コメディ・フランセーズ 演じられた愛

La Comedie-Francaise ou l’amour joue
1996年,アメリカ,223分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 フランスのパリにある国立劇場コメディ・フランセーズ。歴史と伝統を誇るこの劇場と劇団の活動を追う。劇団の運営会議からリハーサル、実際の舞台、引退する役者の引退パーティなどを映すが、一番中心になるのは、やはりリハーサルと本番の舞台。舞台がどのように作られるのかを中心に描く。
 ワイズマンとしては座長を中心として、劇団をどのように切り盛りしていくのかに興味があるようで、そのあたりの描写が面白い。

 まず、このワイズマンの映画にはプロの役者が出てくるという展で、他の映画とは明らかに違う。劇映画を一本撮ったことがあるけれど、それ以外ではプロの役者が出てくるのは初めてなのだ。そこで気付くのは、ドキュメンタリーといえども彼らがいかに演技しているかということだ。稽古や舞台での彼らの役者としての輝きはすごいが、舞台を離れたところでも彼らは演技する。それはわざとらしくというわけではないけれど、明らかに何かを演じている。そう感じるのは、他のほとんどの作品に登場する人たちとの違いだ。この映画に登場する役者たちは役者らしく振舞っているように見える。カメラに映ることを了解し、自分を演じる。そのような姿に見える。
 このことから逆に、他の映画に登場する普通の人々も自分を演じているのだということに気付く。ただその演じ方がプロの役者とは違ってぎこちない。自分を演じているつもりが、興奮して完全に素の自分が出てしまったり、映っていることにたえられなくなったりする。ワイズマンはそのようなものも含めて写し取っているのだから、それでいい。
 ワイズマンはカメラが存在するということで、撮影されているということを了承していることで、すでに人々は演技をしていると言った。なかなかこのことがわからなかったのだが、この映画を見ると、そのことがなんとなくわかるような気がした。舞台での演技は間違いなく演技だけれど、舞台を下りた部分で映っている時でも一種の演技をしている。それは作り物ということではなくて、「自分」というものを場所や相手に合わせて変化させるのと同じようにカメラの前での「自分」を演じているということだ。『モデル』の終盤でモデルたちが騒いでいるシーンを思い出したのは、そのシーンでは彼女たちが「モデル」を演じていたからだろう。

 もうひとつ、この映画で気になったのは、内と外ということ。ワイズマンは執拗に外の様子、パリの街の様子をインサートする。この建物の内部のシーンとシーンの間に外の風景を挟むというのは、ワイズマン作品のほとんどに共通して見られる方法だが、この映画では特にその対比が大きい。『臨死』のように仮想的な一日を作り出すというわけではなく、単純にコメディ・フランセーズ対その外部という構造を作り出すだけだ。
 そこには何かワイズマンなりの批評精神というか世界観があるような気がする。コメディ・フランセーズはそもそも非日常的な空間であるけれど、その空間が役者にとっては日常空間である。チケットを求める人々はそこに日常からの逃避かあるいは超越を求めてやってきている。しかし、役者やスタッフにとってはそこは仕事場であり、まごう事なき日常なのである。よく考えるとワイズマンはこれまでにも動物園や病院などそのような日常と非日常が交錯する空間を対象としてきている。
 そんな内部にとっては日常的である非日常的空間の集積こそが現実であるという全体像がそこから見えてくるような気がする。一人の視点からは画然としている日常と非日常という座標が、社会においては複雑に交錯しているということ。ひとつの空間を日常と捉えるか非日常と捉えるかということによるその捉え方の違い、そこから生じる齟齬(この映画ではその齟齬の部分はあまり描かれていないが、風景による対照である種の乖離を表している)、そのようなことに意識的であることは、現実に対する姿勢を大きく変化させると思う。

動物園

Zoo
1993年,アメリカ,130分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 この映画の始まりはわれわれがイメージするままの動物園だ。象のショーが行われ、家族連れや、カップルが思い思いに動物を見、動物に触れている。舞台となっているのはマイアミにあるメトロポリタン動物園。マイアミという土地柄かトロピカルな鳥なども多い。
 一般的な動物園を見せた後カメラは動物園で働く人々を映し始める。ワイズマンの目は主にこの働く人々に注がれるが、それだけではなく、動物にも、客たちにも等しく注がれる。そこにあるのは動物園という世界のそのままの現実である。

 ワイズマンは施設を被写体にするといっても、実際はその中で主に描こうとする対象、あるいは多くの時間を割いて映す対象がある。しかし、この映画は客も映っているし、従業員も映っているし、動物だけが映っている場面もある。どれかが突出するということもなく、全体像をうまく描く。
 そのように見えたときに受ける印象は、この映画が動物園の疑似体験のように感じられるということだ。観客は動物園の客として、しかし単なる客ではなく、普通の客には入れないような特権的な内部にまで入ることのできる客としてこの動物園を見る。そこには動物園で得られる喜びと、動物園の裏側を見ることによる驚きがある。サイの出産やワニの産卵というドラマは、この映画のそのような見世物的な印象を強める。

