ユマニテ

L’Humanite
1999年,フランス,148分
監督:ブリュット・デュモン
脚本:ブリュット・デュモン
撮影:イヴ・ケープ
音楽:リシャール・キュヴィリエ
出演:エマニュエル・ショッテ、セヴリーヌ・カネル、フィリップ・テゥリエ

 思いつめた様子で地面に突っ伏す男。40歳も近い刑事のファラオンは母親と二人暮し、近所に住むドミノに親しげに話し掛けるが彼女には恋人がいる。そんな彼が11歳の少女が強姦され殺された事件の捜査を受け持つことになる。現場を見た彼は非常なショックを受けるが…
 前作から引き続き淡々とした物語を撮るデュモン監督だが、主人公の心情の描き方や画面の細部の構成で進歩が伺える作品。

 ファラオンにはなんとなくユーモアがあり、謎めいた雰囲気がある。それが物語全体を支え、興味深いものにしている。この作品も「ジーザスの日々」と同じく、限られた登場人物で限られた場所で展開され、場所の反復が行われ、多くの風景カットが挿入され、舞台装置が観客に吸収される。そこまでは同じ。途中で一度海に出かけるのも同じ。違うのは、ただただ沈うつなフレディと謎めいたファラオンの違い。
 !!この辺りからネタばれ気味!!
 ファラオンの思いつめたような表情と時折見せる微笑。これは一瞬彼が犯人なのかと疑ってしまうくらい謎。その思いつめた表情は彼が妻子を失ったということが物語り半ばで分かることで大体理解できるのだけれど、それにしても重い。そして突然宙に浮く。この宙に浮くシーンはよくわからないけれど、個人的にはかなりお気に入り。ボケた背景にじわじわ頭がフレームインしてきて、バックショットに変わった瞬間は爆笑しそうになったけれど、周りの人が眉間にしわを寄せてみていたので我慢しました。あれはシュールな笑いなのか、それとも深い考えがあったのか、その辺りは分かりませんが、あのシーンがあるとないとでは映画全体のバランスが大きく変わってしまうような気がしました。物語には関係してこないのだけれど、いいシーンでした。
 あと気になったのはファラオンの家の黄色いコーヒーメーカー。ドミノが泣き崩れるシーンでも画面の端っこにしっかりと移りこむ。あの黄色があることであのシーンの構図が締まるような気がします。画面がシネスコだけに、そういった構図への配慮はとても重要。「ジーザスの日々」ではほとんどの場面が普通のバランスのよい画面構成だったのに対して、この映画では黄色いコーヒーメーカーのようなアクセントによってアンバランスにすることで構図を支える場面がいくつかあったのでよかった。
 しかし、個人的には全体として重すぎ、平板すぎ、そして長すぎ。眠い。この展開なら長さはこんなもんという気がしますが、この展開で2時間半はやっぱりつらいかも。

ジーザスの日々

La Vie de Jesus
1997年,フランス,96分
監督:ブリュット・デュモン
脚本:ブリュット・デュモン
撮影:フィリップ・ヴァン・ルーエ
音楽:リシャール・キュヴィリエ
出演:ダヴィッド・ドゥーシュ、マーショリー・コットレール、ジュヌヴィエーヴ・コットレール

 何もせずに仲間とバイクを乗り回す青年フレディ。母と二人暮しだが、仕事を探すこともせず仲間と遊び、恋人のマリーとセックスにふけるばかり。しかしそんなフレディにはてんかんもちであるということや、小鳥を育て、コンクールに出すような一面もあるのだが…
 フランスの田舎町を舞台に、そんなフレディと仲間達の日常を淡々と描いたブリュット・デュモンの長編デビュー作。

 あまりに淡々としている。その裏にある若者の律動というか、やり場のない怒りというかそのようなものは感じられるが、それ自体は決して新しいものではなく、むしろ露骨な性描写などがわざとらしく感じられる。最近のイギリス映画によくあるような感じというか、それをフランス風にした感じというか、イギリスのたがの外れた明るさのようなものをのぞいてしまった重苦しい雰囲気。その雰囲気自体は悪くないけれど、ちょっと展開がなさ過ぎて退屈する感は否めない。
 しかし、この監督のいい点は細部の緻密さで、それが単純に飽きてしまう展開を救う。限られた登場人物と限られた場所で展開されるドラマなので、同じ場所を繰り返し移すことができ、しかも意図的にそうすること(風景のカットをたくさん入れること)によって、観衆にそれを記憶させる。たとえばフレディの家が町並みのどこに位置するのか見ている人がなんとなく分かる。だから、フレディのバイクがいつ横転するのか予測できる。そうすることで映画との距離を縮めることについては非常に巧妙だと思った。
 そして、それを少し変えることで、語らずして変化をつけることができる。たとえば5人がいたずらした女の子の親に呼ばれる場面、見ている側はそれがフレディの家だとすぐ分かる。そして、普段とは違うただならぬ雰囲気がすべての状況を物語ってしまう。

