6IXTYNIN9 シックスティナイン

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1999年,タイ,115分
監督:ペンエーグ・ラッタナルアーン
脚本:ペンエーグ・ラッタナルアーン
撮影:チャンキット・チャムニヴィカイポーン
出演:ラリータ・パンヨーパート、ブラック・ポムトーン、タサナーワライ・オンアーティットティシャイ

 不況で人員削減を余儀なくされた会社、くじ引きで解雇者を選んだ結果くじに当たって首になってしまったトゥムは沈んだ顔で家に帰る。その夜、さまざまな洗剤をがぶ飲みし、拳銃で頭を打ち抜くという夢を見、次の日には万引きまでしてしまう。そんなトゥムの家の前に100万バーツがおかれたダンボールが置かれていた…
 タイでヒットし“タイのタランティーノ”と称された若手監督ラッタナルアーンのスタイリッシュなアクション作品。いわゆるタイ映画から創造するものとはかけ離れた洗練された作風が新鮮。欧米でもヒットするのに十分なでき。

 冒頭のくじ引きのシーンの妙な緊張感。確かに本人たちにとっては一大事だろうけれど、はたから見ればただのくじ引き、それをスローモーションを織り交ぜ、音声にも細工をして、ジョン・ウーばりの(?)アクションシーンにしてしまうあたり、冒頭からセンスを感じさせる。この部分は一種のパロディという感じで笑いを誘う場面だけれど、スローモーションや静寂(音を極端に小さくする)は映画の中でたびたび使われる。このあたりは最近の日本のアクション映画(たとえば三池崇史)とも近しいものを感じさせる。
 展開としては古典的というか、ある種の悪運からどんどん引き返せないところに入り込んでいってしまうというものではあるけれど、わかりやすい伏線というか、あからさまに思わせぶりなシーンやカットやものが出てくるところがなかなかうまい。たとえば、ムエタイではないほうのボスの顔がランプシェードで隠されていたり、箱をあけるときに包丁を使ったり、特に必要なさそうな小便のカットを使ったり、「それがあとでなんかかかわってくるんだろうな」とわかるように使う。この方法は意外性は少ないけれど、複雑なストーリーを展開させるときには有効な手段となる。そのあたりが洗練されている部分だと思います。
 ほかにも細かくしゃれたシーンが結構あり、細部まで楽しめるし、気を使って作っているという気がします。ちょっと全体的にできすぎている気はしますが、完全に作り話だという意識で見れば、すべてのシーンや話がパズルのピースのようにぴたりとはまって気持ちいい。ある意味偶然を積極的に取り入れて、話を盛り上げて行こうという方法なわけですが、これはタランティーノなど映画をひとつのファンタジーというか夢物語ととらえる作家に近しいものを感じさせます。

 ろうそくに拳銃。ろうそくに拳銃が近寄り引き金を引くとライター。そんななんだか古臭いねたも、その拳銃が後で使われることで、ひとつの複線になる。見ている人にはその突きつけられている拳銃がライターであることがわかっているということ。しかし突きつけられているほうにはわからない。この仕掛けがこの映画に典型的な作り方である。
 あとは、主人公の心理の動きも物語の展開とあわせてうまくいじられている感じ。ラストの終わりかたも悪くない。ハリウッド映画の単純さとはちょっとちがう味のある終わり方。主人公を中心とした関係性の展開も紋切り型の仲間/敵、善/悪、などの二分法からちょっとずらした展開の仕方がなかなかうまい。
 ついでに、あまりわからないタイの事情のようなものをなんとなくわかってくる。ムエタイが盛んなのはわかっているけれど、それが暴力団と結びついているというのもいわれてみればそうだろうという感じ。そしてタイ人がビザを取りにくいというのも言われてみればわかる。日本なんかは到底無理なんだろうと思う。
 そのような事情がわかるように、つまり世界を意識して作られているのかどうかはわかりませんが、うまく作られていることは確か。もっとヒットしてもよかったんじゃないでしょうか。

ボディ・クッキング/母体蘇生

Ed and His Dead Mother
1993年,アメリカ,90分
監督:ジョナサン・ワックス
脚本:チャック・ヒューズ
撮影:フランシス・ケニー
音楽:メイソン・ダーリング
出演:スティーヴ・ブシェミ、ネッド・ビーティ、ジョン・グローヴァー、ミリアム・マーゴリーズ