 しかし、もちろんワイズマンはこの映画を見世物として作ったわけではない。そんな見世物的なものからはみ出す部分がこの映画にはやはりある。
 わたしが一番引っかかったのは、従業員の動物たちに対する態度だ。サルに接するときのように愛情をもって接している場面を捉えることもあれば、病に冷淡に接する場面を捉えることもある。この映画のハイライトのひとつとも言えるサイの解剖のシーン、解剖を終えたサイを焼却炉に放り込む獣医の行動はあまりに淡白すぎるように見える。
 しかし、それが単純な動物愛護というような訴えでないことは明らかだ。このシーン意外で目につくシーンは、オオトカゲとヘビの食餌のシーンだろう。オオトカゲはアジか何かの魚とひよこを咀嚼しながら飲み込んでいく。ヘビは、飼育係によって、頭を殴られ殺されたウサギをそのまま丸呑みにする。このひどく残虐でグロテスクなシーンは観客にショックを与えるとともに、その意味を考えさせる。表面的な残虐さにとらわれると真実が見えなくなってしまうということを示している。
 そのような真実が見えている従業員たちは動物と微妙な距離感を保つ。その距離感になんだかメッセージが込められているような気がする。

 そんなワイズマンはこの映画で何度か動物園を取材に来ている人たちを映す。彼らは小道具として草を手に持ったり、わかりやすいコメントを何度も撮ったりする。それがワイズマンの姿勢とは正反対であることは明らかだ。ワイズマンがあえてこれを編集後も残したのは、明確に自分の存在意義というか、いわゆるTVドキュメンタリーとの違いというものを明らかにしておこうという意図があったのだろう。動物園というわかりやすい題材を、わかりやすくとったワイズマンは、このTVクルーの映像をいれることで、わかりやすく彼らとの差異化を図った。

ストア

Store
1983年,アメリカ,118分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 ダラスにある高級百貨店「ニーマン=マーカス」。クリスマスシーズンのその百貨店で働く人々とそこに訪れる客たち。静かで広々とした店内に、豪華な品物が並ぶ。エスカレーター脇ではカルテットがクリスマスナンバーを演奏し、毛皮売り場では店員が客にクロテンの毛皮を見せている。
 地域にステータスとして君臨する百貨店をワイズマンはどう切り取ったか。従業員たちを中心に、彼らと客との関係を、彼らと商品との関係を淡々と描く。
 『モデル』『セラフィタの日記』という商品の広告をするモデルを描いた作品から商品を販売する『ストア』へ。この当時ワイズマンの目は「消費」に向いて
いた。

「どのような批判精神がそこにこめられているのか」
 いくつかの作品を見るうちに、いつの間にかそのような視点でワイズマンの作品を見るようになっていた。価値判断を保留し、ただものや人を映像に定着させるだけのワイズマンの視線は見るものに問題を投げかける。今回投げかけられる問題とはなんなのか? そのような問いを、いつも黒地に白い文字のタイトルを見ながら思う。
 この映画では序盤に副社長が「百貨店は商品を売るために存在する」と言う。それが正義であるかのような言い方をする。それを聞きながら思うのは、ワイズマンはそのような消費社会を批判しようとしているのだということだ。しかし、これもいくつかの作品を見て学んだことだが、ワイズマンは問題をそのように単純化しない。
 とにかく、確かに百貨店は商品を売るために存在するのだ。それを実行するためにさまざまな戦略が立てられる。それは客の見ていないところで、密かに立てられる。そして客は商品を買っていく。それは決してだましているわけではない。戦いでもない。この百貨店に限って言えば、彼らはブランドを売っているのだ。そして客はブランドを買っているのだ。
 それを象徴的に示すのは「ストッキングに<ニーマン=マーカス謹製>という刺繍を入れる」というバイヤーの言葉だ。その刺繍こそが客が求めるものである。