はなればなれに

Bande a Part
1964年,フランス,96分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ドロレス・ヒッチェンズ
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ、サミー・フレイ、クロード・ブラッスール、ルイーザ・コルペイン

 フランツとアルチュールは車で一軒の家を見にいく。それはフランツが英会話学校で一緒のオディールの叔母の家で、そこに出入りしている男が相当の額の現金を隠し持っているらしい。その後英会話学校に向かった二人はオディールも巻き込んでその現金を盗み出す計画を立てる。
 白黒・スタンダードの画面に3人の若者の組み合わせはジャームッシュを思わせる。もちろん、ジャームッシュが影響を受けたということですが。

 「気狂いピエロ」とはうって変わって白黒・スタンダード、初期のゴダールらしい作品。またこの作品では絶対的な第三者が語り手として存在するのも特徴である。この語りは非常に効果的で、ほとんどが3人の関係性で紡がれていく物語にアクセントを加える。特に3人がカフェで過ごす一連のシーンは絶品。「一分間黙っていよう」というところから、踊るシーンまでの語りと音楽・サウンドの使い方は「うまいねぇ」と嘆息するしかないのです。
 またも天才ゴダールの計り知れなさということになってしまいますが、ここのシーンを見ただけで、並みの監督では想像もできないような作り方ということがわかります。踊りのシーンではいきなり音楽を切って語りを入れるのですが、踊っている音(足音や手拍子)はそのまま使われる。その音楽が「ぷつっ」と切れるタイミングの絶妙さはどうにも説明のしようがありません。
 ゴダールは音の面でもかなり革新的なのですが、この作品もそれを如実に表すものです。今ある映画のかなりのものがゴダールの音の使い方を剽窃(といったら語弊がありますが)しているともいえる。それでもこの踊りのシーンはほかのどんな映画でも見たことがない。「これはやはりまねできないんだろう」と私は解釈しました。

気狂いピエロ

Pierrot le Fou
1965年,フランス,109分
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原作:ライオネル・ホワイト
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:アントワーヌ・デュアメル
出演:ジャン=ポール・ベルモンド、アンナ・カリーナ、グラツィエラ・ガルヴァーニ、サミュエル・フラー

 ジュリアンが妻とパーティに参加する間、友人のフランクの姪が子供たちの面倒を見てくれるという、フランクに姪がいたかといぶかしがる彼だったが、現れた学生風の女性に子供たちを任せてパーティへ向かった。しかし、ジュリアンはパーティを中座し先に帰宅する。実はその姪という女性はジュリアンの元恋人だった。
 天才ゴダールの作品の中でも最も知名度が高いといえる作品。ゴダールらしさを維持しつつも単純なサスペンスとしても楽しめる(と思う)作品。

 ゴダールは初期の作品では白黒の画面にこだわり、カラーの映画は撮ろうとはしなかった。しかし「」で一転、カラーへの取り組みを始めると、カラー作品でもつぎつぎと名作を生み出す。しかも、激しい色使いでほかの映画との違いを見せつけながら。中でもこの「気狂いピエロ」と「中国女」は色使いに抜群の冴えを見せる。「中国女」では徹底的に赤が意識的に使われるのに対して、この映画で使われるのはトリコロール。赤と青と白のコントラストを執拗なまでに使う。マリアンヌと兄(?)の船に掲げられているトリコロールの国旗をみるまでもなく、繰り返し移される青い空と白い雲を考えるまでもなく、その3色のコントラストが頭にこびりつく。
 青い空と白い雲といえば、この映画で多用されるがシーン終わりの風景へのパン。つまり、人物が登場するシーンの終わりに空舞台の(人がいない)風景へとカメラが動く。これが何を意味するのかは天才ゴダールにしかわからないことかもしれないが、単純に感じるのは「いい間」を作るということ。単純にシーンとシーンをつないでいくタイミングとは異なったタイミングを作り出すことができるのではないだろうか? しかも、一ヶ所だけそのパン終わりを裏切るところがあります。人物から風景にパンして終わりかと思ったらまた人が映る。
 となると、このシーンをやりたかったがために繰り返しパン終わりをやったのかとも思えるのです。そこはゴダール、はかり知れません。気づかなかった人は今度見たときに探してください。私もその構成に初めて気づいたので、もしかしたら一ヶ所じゃないかもしれない。
 ゴダールをやるたびに理解できなさをその天才のせいにしてしまうのですが、本当に心からそう思います。

