生きる
このページは新サイトに移行しました。
このページは新サイトに移行しました。
1993年,日本,42分
監督:篠原哲雄
脚本:篠原哲雄
撮影:上野影吾
音楽:村上浩之
出演:後藤直樹、太田光
トラックに乗って、とある草っ原に着いた2人の男。2人は草刈の仕事をする。なれた手つきで草を刈る体育会系の男と草刈機の使い方すら知らないらしい猫背の男。
この二人が働くさまをただただ淡々と映しただけの映画。完全に2人しか登場しない2人芝居だが、その2人の間に存在する空気の伝え方が非常にうまい作品。いまや売れっ子篠原哲雄の監督デビュー作。爆笑問題の太田光もはまり役。
「前置き」
あまり先入観なく、二人の関係性というものを見ていくのがこの映画の正しい見方だと思います。だから、これからこの映画を見ようと思っている人はレビューを読まないほうがいいかもしれない。読んでしまうときっと、その考えが刷り込まれてしまいますからね。しかし、見る人によって感じ方がかなり違うと思われるので、読んでから見て「全然違うじゃねーか」と思う可能性も高いのです。
まあ、そんな感じ
「本題」
篠原哲雄と太田光ということ以外、何の予備知識もなく映画を見始め、ただ草むらにいる二人を移す映像を見て、そこになんとなくセクシャルな雰囲気を私は感じました。「何が」というわけではないですが、なんとなく。そのなんとなくなセクシャルな雰囲気が二人の関係性に緊張感をもたせ、二人の物理的な距離の変化に非常に敏感になってしまうのでした。
その「なんとなく」を誰もが感じるのかはわからないですが、そのセクシャルな雰囲気は具体的にセクシャルな話題が出る直前に最高潮に達します。この辺りは相当あからさまに描かれていると私は思いますが、果たしてそれがテーマなのかといわれるとそれはなんともいえない。そもそも映画にテーマなんてないと思いますが、この映画がホモセクシャルな関係性というものを軸に展開しているのかどうかもわからない。そのあからさまにセクシャルな場面の後、その雰囲気は急速に減退し、また二人の男に戻ってしまう。はたしてあの盛り上がりは何だったのか?
しかし、実際のところこの映画が描こうとしているのは日常的にある曖昧な関係性なのだろうとは思います。それがセクシャルなものだろうと何だろうと二人の人間が二人だけでいれば、そこに微妙な関係が生じざるを得ない。その関係性を描いてみたよ。てな感じではなかろうかと。
1959年,日本,112分
監督:川島雄三
原作:井伏鱒二
脚本:川島雄三、藤本義一
撮影:岡崎宏三
音楽:真鍋理一郎
出演:フランキー堺、淡島千景、乙羽信子、桂小金治、浪花千栄子、小沢昭一
大阪の高台の上にあるアパート屋敷。蜂を飼う男やエロ写真を売る男など個性的な人たちが住む。そこに住む与田五郎はよろず引き受け屋。そこに陶芸家のユミ子、浪人生のミノルがやってくる。ともにアパート屋敷の空家に住まおうとするが、結局ユミ子が住むことになった。住人が増えても、アパート屋敷は相変わらずドタバタの毎日。
混沌と軽妙。捉えどころのない川島雄三の作品群の中で、特徴といっていいこれらの要素がストレートに盛り込まれた作品。川島作品の典型、というよりは平均といっていい作品かもしれない。
すべてが混沌としている。アパートそのもの、アパートの住人達の関係、物語。ただその中で構図だけがしっかりとしている。軽い語り口と混沌の作り出すわけのわからなさが映画を圧倒してしまうけれど、ひとつひとつの画面を切り取っていくと、それは周到に計算された(あるいは天才的な)構図が存在し、それがこの混沌をなんとなくまとまらせている。とくに、アパートの食堂というか、皆が食事をする場所での構図は、人がたくさんいることもあってか気を使っているのが分かる。
しかし、結局のところ「軽さ」こそが映画の命。プロットのすべての要素は物語を軽く軽くする方向に進んでいく。深刻そうな出来事にもすべて落ちがあり、「げてもの」であることに悩んでいても、果たしてそれが治ったのか、そんなことは問題にしない。「さよならだけが人生だ」といいながら、軽々と世の中を乗り切っていくそんな人たちだけがいる映画。川島雄三自身もそんな軽がるとして人生を送ったのかもしれない。放蕩三昧を尽くし若死にした彼が自己を投影したように見えるこの作品は果たして本当の彼の姿なのか、それとも人に見せようとする自分の姿なのか。それがどちらであるにしろ、敗戦後の混乱から立ち直りつつありながらもいまだ物事を深刻に考えてしまう日本の中にあって、「軽さ」を主張する稀有な存在であったことは確かだろう。この軽妙さがもたらしたのは日本の「モダニズム」であり、新たな日本映画であったのだろう。