 ワイズマンがそのような「ブランド」で紡ぐ物語とは何か?
 はたから見れば、クリスマスシーズンに半袖で歩いている人がいるような街でどうして毛皮が必要なんだ?と思う。しかし、毛皮は売れる。そのような行動こそがワイズマンが捉えようとするものだ。ダラスで毛皮を買う人々は有閑階級であり、ワイズマンはこの映画が有閑階級を描こうとしたものだと明確に表明している。このダラスで毛皮こそが消費社会の象徴である。しかし、ワイズマンはだから有閑階級はダメなのだとは言わない。そのような有閑階級が存在するからこそ消費社会が存在し、このような百貨店が存続でき、従業員たちは仕事にありつける。問題はそこにはない。(余談としては、わたしはダラスで毛皮のコートを着たっていいと思う。真冬にミニスカートを履くんだって同じことだ。ただ、さらに個人的な話をすれば、わたしはそもそも毛皮はあまり好きではない。でも、毛皮を着たい人は(たとえ暑くても)着ればいい。おしゃれとは時に肉体的苦痛を伴うものだ)
 ワイズマンは有閑階級を描こうとしたと明言するにもかかわらず、彼が主にスポットを当てているのはそこで働く人々だ。有閑階級がいることによって存在する従業員たち。ワイズマンが繰り返し問うのは「彼らは仕事に誇りを持っているのか?仕事に満足しているのか?」ということだ。あるミーティングで、ニーマン=マーカスで働いていると特別な目で見られるという話が出てくる。就職希望者は熱烈にニーマン=マーカスへの憧れを語る。つまり、ニーマン=マーカスとは労働者たちにとってもあこがれであり、ステータスであるというわけだ。 つまり、ニーマン=マーカスが象徴する消費社会はダラスにおいては充足しており、問題にはならない。ワイズマンは消費社会を批判するためにこの百貨店を持ち出したのではないのかもしれない。

 ところで、この映画に出てくる商品はことごとく趣味が悪い。最初は進める従業員もお世辞でいっているのだろうと思ったが、どうも本気で言っているらしい。成金趣味の金ピカの宝飾品やわけのわからない柄のスカート。ワイズマンは映画の中でそれらのものの価値判断を行っていないが、好意的だとは思えない。にもかかわらず、そのような露悪趣味を「良いもの」としてしまうのはニーマン=マーカスのブランドであるからである。
 そんな露悪趣味が頂点に達するのは、社長の「マイ・ウェイ」だ。そんな鼻白いことさえも許されてしまう、あるいは積極的に受け入れられてしまう、そんな露悪的な成金趣味をステータスとみなす社会、それがこの映画の中に描かれている社会なのだ。ワイズマンはこのような社会を批判するわけではない。そのような社会が成立する構造を提示し、そのような社会が具体的にどのようなものなのかを視覚化し、その価値判断は観客にゆだねる。それがワイズマンのスタンスだと思う。

モデル

Model
1980年,アメリカ,129分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 ニューヨークのモデル事務所「ゾリ」、180人ものモデルを抱えるこの事務所とそこに所属するモデルたちの日常を追う。事務所には仕事の依頼の電話がひっきりなしにかかり、モデル志望も男女がたくさん訪れる。ワイズマンが写すのはその全体。そこにニューヨークの日常的な風景を挟み込んで、その対照性を明らかにする。
 ワイズマンの作品としてはメッセージ性が薄く、少し変わった雰囲気の作品。撮影をしながら対象について学んでいくと語るワイズマンだが、こんな馴染みのなさそうな題材でもその姿勢を貫いている。

 全体を通じて思うのは、モデルの映画であるのに、モデルたちが話す部分が非常に少ないといういうこと。これはこの映画がモデルたち自体ではなくモデルを取り巻くシステムを問題化しているからだろう。それはつまりモデル事務所を経由してモデルたちが結びつく広告のシステムである。結論から言ってしまえば、広告とはつまり消費社会を支える典型的なシステムであり、消費社会を体現する業界であるといえる。その広告を題材とすることによってこの映画は消費社会批判のような形をとる。
 ワイズマンが捉えるのは、その広告を支えるモデル事務所の人々である。事務所という施設ではなく、人間を捉えようとするというのはこの映画のよい点だ。メイクアップをするにしても、CMを撮影するにしても、そこで注目するのは人間である。特に多くの時間を割かれるストッキングのCM撮影の一連のシーンで描かれる人々と、出来上がったCMの没人間性の対比はおもしろい。広告(それは主にモノを広告するもの)というものの性質がことばにならない形でうまく表れている気がする。
 ここでモデルたちがしゃべらないという話に立ち返ると、ワイズマンはあえて彼らに話させない(明確にしゃべるのはインタビューのシーンだけ)ことによって、彼らのモノ的な側面を表現しようとしたとも捉えられる。広告という巨大メディアの中では、広告しようとする商品も、その素材となるモデルたちも同じモノでしかないという捉え方。そのような捉え方をワイズマンは問題を捉えるためのヒントにしているのではないか。

