木と市長と文化会館/または七つの偶然

L’Arbre, le Maire et la Mediatheque ou les Sept Hasards
1994年,フランス,111分
監督:エリック・ロメール
脚本:エリック・ロメール
撮影:ダイアン・バラティエ
音楽:セバスチャン・エルムス
出演:パスカル・グレゴリー、ファブリス・ルキーニ、アリエル・ドンバール

 ナントから少し離れた農村で市長を務めるジュリアンは国民議会に打って出ようとする一方で、地元の市に文化会館を立てようと計画していた。しかし、恋人のベレニスはあまり賛成していない。また、小学校教師のマルクは建設予定地の巨木を含めた風景を壊すことに強く反対していた。
 ロメールといえば恋愛というイメージがつきまとうが、この映画は少し恋愛からは離れたところで物語が展開される。しかし、このような論争的なことを取り上げるのもロメールの一つの特徴であり、恋愛も全くおざなりにされるわけではない。

 ロメールの映画には、哲学的というか論争的な会話が必ずといっていいほど出てくる。恋人同士の間であったり、友達同士の間であったり、友達の恋人だったり、パターンはいろいろだけれど、言い争いというか議論がどこかで展開される。この映画はその議論の部分を映画の中心に据えて、全体をまとめた映画。恋愛はいつもとは逆に部分的なものになる。
 そのような論争的なことが物語の中心となるので、自然と映画全体が群像劇じみてくる。ロメールの映画というと2・3人の中心的な登場人物がいるというものが多いイメージ。その点でこの映画は他のロメールの映画と違うといえるかもしれない。
 しかし、ロメールはロメール。単純な映画であるにもかかわらず、いろいろな仕掛けがあきさせない。始まり方もなかなかステキで、そこで出てきた「もし」(フランス語では“si”)が各チャプター頭のキャプションが“si”で始まっているのがおしゃれ。

 この映画を見て、エリック・ロメールはゴダールとは別の意味で天才的だと実感する。ゴダールの天才は見るものを圧倒するものだけれど、ロメールの天才は見るものを引き込むもの。ゴダールの映画を見ると、よくわからないけれどとにかくすごい、という印象に打たれる。ロメールの映画を見ると、必ず何かが引っかかって、するすると映画を見てしまい、終わってみれば面白かった、という印象が残る。そのさりげなさが天才的。
 やはりヌーヴェル・ヴァーグはすごかったということか。ロメールとかゴダールとかヴァルダの映画を見ていると、世界はいまだヌーヴェル・ヴァーグを超えられてないんだと思わされてしまいます。

地獄の警備員

1992年,日本,97分
監督:黒沢清
脚本:富岡邦彦、黒沢清
撮影:根岸憲一
音楽:船越みどり、岸野雄一
出演:久野真紀子、松重豊、長谷川初範、諏訪太郎、大杉漣

 タクシーで渋滞に巻き込まれる女性、彼女は一流企業曙商事に新しくできた12課に配属された新人社員。同じ日、警備室にも新しい警備員が雇われる。ラジオでは元力士の殺人犯が精神鑑定により無罪となったというニュースが意味深に流れる…
 ホラーの名手黒沢清の一般映画監督第2作。日常空間がホラーの場に突然変わるという黒沢清のスタイルはすでに確立されている。怖いことはもちろんだが、映画マニアの心をくすぐるネタもたくさん。いまや名脇役となってしまった松重豊のデビュー作でもある。

 この映画にはいくつか逸話じみた話があって、その代表的なものは、大杉連が殴られて倒れるシーンは、日本映画で初めて殴られ、気絶する人が痙攣するシーンだという話です。実際のところ、人は痙攣するのかどうかはわかりませんが、普通の映画では殴られた人はばっさりと倒れて、そのままぴくりともしない。この映画では倒れた人がかなりしつこく痙攣します。アメリカのホラー映画なんかでは良く見るシーンですが、確かに日本映画ではあまり見ない。
 わたしはあまりホラー映画を見ていないのでわからないのですが、有名なホラー映画のパロディというか翻案が多数織り込まれているという話もあります。