 町の小さな工具店のオーナーのエドはおじのベニーと二人暮し。母親が死んで1年もたつのに、まだ母親をなくした悲しみに沈んでいる。望遠鏡で隣家をのぞくおじはエドに母親のことなんか忘れて女と付き合えという。しかし、エドは今朝も自分の店に生真面目に出勤していった。そんな彼のところに、「母親を蘇生させる」という怪しげなセールスマンが現れた。
 スティーヴ・ブシェミ主演のホラー・コメディ。タランティーノとコーエン兄弟に見出され、ようやく売れてきたころに出た数少ない主演作品。明らかにB級作品で、それほど笑えず、別に怖くもないけれど、なんだか不思議なおかしさが漂う。

 この作品に漂うのは一種のシュールリアリズムというか、マジックリアリズムというか、絶対に現実ではありえないのに、それが現実であることが別に不思議ではない空間を作り出してしまったことからくる不思議な空間。その空間で物語を展開していくこと自体が面白いという空間を作り出すというのがすべてかもしれない。
 普通の映画だったら疑問をさしはさんで、一応理論的に何らかの解決を図らなくてはいけないところ、あるいはその背景(たとえば歴史)を語らなければ正当化されないようなことをフツーに当たり前のことのように映画に織り込む。なんといっても「ハッピー・ピープル社」ですが、死人を蘇生させることを当たり前とすることがこの映画の大前提で、ブシェミがそれを受け入れることで、それにまつわるさまざまな疑問はすべて不問に付してしまう。母親がよみがえってからもおじさんがそれを受け入れてしまうことで、その疑問は霧散してしまう。
 そのあたりの展開の仕方のうまさがこの映画にはあって、それで最後まで見せてしまうんだけれど、それがどうしたといわれると困ってしまう。不思議なおかしさを湛えた小ネタは結構あって、「ハッピー・ピープル社」の名誉会員みたいなネタはとてもよい。お母さんのキャラクターもなかなかいい。この役者さんはもともとはイギリスの人で、『ベイブ』で犬の声をやっていたりするらしい。なかなか稀有なキャラクターだと思います。
 要するに「変な映画」で、変な映画としてはかなり高いレベルにあり、コメディとしても笑えないことはない。ホラーとしてはまったく使えないけれど、気持ち悪いことは気持ち悪い。スティーヴ・ブシェミは面白い、顔が。

ビートニク

The Source
1999年,アメリカ,88分
監督:チャック・ワークマン
脚本:チャック・ワークマン
撮影:アンドリュー・ディンテンファス、トム・ハーウィッツ
音楽:デヴィッド・アムラム、フィリップ・グラス
出演:ジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズ、ジョニー・デップ、デニス・ホッパー

 1950年代に現れ、アメリカの新しい若者文化を生み出したビート族(ビートニク)。その元祖とも言えるジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズの3人を中心に、彼ら自身が登場する映像、インタニューなどのフィルムに加えて、彼らの知己たちへのインタビュー、ジョニー・デップらによるポエトリー・リーディングを使ってその全貌を明らかにしようとするドキュメンタリー。
 ビートニクのファンの人たちにとってはとても魅力的な作品。ビートニクを知らない人たちにとっては勉強になる。

 つくりとしてはものすごく普通のドキュメンタリーなわけです。残っている映像を収集して、それをまとめてひとつの作品にする。作品として足りない部分はインタビューやポエトリー・リーディングによって補う。「知ってるつもり」の豪華版のようなものですね。
 なので、ビートニクとはなんぞやということを知らない人にとっては一種の教養番組というか、新しい知識を映像という形で取り入れる機会になるわけです。しかも、本人が出てきたり、具体的な作品も使われているのでわかりやすい。ケルアックの『路上』ぐらいは読んでもいいかなという気になるわけです。
 一方、ビートニクが好きな人、日本でも結構はやっていますので、そういう人も多いと思うわけですが、そういう人たちにとっては本人が登場するということでなかなか見ごたえがある。コートニー・ラブが出ていた『バロウズの妻』とか、バロウズ原作の『裸のランチ』とかいった映画は結構あるんですが、本人が出ているものといえば、『バロウズ』という映画があったくらい。なので、これだけ本人の映像が満載というのは、特にケルアックのものは、ファンにはたまらないという気がします。
 という映画であるのですが、そのどちらでもない人、ビートニクは知っているけど、別にそれほど好きではない、という人にはなかなか入り込めないかもしれない。物語の展開が工夫されているわけでもないので、なかなか興味を継続しにくいというのもあります。詩のいっぺんとか、ひとつの発言なんかがうまく引っかかってくれればいいのですが、そうではないと、出てくる人たちも名前を出されても誰だかよくわからないし、言っていることもよくわからないということになってしまう。大体の人はここにはまりそうな気がします。