 もちろん、そのモデルたちを捉えたシーンの間に挟まれるニューヨークの街のシーンも注目に値する。そこに移っている人たちの多くは消費社会の末端に位置する人々だ。デモ行進をする黒人たちの姿もある。その対比の仕方はあまりにわかり安すぎるという気もしないでもないが、これがないと単なるモデル業界の内幕ものとなってしまう不安もある。そのあたりは編集こそが創作活動であるとするワイズマンならではの映画作りといえるのだろう。時にはとっつきやすい題材と、わかりやすい構造の映画も必要ということなのだろうか?
 ワイズマンを見慣れた目で見ると物足りないと映るかもしれない。でも、それはそれでいいのだとわたしは思う。ワイズマンはあらゆるアメリカを捉え、それをあらゆるアメリカに対して提示する。そのような作家だから、対象も表現の仕方も多岐にわたっているほうがいいのだ。

法と秩序

Law and Order
1969年,アメリカ,81分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ウィリアム・ブレイン

 カンザスシティの警察官の様子。もちろん犯罪者を逮捕する。それだけではなく、街を見回りさまざまな出来事に応対する。ひったくられたバックの捜索などもする。ワイズマンがカメラを回したのは、アフリカ系の住人が多く、貧しい住民が多い地域である。
 映画は警察の活動を肯定的とも否定的とも取れる形で捉えていく。しかしそれは客観的という価値観によるものではなく、まさに現実を切り取ろうという意欲の結果である。
 現実はそのようなものであるとして、その『法と秩序』が意味しているものはなんなのか? ワイズマンはいつものように観客に問いかける。

 警察を追うドキュメントというのは見慣れた感じがする。日本でも「警視庁密着24時」なんてのもあるし、アメリカの番組も入ってきていたりする。だからといって、必ずしもこの映画と比較する必要もなく、この映画が30年以上前に作られたことも考え合わせると、単純な比較をすることがそもそも間違っているような気がする。ので、とりあえず比較はおいておいて、素直にこの映画を見てみたいと思う。
 この映画を見てまず思うのは、警察官とはいったいなんなのか? ということだ。それはあまりに素朴な感想だが、ワイズマンの描き方は、まさしく警察官のとらえどころのない活動の総体を捉える描き方だ。時には市民に優しく接する人々であり、時には犯罪者と見まごうばかりに暴力的にもなる。それはつまり生活に密着した存在であると同時に、権威を象徴する存在でもある。そのような存在である警察官を公的に表すのが「法と秩序」という言葉だ。警察官とは「法と秩序」の万人であるという言われ方をする。
 しかし、この映画に突然ニクソンの演説が挟まれると、話は簡単ではなくなっていく。ニクソンが「法と秩序」について語り、治安の維持こそが大切だと叫び、人心の刷新こそが必要だと訴えかけるとき、慣習の歓声がそこに捉えられているにもかかわらず、そこに説得力はない。それまでずっと警察官の活動を見せられてきたわれわれは、警察官の活動が上からの変革の影響を早々受けるものではないということにうすうす気付いている。だからニクソンの演説は訴えかけてくる以前に滑稽ですらある。
 これはある意味では、国家と生活との乖離を示す一つの例なのかもしれない。国家とはつまり権力である。警察とは国家と生活をつなぐ一面を持っているかもしれないが、その背景にあるのは権力である。だからいくら生活に近づこうとしても、そこに行き着くことはできない。その生活に密着しているようで、近づききれていない警察の微妙な立場がフィルムに込められているからこそ、この映画を見て「警察官とはいったいなんなんだ」と考える。

 結局ここで比較の話にいってしまいますが、いわゆる警察ドキュメントとこの映画との違いは、その辺りにあるのではないか。いわゆる警察ドキュメントが追っているのはあくまで警察の活動である。それぞれの活動の「意味」を求めることはあっても、基本的にそれが求めるのは警察の<活動>である。
 それに対して、この映画はまず警察の「意味」を求める。求めるというよりはそれを問題のまな板に載せる。ここの活動の「意味」も、活動それ自体もあくまで警察というものの存在の「意味」を考えるための材料である。
 もちろん、映画とは個々の映像(と音声)から成り立っているものであるので、そのように言ってみても、それは単なるひとつの解釈に過ぎないということになる。映像だけを捉えるなら、この映画もいわゆる警察ドキュメントもあまり変わりはない。
 あえて、繰り返しふたつの間の違いを言うならば、それは見ているものを考えるように仕向けるか否かという違いである。同じ材料を映像化しながら、それを一種のエンターテインメントとして見せるか、それとも思索の材料として見せるか、優劣以前の問題としてそのような違いがあるような気がする。

高校

High School
1968年,アメリカ,75分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:リチャード・ライターマン

 今回ワイズマンが入っているのは、ノースイースト高校。白人中産階級向けの典型的な高校のひとつで、かなり優秀な生徒が集まっているようだ。そんな中でも問題を起こす生徒はおり、生活指導の教師が生徒たちに厳しい言葉を投げかける。あるいは父兄が呼ばれ、成績や進路について話し合う。そんなどこの高校でもありうる風景を連ねた作品。
 ワイズマンには珍しく時代性を強調し、映画の始まりも当時のヒット曲をBGMとして使っている。ワイズマンが切り込むのは、生徒よりはむしろ教師と学校という機構の側である。