 まあ、そんなマニアじみた話はよくて、結局のところこの映画が怖いかどうかが問題になってくる。一つのポイントとしては、最初から富士丸が怖い殺人犯であるということが暗示されているというより明示されている。というのがかなり重要ですね。誰が犯人かわからなくて、いつどこから襲ってくるかわからないという怖さではなくて、「くるぞ、くるぞ、、、、来たー!!」という恐怖の作り方。それは安心して怖がれる(よくわかりませんが)怖さだということです。 そんな怖さを盛り上げるのは音楽で、この映画では「くるぞ、くるぞ、、、、」というところにきれいに音楽を使っている、小さい音から徐々に音が大きくなっていって「くるぞ、くるぞ、、、」気分が盛り上がるようにできている。このあたりはオーソドックスなホラーの手法に沿っているわけです。だからわかりやすく怖い。
 しかし、(多分)一か所だけ、その音楽がなく、突然襲われる場面があります。どこだかはネタばれになるのでいいませんが、見た人で気付かなかった人は見方が甘いので、もう一度見ましょう。
 そういう場面があるということは、そういう音による怖さの演出に非常に意識的だということをあらわしていて、それだけ恐怖ということを真面目に考えているということ。もちろん、考えていないと、これだけたくさんホラー映画をとることはないわけですが、こういうのを見ていると、恐怖を作り出すというのは、本当に難しいことなんだと感じます。

 ホラー映画が好きでなくても、映画ファンならホラー映画を見なければなりません。ホラーというのは新たな手法を次々と生み出しているジャンルで、そこには映画的工夫があふれている。ホラーではそれが恐怖という目的に修練されていて、その工夫の部分がなかなか見えてこないけれど、実は工夫が目につくような映画よりも新しいこと、すごいことをやっている。
 だから、たまにはホラー映画も見ましょうね。

BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界

Ballet
1995年,アメリカ,170分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 映画はABT(アメリカン・バレエ・シアター)の事務所から始まる。電話に向かって大声で交渉を行っている。つづいて練習風景。車椅子のお婆さんが振り付けをしている。車椅子に座っていても、凛とした姿でもともとバレリーナだったことが見て取れる。その後も練習風景を中心として講演に向けた準備を着々と進めていく光景を追っていく。
 世界的に有名なABTの内部に始めてカメラが入った。練習風景から、舞台裏、公演に至るまで克明に記録したのがこの映画。ワイズマンらしい鋭さよりも映像の美しさが際立つ作品。

 ワイズマンについて語るとき、どうしてもその映画が提起する問題について語ってしまいがちである。それはもちろんワイズマンがそうさせているからであって、ワイズマンの映画とはおそらく本質的に観客を問題に意識的にさせるための道具であるのだろう。
 しかし、ワイズマンがそのように映画をテキストとして読むことを要請してるとは言っても、単なるテキストであるわけではない。それがテキストとして読まれることを可能にしているのは、映像と音声であり、その(視覚的と聴覚的な)造形の見事さが映画の根幹を支えていることはいうまでもない。
 この映画を見てまず意識に上るのは、その映像の美しさだ。もちろんそれはABTのダンサーたちの体や動きの美しさに負うところが大きいが、ワイズマンはそれを見事にフィルムに焼き付ける。この映画を見ると、ワイズマンの映画もまたテキストである以前に映像であるのだということに気付かされる。

