陸軍中野学校

1966年,日本,95分
監督:増村保造
脚本:星川清司
撮影:小林節雄
音楽:山内正
出演:市川雷蔵、小川真由美、加東大介、早川雄三、E・H・エリック

 会田次郎は陸軍士官学校を卒業し、婚約者に送られた軍服を着て晴れて中尉として入隊を果たした。しかし会田が配属された連帯の草薙中佐におかしな質問を受け、いく日か経ったある日出張を命じられた。しかし、行ってみるとそこには士官候補生ばかりが18人集められ、スパイになるための教育を受けることを命じられたのだった。そして彼らはスパイになるため名も捨て、家族も捨て、将来も捨てた。
 勢いがあってクレイジーなストーリーがなんといってもすごい。人気シリーズとなりその後何本か続編が作られたが、増村保造は監督はしていない。

 本当にものすごい話。本当の話かどうかはわからないが、映画を見る限りでは戦争当時語られた話を基に作られたようだ。とにかく圧倒されてしまったが、とにかくクレイジー。それも挙国一致の軍国主義的なクレイジーさではないところがすごい。そしてその徹底振りがすごい。まったく人間性の入り込む隙間がないという感じであるのに、じつは中心にいる草薙中佐はひどく人情深い人間であるということ。決して人を人とも思わない非情さではない非情さであるところがすごい。
 む、このレビューはまとまらない予感がします。なので、とにかく思いついたことを羅列。
 草薙中佐の話し方が早い。初期の作品を思い出させるような早い台詞回し。それもまたクレイジーさあるいはストイックさを強調する。
 増村の映画には時折非常に無表情な登場人物が出てくるが、この映画の市川雷蔵もそのひとり。もちろんスパイという役柄だからだろうが、とにかくまったく表情がない。あるとすればかすかに眉間にしわが寄るくらい。しかしそこには常に緊迫感が漂い、迫力がある。
 草薙中佐のコンセプトがすごい。しかし、よく考えてみると、陸軍そのものをひっくり返すとか、植民地を解放するとか、今から考えればすごい説得力のあることだけれど、当時はひどく突飛というか、ある種、反逆的な発想だったんじゃないかと思う。それなのに生徒たちがついてきてしまうというのは、物語としておかしいの?でも、見ている時点ではまったくそんな疑問は浮かばなかった。

赤い天使

残酷な戦場で繰り広げられる壮絶な愛のドラマ、増村の傑作!

1966年,日本,95分
監督:増村保造
原作:有馬頼義
脚本:笠原良三
撮影:小林節雄
音楽:池野成
出演:若尾文子、芦田伸介、川津裕介、千波丈太郎

 従軍看護婦の西さくらは中国大陸の野戦病院に配属された。前線の病院では手足切断などあたりまえ、バタバタと人が死んでいく異常な状況の中でさくらは女性としての信念を貫き行き通そうとしていた…
 増村×若尾コンビ15作目のこの作品は、いつものように激しく愛に生きる女の生き様を描き、さらに戦争を舞台に選ぶことでその壮絶さを増し、描写に深みが増している。増村保造の傑作のひとつ。

 この映画は始まりから強烈だ。映画が始まるのは看護婦の西さくらが天津に赴任するところから。そして、その最初のよる、さくらは早速強姦されてしまう。その痛々しい描写と妙に冷めている兵隊たちの対照的な態度が強烈な印象を与える。そして、映画が始まって物の数分もしないうちに、さくらは更なる前線へと送られる。そこでは気が狂うほどのけが人が運び込まれ、昼夜を徹して腕や足を切り続ける。増村はその描写に手を抜くことなく、足を切断する瞬間を捉え、切り落とされた腕や足であふれんばかりのバケツを映す。この映画が白黒でよかった。これがカラーで描写がリアルだったら、このシーンにはとても耐えられないと思う。その意味では、この映画はあえて白黒なのかもしれないとも思う。過酷なテーマと陰惨な情景、それをカラーでリアルに表現して観客に衝撃を与えるよりも、白黒にすることで観客の頭の中で映像を組み立てさせ、強い印象を残す。そのような戦略であるのではないか。

 まあ、ともかく、この映画の衝撃的な始まり方は見事にこの映画のテーマを浮き彫りにする。それは「性」と「死」である。戦場でいつ死ぬかわからないという切迫した状況に立たされている兵士たちの性、それがこの映画の最大のテーマとなっているのだ。

 戦争という極限状態の中では、男女の間にはセックスという関係しか成立しえないのだろうか? そのような疑問がこの映画からは感じられる。強姦、慰安婦、などなど。そんな中で西さくらは岡部軍医を愛するようになる。しかしそのときの「愛する」ということの意味はいったい何なのだろうか。