猥褻行為~キューバ同性愛者強制収容所~

Mauvaise conduite
1984年,フランス,112分
監督:ネストール・アルメンドロス、オルランド・ヒメネス・レアル
出演:ロレンソ・モンレアル、ホルヘ・ラゴ、レイナルド・アレナス、フィデル・カストロ

 1960年代、キューバにあったUMAPという強制収容所には密告により様々な人々が収容された。同性愛者をその一角を占めていたが、当時世界的な熱狂で迎えられたキューバ革命賛美の潮流の中ではそのような事実はなかなか認められにくかった。しかし1980年代までにキューバからは100万人規模の人々が亡命し、徐々に理想化された国の内幕が判明してきた。
 亡命を余儀なくされた有名人のインタビューを中心としたドキュメンタリーによってフィデル・カストロとキューバ政府の誤謬を暴く。トリュフォー作品や「クレイマー・クレイマー」などのカメラマンとして知られるアルメンドロスの初監督作品。

 言ってしまえば映画としてはそれほど面白くはない。ドキュメンタリーといってわれわれがイメージする経験者の証言と限られた事実を示す映像とで構成される単調なドラマ。しかし、そのドラマは強烈だ。日本では余り知られていないにしろヨーロッパなどでは比較的知られているキューバの作家や批評家達が登場し、強制収容所の実態を語る。全く信じられないようなことが公然と行われていたという事実に直面するということは常に衝撃的である。
 この作品にも登場した作家レイナルド・アレナスは収容所をはじめとした強烈な体験を「夜になる前に」という作品につづっている。この作品にはこの映画も出てくるのだが、その信じられない体験を目にしたときの衝撃が生々しくよみがえってきた。(この「夜になる前に」は昨年アメリカで映画化され、日本でも今年の秋頃に公開される予定。)
 ドキュメンタリーという枠を越えようとする映画的にすぐれたドキュメンタリーも面白いけれど、こういう古典的なドキュメンタリーもその内容さえすぐれていれば非常に面白いものになる。この作品は非常に陰惨な内容を語っているはずなのに、インタビューを受ける人たちは比較的明るい表情で陰惨な雰囲気はまるでない。そのあたりの奥に秘められたひそやかな憎悪を見るよりも彼らがそうやって振舞うことによって生じる雰囲気を素直に味わいたい。

ポーラX

Pola X
1999年,フランス=ドイツ=スイス=日本,134分
監督:レオス・カラックス
原作:ハーマン・メルヴィル
脚本:レオス・カラックス、ジャン・ポル・ファルゴー、ローランド・セドフスキー
撮影:エリック・ゴーティエ
音楽:スコット・ウォーカー
出演:ギョーム・ド・パルデュー、カトリーヌ・ドヌーヴ、カテリーナ・ゴルベワ、デルフィーヌ・シュイヨー

 フランス・ノルマンディ、古城で暮らす小説家のピエール。正体を明かさぬまま小説を出版し、成功した彼は婚約者のリュシーとも仲良く付き合っていた。しかし、母マリーのところには無言電話がかかり、ピエールの周りには謎の黒髪の女がうろついていた。
 レオス・カラックスがハーマン・メルヴィルの『ピエール』を映画化。2つの天才と狂気がであったこの作品は全編にわたってすさまじい緊張感が漂う。「ポンヌフの恋人」とは違うカラックスらしさがぐいぐいと迫ってくる作品。