フォー・ルームス

Four Rooms
1995年,アメリカ,99分
監督:アリソン・アンダース、アレクサンダー・ロックウェル、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ
脚本:アリソン・アンダース、アレクサンダー・ロックウェル、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ
撮影:ロドリゴ・ガルシア、フィル・パーメット、ギレルモ・ナヴァロ、アンジェイ・セクラ
音楽:コンバスティブル・エディソン、エスクィヴェル
出演:ティム・ロス、マドンナ、リリ・テイラー、アントニオ・バンデラス、クエンティン・タランティーノ、ブルース・ウィリス

 ロサンゼルスのホテル・モンシニョール。ある年の大晦日、そこでお客さんの対応をしているのはのベル・ボーイのテッドだけ。そのテッドが呼び出され、騒ぎに巻き込まれる4つの部屋。その4つの部屋の物語を4つの短編にしたオムニバスをインディーズ系の4人の監督が競作した作品。
 最初の2本はなんだかボヤンとしているが、後半2本はなかなかのでき。特に3本目のロバート・ロドリゲスの作品は、一本の映画にしてもいいのかも、と最初に見たときには思っていて、今考えるとそれが『スパイキッズ』になったのかもしれない。

 最初の作品にマドンナが出ています。アーティストとしては、イメージチェンジしたマドンナですが、どうも女優としてはパッとしないようです。しかし、この映画を見る限り、コメディエンヌとしてならやっていけそうな気もする。この1篇はすべてがすごく無意味です。40年前にのろわれた魔女をよみがえらせてどうなるのか。果たしてコメディなのか、コメディとして笑えるのは呪文というか、儀式のときの魔女たちの悩ましげな声と謎の動き。とても真に迫っていなくて、うそっぽいところがいい。じわりじわりとおかしさがわいてくるような作品。
 2本目は本当によくわかりません。気になったところといえば、ティム・ロスが窓から首を出しているところを断面図的に捉えている場面がどう考えても、画面どおりの向きで撮っていないということ。このあたりのリアリティのなさが笑いにつながればいいのだけれど、ここでは今ひとつならなかった。
 3本目はいいですね。この映画を見ていない人はこれだけのためにでも見る価値はあるかもしれません。広角な感じの画面をうまく使っているのもなかなかいい。最近のアクション映画によくある作風という気がしますが、この時代にはかなり新しい感じであったと思います。
 4本目は、まあ、タランティーノさんどうしたの? という感じでしょうか。『レザボア』と『パルプ』でなかなかうまい使われ方をしていたティム・ロスもこの映画では今ひとつ切れがない。タランティーノはコメディコメディ下コメディはあまり向いていないのかもしれない。と思いました。

天才マックスの世界

Ruchmore
1998年,アメリカ,96分
監督:ウェス・アンダーソン
脚本:ウェス・アンダーソン、オーウェン・ウィルソン
撮影:ロバート・D・イェーマン
音楽:マーク・マザースボウ、ピート・タウンゼント
出演:ジェイソン・シュワルツマン、ビル・マーレイ、オリヴィア・ウィリアムズ、シーモア・カッセル

 名門ラシュモア校に通うマックスは奨学生だが、フェンシングや養蜂などなどさまざまな課外活動に没頭して成績は一向に上がらない。落第したら退学だと校長に告げられたマックスだったが、勉強をする様子はなく、今度は学校の先生の一人に恋をしてしまう…
 ウェス・アンダーソンの出世作となったとても不思議なコメディ映画。この監督の作品は爆笑作品ではないけれど、映像のつくりなどに非常に味があっていい。