 この映画はそんなワイズマンの美的/芸術的要素が前面に出ている映画だ。ABTという一つの集合体を被写体とするという意味ではこれまでのスタンスと変わりはない。しかし、その被写体は今までになくいわゆる政治/社会的な文脈よりも文化的な文脈におかれるのにふさわしい被写体である。
 テーマというかテキストを抽出するならば、人々あるいは社会と芸術との関係性ということがいえ、それは続く『コメディ・フランセーズ』にもつながっていく問題意識である。
 特権的空間を日常的空間として描く点も『コメディ・フランセーズ』と共通する。ワイズマンはこのふたつの映画によって特権化されがちな芸術(高等芸術)を日常的なものに意味づけなおすということをやっているのではないか。ギリシャの青空の下で行われるリハーサルの風景、それはえもいわれぬ美しさを持っているけれど、それは手の届かないところにあるのではなく、それを眺める少女の身近にあるものである。そのようなメッセージが画面から伝わってくる。そもそもバレエを映像に捉えること自体、日常的空間への転移の一種であるだろう。
 そのようにして特権を剥ぐことによって、ワイズマンは芸術を身近なものに感じさせることに成功している。そしてそれは価値を貶めるのではなく、むしろ高める。ワイズマンのフィルムに刻まれた練習風景を見ていると、本番が見たくなる。しかも本物の舞台を見たくなる。
 ワイズマンの目的は人々を舞台に連れて行くことではないだろうけれど、少なくとも芸術と日常を密接に結びつけること。これがワイズマンが意図したことの一つであることは間違いない。

アメリカン・ビューティー

American Beauty
1999年,アメリカ,117分
監督:サム・メンデス
脚本:アラン・ボール
撮影:コンラッド・L・ホール
音楽:トーマス・ニューマン
出演:ケヴィン・スペイシー、アネット・ベニング、ゾーラ・バーチ、ミーナ・スヴァーリ、ウェス・ベントリー

 アメリカの田舎町、広告会社に勤める父と不動産業を営む母、ティーンエージャーの娘。典型的なアメリカの過程の風景だが、物語は父の自らの死の予告、娘の父を軽蔑する言葉、から始まる。
 家庭の崩壊、ドラッグ、ティーンエージャー、アメリカ的なものを並べ、アメリカのイメージを描く。「この国は地獄に落ちる」という言葉が頭に残る。どう見るかによって評価は分かれる。つまらないということはないし、見る価値もあると思うけれど、手放しで誉めるのはどうだろう?

 ストーリーを追っていくと、こんなにつまらない作品はないですね。全体が謎解きじみた構成になっているわりに、それが推理ゲームになるわけではない。最初に死を予告しておき、何度も死に言及する割に、それがテーマになってはいない。それはこの映画の構造が、死を予告しておいて、その死によって幕を閉じるということで一見まとまっているように見えるけれど、実際のところ何も解決してはいないということが原因なのかもしれない。このケヴィン・スペイシーの死をめぐる物語が映画の主プロットなのだとしたら、こんなつまらない映画はない。
 しかし、実際のところこの映画には主プロットはなく、さまざまな小さなプロットが積み重ねられてできているわけで、その小さなプロットのひとつが最初と最後に突出して、ひとつの物語りじみたまとまりをつけているというだけのもの。しかもその主人公であり、語り部であるケヴィン・スペイシーの心理激であるような印象を全体に残すので、ひとつのまとまりある物語を見たという印象を受けてしまう。
 このプロットの展開にだまされてしまうと、なんとなく「いい映画だった」と思ってしまう恐れがある。それはなんとなく奥深いような意味深いような複雑なような印象。