 なんともいらだたしい学校だ。表面上は性教育が盛んであったり、現代的な教材(たとえば、サイモン&ガーファンクル)を取り入れたりして、進歩的な教育を行っているように見える。しかし、その実は旧態然とした権威主義と差別主義がすべてを支配する学校だ。教師のどの言葉をとっても、そこに権威主義と/か差別主義が透けて見える。
 生活指導を行う教師はあからさまに権威を振りかざす。そこには理屈はない。生徒が何をしゃべろうとその言い分は何一つ聞かず、あらかじめ用意した自分の考えを生徒に押し付けるだけだ。言葉の上では硬軟使い分けるが、結局言おうとすることはひとつで、反抗する生徒には容赦をしない。ここで思うのは教師たち(一部の生徒もそうだが)の「決め付け」の激しさである。すべては自分の先入観をもとに判断される。これで教育などできるはずがない。
 「家」について話す教師は女系家族を尊重するような口ぶりをするが、旧約聖書にはほとんど女性が登場しないなどという話を持ち出して、結局は女性の地位を貶める(生徒は男子学生のみである。この授業にかかわらず、この学校では男女別の授業が数多くあるようだ)。

 この映画は時代性を意識して作られている。最初のシーンで流れる音楽は当時のヒット今日であるし、ベトナム戦争が話題のなるのも一種の時代性だ。生徒たちのファッションや髪型にも頻繁にカメラが向く。ワイズマンの作品は一般的に言って、時代とか場所とかを超越したような作品が多い。それは一種の普遍性である。この映画もそのような普遍性を目指している点では変わりがない。この時代性が意味するのは、教育と時代との密接な関係性だろう。
 その時代性を象徴するトピックのひとつが最後にやってくるベトナムに行った卒業生からの手紙だが、もちろんワイズマンは観客を感動させようとしてこのエピソードを入れたわけではないし、反戦のメッセージでもない。かといって、超然とそのような生徒=兵士を生産する学校という制度に疑問を投げかけているわけでもない。
 ワイズマンの関心は兵士の生産装置として描かれている学校というものがアメリカという大きな機構のひとつの部品でしかないということであるだろう。その意味は、国と学校を含めた生活とが密接にかかわっているということではなく、その逆である。
 一つ一つの現実は一人一人の人間の生活そのものであり、それは真剣に見つめなければならない問題である。ここで現実とは高校のことであり、それは主に生徒にとっての高校という意味だ。しかし、他方で国という大きな機構があり、それはあらゆる現実と関わり、それを制御しようとする。この国と現実との関係性はあまりに薄い。国は現実とは乖離してしまい、何もすることができない。

パブリック・ハウジング

Public Housing
1997年,アメリカ,195分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 シカゴにある公共住宅アイダ・B・ウェルズ・ホームズ、主に低所得者層のマイノリティが住むこの公共住宅には、老朽化などのさまざまな問題がある。住人たちにも、失業、犯罪、麻薬などの問題がある。そんな問題だらけの公共住宅に住む人々にワイズマンは目を向けた。
 公共住宅という性質上、役所との交渉がそこには常に存在している。それと同時に、さまざまな話し合いが持たれたり、託児所があったり、バザーが開かれていたり、ひとくくりにはできないさまざまな生活がそこにはある。

 これは公共住宅の映画ではない。最初のほうこそ公共住宅の問題点が語られ、害虫駆除などの具体的な問題が提示されるが、それを過ぎると公共住宅というひとつのコミュニティーの話となる。これは『病院』のような施設の性質と密着にかかわる話ではない。ある地域があって、そこは公共住宅で、そこに住む人は貧しかった、という場所設定のドキュメンタリーでしかない。
 それがどうということではもちろんない。それはただなんとなく、この映画がワイズマンのほかの映画とはちょっと違うということを示しているに過ぎない。

 この映画で一番目を引くのは、昼間からあまりにもたくさんの人が家の近くをぶらぶらしているということだ。これは失業の問題が最も大きく作用しているわけだが、ここにアメリカの抱える根本的な問題がある気がする。もちろん彼らだって働く意思はある。しかし、他方で働かなくても家はあるし、食べていけないこともない。彼らは政府が何とかしてくれると思っている。
 わたしは別に努力をしないのがいけないといいたいわけではない。彼らに生活させることができる政府の施策も間違ってはいないだろう。問題なのは彼らの這い上がりたいという欲望の持って行き所がないということだ。住宅管理局のロン・カーターはしきりに「会社を作れ」とけしかけるが、聞く者たちの目は不審気だ。そこには成功するわけないという一種の諦めがあり、閉塞感がある。それは、結局政府は助けてくれないという諦めでもあるが、しかし他方で政府の援助なくしては暮らせないという現実にも直面せざるを得ない。その自分の中での矛盾はただその閉塞感をさらに増すだけだ。