 『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』を見ていると、はじめから終わりまであまりに似ているのに驚くのですが、もちろん本当はその逆で『テネンバウム』のほうがこの映画に似ているわけです。ここまで似ていると、それはこの監督のスタイルと考えざるを得ないわけです。
 そのスタイルにはいろいろありますが、まず目につくのは紙芝居型のプロット展開。この映画では月ごとに幕が下りて区切られています。このスタイルが作り出すのは、これが徹底的に劇であるという雰囲気。マックスが演劇をやっているというのも理由にはなっているんでしょうが、基本的にこの映画は「劇」であるということです。
 あとは、物語や人物の描写に深みをもたせてあること。普通のコメディのようにわかりやすく単純なキャラクターを立てるのではなく、普通のドラマに登場するような人物をキャラクターにたて、その関係性も「ボケ-突っ込み」のような固定した関係ではなく、変化する関係である。もちろん普通のコメディ映画でも、ラブ・コメとか、ヒューマン・コメディとか、人間の関係が変化するものはありますが、それはあくまで主の2人とか3人とかの関係で、この映画のように主人公を中心とした相互関係がゆっくりと変化していくところを描くものはなかなかない。
 ここまで見ると、この映画はまったくコメディ映画などではなく、ただのドラマのようなんですが、確かにそうで、筋立てとかキャラクター自体に面白い人はあまりいない。面白いといえば、マックスのやっている課外活動が面白い。こういうネタは私は大好きです。それはそれとしても、コメディアンのビル・マーレイすらコミカルなキャラクターとして登場しているわけではない。
 この映画のおかしさを演出しているのは映像で、一番特徴的なのは、人物を正面から画面の中心に捉えるバスト・ショット。これは非常に不自然なショットで、リアリズムを追求する映画ではほとんど使われないわけですが、この映画はやたらとそのショットを使う。これは最初の「劇」的ということともかかわってきますが、作り物じみた感じを演出する。その作り物じみた感じがおかしさを誘う。他にも作り物じみた感じが結構あって、またマックスの課外活動の話ですが、その紹介場面も非常に作りこまれた感じ。
 という感じでなかなか地味ながら味わい深いいい映画でした。

 ところで、主演のジェイソン・シュワルツマン君は巨匠フランシス・フォード・コッポラの甥で、タリア・シャイアの息子。つまりコッポラ・ファミリーで、ソフィア・コッポラやニコラス・ケイジの従兄弟ということ。ちなみに弟はロバート・シュワルツマンといって、『シュレック』に(声で)出ているらしい。そして兄のジェイソンはPhantom Planetという(結構メジャーな)バンドのメンバーらしい。恐るべしコッポラ・ファミリー!

ステューピッド/おばかっち地球防衛大作戦

The Stupids
1996年,アメリカ,94分
監督:ジョン・ランディス
原作:ハリー・アラード、ジェームズ・マーシャル
脚本:ブレント・フォレスター
撮影:マンフレッド・グーテ
音楽:クリストファー・L・ストーン
出演:トム・アーノルド、マーク・メトカーフ、ジェシカ・ランディ

 郊外の住宅地に住むスタンレーとジョアンに子ども2人ののジュテューピッド一家。朝になると家の前のゴミがなくなっていることに気づいたスタンレーはゴミの盗難事件だと騒ぎ出し、その犯人を突き止めようと家の前で寝ずの番をする。そして、目撃したマスクの怪しい男たちを追ってローラーブレイドを飛ばす…
 日本で言えば馬鹿田さんとでもいう、ステューピッドという名前からしてふざけているが、とりあえずふざけておこうという感じのオーソドックスなどたばたコメディ。ネタもテンポも古典的、スタイルも狙いすぎの感あり。

 えーと、バカが偶然に偶然を重ねて、うまいこといったり、地球を救ってしまったりするのはよくある話ですが、この映画もそんな話。とはいっても、結局うまいこといっているのかというとそれは微妙なところ。そもそもドタバタコメディの巨匠ジョン・ランディスだけに結論なんてどうでもいいわけですが。 それにしてもこの映画はなんだかね。ギャグも弱いし、面白そうな題材を掘り下げないし、邦題のせいもあるけれど、せっかくの宇宙人もあまり活躍しないし。個人的にはもっとあの宇宙人を活躍させて欲しかったと思いますね。なんといっても映画の中で一番面白いキャラだったし。あとは、謎のCGの猫。なぜあの猫はCGなのか? そして、それが全く生かされていないのはなぜなのか? それもギャグ?
 この映画を見ていて思ったのは、ハリウッド映画は、特にコメディは、後ろを振り返らないということ。いろいろなことがおき、どんどん話が展開していくのがハリウッド映画で、どんどんどんどん転がって、どんどんどんどん話が変わって、めでたしめでたしハッピーエンド! で終わるわけですが、別にハッピーエンドでなくてもいいんですが、よく考えるとそれまでに起こったことの始末は何一つつけていない。よく考えると、「あれはどうなった?」「これはどうなった?」という疑問符のオンパレードなわけですが、それはとにかく置いておいて、「よかったよかった」とか、「なんていい話でしょう」とかいっている。まあ、別にそれでいいんですが、脚本家とか、原作者がいるときとかはそれで納得してもらえるのだろうか? などといろんな疑問が頭をよぎります。
 この映画でよかったところといえば、ステューピッド家の家の内装のエキセントリックさかな。おもにピンクと水色で構成されていたのは、多分精神医学的な裏づけを取った符合でしょう。チェックのものがいっぱいあったのも考え合わせると、幼児化傾向とか未発達とか、そういうことをあらわしている(勝手な想像)。その色彩の組み合わせがエキセントリックでよろしい。