 基本的にこの映画の中で人を愛しているのは西さくらだけだ。他の人たちはあきらめているか、絶望しているか、感覚を押し殺しているかである。

 たとえば、看護婦や軍医はそれほど死が切迫していないがゆえに「兵隊は人ではなくて物だ」などということを言う。彼らは兵士を人として見てしまうことによって押し寄せてくる怖さや悲しみを自ら遠ざけ、感情を押し殺し、実は自分の身近にも迫っているはずの死を遠ざけようとする。戦場という場に漂う死の空気に感染しないためにその空気の源泉である兵士を遠ざけ、自分は安全な場所に避難しようとする。もちろん安全な場所など存在しないし、そのことはわかっているのだけれど、そのようにして自分が安全であるという錯覚にすがらなければ生きていけない、そのためには感覚の切断によって自己保存を図らなければいられないのだ。もちろん岡部軍医が使うモルヒネというのがその感覚の切断をもっとも端的に表しているものだ。鎮痛剤であるモルヒネはまさに感覚の切断を意味している。

 もしかしたら岡部軍医がやたらめったら手足を切るのも、そのような切断の象徴なのかもしれない。彼は自分の感覚を切断するように手足を切断する。そのことで兵士を死から遠ざけると同時に、自分自身も死から遠ざかろうとする。

 しかし、西はそのような幻想にしがみつくことを拒否し、兵士とともに死に直面することを選ぶ。そして彼らに愛を振りまく。強姦されても、乱暴されても、自分が「殺した」ことになるしを受け入れるよりも、彼らを愛そうとするのだ。それがゆえに、彼らが物であるとか、他人であるとかと言って常に逃げようとする軍医や婦長に反発する。

 しかし、死に囚われている兵士たちもまた彼女を受け入れはしない。兵士たちの多くもまた感覚を切断することで死の恐怖から逃れようとしているのだ。だから彼らは愛されることを望まない。愛されてしまえば、死ぬことが怖くなるからだ。彼らは自分が求めているのは愛ではなくセックスだと自分に言い聞かせることで感覚を切断して行くのだ。

 あるいは、絶望からそれが反転する場合もある。映画の途中に登場する川津祐介演じる折原一等兵は、岡部軍医に腕を切断され、病院にずっといる。そのような悲惨な傷病者を帰すことは戦意の減退につながるということで内地に帰ることも出来ず、永遠にそこにとどまることになるとあきらめているのだ。彼は絶望しており、死を恐れていないから、感覚を切断することもなく、西が振りまく愛を受け入れる。西はその愛を岡部軍医に対する愛の延長であるかのように捉えるけれど、このことから明らかになるのは、岡部軍医に対する愛というものこそが西が振りまく無私の愛の延長にあるものだということだ。彼女が岡部軍医に好きな理由を「父に似ているから」というとき、重要なのは本当に父に似ているかどうかとか、近親相姦的欲望を抱えているかどうかということではなく、「父」という名前に象徴される崇高なものへの愛の具現化であるということだ。

 「西は人形ではなく、女になりたいんです」

 西のこの印象的な台詞の意味は「愛して欲しい」ということだ。それは自分が捧げる愛を返して欲しいということだと西はとっているが、これはむしろ岡部軍医に自分を通じて崇高なものへの愛を取り戻して欲しいという意味だと考えたほうがふさわしいのではないか。感覚を切断し、愛し合いされることを拒否し、最終的には絶望するのではなく、崇高なものに愛を捧げることによって生きようと努力すること、それこそが重要だと言っているのだ。

 この「崇高なもの」とはもちろん天皇ではないし、キリスト教的な神というわけでもない。もっと曖昧模糊とした価値あるもの、それが内地に残してきた子供という形をとったっていいし、もちろん宗教的な神という形をとったっていいわけだが、それらに化体される「父」なるものを西は愛するのだ。

 だから、西は岡部軍医よりもはるかに強い。そして、その強さというのは西のみならず戦時の女性全般が持っていた強さなのかもしれないのだ。戦後強くなったのは女と靴下といわれるように、戦後女は強くなったのだが、実は恩が強くなったのは戦後ではなく戦中なのではないか。男たちが「自分たちは戦っている」という大義名分の陰に隠れる一方で、生身で戦争に立ち向かわなければならなかった女たちは強くなった。西はそのような女たちの代表であるのだ。強くなるということは男になることではなく、より強く「女」であることである。「女」という記号が象徴するのは「母」つまり「愛するもの」である。女たちは「女」であることによって男よりも強くなり、自分を守っていたのだ。

 そのような「女」西さくらを演じるこの映画の若尾文子は本当にすばらしい素晴らしい。若尾文子のフィルモグラフィーの中でも1、2を争う出来、「女」らしいキャラクターとしては一番かもしれない(それと対照的なキャラクターを演じたすばらしい作品としては川島雄三監督の『しとやかな獣』などがある)。

 もちろん、増村保造監督の下で、若尾文子はさまざまな女を演じてきた。そして、この作品の若尾文子はそのさまざまな女の集大成を演じているようなのだ。フィルモグラフィー的にはこの後も『妻二人』『華岡青洲の妻『積木の箱』『濡れた二人』『千羽鶴』と増村作品に出演しているが、実質的にはこの『赤い天使』とその前の『刺青』が増村保造と若尾文子が組んだ作品の頂点に当たるのではないだろうか。