 彼らの問題を突き詰めていくと、結局話しは麻薬に行ってしまうのか。この公共住宅には麻薬中毒者と思われる人がたくさんいる。売人などもいるらしい。麻薬が彼らを閉塞感の悪循環に追い込んでいることは確かだ。おそらく警察を含め、周辺に住む人々はアイダ・B・ウェルズを麻薬中毒者の巣窟のように思っているのだろう。じじつ、警官は映画の最初のほうで、公園の同じところに3時間も立っていた女を売人と決め付ける。偏見は新たな悪循環を生む。
 それでも映画の終盤に出てくる、治療を受けるためのカウンセリングのシーンは感動的だ。カウンセリングを行う医師の徹底的な我慢強さ。2人の間にはしっかりとコミュニケーションが成立し、きっと彼はちゃんとした治療を受けるだろう。これはこのコミュニティが立ち上がるひとつの方向性を示している。もうひとつその方向性を示しているのは、ボランティアについての話し合いだ。「なんて当たり前のことを言っているんだろう」とは思うが、当たり前のことを当たり前に行って、信頼を勝ち取ってゆくことによって偏見は解消されていくはずだ。しかしワイズマンはこの公共住宅の未来に必ずしも楽観的なわけではない。ほとんどの問題は解決される見込みもないまま放置されている。
 先ほども言ったロン・カーターの話をどうだろうか? どうもうまく実現するようには思えない。子供に対する知育はうまくいくだろうか? DV教室でも言われているように、親の姿を見て育つ子供が、この環境の中で健全に生きることにあまり希望は持てない。麻薬の誘惑を断ち切れるような子供は早々にここから出て行ってしまうのでは

臨死

Near Death
1989年,アメリカ,358分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 ボストンにあるベス・イズラエル病院。その内科ICUで治療を受ける何人かの病人たちを記録した映画。本当に死に瀕する患者とその死に臨む患者の家族、患者とその家族と話し合いながら治療法を考える医師、看護婦。
 ワイズマンはいつものように冷徹な目でそれを見つめるが、そこには生と死というドラマが厳然としてあり、6時間という時間も飽きさせることがない。基本的には4人の患者をそれぞれ独立した物語として描く。
 6時間という時間は観客にとってはとにかく考える時間として与えられている。映画が投げかけるものについて考えざるを得ない6時間。それは得がたい時間である。

 あまりに長くて最初のほうは忘れてしまいましたが、とにかく最初から最後まで呼吸器や蘇生術という延命治療が問題となる。その背景には脳死が完全に人の死として認められたということがあるだろう。途中で看護婦が行っていたように脳死とは不可逆的な機能停止ではあるけれど、心臓が動き呼吸をしている以上、完全な死のようには見えない。そのような特殊な状況の中でどのような選択ができるのか。この選択の問題は脳死に限らず、回復の見込みのない患者一般に広まる。そこで決断を迫られる患者とその家族。彼らと医者・看護婦との関係。これがこの映画の焦点となっていることは間違いがない。
 この映画は川を進むボートの風景ショットから始まり、病院でのエピソードの間に何度も外の景色がインサートされる。最初の区切りはやけに長いが、その終わりには夜の街とそれに続く朝の病院のショットが挟み込まれる。この夜から朝の一連のショットは何度か挟み込まれ、擬似的な一日を作り出す。もちろんその外景ショットで区切られた1エピソードは一日ではなく、順番もそのままではないのだが、その擬似的な一日があまりに長い映画を整理する役目を果たしている。
 なぜこんなことを長々と書いたかといえば、この映画が時間を周到に操って作られているからだ。おそらく同時に進行しているであろう3人ないし4人の患者の話をそれぞれ独立した話として順番に語っていく構成。この構成自体がこの映画にとって非常に大きな意味を持ってくるのだが、そのことについてはあとで書くとして、この構成を作り出すために擬似的な時間軸をワイズマンは作り出したわけだ。そのあたりはさすがという感じ。