ここには日本映画に稀有なキャラクター川島雄三の「らしさ」があるのです。多分ね。
1967年,日本,91分
監督:鈴木清順
脚本:具流八郎
撮影:長塚一栄
音楽:山本直純
出演:宍戸錠、真理アンヌ、小川万里子、南原宏治
羽田空港に降り立つ男・花田五郎は組織ナンバー3の殺し屋。それを迎えにきた男も以前は殺し屋だったが、いまは酒に手を出しランク外に落ちているという。飯の炊ける匂いをこよなく愛する五郎はその男に持ちかけられた仕事に乗り、ひとりの男を護送する。
というストーリーですが、この映画のストーリーは日活社長が激怒したくらいわけのわからないものなので、気にしてはいけません。この映画に予備知識は要らない。これを見ればきっと「鈴木清順ってなんだろう?」と思うこと請け合い。
この映画は製作当時、あまりにわけがわからず日活社長が激怒し、清順はクビにされたという話や、ジャームッシュやカーウァイらの映画で引用されているという話で有名になっていますが、実際映画を見てみると不思議な感じ。「スタイリッシュ」という言葉で表現されるのはむしろおかしいと思うくらい摩訶不思議な世界。これは決してスタイリッシュではなく、一種の遊びの世界であり、日活の社長がクビにしたのも企業人としてはあたりまえかなという気もします。全く映画で遊んでいるとしか思えないから。しかし、これが数十年後には一種のスタンダード(あくまで一種の、一部のですが)になるとは考えつかなかったでしょう。
映画自体はというと、まず殺し屋の世界にランキングがあるということ自体わけがわからない。そして真理アンヌの存在の位置もよくわからない。もしかしたら本当はそんな女いないんじゃないかと私は思いました。きっとあの女は飯の精、炊き立てのご飯の妖精に違いないと思う。と言い切ってしまうのは、この映画がどんな勝手な解釈も許容するような映画であるから。とにかくやってみたいことをいろいろやって、うまい具合につなげてみて、あとはみんなの解釈に任せるよといういい意味で投げやりな姿勢なわけです。ああまとまらない。
この映画は今年、清順自身によってリメーク(いや、むしろリ・イマージュ)されて公開されます。話によると全然違う映画のそうなので、楽しみ。
1958年,日本,80分
監督:増村保造
原作:川口松太郎
脚本:須崎勝弥
撮影:村井博
音楽:池野成
出演:川口浩、野添ひとみ、桂木洋子、船越英二、小林勝彦
飲み屋のおやじがアメリカ人の乗っている車とぶつかったところに行き会った勝也はその外人とボーリングの勝負をしようといい、車でボーリング場に行ってしまう。勝也は就職難に悩む学生だが、親不孝通りと呼ばれる横丁で毎夜遊び、賭けボーリングをしては資金をひねり出していた。
ドロドロとしたドラマはお手の物。基本的には勝也とその姉のあき江を中心とした愛憎劇だが、なんとなくユーモラスなところもある。
初期の増村の作品はやはり、こういった愛憎劇よりもアップテンポな喜劇のほうが面白い。増村自身が成熟してゆくに連れ、こうした太いドラマでも増村らしさを十全に発揮することができているのだけれど、この頃の作品はまだ増村らしさは埋没している。撮影所システムの中で一人の職人監督として与えられた脚本に真摯に取り込んでいるという印象がある。だからドラマとしては面白いけれど、増村映画としてはどうかなということになる。それは「不敵な男」でも同じことだが、こちらの方がドラマが軽妙な分、増村らしさは発揮されているような気がする。しかし、総合的に見ると、新藤兼人の秀逸な脚本がある分「不敵な男」の方が上かなという感じ。
このドラマでひとつ気にかかったのはあまりに偶然に支配されているというところ。怒りを覚えた川口浩が姉を捨てた男の後をつけ、妹を突き止めたまではよかったけれど、そこからの展開がかなり偶然に支配されている。むしろ独力で妹に近寄っていった方がドロドロさが増して行き、ドラマが太くなっていったような気もする。
そういえば、山小屋に車で向かうシーンがあるんですが、その車には9人もの人が乗っている。しかし、みんなの顔がちゃんと映る。あの狭いスペースに全員の顔が見えるように配置するのはきっと相当大変なはず。そんな何気ない部分の技量の方にちょっと目が行ったりもしました。
1958年,日本,85分
監督:増村保造
脚本:新藤兼人
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:川口浩、野添ひとみ、永井智雄、岸田今日子、船越英二