 ただ、興をそぐようではあるが、若尾文子は決してヌードを撮らせなかったことで有名な女優でもあり、この映画でもきわどい場面はほとんどがボディ・ダブルだと思う。注意深く見ていると、体をきわどく写すカットでは顔が映っていない。しかし、それも含めて、それが彼女の女優魂であるのだとも思う。別に裸で客を引っ張り込む必要はない。弱い男たちに彼女は愛を捧げ、男たちは自分が強くなったような気がして満足して帰って行くのだ。

 そういえば、この作品では西と岡部軍医がいるシーンで、画面に遮蔽物が映っていたり、画面の半分が暗くなっていることが多いような気がする。このようなシーンはおそらく観客に覗き見しているかのような感覚を与えることになるだろう。覗き見しているということは、つまり見ている側は安全な場所にいることを意味しているから、このような画面の作り方までもが男どもを励ましているかのように思えてきてしまうのだ。

プライベート・ライアン

Saving Private Ryan
1998年,アメリカ,170分
監督:スティーブン・スピルバーグ
脚本:ロバート・ロダット
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:トム・ハンクス、トム・サイズモア、エドワード・バーンズ、バリー・ペッパー、マット・デイモン

 第二次世界大戦の転換点ノルマンディ上陸作戦。その戦いに参加していた中隊長ジョン・ミラー大尉(トム・ハンクス)に新たな任務が命ぜられた。それは、三人の兄が戦死し、本人も行方不明となっているライアン二等兵を探し出し、救出するというもの。命令の絶対性と一人の二等兵のために命をかける理不尽さに切り裂かれながら、ミラー中隊長と7人の兵士はライアン二等兵を探しに行く。
 この映画でいちばんすごいのは戦闘シーン。特に冒頭から30分ほどつづくノルマンディ上陸作戦の戦闘シーンは圧巻。長年にわたって培われてきたドリームワークスの特撮技術が細部に至るまで圧倒的なリアルさを生み出している。銃弾の中を走り回るハンディカメラの映像も臨場感を増す。

 本当に、この映画の戦闘シーンはすごい、足がもげたり、頭を打ち抜かれたり、それが現実にそこで、目の前で起きているような錯覚を起こさせる特撮。特撮といえばSF、という認識が誤りだったことを認識させられる。そして戦闘シーンのリアルさは、そこにいる兵士たちの心理さえも映し出しているような生々しさを持っている。しかし、よく考えると、重火器レベルであんなに人が吹き飛んだりするのかという疑問も沸く。これはやはりあくまで、スペクタクルのためのリアリズム。戦争映画というスペクタクルへのあまりに圧倒的な導入。
 映画の最後も戦闘シーンなわけですが、そこもやはりすごい。最初のシークエンスにも増してなんだかヒーローもののような胡散臭さは漂うけれど、それでもすごいことはすごい。
 と、スペクタクルな部分は褒めておいて、ですが、
 この映画はシンメトリーな構造になっています。星条旗から始まり、戦没者墓地→戦闘シーン→移動→戦闘シーン→戦没者墓地→星条旗です。このシンメトリー構造というのはこの映画の徹底的な姑息さで、アメリカのパトリオティズムのプロパガンダのための構造になっています。星条旗と戦没者墓地は全くそのままですが、戦闘→移動→戦闘という部分も、最初の戦闘シーンで人(アメリカ兵)をバンバン殺して、ドイツ軍の冷酷さと戦争の悲惨さのようなものを描き、移動シーンでは隊の個人個人の人間性を描くことで最後の戦闘シーンでは完全に自分も戦闘に加わっているかのような気分になる。そしてだめを押すように戦没者墓地での敬礼と星条旗。この語り方によってこの映画はアメリカ人を戦争に駆り立てるものでしかありえなくなってしまう。アメリカ人でなくてもそれを感じてしまう。その要素を取り去ってひとつのスペクタクルとしてみることは可能だけれど、そのことがこの映画がプロパガンダ映画であるということを覆い隠しはしないのです。だから見終わってどうも、(優しい言葉で言えば)居心地が悪い、あるいは(簡単に言ってしまえば)むかつくのです。
 文句のつけどころは他にいくらでもある。題材に第二次大戦をしかも隊ナチス戦を選ぶ。これがヴェトナム戦争や朝鮮戦争でないのは何故か。ドイツ兵の描き方が余りに画一的なのは何故か。ドイツ兵はすぐに投降し捕虜になるのに、アメリカ兵は決して降参しない。どれもこれもアメリカ万歳に結びつく要素で、ただただむかつく、あるいはあきれる要素が増えていくばかり。
 こんな映画をアメリカ人以外の観客にもしっかりと見せ、感動すらさせてしまうスピルバーグの手腕には恐れ入りますが、その才能をこんなところに使ってしまうのはどうにも納得がいかない。これならば、『インディー・ジョーンズ4』でもとってた方がよかったんっじゃないの?