 この見せ掛け上の話のまとまりの裏に隠されているのは、アメリカのさまざまな姿で、しかもそれはアメリカの暗い部分というか、問題をはらんだ部分であるということ。一人の中年男の倒錯の物語という覆いにさまざまな問題が隠されている。
 この映画の構成はふたつの解釈ができる。一つはいろいろな話をぶち込んで、誰もが引っかかる部分を設け、映画にヴァラエティを持たせて、映画に厚みを持たせる。もう一つは、見せ掛け上の主プロットによって、さまざまな問題を覆い隠し、むしろ問題のほうをうったえかけようとする。
 さまざまなほうっておかれる問題、ゲイ差別、ドラッグ、家庭の崩壊、などなどが解決しないのは、現実の反映で、現実でも決して解決されえない問題であると明かしているように見える。そして暗黙のうちに提示される「アメリカ=白人」という構図。
 わたしの印象としては、この映画はそれらの問題を問題化していないように見える。そういう問題はあるけれど、それはそれとしてアメリカはアメリカ、人間は人間、みたいな。ちょっとうまくかけないんですが、これらの問題は問題として提示されているのではなく、「こういうことがある」という事実としてある。それを解決しようとかそういうことではなくて、そのような事実が存在するアメリカでどのように生きるのか、そのサンプルのようなものを何人か提示したという形。その生き方のヴァラエティのどれかに見ている人たち(主にアメリカの白人)がはまれば映画と観客の関係はうまくいくという感じ。
 そのように感じる一番大きな要素は、音楽の使い方で、誰がどんな音楽を聴くのか、という要素がこの映画で非常に大きな意味を持つ。音楽はいいんですが、それがいいとか悪いとかいうことではなくて、音楽がうまく利用されているということが大きい。そのうまく利用されているということは音楽にとどまらず、すべてのトピックが映画のために利用されていて、全体としては「ゼロ」になるようなそんなつくり。簡単に言ってしまえば、いろいろ意味深いことを言っているようで、結局のところ何も言っていない。そんな映画。
 それでいいといえばいいんだけれど、「いい映画」とはいえない。

ダブル・リアクション

Perfect Assassins
1998年,アメリカ,98分
監督:H・ゴードン・ブース
脚本:ジョン・ペニー
撮影:ブルース・ダグラス・ジョンソン
音楽:ジョフ・レヴィン
出演:アンドリュー・マッカーシー、ロバート・パトリック、ポーシャ・デ・ロッシ、ニック・マンクーゾ

 何かのレセプション会場が銃を持った男たちに襲撃される。何人もの要人や警察官が殺され、犯人のうち二人は自殺、一人は逃亡中に捕まった。しかし、その一人も銃口を自分の口に突っ込んで自殺しようとしていた。それを目の当たりにしたFBI捜査官のベン・キャロウェイはこの事件の裏には何かあると感じるが、上司に止められ、独自に捜査を始める…
 典型的なアメリカのB級アクション映画。派手な銃撃戦と、ちょっとしたロマンスと裏切りと。社会批判をスパイスに。そんな映画。

 主役の人は知りませんが、相棒のリオ役は『ターミネーター2』で液体金属の新型ターミネーターを演じた人でした。日本ではあまり目にしないけれど、こんなところに出ていたのね。そしてヒロインの女の人はたぶん『アリー・マイ・ラブ』に出ている人です。主役ではありませんが、それでも男勝りのアクションを展開。こういう華奢な女性が派手なアクションを繰り広げるというのが最近の流行のようです(この映画はちょっと前だけど)。『トゥーム・レイダー』とか、今度公開する『バイオ・ハザード』とか。最近多いですね。
 さて、この映画の結末に用意されているのは、一種の政府批判で、まあたいした批判ではありませんが、基本的に政府やメディアに対する不信感がそこにはある。簡単に言ってしまえば、事件をもみ消してしまうということだけれど、そういうテーマもアメリカにはかなり多い。そういうものを繰り返し見せられていると、やっぱり本当にそうなんだろうなー、という気がしてきて、実際本当にそうなんだろうけれど、何か居心地が悪い。
 そんなアメリカの姿を描きながらも、アメリカにはヒーローもいるというのがこの映画のテーマで、この映画に限らずB級映画にはそんなものが多い。世の中は腐っているけれど、身近にはまだヒーローがいる。そんな希望というか誇りというかそのようなものが良く描かれる。しかし、いわゆる大作ハリウッド映画では(特に最近)世の中が腐っているという描かれ方すらしなくなっている。『ダーティー・ハリー』とか『リーサル・ウェポン』では、組織の爪弾きものが実はヒーローという話だが、そうも最近はヒーローが組織の中でもヒーロー見たいな印象。あくまで印象ですが。
 何を見ても、そんな由々しき状況が見えてしまう。B級映画のほうにアメリカの精神は生きているとわたしは思います。たいして面白くはないけれど、『トータル・フィアーズ』(見てないけど)なんか見るよりは、この映画見てた方がいいと思う。