チンピラの立野三郎は仲間と主に、一人の男を事故に見せかけて殺す。その仕事はうまく行き、親分に褒美をもらった立野だったが、田舎から出てきた秀子を騙して部屋に連れ込み強姦したところを刑事井川に見つかってしまった。
川口浩と野添ひとみという増村初期のゴールデンコンビで作ったフィルムノワール。新藤兼人の骨太のシナリオの中にありながら、初期増村らしいユーモアが際立つ隠れた名作。
ドラマ自体はいかにも新藤兼人という骨太なドラマで、しっかりと組み立てられていて隙がない。それはそれで素晴らしいのだけれど、それはある意味では増村の自由さを殺してしまいかねない。それはまだ新人に毛の生えた程度の監督とすでに重鎮となっている脚本家の関係性からは仕方のないことだ。つまり、この映画は作られた時点ではあくまでも売れっ子脚本家とすでにスターとなっていた川口浩と野添ひとみの映画。それを増村保造という監督が撮ったというだけのものだっただろう。しかしいま、増村保造という監督を意識してみるわれわれは、そこに垣間見える「増村らしさ」を探してしまう。川口浩と野添ひとみがななめの関係になる構図、刑務所の場面のスピード感とユーモア、などなど。
素直に映画を見ると、おそらくそんな細部よりも、ドラマトゥルギーに心奪われ、野添ひとみの不均衡な魅力に魅了されるのだろうけれど、作家主義という一面的な映画の見方に毒されてしまうと、そこがなかなか見えてこない。しかし、作家主義は素直な子供のような見方を隠蔽する一方で、映画を分析的に見ることができるという利点もある。わたしがいつも思うのは、そういったさまざまな見方が同時にできれば一番いいとことである。しかし、それはなかなか難しい。この映画を見ながら野添ひとみのクロースアップに魅了された私は、果たしてその場面の構図がどうなっていたのかなんて覚えていない。他に何がうつっていたのかもわからない。そういったものの配置にも気をつけて、監督の特性をとらえるのが作家主義なのだとしたら、わたしは作家主義的見方でこの映画を捉えるということには失敗していることになる。しかし、子供のように無心に映画を見ていたわけでもない。
なぜ、こんなことを長々と書くかといえば、この映画を見ながら最も強く感じたことが「もう一回見たらずいぶん違う映画に見えるんだろうな」ということであったからだ。増村の映画は大概そうだが、この映画は特にそう思った。それはおそらく増村保造の存在が多少隠されたものとして存在するからだろう。もう一回見ることで、無心に見ることのできる場面、分析的に見ることのできる場面が変わってくるだろう。
つまり、わたしは今1回見た時点でこの映画を見たと言い切ることはできない。だからないように関して責任あるレビューを書くことはできない。だから内容とは直接的には関係ないことを長々と書く。本当はどの映画のときもそうで、自分を騙し騙し書いているのだけれど、切実にそういうことを意識させられると、なかなか筆が(キーが?)進まないもので、こういうことになりました。
2000年,日本,96分
監督:和田淳子
脚本:和田淳子
撮影:白尾一博、宮下昇
音楽:コモエスタ八重樫
出演:小山田サユリ、尾木真琴、田中要次、岸野雄一
どこにでもいるような女の子・真中エリ。仕事もなく恋人もない彼女が自分の妄想・頭のざわざを言葉にする。それは理想の自分を書くことだった。そんな彼女の書いた小説が思いがけずベストセラーに。新進小説家となったエリは思い描いていた理想の生活を手に入れたはずだったが…
アヴァンギャルドな短編映画を撮ってきた和田淳子監督の初の長編作品。映画の概念から外れかねないくらいまで映画を脱構築したこの作品は、アヴァンギャルドでありながらユーモアにとんだ分かりやすい作品に仕上がっている。
かなりすごい。冒頭のシークエンスからすでにこの映画の要素が濃縮されて収めれられています。それはアヴァンギャルドさであり、映像の突飛さであり、一種の安っぽさである。足ばかりを執拗に映すという試みと、ホームビデオのようなドットの粗い字幕、その実験性とチープさに期待感をあおられる。そして、続くモノローグのシークエンスはそれ自体アートであるところの映像作品として作られており、それでいながらどこかで転調するに違いないという予想を抱かせる。その予想は一種の驚きと共に実現され、そこからはなだれ込むように魅惑の世界が広がっていく。
