女の一生
1962年,日本,94分
監督:増村保造
原作:森本薫
脚本:八住利雄
撮影:中川芳久
音楽:池野成
出演:京マチ子、田宮二郎、東山千栄子、小沢栄太郎、叶順子
明治、日露戦争中の東京で町外れのぼろ屋に住むけいは両親をなくし、叔父の家で暮らしていた。しかしそこでけいはこき使われ、ついには家を追い出されてしまった。途方にくれ、座り込んでしまったけいの前の大きな家では、にぎやかな誕生祝が催されていた。
激動の時代を生きた「女の一生」。増村にしては無難なドラマというところ。
1時間半の映画で一生を語るというのはなかなか難しいことであるわけで、その焦点をどこに置くのかというのが問題になってくる。「女の」一生と名付けられたこの作品はもちろん、女としての生き方に焦点が当てられるわけだけれど、時の経過とけいの「女」としての生き方の変化を描ききるのは増村でも難しかったのかもしれない。新聞を使ってイメージで時代性を表すのは非常にうまい方法で、その分物語に集中できはした。
だから、前半、人生がめまぐるしく展開していく部分では非常にスピード感が生まれいいのだけれど、逆に後半の穏やかな流れの中の心理の機微のような部分を描くにはそのスピード感があだになったかもしれない。ひとつの時代、ひとつの単元のその生き方の感触を味わいきる前に次に行ってしまう。そんな印象が残った。しかし、あまりにスピード遅く、深く考える余地を与えてしまうとそれはそれで映画としての勢いがなくなってしまうので面白くない。そのあたりのスピード感の調整というものが難しかったのかもしれない。
増村の映画は短い時間に膨大な量の情報を詰め込み、観客に考える暇を与えない映画が多い。振り返ってみると、あんなこともこんなこともあったと思うのだけれど、見ている時点ではただ圧倒され、映画が流れ込んでくるに任せるしかない。特に初期の映画にはそういう傾向が強くそれが面白い。これが後期の映画になるとむしろ情報を削って画面に緊張感をもたせるような方法で観客をひきつける映画が出てくる。これは削られた情報のどれもが逃してはいけない情報であるように見せることで、観客に緊張を強いることで考える暇を与えない。
この2つの方法の狭間にあるのがこの映画なのかもしれない。この2つの方法をひとつの映画の中でうまくスイッチできれば、ものすごい映画になったのかもしれないけれど、まだ熟しきれていない緊張感が映画の後半の印象を弱めてしまったということなのだと思う。