ワイルド・アット・ハート

Wild at Heart
1990年,アメリカ,124分
監督:デヴィッド・リンチ
原作:バリー・ギフォード
脚本:デヴィッド・リンチ
撮影:フレデリック・エルムズ
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:ニコラス・ケイジ、ローラ・ダーン、ウィレム・デフォー、イザベラ・ロッセリーニ、ハリー・ディーン・スタントン

  あるパーティー会場で、ナイフで脅されたセイラーは素手でその相手を殺してしまう。故殺とされてセイラーは矯正院に入れられる。約1年後、矯正院を出たセルラーを恋人のルーラが迎える。二人は車で旅に出るが、ルーラの母親がそれを阻止しようと追っ手を送り込んだ…
 デヴィッド・リンチの名を不動のものとした、これぞまさに「リンチ・ワールド」という作品。執拗に繰り返されるマッチのクローズアップなど、映画に奇妙なバランスを持ち込んだ。登場人物たちもどこか普通ではない。理解しようとしてはいけない。感じようとすれば最後に何かが見えてくる。

 一つ一つのシーンの意味なんかを考え出すと、わけがわからなくなりますが、全体的な印象として、この映画は子供の映画だということ。登場人物たちはすべて子供で、それは自分の欲求をストレートに追求しているということ。そして、世界のとらえ方も現実を理性的に捕らえるのではなく、感性で自分の感じる世界をそのまま受け入れるというとらえ方。そのように考えると映画を一つの構造体としてみることが(私には)できる。
 口紅で顔を真っ赤に塗りたくる母親も、最初は狂気のように見えるけれど、子供らしいいたずらというか、幼児的な行動。これに限らず母親の行動はまさに子供じみた行動で、わがまま放題、周りを振り回して自分の欲求を果たそうとする。 これはこじつけかもしれないけれど、この映画には子供は一人も出てこないけれど、逆に老人ばかりが働くホテルが出てきたりする。「何年と何ヶ月と何日」という妙に正確なキャプションも、妙に正確性を求める子供的発想と考えられなくもない。
 なので、最後のあまりにくさいというか、そんなんでいいのか、と思ってしまいそうなラストにも納得。セックスとバイオレンスを描いた映画ならあんな終わり方はしないはずだが、これは子供映画なので、絵に描いたようなハッピーエンドが必要だったのだ。

 という風に私は考えたわけですが、これもあくまでこういうとらえ方もあるということです。おそらく、セックスとバイオレンスをパロディ化した一種のコメディ映画だという見方もできるだろうし、生と死と狂気を見つめた精神的な映画と見ることもできるだろう。どの見方も、この映画の一面をとらえている一方で、一面を見逃している。私は自分のとらえ方に固執しながら、それによってすべての理不尽が許されてしまい、その結果この映画が持つ細部へのこだわりがあまり意味を持たなくなってしまうということを感じている。序盤の徹底的に原色にこだわった画面作りなどを解釈することはできない。
 ということは、そのような自分なりの解釈を抱えて、もう一度この映画を見ることができるということでもある。あらゆる解釈を可能にすることで、繰り返し見せるような映画。それがデヴィッド・リンチの映画であると思う。

メイン州ベルファスト

Belfast, Maine
1999年,アメリカ,247分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 朝焼けの中、ロブスターの漁をする舟。かごを海底から引き上げ、そこからロブスターを取り出す。そんな漁業が行われているベルファスト。続いてクリーニング屋が映り、さらに町のさまざまな場所が映し出される。
 ワイズマンの30本目のドキュメンタリーに当たるこの作品はひとつの施設や組織ではなく、町全体を被写体とした。そのことによって、さまざまな要素がカメラに切り取られることになる。それはこれまでにワイズマンが映してきたさまざまなものを包括するものであるという一面も持つ。