 陽光にあふれた昼と、街灯の明かりすらまばらな夜。この昼と夜、明と暗の対比がこの映画の全てを語る。最初は多かった明の部分が物語が進むに連れて陰っていく。リュシーのブロンドとイザベルの黒髪までも明と暗を比喩的に表しているのではないかという思いが頭をかすめる。暗闇から現れたイザベルに、暗闇で語られたことによって、ピエールはぐんぐん闇へと引きずり込まれる。ここで暗闇は狂気と隣り合わせの空間で、明の象徴であったはずのリュシーまでも暗部へと引きずり込む。
 映っているものすらはっきりしないほど暗い画面は見ている側に緊張を強いる。そして、カットとカットの繋ぎの違和感が焦燥感をあおる。エレキギターとパーカッションで奏でられる交響曲もわれわれの神経を休めはしない。ただいらいらしながら、結局何も解決しないであろう結末を予想しつつも、ことの成り行きをみつめる。
 「汚れた血」は厳しすぎ、「ポンヌフの恋人」はゆるすぎたと感じる私はこの「ポーラX」がぐっときた。どれもカラックスの世界であり、同じ描き方をしているのだけれど、狂気と正気のバランスというか、物語と映像のバランスというか、その偏りがちょうどいい感じ。
 カラックスの映画はカットとカットの間がスムーズにつながらないところが多々あって、この違和感というのは相当に見ている側にストレスになると思う。それがカラックスの映画の緊張感の秘密だと私は思います。この映画でいえば、一番はっきりと気づいたのはピエールとティボーがカフェで会っている場面。ティボーがカウンターに行って、ティボーの視点でピエールを(正面から)映すカットがあって、次のカットで画面全体をバスが横切り、その次のカットではピエールを後ろから映す。これは後ろからのぞいているイザベルの視点であることが直後にわかるのだけれど、この瞬間には「え?」という戸惑いが残る。こんな風に見ている側をふっと立ち止まらせ、映画に入り込むことを拒否するような姿勢が緊張感を生み、カラックスらしさとなっているのではないでしょうか。

議事堂を梱包する

Dem Deutschen Volke
1996年,フランス,98分
監督:ヴォルフラム・ヒッセン、ヨルク・ダニエル・ヒッセン
撮影:ミッシェル・アモン、アルベール・メイスル、エリック・ターパン、ボルグ・ウィドマー
出演:クリスト・ヤヴェシェフ、ジャンヌ=クロード・デ・ギュボン

 ドイツの旧国会議事堂を巨大な布で梱包しようというプロジェクトを立てたアーティストのクリストとジャンヌ=クロード。まだベルリンの壁が存在し、街が二つに分断されていた頃に企画したこの企画が政治の駆け引きによる紆余曲折を経てついに実現するまでの日々を追ったドキュメンタリー。
 様々な巨大インスタレーションで世界的に有名なアーティストクリスト&ジャンヌ=クロードのライフワークであるだけに、そのすごさは映像からでも伝わってくる。

 「なんだかわからないけれど感動的なもの」、そういうものが世の中にはある。この梱包された議事堂もそのようなものの一つである。映画自体は実現するまでの苦労話というような構成になっているが、われわれは彼らが苦労したことに対して感動するわけではない。梱包された議事堂そのものに分けもなく感動をする。それまでのエピソードは感動を引き伸ばすための時間稼ぎでしかないといっても過言ではない。準備段階を見ることによって完済する作品に対して想像を、期待を膨らませる、そのための時間。そしてその想像を期待を上回る美しさの完成作品を目にした瞬間!
 これが素直な感想ということですが、「映画」のほうに目をやると、映画側がやろうとしたことはかなり社会的なこと。芸術と社会/政治の関係性というものでしょう。映画的なクライマックスは議会でこの問題が話し合われるシーン。「意味がない」、「無駄だ」という意見を声高に叫ぶ議員達こそがこの映画が提示しようとしたもの。社会/政治が芸術に対してとる(ふるい)態度。もちろんこの映画はそんな態度に対して批判的なわけですが、必ずしもそれを否定するのではなく、一つの意見として取り上げることに意味がある。肯定的な態度と否定的な態度の両方が存在しているということこそが重要なのです。
 したがって、アーティストの側としてはいかに社会にコミットしていくか、社会に受け入れられるかという問題が常に存在しているということが見えてきます。「バトル・ロワイヤル」ではないけれど、もっと社会に対して悪影響を与える可能性がある(と思う政治家がいる)芸術の場合にはもっと難しい問題になってくるということ。
 それは、梱包された議事堂に「それぞれのドイツを見る」というジャンヌ=クロードの最後のセリフが含意する複雑な意味にもつながってくるのでしょう。