などと感想もまたどこかアートっぽくなってしまう感じですが、実際のところこの映画はかなり笑いにあふれ、非常に分かりやすく、面白い。小難しく見ることと素直に楽しく見ることが同時にできるようなそんな映画。私が一番気に入ったのはやはり「初台の吉野家」。見た人にしかわからないのですが、見た人は絶対うなずく。あの部分のネタとそれを紡ぐ映像はまさに絶品。そんな笑える部分にこそこの映画の魅力があると私は思います。
しかし、笑いにも様々な種類があって、単純にネタとして面白いものもあれば映画であるからこそ面白いものもある。映画として面白い笑いというものは概していわゆる映画からそれることで笑いを作り出すものであり、それは映画を壊すことから始まっている。それはある種の(映画としての)突飛さであり、この突飛さこそがこの映画の全編に共通する特徴であるということ。
映画をこわし、脱構築することはいま面白い映画を撮る一つの方法であり、この映画の突飛さも一種の映画の破壊であるという点では、その方法論に乗っている。しかし、脱構築に成功している映画というのはすべてが全く違う方法論にのっとったものであり、一つの方法論というものは存在しない。新たな破壊の方法を見つけなければ映画をこわすことは不可能なのだ。だからすべてが全く違う映画であり、全く違う面白さがある。しかしその脱構築と言うものはなかなか成功しないものである。
と、小難しく書いてみましたが、要するにいわゆる映画というものをこわすことから映画は始まるのです。それは実はすべての映画に当てはまることであって、これまでの映画の何かをこわした映画だけが本当に面白い映画なのだと言うこともできるのです。
この映画は映画をこわし、それは笑いへと昇華させ、しかも映画として完成させている。それはものすごいことで、この映画の感想はと聞かれたら、開口一番「すごい!!!」とエクスクラメーションマーク×3で答えるしかないほどすごいのです。
Database参照
1999年,日本,99分
監督:土屋豊
脚本:土屋豊
撮影:土屋豊、雨宮処凛、伊藤秀人
音楽:加藤健
出演:雨宮処凛、伊藤秀人、土屋豊
雨宮処凛、何かを信じたくてすがりたくて民族派と呼ばれる右翼団体に属し、右翼パンクバンドでボーカルを務める。彼女とその同士伊藤秀人がまったく右翼ではない監督土屋豊との共同作業で作り上げた一遍の思想の形。
映画は雨宮の日記風のビデオ映像を中心にして北朝鮮訪問などの様子が挿入される。素直に時系列に沿って作られているのでその思想の推移や撮る側と撮られる側の関係性の変化などを見られるのがよい。
彼女あるいは彼女たちのいっていることも言いたい意味もわかるけれど、それはまったく心には突き刺さってこない。それはそのイデオロギーに共感できないからではなく、そこにイデオロギーがないから。彼らが主張しているのはイデオロギーではなくアンチイデオロギーである。今あるすべてのイデオロギーに対して疑問を投げかけるが、そのアンチテーゼとしてのイデオロギーを投げかけることはしない。だから彼らのメッセージは心には入り込んでこない。ただ彼らの逃避と意地と当てのない憤怒のみがそこからは伝わってくる。したがってこれが思想表明を主とした映画であるとしたならば、完全な失敗だと私は思う。そして、ある程度、思想表明と考えている(人もいる)と私は思う。
しかし、これを異なる立場の人間の関係性の変化を描いた一つのドラマであると考えるならば、そこに十分ドラマは成立していると思う。主人公雨宮と監督でありカメラマンである土屋との関係性の変化は雨宮自身の告白を聞くまでもなく明確に画面に現れる。
問題はこの映画がこの二つの要素のどちらでもありながらどちらでもないところ。完全なアンチイデオロギーの表明であるなら、もっと方向性の定まった語り方をするべきだし、関係性の変化や思想の揺らぎを描こうとするならその内容の部分を強調しすぎるべきではないと思う。
私としてはもっとドラマチックに揺らぎを描いたほうが面白かったと思う。それをさせなかったのはこの映画が持つドキュメンタリー性へのこだわりであると思う。そのドキュメンタリー性というまやかしの客観性へのこだわりを捨て、フィクショナルな方向へ足を踏み入れればもっと魅力的な映画になったと思う。
2001年,日本,97分
監督:瀬々敬久
脚本:瀬々敬久、井土紀州
撮影:林淳一郎
音楽:安川午朗
出演:キム・ユンジン、哀川翔、柳葉敏郎、大杉漣、阿部寛、千原浩史
横転した車、横に倒れている男と女、さらにかたわらには風にさらわれていく1万円札。
「焼肉革命」というキャッチフレーズでチェーン展開する焼肉店で働く昌也はやくざ風の男に昔働いていた韓国人の行方を尋ねられ、知らないという。しかし、実はその韓国人たちと社長の娘の狂言誘拐を計画していた。