誘拐騒動/ニャンタッチャブル

That Darn Cat
1996年,アメリカ,90分
監督:ボブ・スピアーズ
脚本:S・M・アレクサンダー、L・A・カラゼウスキー
撮影:ジャージー・ジーリンスキー
音楽:リチャード・ギブス
出演:クリスティナ・リッチ、ダグ・E・ダグ、ジョージ・ズンサ、ピーター・ボイル

 田舎町で暮らす少女パティは、あまりに平和で何もおこらない田舎町がきらいで、都会に行くことばかり考えて、友達といえば猫のBJだけ。母親はそんなパティに説教ばかりするが、パティは聞く耳を持たない。そんなある日、BJが腕時計を首につけて帰って来た。パティはそれが新聞に載っている誘拐された家政婦のものだと騒ぎ出して…
 65年のディズニー映画『シャムネコFBI/ニャンタッチャブル』のリメイク。動物と子どもを使ったいかにもディズニーらしい穏やかなコメディ。

 いちおう猫中心に回っているようですが、よく考えると別に猫が活躍しているわけではなく、猫に振り回されるFBIという面白さを追求しているだけ。しかも笑いのネタになっているのは事件にかかわらないことばかり。誘拐事件を扱っているにもかかわらず、あまりいさかいが起きないというのも不思議。 などなどいかにもディズニーという展開は子どもが見ていても安心ということはありますが、やはりコメディなんてものはばかばかしかったり、お下劣だったり、したほうが面白いわけです。
 要するに、特に面白くないということがいいたいわけですが、そもそもサスペンスでもあるはずなのに、犯人が誰かという謎解きの部分は全くない。面白いところといえば、パティとジークの夫婦漫才のようなところ。ジークはなかなか面白いですが、『クール・ランニング』のひとだそうです。
 やはり、ディズニーのコメディはなかなかヒットしないと確認したしだいでした。

ロミーとミッシェルの場合

Romy and Michele’s High School Reunion
1997年,アメリカ,91分
監督:デヴィッド・マーキン
脚本:ロビン・シフ
撮影:レイナルド・ヴィラロボス
音楽:スティーヴ・バーテック
出演:ミラ・ソルヴィーノ、リサ・クドロー、ジャニーン・ガロファロー、アラン・カミング

 高校から親友で、ロサンゼルスに出て10年間ずっと一緒に暮らしてきたロミーとミッシェル、車の修理工場でキャッシャーをやっているロミーと、仕事もなく、2人の服を自分で作っているミッシェル。そんな2人のところに高校の同窓会の便りが来た。高校時代を振り返り、自分たちは決して人気者でなかったことを思い出す2人だが…
 ミラ・ソルヴィノと『フレンズ』のリサ・クドロー主演のコメディ。コメディとはいっても、ストレートな感じではなく、アンチクライマックスで変化球な感じ。リサ・クドローが『フレンズ』のままのとぼけたキャラで笑いを誘う。

 コメディという頭で見始めて、確かにコメディなんだけど、どうも笑いどころが少ないというか、テンポが悪くて、話が進んでるんだか戻ってるんだか、右にいってるのか左にいってるのか、なんのこっちゃらさっぱりわからん。感じなんですが、2人がクラブに行って踊るなぞの踊りからしても、ミッシェルが作っているという普段の服からしてもふたりのダサかっこよさが眼目になっているだろうことはわかる。
 それにしても妙な「間」で、とにかくすべての「間」が長い。ぽんぽんとテンポよくギャグの応酬という感じではなくて、なんかおこったら長い「間」があって、物語が展開しそうであいだに他のエピソードが入って、しまいにはやけに長い夢が出てきて、こりゃ最後のドカンと落とすのかと思ったら、さらに妙な「間」のダンスシーンが。しかし、このダンスシーンは最高。とてもわけのわからない笑いのセンスに脱帽。この監督は何者なのか… このダンスシーンはMTVムービー・アワードのダンスシーン賞(そんな賞があったんだ…)にもノミネートされたらしい。
 というなんだか気の抜けた笑いと気分に襲われる脱力系コメディ。アメリカのコメディらしく人生とか友情なんかについても考えさせちゃったりして、ふだん肩いからせて歩いている人はこんな映画を見てください。
 人生で一番大事なもの。それは「笑い」ふふふふふ(不気味)。