ラヴァ-ズ

overs
1999年,フランス,101分
監督:ジャン=マルク・バール
脚本:パスカル・アーノルド、ジャン=マルク・バール
撮影:ジャン=マルク・バール
音楽:ヴァレリ・アルベール
出演:エロディー・ブーシェ、セルゲイ・トリヒュノヴィッチ、ジュヌヴィエーヴ・パージュ

 美術書専門の書店で働くジャンヌのところにある日、たどたどしいフランス語を話す青年ドラガンが訪ねてきた。不安げなドラガンをジャンヌはデートに誘い、彼がユーゴスラヴィア人であることを知る。そして2人はそのままジャンヌのアパートで一夜を過ごした…
 パリジェンヌとユーゴスラヴィアから来た貧乏画家が繰り広げるラヴ・ストーリー。「グラン・ブルー」でジャック・マイヨールを演じたジャン=マルク・バールの初監督作品。

 最近よく見るいわゆる「ドキュメンタリー・タッチ」の作品。しかも監督がカメラも持ち、ほとんどが手持ち撮影。こんな形式の作品は最近結構多い。「トラフィック」も形式としてはかなり近いものがあるし、マイケル・ウィンターボトムの「ひかりのまち」などもその部類。
 この映画はフランスで「ドグマ」というシリーズの第5作目ということらしいですが、そのシリーズがどのようなものなのかは分かりません。
 映画としては、ドラガンがなかなかいい味。冒頭からのなんともオドオドした感じがいいし、しかもあとから見ればなるほど納得というのもいい。しかし、全体を見ると前半で相当盛り上がっていくだけに、後半部分はなんとなく物語りの焦点がぼやけてしまった感があり、残念ではある。見方を変えると、当たり前ではない状況を当たり前に過ごす人々をごく自然に描いたという意味ではいいものであるとも言える。
 でも、個人的に普通の人の生活をドキュメンタリー風に作った映画というのはどうも最近食傷気味なので、いまひとつしっくり来ず。
 ただ、最後の最後にやってくる長回しはなかなかいいのではないかと思います。

パリの確率

Peut – etre
1999年,フランス,109分
監督:セドリック・クラピッシュ
脚本:サンチャゴ・アミゴレーナ、アレクシス・ガーモ、セドリック・クラピッシュ
撮影:フィリップ・ルソード
音楽:ロイッチ・デューリー
出演:ロマン・デュリス、ジャン=ポール・ベルモンド、ジュラルディン・ペラス

 1999年の大晦日、アーサーは友人のマチューとともにSF仮装パーティーに出かける。アーサーの恋人リューシーも友達2人とそのパーティーへ。リューシーはその夜子供を作ると決めていた。リューシーの計画どおりトイレとしけこんだ2人だったが、アーサーは子供を作ることに躊躇する。なんとなく気まずいムードの中、アーサーはトイレの天井に別の部屋への入り口があることを発見する。そして建物の外へと出てみると、そこは砂に覆われた見たこともない世界だった。
 『猫が行方不明』のセドリック・クラピッシュ監督が『ガッジョ・ディーロ』のロマン・デュリス主演で撮ったおかしなSF作品。全体に漂うばかばかしさがたまらなくいい。

 このばかばかしさはすごく好き。ちょっと考えると「そんなわけね-よ」ということをさらりとやってしまう。タイム・パラドックスとかいうことを深く考えたりもしない。面白ければいいんだという分かりやすい姿勢が素晴らしい。
 映像も、特に斬新ということもないんだけれど、さらりといい映像という感じ。やはり砂漠というのは絵になるもので、何もない砂漠の上に人がいるというだけで映像としては十分成立する。砂漠の場面で一番印象に残っているのはけんかをしたアコとアーサーが座り込む場面。画面の端と端に座り、右端のアーサーがアコの方へと歩いていくのをカメラが追う。ただそれだけ。だけどいい。
 それに本筋とは関係ない部分もなかなか面白い。女三人組で一番きれい(だと思う)ジュリエット(だったと思う)が最後一人寂しく帰る場面をしっかり撮ってみたりするのも、「わびさび」ではないけれど、気が利いているし、ユリース(ひ孫)が結局どうなったのかまったく触れないところもいい。(何がいいのかと聞かれると困りますが、こういう投げっぱなしのエピソードがあるという未完成っぽさが好き)
 などなど、取るに足らないことばかりですが、その積み重ねでいい映画になったという作品だということ。