 映画の内容についての感想はといえば、この病院では何度もミーティングが開かれる。それはここの患者の症状について、治療法についてという具体的な話し合いから、倫理観といったような抽象的な問題、井戸端会議のような看護婦の話し合いまで多岐にわたっている。これらの会議や話し合い(それには雑談も含まれる)を会話の意味までわかるようにきっちりと撮るワイズマンの撮り方は見せるというより考えさせようというスタンスだ。他の映画もそうだが、この映画は特に観客の感受性と思考力に訴えかける。ワイズマンの映画は観客自身の思考を抜きにしては完成されえない映画なのだ。
 ところで、このような話し合いでたびたび出てくる言葉に「ゴール」というものがある。それは治療・看護の目標の問題だ。医師や看護婦が患者に対して何を成し遂げようとするのか、それを「ゴール」として明確化すること、そのことがこの映画の中では常に重視される。しかし、そのようなゴールを決めなければ医療行為を行うことができないところに、この臨死治療の複雑さ、困難さがある。 さらにこの問題を複雑にしているのが、その「ゴール」を決めるのが患者自身、あるいは患者の家族であるということである。医者は医学的情報を患者や家族に与え、決断を迫る。医者の側としてはひとつの考え(答え)を持って患者や家族との話し合いに臨んでいるけれど、決めるのは患者とその家族であるのだ。しかし、そのような決断を患者自身や家族が本当にできるのか? ワイズマンの突きつけるもっとも大きな疑問のひとつがこれである。自分自身の、あるいは親しいものの死を前にして決定的な決断など本当に可能なのだろうか? 「責任を負う」という医者や看護婦が言う言葉、その言葉がこの決断の意味を表している。医者自身たびたび「自分だったらそんな決断はできない」と言う。それが意味しているのはそのような決断をすることの責任の重さだ。そんな重い責任を誰が負うのか? 看護婦の一人はその責任を負うことこそが仕事だという。
 スピラーザ氏のエピソードにファクター夫人の夫の姿が何度もインサートされる。医者である彼でも妻の死を前にして、ただ窓辺でまどろむしかない。力になることはおろか、選択することすらできない。

 どう考えをめぐらせても答えにたどり着くことはできない。だからこそワイズマンも6時間もの長きに渡って根本的には同じであるいくつものケースを繰り返し見せることにしたのだろう。この繰り返しという構造にこの映画のポイントがある。それぞれのケースで問題が起こるたびに、観客は問題に立ち返る。それによって導かれる思考の道筋。その思考の繰り返しこそがワイズマンが観客に求めるものだ。
 ワイズマンは作りながら繰り返し考え、われわれじゃそれを見ながら繰り返し考える。私はこれを書きながらさらにまた考える。皆さんはこれを読みながらまた考える。あるいはこれを読んで考え、映画を見に行って再び考える。そのように個人が考えることによってしかこの問題の答えへと近づく道はない。答えは決して出ることがなくとも、このような思考の積み重ねが個人が問題にぶつかったときに助けになるかもしれないと思う。

聴覚障害

deaf
1986年,アメリカ,164分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 アラバマ聾学校を舞台に、聴覚障害の子供たちと、教師、寮母たちを描く。聴覚障害の子供たちの多くはしゃべるの困難だ。だからキャンパスは静寂に包まれ、何か不思議な雰囲気を持っている。教師や寮母は健常者であったり、しゃべる技術を見につけた聾者であったりする。
 ワイズマンが焦点を当てるのは、その全面的な教育である。聾者に対する教育の意味というか、それがどのように行われているかを提示することで浮かび上がってくるのはやはり「アメリカ」というものだ。

 『聴覚障害』というタイトルではあるが、この作品も他の作品と同じくひとつの施設(聾学校)を対象とした作品である。主に取り上げるのは小学校入学前から小学生くらいの子供、言語を獲得していく過程にある子供たちである。これは素朴な感想だが、言語を獲得していく過程が、耳が聞こえると聞こえないとではあまりに違う。聾者にとって問題なのは言語を操ることではなく、言語を獲得することなのだということがリアルなものとして伝わってくる。しゃべるという概念すら理解できないとしたら、そうして言語などというものを想像することができるだろうか? 自分が聞くことのできない音を発するということがどんなに困難なことか。

 そんな素朴な感想を超えてまず気になるのは、映画のハイライトになる後半の長いシーン。好調とカウンセラーと生徒の母親が話していて、そこの生徒が呼ばれるというシーン。カメラはずっとその室内にとどまって会話を余すことなく伝える。このシーンは簡単に言ってしまえば、聴覚障害者であるということにかかわらず、人間として正しく生きろということを生徒に諭している場面であるが、実際にそこにあるのは、思春期のもやもやや独立心やいろいろなものを押しつぶして大人の価値観を押し付けようという姿勢である。
 彼だって母親を愛している。しかし思春期にありがちな反抗心や気恥ずかしさ(それは独立心に由来していると思うが)によって、それを認めたくないだけだ。そこには葛藤があって、その葛藤を乗り越えて、自ら愛や家族というものを理解していくべきもの(だとわたしは思う)のに、この校長(とカウンセラー)は無理やりに彼に母親を愛しているということを認めさせてしまう。そこには脅しがあり、賞罰主義が透けて見える。これを見て思うのは、これは彼を大人にしようという教育ではなく、無条件に愛するという子供の状態に戻すだけなのではないかということだ。この学校では、大人として愛というものを理解することを教えるのではなく、操作しやすい都合のいい生徒にするだけだ。