マニュファクチャリング・コンセント – ノーム・チョムスキーとメディア

Manufacturing Consent: Noam Chomskyand the Media
1992年,カナダ,167分
監督:マーク・アクバー、ピーター・ウィントニック
撮影:マーク・アカバー、ノルベール・ブング、キップ・ダリン、サヴァ・カロジェラ、アントニ・ロトスキー、フランシス・ミケ、バリー・パール、ケン・リーヴス、ビル・スナイダー、カーク・トゥーガス、ピーター・ウィントニック
音楽:カール・シュルツ
出演:ノーム・チョムスキー、エドワード・S・ハーマン

 世界で一番重要といわれる思想家ノーム・チョムスキー。言語学者として画期的な学説を発表する一方で、ベトナム戦争の反戦運動をはじめとしてさまざまな政治活動にも参加する。多くのテレビ・ラジオに出演し、講演を行い、自分の考えを率直に述べていく。そんな彼がメディアと国家の陰謀を指摘した著書『合意の捏造』。これをネタにしてチョムスキーを追ったドキュメンタリー。
 とにかく膨大な映像を材料として手に入れ、それをうまく構成したという印象が強い。チョムスキーという人物の人物像と思想がわかりやすい形で浮かび上がり、小難しくなく見ることができる秀逸な作品。

 この映画はチョムスキーという人を徹底的に追って、彼の思想をわかりやすく描こうという意図で作られていると思うけれど、それがそのまま監督(たち)が完全にチョムスキーに同意しているというわけではないと思う。もちろんチョムスキーに賛同し、その意見を人々に広めたいという意図はあるだろう。しかし、そもそも人の意見が完全に一致するはずなどなく、彼らも結局のところチョムスキーの思想を「メディア」として自分の都合のいいように媒介しているに過ぎない。
 と書くと、かなりの誤解を生みそうですが、この映画はそれくらいの疑いをメディアに対して持たせる。もちろんこの映画はそのあたりも織り込み済みで、大手企業に独占されるメディアの状況や、独自の意見を表明し続ける独立系のメディアを描いて、自らの正当化を図る。この映画はそもそもメディアについてメディアにおいて語るチョムスキーを描いたメディアなので、問題は複雑だ。
 彼らの意図は、政府や大手メディアのようにチョムスキーの意見を曲解することではなく、チョムスキーの意見を広くわかってもらうために都合のいい部分だけをピックアップする。そのような意味で自分が伝えようとする部分意外は排除するわけだから、完全にチョムスキーに同意しているわけではない。
 この辺りがなかなか難しいところで、時間の限られたテレビショーが話の長いチョムスキーを拒否するのとある部分では似通っている。しかし、ぜんぜん違うというのも確かだ。
 つまり、この映画を見るわれわれはこれはチョムスキーの解説映画であって、チョムスキー自身ではないのだと了解することは必要だ。そのようなものとしてわたしはこの映画もこの映画に登場するチョムスキーも全面的に支持する。この映画はユーモアにあふれているし、人々の目を開かせるような事実を(チョムスキーを介して)明らかにしている点で衝撃的だし、理論的にも整然としているし、チョムスキーの人柄も垣間見える。チョムスキーについてどんな入門書よりもわかりやすく解説していると思う(多分)。

 チョムスキーの思想自体は映画を見てもらえばわかると思うので、あまり深くは触れないが、彼の思想もなかなか複雑だ。ともかくメディアと大衆の関係性について語り、巨大企業と一部のエリートに操作されている大衆に警句を発する。しかし、他方で大衆を完全に信頼しているわけではない。チョムスキーを見ていると、言い方は悪いが大手メディアとの間で洗脳合戦をしているという気もする。ちょっと考えればチョムスキーのほうが正しいということは頭では理解できるのだが、彼もいうように現在の状況から逃れることはなかなか難しい。根本的な社会制度の改革、そんなことが可能なんだろうか。