 まあ、この映画は基本的にはSFなわけで、普通に考えればありえない話しなわけですが、それがありえそうに描けてしまうのがクラピッシュらしさにつながるのかもしれません。未来を描く場合、普通は(ハリウッドはと言い換えてもいい)いまよりもテクノロジー的に進んだ社会を描く。それがわれわれにいい社会なのか悪い社会なのかは別にして、とにかくテクノロジー的には「進歩」した社会を描く。それはまさしく近代的な発展的歴史観というか、社会というのは日々進歩していくのだという素朴な考えの表れであるような気がする。SFというのは映画に限らず小説でもいまより科学技術が進んでどんどんすごいことができるようになったらどうなるんだろうという、夢の世界を描くものだった。しかし、果たして科学技術がどんどん進んでいくことが本当にわれわれ(人類のとは言わない)のためになるのかどうかということも、原子力の例を上げるまでもなく疑問に付されてきているし、その中で技術の発展が不幸を呼ぶようなものも数々作られているわけだけれど、この映画のようにある意味で退歩した未来を描くというのはあまりない。
 そんな意味でもこの映画は面白い。基本的には退歩しているけれど、しかしその未来に対して最後にはアーサーが期待というか希望を持つというのも示唆的なのかもしれない。
 クラピッシュの作品をいろいろ見て、この人の現代に対する感覚というのがすごくよくわかる気がした。それは心地よいというわけではないのだけれど、私がいまという時代に対して感じる感覚と何か近しいものを感じる。
 クラピッシュは映画というものに対して何か行き詰まりのようなものを感じていて、しかしそれを斬新さで突き破ろうとするのではなく、もっと自分自身の身近なところに引き戻すことで新しい生々しさを生み出そうとしているような気がする。未来の描き方も『マトリックス』のような圧倒的な世界ではなくて、身の丈にあった自分に関わるミクロの未来だけを描く。
 それはとてもとても大切なことなんじゃないかと思う。

キャラバン

Himalaya – l’enfance d’un chef
1999年,フランス=ネパール=スイス=イギリス,108分
監督:エリック・ヴァリ
脚本:ナタリー・アズーレ、オリヴィエ・デイザ、ルイ・ガルデル、ジャン=クロード・ギルボー
撮影:エリック・ギシャール、ジャン=ポール・ムリス
音楽:ブリュノ・クーレ
出演:ツェリン・ロンドゥップ、カルマ・ワンギャル、グルゴン・キヤップ

 ネパールのある村、黄金色に輝く麦畑、そこに村のキャラバンが帰ってきた。しかし、先頭のヤクの上には一つの死体が、それは今の頭領で主人公の少年ツェリンの父であった。次の頭領は最も有能な若者カルマにすんなり決まるかと思われたが、長老でツェリンの祖父であるティンレが一人反対する。彼はカルマを息子の仇と見ていたのだった。
 壮大な自然の風景をオールヒマラヤロケで映像化したアドヴェンチャー・ドラマ。本当に映像は美しく、圧倒的な自然の力が迫ってくるようだが、ドラマとしては普通の出来かもしれない。

 結局のところ、舞台がヒマラヤになったというだけで、権力争いのドラマをそのまま移植しただけという気がしてしまう。占いだとか、僧院だとかという要素が出てきて、それが実際のネパールでは非常に重要な要素であるということはわかるのだが、ここではある種オリエンタリズム的なエキゾチックな要素として取り上げられてしまっているような気がして気に入らない。そこにどうにも胡散臭さを感じてしまう。
 実際のネパールの状態はわからないが、あれだけ厳しい自然と対立している世界で一人の人間があれほど大きな権力を握るというのはありえないような気がする。もっと民主的な指導体制があると考えるほうが自然なような気がする。そのあたりがかなり疑問。
 しかし、映像はすごいですね。最初のヤクを下から撮った映像からかなりすごいし、続く麦の黄金色の輝きとか、美しいの一言に尽きるという感じ。空も、湖も青く、ヤクが湖に落ちていくところとかもすごくいいのです。なんとなく空気の透明感が伝わってくるような感覚。それだけ、といっては失礼ですが、最大の見所が映像であることは間違いない。