 これはワイズマン流のひとつのアメリカ史なのだと思う。ニューイングランドにあるこの町は南北戦争以前からあり、教会がいくつもあり、白人しかおらず、老人が多い。こんな小さな町であるにもかかわらず、あらゆるものがある。何もないという言い方もできるが、逆に何でもあるという言い方もできる。商業、漁業、農業、工業といった産業もあるし、商店や映画館、裁判所、図書館、病院など、アメリカの社会に必要なあらゆるものがこの小さな町(小さな町であることは画面から十分に伝わってくるが、資料によれば人口6000人の町らしい)にある。 具体的な歴史も出てくる。南北戦争を研究する男、アーサー・ミラーやハーマン・メルヴィルについて教える授業。それはアメリカ史そのものである。
 これを見てワイズマンがどのような歴史観をもっているかということを推測するのはなかなか難しいが、少なくともワイズマンはあくまでもアメリカにこだわっている。そして、おそらくアメリカを活気に満ち溢れた国というよりは、年老いた国と見ている。それは他の国との比較という意味ではなくて、歴史を振り返ってみてアメリカも年老いたということを言っているのだと思う。老人人口は増え、医療に膨大な金が掛かる。南北戦争のころのような新しいものを生み出す活力はすでになく、工場のように同じものを作り続けているだけ。この映画を見ているとそのようなイメージが浮かんでくる。
 だからといって悲観しているわけではなく、悲観とか楽観という視点を超えて、あるいはそのような視点には踏み込まないで、そのようなアメリカを問題化する。歴史を取り出して、その問題を明確化する。ワイズマンがやっているのはそのようなことだ。

 とにかくこの映画にはこの町には老人ばかりがいる。一人のおばあさんがフラワーアレンジメントの教室と、南北戦争の講義とおそらく両方に出ていたので、必ずしも老人が大量に要るというわけではないだろうが、この町が高齢化していることは確かだ。そんな中で問題となってくるのは、医療や社会福祉という問題だ。それはワイズマンがこれまでに扱ってきた問題で、この映画はワイズマン映画の見本市のような様相を呈する。
 それらの問題は、つまりいまだアメリカにおいて問題であり続け、ワイズマンにとっても問題であり続けるようなことだ。
 わたしが面白いと思ったのは裁判所の場面。たくさんの被告人が呼ばれ、一人ずつ機械的に罪状認否をして言く。有罪だと主張すればその場で罰金刑が科され、無罪を主張すると、裁判になる。そのオートマティックな裁判所の風景は、缶詰工場の風景を思い出させる。これはもちろんアメリカの裁判の数の絶対的な多さからきていることだが、ここにもアメリカの病の一端があるような気がする。
 それも含めて、この町はアメリカが抱えているあらゆる問題を同様に抱えている。小さな田舎町。その風景はおそらく多くのアメリカ人にとっての原風景に通じるものがあるのだろう。そして、歴史という時間軸とさまざまな事象という事象平面によって提示されるこの町の全体像をアメリカの縮図とする。ワイズマンのカメラはそんな仕掛けを用意してこの町を映し出す。

動物園

Zoo
1993年,アメリカ,130分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 この映画の始まりはわれわれがイメージするままの動物園だ。象のショーが行われ、家族連れや、カップルが思い思いに動物を見、動物に触れている。舞台となっているのはマイアミにあるメトロポリタン動物園。マイアミという土地柄かトロピカルな鳥なども多い。
 一般的な動物園を見せた後カメラは動物園で働く人々を映し始める。ワイズマンの目は主にこの働く人々に注がれるが、それだけではなく、動物にも、客たちにも等しく注がれる。そこにあるのは動物園という世界のそのままの現実である。

