライユ、ジル・アノー
音楽:エリ&ジャクノ
出演:パスカル・オジェ、チェッキー・カリョ、ファブリス・ルキーニ、クリスチャン・ヴァディム

 パリ郊外の家、ルイーズは恋人のレミと暮らしているが、その夜の外出のことで意見が合わない。パーティーに行きたくないレミと、朝まで遊んでいたいルイーズ、ルイーズは来なくていいというが、レミはいっしょに外出するといってきかない。話がつかないままルイーズは出かけ、友人のオクターヴとパリの「別宅」に行く。その夜レミはパーティに来るが、つまらなそうにしてすぐに帰ってしまう。
 序盤から議論が飛び出すロメール流の理屈っぽい恋愛映画。最初にエピグラフとしてでる「二つの女を持つものは魂を失い、二つの家を持つものは理性を失う」という格言が非常に示唆的だ。

 ロメール映画の登場人物たちは極端へとは行かず、常に常識の範囲にとどまり、その中で揺れ動く。だからとても現実味があり、身近なものと感じられるのだけれど、それは逆に劇的さとは縁がないということでもある。だから、どの映画を見てもなんだか似た印象を受けるわけだが、それでもその中に秀逸な映画もある。
 しかし、この映画はというと、ロメール映画の中では並。もちろん映画としての質はよいが、ロメールを見慣れてしまうと、いつものことという感じで新鮮な驚きはなくなってしまう。主人公のルイーズの顔は非常に印象的だが、他の登場人物たちは今ひとつ魅力的でなく、あまりに日常的過ぎるという印象がある。そして、冒頭のエピグラフがあまりにうまく映画を表現しきってしまっているので、映画はただそれを映像によって表現しているだけになってしまっているような印象も受ける。それでも登場人物たちの心理の機微というようなものはさすがロメールの描写力という感じがするが、なんだか全体に冷たい印象を受けるのは、レナート・ベルタのカメラのせいだろうか。

 とにかくそれは想像できるロメールの域を出ず、あるいはあまり予想通りに映画が展開していく。それが劇的さのないロメール映画の弱点ではあるのだが、それは新聞の4コマ漫画とか、週刊誌の連載コラムとか、そのようなものに似て、それ自体が日常になりうるものという気もする。
 もちろん、ロメールの映画が日常と呼べるほどロメールの映画を見ているわけではないのだが、しばらく時間をあけてみてみても、それはなんだかなじみの風景というか、いつもの経験という感じがする。そのあたりがロメールの魔術というか、うまさということでしょう。
 それはまた、似た映画の無数のバリエーションを展開しているということでもあり、それはつまり見る人によって好みは別れるということでもある。好みが分かれるということは、無数にあるどれもが質がいいからこそ可能なことで、しかもロメールの映画を見てきた文脈によって映画の受け取り方もかわる。ロメールの作品とはロメールのほかの作品を想起せずには見ることのできない映画で、ということは、見ている人がそれまでにどのロメールの映画を見てきたのかということが映画を味わう上で重要なポイントになってくるということである。だから、前に見た作品も重ねてみてみると、その味わいは変わって、好みも変わってくる。
 それはつまり、いつまでも映画(群)を見続けることができるということで、この映画が今のわたしにとってはそれほどヒットしてこないものであったとしても、エリック・ロメールの偉大さはいくらも損なわれないということだ。

女は女である

Une Femme est Une Femme
1961年,フランス=イタリア,84分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原案:ジュネヴィエーヴ・クリュニ
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、マリー・デュボワ

 ストリッパーのアンジェラは子供が欲しい。しかし、同性相手のアルフレッドはあまり乗り気ではない。そこで彼女は、いつも言い寄ってくる友だちのエミールを使って彼の気を変えさせようとするのだが…若き日のゴダールが取った、喜劇になりきれなかったシュールな喜劇。劇中で喜劇なのか悲劇なのかと繰り返し問われるように、喜劇のような顔をしていながらその実一体難なのかはわからない不思議な作品。個人的にはこのシュールな笑いのセンスはありです。

 冒頭のシーンのアンナカリーナの持つ赤い傘。くすんだ色調の画面にパッと映える赤い傘はまぎれもないゴダールの色調である。だからこの映画もゴダールらしい文字やサウンドを多用した天才的な構造物であるのかと予想するが、始まってみるとコメディ色を前面に打ち出したオペラ風というかミュージカル風の作品。オペラ調は後半に行くに連れ薄れていくものの、全体にコメディ映画であると主張するようなシュールなギャグがちりばめられる。このセンスのシュールさがやはりゴダールなのか。このセンスは個人的にはすごく好き。目玉焼きなんかは最高にヒットしたのでした(俺はおかしい?)。
 ゴダールの映画はどれもシンプルなのだけれど、この映画はことさらにシンプル。多くのゴダールの映画はシンプルでありながら、ひとつひとつはシンプルである要素を重ね合わせて複雑にはしないけれど理解を難しくする。シンプルなのだけれどそこに盛り込まれた要素が多すぎていっぺんにすべてを理解することは難しくなる。しかしシンプルであるがために、頭を抱えることにはならず、凡人の理解力では追いつけない映画的なものの奔流に身を任せることが心地よい。いわば、単色のレイヤーを重ね合わせることで、一つの芸術的な絵を作り上げているような感じ。
 しかし、この映画の場合は、そのレイヤーの数が抑えられているので、理解することができる。時折、不可解な場面に遭遇するものの大部分は理解することができる。これは一方ではちょっと物足りなさを感じるけれど、何かゴダールの映画作りのエッセンスを垣間見たような気にもなれる。ようは、こんな映画を3本くらいくっつけて、しかし長さは同じ90分で作ったのがいつもの映画なんじゃないかと乱暴な言い方をしてしまえば思える。面白いんだけどよくわからないゴダールがちょっと分かった気になれる一本という感じでした。