 結局、彼らの教育とは障害者にある種の生き方を強制するするものだ。それは自らが他の人と変わらないという生き方。それは最後の黒人の成功者らしい老人が言っていることともつながるが、ハンディキャップがあってもそれを克服して生きられる、成功することができるという哲学だ。そこには逃げ道はない。何をしゃべっているのかわからない異邦人たちの国で彼らはその中に溶け込み、その中でのし上がっていかなくてはいけないと説得されているのだ。しかも、そんな異邦人たちの国を愛せといわれている。
 最後の黒人の話はあまりにひどい。エジプトだかどこだかの話をしてそこにはアメリカのような自由はないと語る。そしてアメリカは素晴らしい。その言説にはあらゆる問題が含まれている。まず彼はアメリカの自由がそのような不自由な国に対する搾取によって成り立っていることを自覚していない。アメリカこそがその自由を奪っているのだということに気付いていない。
 彼は自らがマイノリティであったという経験を持っているにもかかわらず、マジョリティの価値観の押し付けに無自覚である。この聾学校の教育そのものがマジョリティの価値観の押し付けである。そもそも問題とするべきなのは、少年の自殺のほのめかしなどの言動なのか、それとも母親が手話を学ばないということなのか。わたしは母親が手話で息子と語れないということのほうに根本的な問題がある気がするのだが。

競馬場

Racetrack
1985年,アメリカ,114分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 放牧されている馬たち。親子で草を食む。厩舎では新たに仔馬が生まれる。そばで見守る人たちはそれほど心配もせず、産むがままに任せている。
 競馬場そのものではなく、競馬馬たちが放牧されている牧場から始まるこの映画は競馬場の物語ではあるが、競馬場に来る人々の物語というよりは、競馬にかかわる人々と競馬場というものの物語である。馬主、騎手、調教師などにカメラを向けて、競馬を取り巻く状況をゆったりと描く。
 ワイズマンにしてはイージーというか、ゆったりとした雰囲気で、のんびりと見られる映画。

 映画は親子の馬が草を食む放牧で始まり、そして分娩のシーンへと続く。あるいは分娩のシーンも合わせて牧場の場面から始まるといってもいい。それは競馬そのものからは少し離れた部分であり、どのような文脈で語られているのかは全くわからない。そこだけ見ると、これが親子の物語であるかもしれないという考えが頭をよぎるが、馬が主人公ではなさそうなので、それはあくまで描写のひとつに過ぎないのだと考える。
 映画はそこからゆっくりと競馬そのものに近づいてゆく。
 この映画に特徴的なのは会話が少ないということだろうか。ワイズマンの映画に登場する(アメリカ)人たちはとにかくよくしゃべる。カメラがあるからなのか、アメリカ人の特徴なのかはわからないが、とにかくよくしゃべる。しかし、この映画に出てくる人はあまりしゃべらない。普通は、会話によって人間関係がわかったり、映画の論点がわかることが多いのだけれど、この映画ではわからない。それは映画の対照が大規模すぎたせいもあるかもしれないが、最後まで個人が特徴的なキャラクターとして固定されることはない。

 なので、この映画は捉えにくい。個人が個人として同定できれば、あるいは映画の描く空間を把握できれば、映画をひとつのまとまりとしてみることができるが、この映画ではそのような映画の把握は難しい。
 だから、テーマとか、時系列をたどってみてみようとするが、テーマらしいものも見つからないし、時間の手がかりとなるものもない。
 それでもなんとなく映画を見続けていると、突然パーティの場面が始まる。この場面と続く競馬場の場面(おそらく重賞レースが開かれている)でなんとなくメッセージというかワイズマンの思いが伝わってくる。それは競馬がアメリカの人たちにとって日常であるということ、そしてそれは古き良き時代へのノスタルジーであるということ。
 この競馬場はおそらくNY近郊にあって、そこにはさまざまな人種や階級の人が混在しているのだけれど、そこで掛かる音楽はヒップホップではなく、カントリーやブルースである。男たちはカウボーイハットをかぶり、子供も駆け回っている。アメリカがアメリカとしてまとまるノスタルジーがそこにはあり、そのようにして時代を超えることを容易にしているのが競馬場という場であるということなのだろう。競馬場にくれば、昔のアメリカ人の日常に思いをはせ、今も変わらぬアメリカがそこにあることを確認できる。そのような場所としてワイズマンは競馬場を描いているような気がする。