昨年、「HYSTERIC」が話題を呼んだ瀬々監督が日本語とハングルをミックスして撮り上げた不思議なサスペンス、そしてラブ・ストーリー。
なんといってもいいのはテンポ。時間の流れとは関係なく、短い断片をつないでゆくことで非常に軽快なテンポで映画を展開させることができている。そして、もちろん、それぞれがどう絡み合っているのかという謎もうまれる。この手法自体は目新しいものではなく、展開に慣れてゆくにつれ、徐々にスピードダウンしていく感があり、残念残念と思っていたらそうではなかった。最後まできれいに期待を裏切って、微笑みながらエンドロールを見つめてしまう。ネタばれのためいえませんが、この終わり方は絶品でした。
構図なども非常に考えられてはいるのですが、それはアートとして考えられているのではなく、あくまで映画全体の雰囲気作りというか、空気を描写するためのものであるというところもとてもいい。いわゆるアート系の映画ほどには考えさせず、しかし絵としては非常に美しい、そんな構図が絶妙でした。特に哀川翔とキム・ユンジンの二人のシーンはどれも構図にかなりのこだわりを感じました。
さらに面白かったのは、車やバイクで移動するシーン(特に前半)の妙な安っぽさ。50年位前なら当たり前のウィンドウに景色はめ込みの映像がこれでもかとばかりに連発される。決して全体的にふざけた感じの映画ではないのに、こんな遊び方をしてしまう。このあたりも非常によかったです。
もちろん日本語と韓国語のディスコミュニケーションという道具の使い方もよかったのですが、ディスコミュニケーションの状況を伝えながら、両方の話している意味を伝えるというのはなかなか難しかったのではないかと思ってしまいます。この映画では字幕を使って両方の言っていることがわかるように仕向けられているわけですが、それはつまりあくまで傍観者としてその場面を見つめるしかないということでもあります。それはそれでいいのですが、ディスコミュニケーションの感覚は今ひとつ伝わりにくかったとは思います。でも両方を実現するのはやはり無理。ここでの監督の選択は正しかったと私は思います。
1959年,日本,97分
監督:増村保造
原作:伊東整
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
音楽:塚原哲夫
出演:佐分利信、沢村貞子、若尾文子、川崎敬三、叶順子、左幸子
画期的な発明をして化学会社の重役になった真田佐平だったが、貧乏の頃から一転、仲間や昔の知り合いから遠まわしに金を無心されることが多くなり、会社の対応も決して親切と言えるものではなかった。そんな生活に徐々に嫌気がさしている佐平だったが、妻や娘はその贅沢な生活を満喫していた。
当時年間4本ペースで映画を撮りつづけていた増村保造初期の作品の一つ。軽快なコメディ路線とは別のどろどろとした人間ドラマ路線の作品。
増村作品としてはそれほど卓抜した作品ではありませんが、どろどろとした感情のもつれを描くのが得意な増村らしい作品。特にこの作品はその感情を整理せずにそのままの状態で提示し、一つの方向性に持っていこうとしないという点で非常に面白い。いい/悪いというような二分法を働かせることは全くせずに、ただただ感情の奔流をそれこそ「氾濫」させるのに任せるような描き方。それは本がどうこうとか、プロットがどうこうということよりも、「どこまで見せるのか」という監督の意図がストレートに反映される部分のような気がする。そのような意味でこの感情の表現のコントロールは増村保造自身の得意分野なのであると改めて確認をしたわけです。
そのようなドラマの部分を抵抗なく描ききるためほとんど全編にわたっていわゆる普通の映像で構成されている。よく言えば自然、悪くいえば平板な映像によってドラマを際立たせようとする意図が感じられます。しかし、その感情たちがいっせいに「氾濫」する最後の5分か10分くらいはラストシーンをはじめとして、はっとさせるシーンにあふれている。それが始まるきっかけは左幸子を前景の真ん中に配し、右に部屋、左に階段を移すシーン。この突然の構図の変化は一気に感情をスクリーンの外へ流しだす。そしてそれから連なるシーンではそれぞれの登場人物の感情が濁流のように流れ出す。そしてその感情の本流の中で登場人物それぞれの人間性を判断しようとしてしまうのだけれど、果たしてその判断がつくことはなく、このレビューもこのまま流れていきます…