 ワイズマンは施設を被写体にするといっても、実際はその中で主に描こうとする対象、あるいは多くの時間を割いて映す対象がある。しかし、この映画は客も映っているし、従業員も映っているし、動物だけが映っている場面もある。どれかが突出するということもなく、全体像をうまく描く。
 そのように見えたときに受ける印象は、この映画が動物園の疑似体験のように感じられるということだ。観客は動物園の客として、しかし単なる客ではなく、普通の客には入れないような特権的な内部にまで入ることのできる客としてこの動物園を見る。そこには動物園で得られる喜びと、動物園の裏側を見ることによる驚きがある。サイの出産やワニの産卵というドラマは、この映画のそのような見世物的な印象を強める。

 しかし、もちろんワイズマンはこの映画を見世物として作ったわけではない。そんな見世物的なものからはみ出す部分がこの映画にはやはりある。
 わたしが一番引っかかったのは、従業員の動物たちに対する態度だ。サルに接するときのように愛情をもって接している場面を捉えることもあれば、病に冷淡に接する場面を捉えることもある。この映画のハイライトのひとつとも言えるサイの解剖のシーン、解剖を終えたサイを焼却炉に放り込む獣医の行動はあまりに淡白すぎるように見える。
 しかし、それが単純な動物愛護というような訴えでないことは明らかだ。このシーン意外で目につくシーンは、オオトカゲとヘビの食餌のシーンだろう。オオトカゲはアジか何かの魚とひよこを咀嚼しながら飲み込んでいく。ヘビは、飼育係によって、頭を殴られ殺されたウサギをそのまま丸呑みにする。このひどく残虐でグロテスクなシーンは観客にショックを与えるとともに、その意味を考えさせる。表面的な残虐さにとらわれると真実が見えなくなってしまうということを示している。
 そのような真実が見えている従業員たちは動物と微妙な距離感を保つ。その距離感になんだかメッセージが込められているような気がする。

 そんなワイズマンはこの映画で何度か動物園を取材に来ている人たちを映す。彼らは小道具として草を手に持ったり、わかりやすいコメントを何度も撮ったりする。それがワイズマンの姿勢とは正反対であることは明らかだ。ワイズマンがあえてこれを編集後も残したのは、明確に自分の存在意義というか、いわゆるTVドキュメンタリーとの違いというものを明らかにしておこうという意図があったのだろう。動物園というわかりやすい題材を、わかりやすくとったワイズマンは、このTVクルーの映像をいれることで、わかりやすく彼らとの差異化を図った。

パブリック・ハウジング

Public Housing
1997年,アメリカ,195分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 シカゴにある公共住宅アイダ・B・ウェルズ・ホームズ、主に低所得者層のマイノリティが住むこの公共住宅には、老朽化などのさまざまな問題がある。住人たちにも、失業、犯罪、麻薬などの問題がある。そんな問題だらけの公共住宅に住む人々にワイズマンは目を向けた。
 公共住宅という性質上、役所との交渉がそこには常に存在している。それと同時に、さまざまな話し合いが持たれたり、託児所があったり、バザーが開かれていたり、ひとくくりにはできないさまざまな生活がそこにはある。

 これは公共住宅の映画ではない。最初のほうこそ公共住宅の問題点が語られ、害虫駆除などの具体的な問題が提示されるが、それを過ぎると公共住宅というひとつのコミュニティーの話となる。これは『病院』のような施設の性質と密着にかかわる話ではない。ある地域があって、そこは公共住宅で、そこに住む人は貧しかった、という場所設定のドキュメンタリーでしかない。
 それがどうということではもちろんない。それはただなんとなく、この映画がワイズマンのほかの映画とはちょっと違うということを示しているに過ぎない。

 この映画で一番目を引くのは、昼間からあまりにもたくさんの人が家の近くをぶらぶらしているということだ。これは失業の問題が最も大きく作用しているわけだが、ここにアメリカの抱える根本的な問題がある気がする。もちろん彼らだって働く意思はある。しかし、他方で働かなくても家はあるし、食べていけないこともない。彼らは政府が何とかしてくれると思っている。
 わたしは別に努力をしないのがいけないといいたいわけではない。彼らに生活させることができる政府の施策も間違ってはいないだろう。問題なのは彼らの這い上がりたいという欲望の持って行き所がないということだ。住宅管理局のロン・カーターはしきりに「会社を作れ」とけしかけるが、聞く者たちの目は不審気だ。そこには成功するわけないという一種の諦めがあり、閉塞感がある。それは、結局政府は助けてくれないという諦めでもあるが、しかし他方で政府の援助なくしては暮らせないという現実にも直面せざるを得ない。その自分の中での矛盾はただその閉塞感をさらに増すだけだ。

 彼らの問題を突き詰めていくと、結局話しは麻薬に行ってしまうのか。この公共住宅には麻薬中毒者と思われる人がたくさんいる。売人などもいるらしい。麻薬が彼らを閉塞感の悪循環に追い込んでいることは確かだ。おそらく警察を含め、周辺に住む人々はアイダ・B・ウェルズを麻薬中毒者の巣窟のように思っているのだろう。じじつ、警官は映画の最初のほうで、公園の同じところに3時間も立っていた女を売人と決め付ける。偏見は新たな悪循環を生む。
 それでも映画の終盤に出てくる、治療を受けるためのカウンセリングのシーンは感動的だ。カウンセリングを行う医師の徹底的な我慢強さ。2人の間にはしっかりとコミュニケーションが成立し、きっと彼はちゃんとした治療を受けるだろう。これはこのコミュニティが立ち上がるひとつの方向性を示している。もうひとつその方向性を示しているのは、ボランティアについての話し合いだ。「なんて当たり前のことを言っているんだろう」とは思うが、当たり前のことを当たり前に行って、信頼を勝ち取ってゆくことによって偏見は解消されていくはずだ。しかしワイズマンはこの公共住宅の未来に必ずしも楽観的なわけではない。ほとんどの問題は解決される見込みもないまま放置されている。
 先ほども言ったロン・カーターの話をどうだろうか? どうもうまく実現するようには思えない。子供に対する知育はうまくいくだろうか? DV教室でも言われているように、親の姿を見て育つ子供が、この環境の中で健全に生きることにあまり希望は持てない。麻薬の誘惑を断ち切れるような子供は早々にここから出て行ってしまうのでは

ライフ・オブ・ウォーホル

Life of Warhol
1990年,アメリカ,35分
監督:ジョナス・メカス
撮影:ジョナス・メカス
音楽:ベルヴェット・アンダーグラウンド
出演:アンディ・ウォオール

 ドキュメンタリー作家ジョナス・メカスが撮り続ける日記フィルムのなかから友人であるウォホールを撮影した部分を抜粋し編集したフィルム。
 家族とのヴァカンスや、ベルヴェット・アンダーグラウンドの初ステージなど資料的に貴重というか、なかなか見られない素材がトリップ感のある映像として編集されている。せりふがまったくなく、全編にわたってアルバム風な仕上がりになっている。

 ベルヴェット・アンダーグラウンドの音楽に引っ張られてというわけではないだろうけれど、前半は特に手持ちカメラの映像を早送りしたりして、80年代のトリップビデオのような印象。一体だれが映っているのかよくわからないほど。それは60年代から70年代くらいを写したものの話で、80年代を写したものになると逆に映像は落ち着いて、何が写っているかわかるようになる。そこにはウォホールの家族が写っていて、なんとなくウォホールのイメージとは違う。ウォホール家のホームビデオをのぞいているようなそんな感じ。でも、突然ジョン・レノンとオノ・ヨーコが写っていたりして面白い。
 マア、でも特に画期的な何かがあるというわけではない。構成も時系列にしっかり沿っているし、ふーんという感じで見るしかない。それがいいといえばそれがいいんだけどね。友人とはいえ他人を主人公にしてしまっているので、メカスの私小説的な雰囲気が出なかったというのもあるかもしれない。